第十三話 その男、シュヴァルツ
『直撃やな』
「ちょっとやりすぎちゃったかな……」
遥か彼方に広がる爆煙に、名雪は少しだけ眉をひそめる。一応相手の防御を抜かないよう手加減はしているが、直撃すれば死ぬほど痛い事に変わりはない。
『まあ、気にする事もないんとちゃうか?』
「そうなんだけどね」
しかし、爆煙が徐々に晴れていくにつれて、その地点には美汐以外にももうひとりの人物がいる事がわかる。その人物はシュヴァルツ・ブリューダー。どこの誰かは知らないが、闇の書の完成を目指している男だ。
「あなたは確か……」
「早く行け。早く行って、闇の書を完成させるんだ」
美汐としてはこの男について色々と聞きたい事があるのだが、今はそんな詮索をしている場合ではない。美汐は簡易転送魔法を起動し、転送準備に入る。
「ブルーディスティニー?」
『あかん、エネルギー充填中や』
名雪の超長距離砲撃は一回の射撃で相当な魔力を消費してしまうので、再発射までに若干のラグが生じてしまう。それゆえに一発必中の超精密射撃となる傾向が強く、防がれてしまうと後が続かないという欠点を内包していた。
迫ってくる相手には再発射までの時間稼ぎも出来るが、逃げようとする相手にはとことん無力なのである。もともとは敵を追い払う事が目的であるため、再発射までに時間がかかる事は問題視されていなかったのだ。
それでも再発射シークエンスを行っていた名雪は、不意にあたりの空間にたちこめる違和感に気づく。
「バインド? あの距離から?」
なんとかバインドが完成する前にその場を離脱する名雪であったが、気付いた時には美汐もシュヴァルツも消えていた。
一方、砂漠で激しく繰り広げられている舞と香里の闘いは、すでに佳境へと突入していた。お互いに相当な魔力を消費しているせいか、防御に回す余裕もほとんどなくなっており、身体のあちこちに細かい傷が刻まれて滲むように血が流れだしている。これは攻撃に関しても、相手の防御を抜かないように手加減する余裕がなくなっている証拠だった。
お互いに大きく肩で息をしながら、思う気持ちはひとつ。それは目の前にいる相手が、かつてないほどの強敵だという事だ。
少しでも手加減をしようものなら、たちまちのうちに倒されてしまうだろう。
戦士を自覚するものであるならば、自分の持つ全力を傾けて闘える相手に出会える事は、かつてないほどの喜びを与えるものだ。出来る事ならいつまでもこの時間を続けていたい。しかし、いずれは決着をつけなくてはならない。そんな相反する思いを抱きつつ、香里と舞はなおも激しく交錯する。
(……やっぱり強い。まだ、スピードが上がってる)
(なんとかスピードでごまかせているけど、パワーはやっぱりあっちが上ね。下手に食らえばお陀仏だわ)
体中が疲労で悲鳴を上げているというのに、思考だけはやけに冷静なふたり。香里は何回か舞に見切れないほどの素早い一撃を与えているが、中近距離の攻防では舞のパワーに圧倒されっぱなしだった。
(……こうなったら、バルムンクの最終形態?)
(マグネッサードライブ、いけるかしら?)
そこで舞は剣、ムチに続くバルムンクの最終形態で、香里はマグネッサードライブでさらなる高速化を目論んだ。
お互いにこれが最後の一撃となる。そんな思いを抱きながら、両者が再び激しくぶつかり合おうとしたその時。
「ふあ……ああああああっ!」
背後から突き出された何者かの手が、香里の胸部から飛び出していた。リンカーコアから魔力が放出されると同時に、香里は意識を失ってしまう。
「……お前は、佐祐理が言っていた。……確か、シバラク」
「あいや、しばらくしばらく〜」
意外とノリがいいその男は、ドイツ国旗の三色をモチーフにした目出し帽を仮面にしたシュヴァルツだった。
「シュヴァルツ・ブリューダーだ。それはともかくとして、お前にはこれが必要なのだろう? さあ、奪え」
「折原には迷惑かけたな」
『まあ、気にすんな。こっちもテスト航海の最中だったからな』
ふたつの闘いが終わった後、祐一は浩平と通信していた。
香里と舞の闘っていた次元世界は本局からだと転送に45分ほどかかる距離にあったが、武装追加後のテスト航海中だったエターナルがたまたま近くの空域にいたため、リンカーコア摘出後の香里を比較的早い段階で救助する事に成功していたのである。
おそらく香里の魔力は名雪の時と同様に、闇の書に蒐集されてしまったのだろう。エターナル常駐の医務官の話では、リンカーコアに多少のダメージが見られるが、命に別条はないとの事。まだ若いから、回復までさほど時間もかからないだろうという見解だった。
『しかし、気になるな。そのシュヴァルツとかいう男』
「ああ」
一応その男の映像はサーチャーを通じて記録されているが、本局のデータベースにも情報がない。前回の闇の書事件では、仮面の男が現れて闇の書の完成を目指していた。その正体は当時時空管理局で、本局顧問官を務めていたギル・グレアムの使い魔ふたりである。そうした立場にあったふたりだからこそ、本局のシステムに意図的な介入を引き起こし、クラッキングなどの妨害工作が出来たのだった。
しかし、今回はそういった事例はなく、内部の者の犯行ではない事だけは確かだった。で、あるにもかかわらずシュヴァルツは、管理局の構築した警戒網を突破し、香里の背後に回り込んだのである。
前回の反省をもとに索敵システムや防御ブロックを徹底的に見直して、新しい索敵システムや防御ブロックを構築した矢先にこの出来事だ。今頃本局の技術開発部は頭を抱えてるんじゃないかと祐一は思った。
「それにしても、エターナルの武装追加と言うとアルカンシェルか……」
『まあな』
「物騒な話だな……」
アルカンシェルは時空管理局が保有する、大型艦船用の強力無比な魔道砲である。あまりにも強大な威力を有するが故に普段から艦船に搭載される事はなく、必要に応じて搭載される。使用は搭載された艦の責任者である提督に一任され、その威力は発動地点を中心に、百数十キロメートルの範囲の空間を歪曲させながら反応消滅するものである。特に闇の書事件に関しては、アルカンシェルによる広域殲滅が通例化していた。
祐一としては出来ればそんな代物を引っ張り出してまで解決したくはなかったが、これも闇の書事件である以上遅かれ早かれ使わざるを得ないという事情がある。
しかし、いくらアルカンシェルによる広域殲滅を行っても、闇の書の持つ転移機能によって別次元へ逃げられてしまうため、なかなか完全消滅させるというわけにはいかなかった。とはいえ、完全稼働を開始した闇の書に対抗できる威力を持つ武装がアルカンシェル以外に存在しないため、結局のところアルカンシェルの使用による闇の書の破壊と再生のサイクルを繰り返していただけにすぎなかった。
前回の闇の書事件では、早い段階で闇の書の所在と主の候補者を捉えていた。その主となったのが、グレアムが後見人を務める少女、八神はやてである。
グレアムは闇の書事件を終わらせるため、はやてが完全に闇の書の主となった時点でストレージデバイス『デュランダル』による凍結を行い、闇の書の動きを完全に封じ込めた状態で永久封印、あるいはアルカンシェルによる消滅を目論んだ。
確かに闇の書を永遠に破壊するには確実な方法ではあるものの、次元犯罪者でもない民間人の少女を犠牲にするというのは流石に許される事ではない。おまけにグレアムが使い魔を通じて捜査妨害を行っていた事実が露見し、本局に軟禁状態となる事で、全権はクロノ・ハラオウン執務官に一任される事となる。
そして、はやてが闇の書の真の主となり、破損した防御プログラムの分離に成功する事で事態は急展開を迎える。その場に集った本局執務官をはじめとする平均AAAランク魔導師の一斉攻撃によって、無限再生を続ける防御プログラムも徐々にその力を失っていき、最後は軌道上に待機するアースラへリンカーコアが転送され、アルカンシェルによる最終攻撃がなされた。
俗に『最後の闇の書事件』と呼ばれるこの事件は、第一級捜索指定遺失物が関わる大事件でありながら、終わってみると死亡者はゼロ、重傷者も出ていないという奇跡の結末を迎えたのである。
『まあ、色々あるけどな。これよりエターナルは闇の書対策のため地球周回軌道上に待機し、作戦司令室となる。武装局員の増員も決定したから、当分の間は追跡調査が主な任務となるな』
「頼むぞ、折原。俺はこっちに残って対処に当たる」
浩平との通信を切った後、祐一はウィンドゥにシュヴァルツのデータを表示した。とにかくこの男の能力は不可解なものばかりだ。
最初に会ったときは祐一との闘い。このときは巧みな格闘術で圧倒した。
次が名雪との闘い。このときはかなり離れた距離からの砲撃を防ぎ、そればかりか長距離のバインド攻撃まで仕掛けてきた。
そして、3回目となるのが香里との闘い。とはいえ、これは闘いというよりも背後からの不意打ちであったが、その場にいた舞も気がつかなかったほどの隠密性を披露した。
おまけに、名雪のいた世界から香里のいた世界に転移するには、最速でも20分はかかる。それなのに、シュヴァルツはほとんどタイムラグなしでふたつの世界を行き来している。かつての仮面の男はグレアムの使い魔であるリーゼアリアとリーゼロッテのふたりがいたからできた事なので、今回のシュヴァルツも複数の人物が扮しているものと推測された。おそらくは前回と同じようにフィジカル担当と長距離魔法担当と役割を分担しているのだろう。
しかし、結局のところどこの誰がなんの目的でそんな事をしているのか、という点が現在でも全く不明なのだった。
とりあえず、闇の書に魔力を蒐集して完成を目指す。というのは前回の闇の書事件を元に作成された対処方法の骨子であるが、今のところ闇の書の関係者の協力が得られないのでは、その先の解決までたどり着く事が出来ない。なんとかして闇の書の主を見つけ出し、完成した闇の書に真の主と認めてもらって暴走する防御プログラムに干渉してもらわないと、これ以上の対処が不可能になってしまうのだ。
そういう意味で言えば、闇の書のページが埋まっていくのは喜ぶべき事であり、すでに名雪と香里が被害に遭っているという事はもうふたりが蒐集の対象にならないという事だ。これで後は闇の書の関係者との協力体制が構築できれば問題はないのだが、こっちの方は思ったように上手くいかなかった。
まだまだ問題は山積みだなと思いつつ、ウィンドゥを閉じた祐一は香里の様子を見ようと部屋から出た。
「ん……」
目を覚ました時、知らない天井だ、とベタな事を言おうとしてしまったが、すぐにここが名雪の部屋だと香里は気づいた。
「目が覚めたか? 香里」
「相沢……くん……?」
霞む視界のその先に、見知った顔がある。それは心配そうにのぞきこんでいる祐一の姿だった。
(……って! 相沢くんっ?)
途端に恥ずかしくなって、香里は毛布を口元まで引き上げようとする。ところが、毛布はなにかに引っ掛かったように動かない。
よく見ると、足元の方では看病に疲れたのか、名雪がベッドに頭を載せて転寝をしていた。
「名雪はしばらく寝かせておいてやってくれ。香里を回復させるのに、結構魔力を使ったみたいだからな」
言われてみると、リンカーコアから無理やり魔力を引き出された割には、身体への負担をあまり感じない。どうやら名雪が、ある程度のところまで回復させてくれたようだ。
「それで、どうする? もう少し休んだら帰るか? それとも、このまま泊ってくか?」
「もう少ししたら帰るわ。なにも準備していないし」
「でも、まあ。腹はへってるだろ? 帰るのは夕飯食ってからでもいいんじゃないか?」
「仕方ないわね。じゃあ、お言葉に甘える事にするわ」
普段ならなんでもない会話なのだが、こういう状況だとなぜか香里の胸がドキドキしてしまう。香里は真っ赤に染まっているであろう自分の顔を見られないように、出来る限りそっぽを向いていた。
もっとも、そんな乙女心も祐一にとっては、まだどこか具合が悪いのかな、と思う程度なのであったが。
結局、祐一が部屋を出ていくまで香里のドキドキは収まる事がなかった。
「それじゃ、今日はごちそうさまでした」
「ああ、またな……って、香里。本当に送っていかなくていいのか?」
「大丈夫よ。すぐそこだし」
とは言うものの、水瀬家から美坂家は少々離れた所に位置している。そんな立地条件にありながら、毎朝名雪を起こしに来てくれるのだから、祐一としては少しでも香里に恩返しをしておきたいところだ。
「あたしは大丈夫だから、そんなに気にしなくてもいいわよ」
すでに闇の書に蒐集されているので、その方面での危険はないとはいえ、香里も年頃の女の子である事に変わりはない。本調子であるなら心配はないが、魔力にダメージを受けている今の状態では、安心しろというのが無理だった。
かといって、香里もこれ以上祐一と一緒にいるとなると、胸のドキドキがいつまでたっても収まりそうにない。下手をすれば、家に着くまでの間にどうにかなってしまいそうだった。
「じゃね、相沢くん。また、明日ね」
「ああ」
玄関で香里を見送った後、部屋に戻ってデータ整理をしていた祐一が、ふと気がつくともう10時を回るような時間だった。
「うーっ……さみっ」
そろそろ風呂に入ろうと部屋を出た祐一は、廊下に踏み出した途端に身体が芯から冷え切ってしまいそうな感覚に襲われた。このまま熱い風呂に入ったら、きっと素晴らしく気持ちいい気分になれる事だろう。
風呂場に向かうと、ちょうど真琴が出てくるところだった。湯上りのせいか、気持ち良さそうに頬が上気している。
「なんだ、もう出たのか。今から入ろうとしてたのに」
「いい湯だったわよ。早く入ってくれば?」
「言われなくてもそうするよ」
すれ違う時に真琴が漏らした含み笑いが気になりはしたが、祐一はそのまま風呂場へと向かった。
「なんだ? この匂いは……」
脱衣所で服を脱いでいると、どこからか味噌汁の様な匂いが漂ってくる。まさかこんな時間に味噌汁を作るわけもなく、祐一は気を取り直して風呂場の戸を開いた。
「なっ……」
そして、予想外の光景に祐一は言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くしてしまう。
湯船に張られていたはずの湯が、濃い茶色に変わっていた。入浴剤なんて上等なものではない。湯船の中身が、そっくりそのまま味噌汁に変貌していたのだった。
「真琴ーっ!」
腰にバスタオルを巻きつけただけの祐一が、廊下に向かってあらん限りの大声を出す。
「出て来い、真琴ーっ!」
「どうしたの、祐一さん」
祐一の怒鳴り声を聞きつけた秋子が、何事かと風呂場に姿を現した。しかし、祐一の恰好を見た途端、あらあらと頬を染めてしまう。
「……お味噌汁?」
名雪は半分眠そうに、漂っている臭気に鼻をひくつかせている。
「なになにぃー? どうしたのー?」
そして、最後に事件の元凶が何食わぬ顔で姿を現した。みんなで夕食を囲んでいた時は借りてきた猫の様に小さく縮こまっておとなしくしていたというのに、香里がいなくなった途端にこの騒ぎだ。
「……あのな、真琴」
「ん?」
「こんなに大量の味噌汁作ってどうするっ?」
「すごい事になってるわねぇ……」
湯船を覗きこんだ秋子が、呆れたような声を出す。
「わっ……お風呂がお味噌汁になってるっ! 一体誰が……」
「お前しかいないだろうがっ!」
「なによぅ、なにか証拠があるっていうの?」
「黙れっ! 秋子さんがこんな事するのか? 名雪がこんな事するのか? 俺がこんな事するのか?」
「真琴だってしないわよぅっ!」
そうは言うが、まだ真琴以外に誰もお風呂に入っていないのだから、まったくと言っていいほど説得力がない。
「お前の悪戯以外に考えられるかっ! 俺だけならまだしも、他の人間にも迷惑かかる事を少しは考えろっ!」
「あぅーっ……」
先程までは自信たっぷりだった態度が、少し強めに出ると途端に雲散霧消してしまう。流石に瞳をウルウルとさせはじめた真琴には、祐一もこれ以上強くは出られないのであるが。
「一袋全部入れちゃったの?」
「うーっ……」
秋子の優しい声に、真琴は涙目になりつつ頷く。
「こんな事したら、飲めなくなるでしょ? 食べ物を粗末にしたらダメよ」
「うーっ……うん」
そして、秋子のお説教がはじまった。流石に秋子の前で嘘をつきとおす度胸はないらしく、真琴はうなだれたまま黙って話を聞いていた。
「それにしても、これは一体どうすればいいんだ?」
腰に一枚タオルを巻いたままで、祐一は湯船を覗きこむ。その傍らでは、名雪がお湯をかきまぜていた。
「わたし、眠い……」
今日は朝から部活で、昼過ぎからは戦闘に香里の回復にと大活躍だったせいか、名雪が率直な気持ちを口にする。当然の事ながら、なんの問題解決にもなっていなかった。
「これから一ヶ月、ここからすくって飲むというわけにもいかないし……。仕方がない、流すか……」
これは、先程まで真琴が入っていたお湯。つまりは、美少女のエキスがたっぷりと溶け込んだ味噌汁だと考えると、ただ流してしまうのは少々もったいないような気もしたが、流石に秋子や名雪のいる前で飲むといった変態的行為をするわけにもいかず、祐一は断腸の思いで栓を抜いた。
その後湯を張りなおしたのはいいが、味噌汁の匂いだけは取れず、風呂に入った人間がことごとく味噌臭くなって出てきたのには、祐一も並行するしかなかった。
「みんな、お味噌臭い……」
「誰のせいだ? 誰の……」
「あうぅーっ……」
罰として、真琴のこめかみを拳でぐりぐりする祐一であった。
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