第十一話 その名は沢渡真琴

 

「ちょっと、いいかな?」

 こんこんと控えめなノックが響いた後、扉の隙間から名雪が顔を覗かせた。

「なによぅ」

 部屋の真ん中付近で膝を抱えながら、少女は憮然とした様子で応じる。

「安心していいよ。祐一は今お母さんと買い物に行っているから」

 そう言いながら部屋に入ってきた名雪は、少女の前にちょこんと座る。

「えっと……マコトでいいんだよね?」

 その言葉に少女はびくっと反応し、まじまじと名雪の顔を見た。

「わかる……の?」

「お友達の事を忘れちゃうほど、わたしは薄情じゃないよ」

 名雪の穏やかな微笑みに、マコトもつられて笑顔となる。

「魔力感知に引っ掛からないように押さえているみたいだけど、その魔力には覚えがあるし、それに……」

「それに?」

「その右手の鈴。それ確かわたしがマコトにあげたものだよね?」

「あぅーっ!」

 マコトの右手首に巻かれていたのは、鈴のついたバンドだった。これは鈴の音が好きなマコトのために送ったもので、もともとはフェネックモードのときの首輪だったものを、手首に巻いていたのである。

「事情を聞かせてくれるかな?」

 そうして、マコトは事情をぽつぽつと語りはじめた。

 なにかよくはわからないが、名雪達に危機が迫っている事を察知したマコトが危険を承知で再び第97管理外世界にやってきた事。

 やってきたはいいが、この姿のまま名雪達の前に現れるのは不安があった事。

 祐一を利用して、体よくこの家に入りこもうとした事などを告げた。

 その意味でいえば、祐一の危惧は半分当たっていたのである。

「そっか、なるほどね……」

「あぅーっ……」

 話を聞き終えた名雪は、呆れと感心が半々という感じで頷いた。確かに名雪は7年前マコトの事を、言葉をしゃべるキツネさんだと思っていた。それがいきなり人間の女の子になって現れたのでは、混乱に拍車がかかるだけだった。そう言う点ではマコトの不安もわかるような気がする名雪であった。

「どうしよう、名雪」

「とりあえず、お母さんには事情を説明しておくよ」

「祐一には?」

「当分の間はわたし達だけの秘密にしておこうよ。祐一には後で名前を思い出した、とか言っておけば納得するだろうから」

 祐一って単純だから、という名雪の言葉には、思わずマコトも破顔してしまう。

 今のマコトの立場を端的に現すと、管理外世界への不正渡航者となる。この事実が嘱託とはいえ、管理局員である祐一に知れると話が面倒になる。後で体裁を整えて増援という形で派遣されてきたという事にでもしておかないと、水瀬家への滞在にも支障をきたしてしまう。

 支援魔法を得意とするマコトは、今後の戦闘を考えると貴重な戦力と言えるからだ。

「祐一ってば、昔の事とかよく覚えてないみたいだから、うまくごまかせると思うよ」

「ホントに?」

 その後も女の子同士で取りとめのない話に花を咲かせていると、買い物に行った祐一達が帰宅したようだった。

 

「おじゃまします……」

 意外と広い玄関で、あゆが遠慮がちに挨拶をした。

「やけにしおらしいじゃないか。いつものように顔面から突っ込んでいったらいいのに」

「うぐぅ……そんな事滅多にしないもん」

 予想通りの反応に満足したのか、祐一は先に家の中へと入った。行きは秋子とふたりだったが、帰りはあゆも含めて3人に増えている。

「大きな家……何人で住んでるの?」

「秋子さんと俺、後はいとこの3人だな」

 あとひとり、素性の知れない女の子がいるにはいる。玄関には例の少女の靴があるので、まだ家の中にいる事は間違いない。

「ボク、お邪魔してもいいのかな?」

「お邪魔しないとおやつが食べられないぞ」

「あ、そうだね」

 そう言ってあゆはブーツを脱いで、いそいそと玄関に上がる。リュックを下ろしてダッフルコートを脱ぐと、その下は真っ白なセーターとキュロットという格好だった。祐一はてっきりスカートだと思っていたが、活動的なあゆにはこの方がよく似合っている。もっとも、そのせいで子供っぽく見えてしまう事に拍車がかかっていたが。

「ほえ〜、ここが祐一くんの部屋なんだ……」

 準備に時間がかかるので、その間は祐一の部屋で過ごす事にしたあゆは、まるで重要文化財を見るような口調で口を開く。

「意外に片付いているんだね」

 名雪と一緒に荷物を運びこんだのが3日ほど前なのだから、散らかしてしまうには少々早すぎた。

「ちょっと休憩したら、カステラでも食べるか」

「あ、うんっ」

 祐一の部屋にある漫画を読んだり、取りとめのない話に花を咲かせていたりするうちに時間は過ぎ、キッチンに下りていくとテーブルの上には秋子の用意してくれたカステラが並んでいる。

 祐一はいつもの席に、あゆはその向かいの席に座った。

「いただきますっ」

 言うが早いかカステラを頬張ったあゆは、じんわりと目元を緩める。

「うぐぅ、美味しいよぉ」

「良かったわ、気にいってもらえて」

 穏やかな微笑みを浮かべながら、秋子はコーヒーカップをふたつテーブルの上に並べた。

「実はこれ、私の手作りなんです」

 既製品ではなく最初から手作りしたものならば、用意に時間がかかるのもうなずけるというものだ。なにしろ一口食べると口の中に幸せの味がじんわりと広がっていくカステラは、普通に店で売っているものにはない温もりがあるようだからだ。

 それ以前に、祐一は出来立てほやほやのカステラを食べた事はないが。

「ふぁ、ふぉうふぁんふぁ」

「ええ、そうよ」

 あゆは口いっぱいにカステラを頬張っているせいか、祐一にはなにを言っているのか全くわからないが、秋子には通じているようだ。

「あゆちゃん、コーヒーでいい?」

「ふぉふ、ふぇふぉふぃふぁふぁふふぁ」

「あら、そうなの? 猫舌ならミルクの方がいいわね」

「ふぁふぃ」

 あゆは秋子が持ってきたミルクのカップを両手で持ち、ごくごくと飲んでから一息ついた。

「秋子さんすごいよっ。だって、このカステラすっごく美味しかったもん」

「ありがとう、あゆちゃん」

 このふたりを見ていると、なぜか実の親子のように見えてしまい、祐一もついつい微笑ましくなってしまう。

「あ、ボクそろそろ帰らないと」

「だったら、玄関まで送ってやる」

 外はすでに、日がたっぷりと傾いていた。玄関を出たところで振りかえったあゆを、オレンジ色の光が照らしだしている。

「ひとりで帰れるか?」

「ボク、そんなに子供じゃないもん」

 祐一は、ここからの帰り道がわかるのか、という意味で訊いたのだが、あゆの様子からすると大丈夫のようだ。

「バイバイ、祐一くん」

 夕焼けに滲むあゆの姿を見送って、祐一も家の中に入るのだった。

 

 そして、この日ももうすぐ終わろうかという午後10時。祐一は自称記憶喪失の少女に呼び出されてリビングへ向かった。

「あのね、名前思い出したの」

「……そう言えば、記憶喪失はショックを与えると元に戻るという話があったな」

 祐一は拳に息を吹きかけた。

「と、いう事は、もっと殴れば色々思い出すかもしれないなぁ……」

「や、やめてよぅ……。いくらなんでも、そんなので思い出したくなんかないわよぅっ!」

「そうか、それは残念だ」

 慌てて秋子の後ろに隠れて涙目になる少女を見て、祐一はさも残念であるかのように拳を下ろした。

「それで、名前は?」

「うん。真琴。沢渡真琴って言うの。よろしくね」

「真琴ね。じゃあ、これからはその名前で呼ばせてもらうわ」

「よろしくね、真琴」

 こんな感じで女性陣はのんきに、新しく加わった家族にフレンドリーに接しているようだったが、祐一はその光景を冷ややかな視線で見ていた。

 明日にも記憶が戻って出て行ってしまうかもしれない相手に、よろしくもなにもあったものじゃない。そんなわけで祐一は、ただひとり真琴に挨拶をしなかった。

「悔しいでしょ、祐一」

 気がつくと、真琴が勝ち誇ったかのような笑顔を浮かべている。

「なにがだ?」

「真琴が可愛い名前で」

「そうか?」

「『祐一』なんて名前じゃなくて良かったぁ」

「俺も『真琴』なんて名前じゃなくて良かったよ」

「負け惜しみ」

「名前に勝ったも、負けたもあるか。一体どこで判断するんだよ?」

「自分がその名前を好きかどうかよ。真琴は自分の名前大好きだもん」

 そう言いきられてしまうと、祐一も自分の名前がそこまで大見得切って好きだとは言えない。

「負けか……」

 そんなふたりのやりとりを、秋子と名雪は微笑ましく見守っていた。

「さて、そろそろお風呂に入らないと、遅くなっちゃうわよ」

「はい、いちばーんっ!」

 言うが早いか真琴は、どたばたとリビングから飛び出していく。

「あいつの事だから、湯を張る前に裸になってそうだ……」

 そうした祐一の呟きを体現するかのように、バスタオル1枚で脱衣所をうろつく真琴の姿が発見されたのだった。

 

 確かに寝付いたはずなのに、なぜか祐一は薄暗い天井を見上げていた。ここで、知らない天井だ、などと呟けば往年のパターンを踏襲したも同然なのだが、生憎とここは親戚の家で、祐一はそこに下宿しているのだという事は熟知していた。

 この街に来てからは夜の冷え込みが厳しいせいか、夜中に目を覚ましてしまう事もよくあったが、この目覚めはそうした感じとは異なっている。どちらかと言えば、戦場に身を置いた経験のある祐一が、微妙な空気の変化に気がついたという感じだ。

 それを証明するかのように、部屋の外から床板が軋むような音が聞こえた。誰かがこの真夜中に、忍び足で歩いている。

(あいつか……)

 名雪は一度寝ると滅多な事では起きないし、秋子は気配に敏感だが、夜中に意味もなく徘徊するような事はしない。そうなると、こんな事をするのは消去法でひとりしかいない。

 一瞬、金目のものでも物色してとんずらしようとしているのかと思ったが、それにしては足音が祐一の部屋に真っ直ぐ向かってきている。祐一の部屋に金目のものなんてあるはずがないのに、祐一の部屋のドアノブがゆっくりと回る。

 軽く軋んだ音を立ててドアが開き、小柄な人影がスッと部屋に滑り込んできた。

「あはは……」

 侵入成功、とばかりに謎の人影は含み笑いを漏らす。その声は紛れもなく沢渡真琴のものだった。

 そして、真琴は祐一が寝ているベッドの脇に立つと、なにやらごそごそと取り出す。ぺりっと言うなにかを開封するような音がして、祐一の頭上になにかプルプルしているよう物体が浮いていた。

(こんにゃくか……)

 おそらくは昨夜の仕返しなのだろう。

「3、2……」

 ご丁寧にカウントダウンまでしている。

「1……」

 このまま甘んじて受けるか。それとも、高らかに大声を出して脅かしてやるか。

「ゼローーーーーーーーーーッ!」

「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーっ!」

 祐一は飛び起きると同時に、最後のカウントを大声で張り上げてやった。

 明かりをつけてみると、こんにゃくを握りしめたまま尻もちをついている、真琴の無様な姿がある。よほどびっくりしたのだろう、目元にはうっすらと涙の滲んだような跡があった。

「なにやってんだ、お前は……」

「え? なにって……その……」

「大方、昨夜の仕返しに失敗して、また大恥さらしたってところか?」

「そ、そんな事無いわよぅっ……」

 昨夜の仕返し、というのも確かにあったが、真琴としては昔の事が思い出せないという祐一に、ショックを与えようとしただけだったりする。上手くいけば、名雪の事とか色々思い出すかもしれないと思ったのだ。

「じゃあ、なにか? そのこんにゃくは夜食か?」

「こ、これ? そうっ……」

「じゃあ、食べろ」

「えっ? 今?」

「今食べようと思って袋を開けたんだろ? 食べる気もないのに開封なんかしないよな……」

「あぅーっ……」

「ほら、遠慮しないで食べろって」

 祐一の強烈な視線にさらされているせいか、真琴は小さく縮こまってこんにゃくにかぶりついた。

「美味いか?」

「味がない」

 泣きそうな顔で、真琴は小さく舌を出す。

「ほらほら、1枚ペロッといけ」

「あぅーっ、いじめだぁ……」

「どうしたの?」

 涙目になりながらも真琴がこんにゃくを3分の2ほど食べたところで、異変に気がついた秋子が顔を出した。

「また、こんな夜中に……」

「真琴がこんにゃくを食べてるだけです」

「そのままで? そんなにお腹が空いてたの?」

「うーっ……」

「ほら、来なさい。お夜食作ってあげるから」

「えっと……お腹は空いていないんだけど……」

「ほら、いいから。もう、今度から起こしてね、怒ったりしないから」

 まるで言いくるめられるように、真琴は秋子に手をひかれて出て行った。

「……安眠妨害もいいところだ」

 再び静かになった室内を一通り見渡すと、祐一は明かりを消して布団の中にもぐりこみ、まどろみの中に身を置くのだった。

 

 この夜、祐一は夢を見た。それはかつて出会った少女、月宮あゆの夢。

「一体、なにがあったんだ?」

 どうして泣いているのか、いくら尋ねても返事もしてくれない。あゆはただ、じっと上目づかいで祐一の顔を見つめているだけだった。

「もしかして、生き別れの兄にそっくりだとか?」

 多少おどけた口調で話しかけてみても、あゆは黙ったままだ。しかし、腹の虫は律儀に自己主張をしている。

「なんだ、もしかして腹減ってるのか?」

 あゆはなにも言わないが、お腹の虫の自己主張は止まらない。

「ほら、そういうときは素直に頷く」

 腹の虫に根負けしたのか、あゆは無言で頷いた。それはよく見ていないとわからない程度の小さなものだったが、確かにあゆは頷いた。

「だったら、ここで待ってろ。俺がうまいもの買ってきてやるから」

 あゆは再び小さく頷いた。

「なにか好きな食べ物とかあるか? この商店街にあるものなら、俺が買ってきてやるぞ。俺の小遣いで買える範囲でだけどな」

「……たいやき……」

 あゆが泣いてばかりいたという事もあるが、祐一はなんだか随分と久しぶりに声を聞いたような気がした。

 とりあえず、祐一はあゆをその場に待たせてたい焼き屋の屋台へ走る。しばらくしてたい焼きを2匹買って戻ってきた時、あゆが同じ場所で待っていてくれたので、少しだけ安心した。

 もしかしたら、どこかに行ってしまったのかもしれないと思ったからだ。

「ちゃんと待ってたんだな」

「待ってろって言われたから……」

 祐一はあゆにたい焼きの入った袋を押しつけると、さっそくその中から一匹つまみだした。

「……あったかい……」

「たい焼きは焼きたてが一番だからな」

 祐一が頬張りはじめたのを見て、あゆも小さな口にたい焼きを運ぶ。

「どうだ? ここのたい焼きは美味いだろ?」

 このたい焼きは甘さが控えめで、祐一もお気に入りの一品だ。

「……しょっぱい」

「それは、涙の味だ」

「……でも……美味しい」

 あゆが少しだけ笑った様な感じがして、祐一も気にいってくれたんだと思った。今はこうして少しだけ笑顔を見せてくれてはいるが、あゆと出会った時にはすでに泣いていたようだ。一体なにがあったのか訊いてみたいが、またあゆの表情を曇らせる様な事になるのは嫌だった。

(話を訊くのはまた今度でいいな……)

 結局、それからはお互いに無言のまま、商店街の片隅でたい焼きを食べていた。

「じゃあ、俺はそろそろ帰るから、じゃあな、あゆあゆ」

「……まって」

 立ち去ろうとする祐一の上着を、あゆの小さな手が掴んでいる。

「……放してくれないと歩けないんだけど」

「……また……たい焼き食べたい」

 それは、今のあゆが出来る精一杯のお願いだった。

「そんなに気にいったのか? だったら、また今度一緒に食うか?」

「……うん」

「それなら、明日の同じ時間に、駅前のベンチで待ってるから」

「……やくそく」

「ああ」

「ゆびきり」

「そんな事しなくても、ちゃんとくるから」

「うぐぅ」

 ゆびきりぐらいいいかと思い、祐一はあゆの指に自分の指をからめる。差し出されたあゆの指は小さくて細く、迂闊に扱うと壊れてしまうんじゃないかと思うくらい繊細だった。

 指がほどけると同時にあゆは走りだした。まるでそれは、商店街を彩る赤い夕陽に溶けてしまうかのように。

 そんなあゆの後ろ姿を見送って、祐一が商店街の入り口まで戻ってきた時。

「……うそつき」

 通りの真ん中で、いとこの少女が拗ねていた。

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