第十八話 笑顔の向こう側に
栞と別れた後は、退屈な午後の授業がはじまる。それも後2時間だと思うと、いくらか祐一の気も楽だ。
「祐一は、ノート取らなくていいの?」
黒板の字をノートに写しながら名雪は、頬杖をついて窓の外を眺めている祐一に話しかける。
「それなら、後でお前のノートを写させてもらうから大丈夫だ」
すると名雪は少しの間考えるように眉根を寄せた後、祐一に向かってにっこりと微笑んだ。
「百花屋さんでイチゴサンデー」
「ぐっ……」
「どうする? 祐一」
ノートを写させてもらうか。それとも、自分でノートを取るか。名雪の笑顔を見つつ、祐一はこの究極の選択に頭を悩ませた。
「……わかった、イチゴサンデーだな」
「え? いいの?」
自分で話を振っておきながら、釈然としない様子で名雪はノートを取る作業に戻る。そして、授業が終わるまで、祐一はずっと灰色の空を見上げていた。
「祐一、放課後だよ〜」
「なにぃっ! そうなのかっ!」
「驚き方が大げさだよ、祐一」
「まあ、冗談なんだけどな」
祐一が必死にボケているというのに、それを名雪が素でスルーしてしまうのはある種の才能なのではないだろうか。
「それで、祐一。今日はどうするの?」
「名雪はどうなんだ?」
「わたしはいつも通りだよ」
「なんだ、また部活か?」
「うん。明日はお休みだけど」
「大変だな、本当に」
「うん。でも、好きではじめた事だから」
こうして考えてみると、名雪は管理局の嘱託扱いで魔法戦闘をして、部活動では部長を務め、家庭学習もしっかりやって、夕食の手伝いまでしている。しかもそれをほとんど感じさせる事もなく、いつも笑顔で過ごしている。名雪のそう言うところは、素直にえらいと祐一は思う。
「それで、祐一は?」
「……特にする事もないから、商店街にでも寄って帰るさ」
「祐一も部活動とかすればいいのに。楽しいよ?」
「部活ね……」
管理局の仕事もあるから無理だ。そう告げると、名雪はちょっと残念そうに微笑んだ。
「部活、頑張れよ」
名雪を見送ると、丁度帰り支度をしている香里の姿を見つける。そこで祐一は栞の事を訊いてみる事にした。
「ところでさ、香里。栞の事なんだが……」
「栞って誰? あたしに妹はいないって言ったでしょ?」
「……いない妹に、そんなむきになる必要もないだろ?」
おそらくは、祐一の知らない姉妹の事情があるのだろう。その事情について色々聞いてみたいとは思うが、祐一は香里についてそれほど多くの事を知っているわけでもないので、そこまで踏み込んでいいものかどうかを迷う。
本音を言えば、はじめて会った時のなにかに脅えている様子の栞と、ついさっきまで中庭で会っていた笑顔の栞のギャップが気になってしょうがない。
「……ところで、相沢くんはその子の事をどう思ってるの?」
「どう、とは?」
「好きなの?」
「どうなんだろうな……」
正直なところ、栞と知り合ってからまだほんの数日しかたっていない。そんな状態で、好きかどうかを訊かれても答えを出せるわけがない。
「……ただ、気になる事だけは確かだ。なにか悩んでいるんだったら、力になってやれないかと思っている」
「そう……」
祐一にとっては、そのための魔法だ。それに、栞の話題を出すたびに、香里が少し悲しそうな顔をしているのを見るのも嫌だ。口にこそ出さないものの、名雪も気にしている。
なにより、今は闇の書の関係者との戦いの渦中にある。どんな些細な事であれ、闘いに集中できない状態での戦闘は危険すぎる。いくら魔法で非殺傷設定があるといっても、肉体的なダメージそのものがないというわけではないのだから。
祐一は香里の言葉を待っていたが、すでに誰もいなくなった教室に重苦しい沈黙が流れるのみだった。やはり、どんなに仲良くしていても、所詮は赤の他人であるにすぎないのだから、踏み込んでほしくない領域の問題もあるのだ。
「変な話につき合わせて悪かったな、香里。じゃあな」
最後に少しだけ格好つけて祐一は教室を出ていくが、内心では香里の力になってやれない悔しさでいっぱいだった。
「お?」
商店街へ行く道の途中で、祐一は偶然真琴と出くわした。
「どこ行くんだ? 真琴」
「おつかい。お豆腐買いに行くの」
そのまま金を持ち逃げする可能性もあるというのに、自称記憶喪失の少女に買い物を頼むとは、流石に秋子も不用心ではないだろうか。しかし、こうして気軽に用事を言いつけるというのは、秋子が真琴を家族として見ているという証拠でもある。
「そうか。ひとりで買えるか?」
「子供じゃないんだから、買えるっ!」
そういう態度が子供なのであるが。自分が大人だと主張する奴ほど子供っぽいのは世の常だ。
「そうか。じゃあ、ついでに俺のエロ本も頼む」
「エロ本? なにそれ。面白いの?」
「面白いというか……。興奮するな、ワクワクする」
「買ってきていいの?」
「そうだな、金渡しておくか」
祐一は大盤振る舞いで千円札を真琴に渡した。作戦が長期化する事に備えて資金は多めに用意してあるのだが、ミッドチルダ生活が長いせいか、どうにも相場がよくわからない。
「いいか、真琴。ちゃんと本屋の店員に、エロ本ください、って言うんだぞ。たくさんあったら、店員のお勧めでいいからな」
「うん。真琴も読んでいいよね?」
「お前が大人だったらな」
「うん。真琴、大人だよ」
「じゃ、また家でな」
「うん」
パタパタと走り去る真琴の後ろ姿を見送り、祐一も商店街への道を歩きはじめた。
学校を出るまでに時間を取られたせいか、商店街についた時にはすでに日が傾いていた。低い位置からさしこんでくるオレンジ色の光が、夕暮れ時の商店街を鮮やかに浮かび上がらせている。冬の日の入りが早いせいか、あともう何時間かすれば街灯がつくだろう。
「……とりあえず、CD屋でも探すか」
残り時間は少ないが、ここまで来た以上なにかやって帰らないと無駄足もいいところだった。取りたてて明確な目的もなかったので、昨日発見できなかったCD屋でも探そうかと思い、ついでに真琴の買い物の様子でも見てみるかと思って歩きはじめた時だった。
「祐一くんっ!」
背後からかかる声に、祐一は素早く真横によけた。
「あ……」
マンガかアニメの効果音のような音を立てて、先程まで祐一が立っていたあたりにあゆが転がっていた。
「うぐぅ……」
「大丈夫か?」
「大丈夫か? じゃないよぉっ! 祐一くんが避けたぁっ!」
「そりゃ、背後から奇襲をされたら。誰だって避けるわ」
そういう訓練もしている祐一が言うと、なぜだか妙な説得力がある。
「鼻が真っ赤になってるぞ、あゆ」
「誰のせいだよぉ〜」
相変わらず顔から突っ込んだらしく、鼻が真っ赤になっている。おまけにミトンをはめた手で押さえながら涙目で訴えるので、あゆの声は恐ろしく変だった。
「それで、どうしたんだ?」
「うぐぅ……何事もなかったように話を進めないで……」
「ど、どうしたんだ、あゆっ! そ……その傷はっ!」
「うぐぅ、今はじめて気づいたように話さないで」
「どっちもダメなら、俺にどうしろと?」
「祐一くんが極端すぎるんだよ」
あゆはまだ少し赤い鼻をさすりながら、上目づかいに非難の視線を送る。
「それで、今日は本当にどうしたんだ?」
「多分、祐一くんと一緒だよ」
「俺と一緒って事は、学校帰りに暇だったから商店街に寄って、CD屋を探すついでに同居人の女の子が無事にエロ本を買えるかどうか見届けようと。そういう理由か?」
「最初は同じようなものだけど、終わりの方は違うよ。それに、ボクは探し物があるから」
そういえばそんな事も言っていたような気もする祐一。学校帰りに時間があればあゆの手伝いもしているのだが、今のところはなんの進展もないようだった。
「そうか、どうせ暇だし、俺も探し物につき合ってやるよ」
「ホント?」
「嫌ならいいけどな」
「全然嫌じゃないよ。嬉しいよ」
なんの気なしの祐一の言葉だったが、それでもあゆは嬉しいようで満面の笑顔を浮かべる。
その後はあゆに引きずられるようにして商店街中を探し回る祐一であったが、結局なにも見つからないまま家路につく事となった。
「真っ暗……」
気がつくとあたりはすっかり暗くなっていた。まだ6時という時間帯であるが、街灯の数もまばらなせいか、あたりはすっかり闇に包まれていた。
「うぐぅ……夜だよぉ……暗いよぉ……」
怖いのか、あゆは祐一の腕にしがみつくようにしながら顔を伏せている。その姿はあゆの容姿と相まって、やけに子供っぽい仕草だった。
祐一と同じ年齢だとあゆは言っているが、こうして怯えている姿を見ているとなにかの間違いなんじゃないかと思えてくる。
「あ、ボクこっちだから。今日はありがとう、祐一くん。ボク本当に嬉しかったよ」
あゆが指したのは、通学路の途中にある脇道だった。
「俺もついでがあったからだ。気にするな」
「ついでがなかったら、一緒に探してくれなかった?」
「そりゃそうだ」
「そうだよね、だって祐一くん意地悪だもん」
最後の言葉を笑顔で締めくくり、あゆは手を振りながら脇道の闇へ消えていった。
「ゆういちーっ!」
家に戻り、プライベートを満喫しようとしたところで、祐一は遠くから響く怒声を耳にした。聞き覚えのあるこの声は、真琴と見て間違いない。
エロ本を買ってきてくれと頼んでおいて、さわやかな明るい笑顔で愛想よく帰ってこられても、それはそれで問題がある。
ドンドン、ドタドタ、バタバタバタ、という具合に全ての行動が手に取るような音を響かせて、部屋の扉が勢いよく、ばんっ、と開かれた。
「お前な、ノックぐらいしろよ」
「そんなの関係ないーっ! 真琴になんて本買わせる気だったのよぅっ!」
「買えたか?」
「あんなもの買わない、買えない、買えるかーっ!」
「すごい三段活用だな……」
「ものすっごい恥かいちゃったんだからぁっ! お店の人に説明されちゃったのよぅっ!」
「そりゃ、お前が子供の証拠だ」
ここまでくると、大人も子供も関係なくなっている。
「そんな事無いわよぅっ! 女性が買うような本じゃなかったもん!」
少なくとも、女性は同性の裸を見ても喜ばない。よほど特殊な性癖の持ち主でもない限り、そんな事はない。
「いや、大人の女性なら平気で買えるはずだぞ」
「うそだぁ……」
本当のところは祐一にもわからない。ただ、秋子や名雪に頼んだら、素で買ってきそうなイメージはある。
「これでわかったろ? 公の場で証明されたんだから、自覚しろよな」
「あぅーっ……み、見かけが子供っぽいだけよっ!」
そして、負け惜しみの様な事を言って真琴は部屋を出ていった。
「なぜだか、夕飯までが長かったような気がするぞ……」
「よっぽどお腹が空いてたのね」
それでも時間はいつも通り。そんな祐一の姿に秋子が目を細める。そして、ご飯をよそっていた秋子が最後に席につき、それぞれに、いただきます、をして夕食がはじまった。
「あれ? 豆腐がないじゃないか」
確か真琴が買い物に行っていたはずだ。で、あるにも関わらず豆腐がないというこの事実に、祐一はじっと真琴を見た。
「真琴がお使いに行ってたんじゃなかったか?」
そのついでにエロ本を買ってくるように頼んだのは祐一である。
「あぅーっ……忘れちゃったの……」
真琴が『あぅーっ』というときは、困っている時か焦っている時だと、祐一は気づいた。
「じゃあ、金は? 秋子さんに返したか?」
「うん」
秋子の様子を見ると、それは返したようだ。しかし、よく考えてみると祐一が渡したエロ本代をまだ返してもらっていなかった。
「あのな、真琴……」
「祐一が悪いのよ。真琴に『エロ本買ってきて』なんて頼むから……」
真琴の話によると、祐一の買い物を先に済まそうと本屋に行ったときにエロ本の真実を知り、文句を言うためにそこから慌てて引き返してきたので、肝心の豆腐を買い忘れてきたという。
「エロ本?」
「そんなものを頼んだんですか? 祐一さん……」
その途端に秋子と名雪の非難の視線が、十字砲火となって祐一に注がれる。流石にこの状況下において金を返せなどという事は出来ず、祐一はひたすら縮こまったままで食事をする事となる。
この女ギツネめ、と思わなくもないが、今度ばかりは祐一も分が悪い。少なくとも、この場に祐一の味方はいないようだった
とりあえず、金は後で返してもらおうと思い、祐一はそそくさと食事を終えた。
「おい、真琴。入るぞ」
いくら相手が子供であっても、女性に対する礼節は守らないといけない。祐一は軽くノックをすると、真琴の返事が返ってくる前に扉を開けた。
「あれ……?」
しかし、いつも床に寝そべっている真琴の姿はない。それ以外にも、この部屋には妙な違和感がある。真琴がこの部屋に居着いてから、ほんの数日しか経過していない。それなのに、この部屋からは女の子の部屋らしい雰囲気がある。
誰もいない静かな雰囲気が、本来は無人であるこの部屋のあるべき姿なのだが、真琴があまりにも騒がしいせいか、つい忘れてしまいがちになっていた。
記憶が戻れば、今夜にも真琴は出ていってしまうのかもしれない。もしもそうなったときにこの部屋を見て、こんな寂しい気持ちなってしまうのではないかと祐一は思った。
「祐一さん」
部屋の扉を開けたまま突っ立っていた祐一に声をかけたのは秋子だった。
「シーツ洗っておいたから。はい」
そういって秋子は洗いたてのシーツを祐一にさし出した。
「あの、秋子さん」
「なに?」
「この部屋は、ずっとこのままにしておいてほしいんだ。あいつが、いつ帰ってきてもいいように」
「出ていってないーっ! 現役で住んでるわよぅっ!」
ちょっといい事言ったかな、という感じの祐一の頭を、真琴の小さな手が軽く小突く。
「うおっ! いたのか、真琴」
「あら、お風呂入ったんじゃなかったの?」
「着替え、忘れたの」
そういって真琴は祐一と秋子の間をとてとてと通り抜け、カラーボックスの中から下着を漁りはじめた。
「……って、人が下着探してるの、なに見てるのよーっ!」
「子供の下着に興味があるか」
「なによぅっ! 真琴だってティーパックとかはいたら、充分エッチなんだからね」
「あんなものがはけるんなら、はいて見せてくれ」
「お台所にあるわよ」
おそらく真琴は、ティーバック、と言いたかったのだろう。ティーパックだとお茶を入れる道具だ。
「もぅ、なんだかわからないけど、祐一は出ていって!」
たとえ相手が子供であっても、女性に対するマナーは守らなくてはいけない。真琴に背中をぐいぐいと押され、祐一は部屋から追い出された。
その後金を返してもらうのを忘れた祐一が、真琴の入っているお風呂に乱入して大騒ぎになった事は言うまでもない。
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