第十九話 陽だまりの街
(変な夢見たな……)
おそらくは7年くらい前。この街で祐一が過ごした最後の年。その時に商店街で出会った少女と過ごした、ほんの数日間の思い出。
祐一はその女の子の小さな手を握り、自分のとっておきの場所に連れて行った。そこは街中のどこからでも見える大きな木の根元。
大切な。
とても大切な思い出のはずなのに、どうして祐一はそれを忘れてしまっているのだろうか。
赤い夕日に照らされて微笑む少女。
それが誰なのか、祐一は思い出せずにいた。
そんな具合に夢見は悪かったが、寝付きは良かったので身体は絶好調だ。祐一は冷たい床を歩いてカーテンを開ける。今日も外は絶好調に寒そうだ。
この日は珍しい事に、祐一が起きた時にはいつものメンバーが揃っていた。どうやら今日は名雪の寝起きが相当に良かったらしい。優雅にコーヒーカップを傾けている香里と、一仕事終えたかのような充足感に包まれているけろぴーの対比が見事であった。
「おはよう、名雪。今日はずいぶんと早いじゃないか」
「おはよう、祐一。うん、昨夜は早く寝たからね」
「何時に寝たんだ?」
「7時」
「それはまた、規則正しい事で」
どうやら名雪の睡眠時間は、12時間がベストのようだ。
「祐一さんは、ジャムつけないんですか?」
一通りの準備を終えた秋子が、キッチンから出てくるときにそう訊いてきた。
「俺、甘いの苦手なんですよ」
「美味しいのに」
好物のイチゴジャムをたっぷりとトーストに塗った名雪が不満そうに呟くものの、すぐに自分のトーストにかぶりつく。その満足そうな笑顔は、見ているだけで祐一も嬉しくなってくる。
ふと気がつくと、秋子がなにかを考える様に右手を頬にあてていた。
「……甘くないジャムもありますよ?」
「わたし、ごちそうさまっ!」
「もうこんな時間。急ぐわよ、名雪」
一度キッチンに引っ込んだ秋子が、再び姿を現した時に持ってきたオレンジ色のジャムを見た途端、名雪と香里が慌てて席を立つ。見ると名雪はトーストを半分以上残しており、香里のコーヒーも半分以上が残されている。
「どうしたんだ? 急に……」
「わたし、お腹いっぱいだから……」
「用事があったの、すっかり忘れてたわ……」
天然素材の名雪と、冷静沈着な香里が明らかに動揺している。祐一が呆然とする中で、名雪と香里は大慌てで玄関に向かう。
「先に表で待ってるからね〜」
「なんなんだ?」
斎藤清六風に言うと『なんなんなんだ』になる。そのくらいわけがわからない祐一であった。
「すいません、秋子さん。俺も行ってきますんで」
とはいえ、この様子なら今日は珍しく歩いて登校できそうなので、祐一も名雪達の後を追いかけていく事にした。祐一は残ったトーストを一気に頬張ると、そのまま少し冷えたコーヒーで一気に流し込む。
「凄いですね」
それを見た秋子は、素直に感心していた。玄関に向かう祐一の後ろ姿を見送る秋子は少しだけ残念そうな表情であったが、突然の出来事に呆気にとられている真琴を見ると、再び笑顔に彩られた。
「あ、祐一」
出がけに宣言したとおり、名雪達は門のところで待っていた。
「玄関の中で待っていてもよかったんじゃないか?」
「……ここの方が安全よ」
珍しく香里が、なにかに怯えるように水瀬家を見る。勝気なイメージのある香里にしては、珍しい態度だった。しかも、ポツリと妙な事を呟いている。
「安全……?」
「なんでもないんだよ、祐一」
「そうよ。相沢くんが気にする必要はないわ」
ふたりは口を揃えてそう言うが、逆にそのあからさまな態度が気にかかる。
「……あのジャム、凄く美味かったな」
「え? 嘘……」
「そんな、まさか……」
「やっぱりな……」
しまった、とばかりに口元に手を当てるふたり。つまり、名雪達はあのジャムについて知っていたという事だ。
「あれはなんのジャムなんだ?」
「実は……わたしも知らないんだよ……」
怖くて聞けなかった、というのが名雪の談だ。あのジャムは秋子のお気に入りであるらしく、以前香里も勧められて被害に遭ったのだそうだ。それ以外の秋子の料理が絶品であるだけに、簡単にだまされてしまったという。
はぁ、と3人そろって白い息を吐く。
「あれ? どうしたの?」
いつからいたのか、アリシアが不思議そうな顔で祐一達を見上げていた。
「あ、アリシアちゃんおはよう」
「おはようございます」
元気よくぺこりと一礼して、アリシアは見ているほうが幸せになるような朗らかな笑顔を浮かべる。
「それで、どうしたの? みんな朝から暗い顔してるけど」
「そりゃあ、あのジャムが……」
「じゃむ?」
その途端にアリシアの笑顔がひきつる。
「え? あのジャムって、まだあったんですか?」
アリシアを見送っていたのだろう。いつの間にか現れたリニスが驚愕の表情を浮かべる。
「知っているんですか? リニスさん」
「ええ、以前に秋子からいただきました。なんでも、自信作だとかで」
その時の事を思い出したのか、リニスの顔がさっと青ざめた。
「今でも思い出します。あのジャムを一口食べたプレシアが、すぐさま封印処置を施したのを……」
「ロストロギア並みですか……」
今度は5人で白い息を吐く。
「だとしたら、名雪。お前ひどい事したな……」
「え?」
「あぅーっ……」
涙目になった真琴が、玄関から飛び出してきた。
「ひどいわよぅ、みんなで逃げて……」
「ごめんね、真琴。お母さんは色々な材料でジャムを作るのが趣味なんだよ」
「すっごい変な味だったわよぅ」
一体、あのジャムはなんで作られているのか。秋子の事だから食べられるもので作ってあるのは間違いないが、全てが謎に包まれていた。
揃って大きなため息をついて、祐一達はリニスと真琴に見送られて学校へ向かった。
眩しいくらいの日差しが降り注ぐ通学路は、僅かに溶けかけた雪に陽光が反射して、少なくとも見た目だけは綺麗な風景だった。もっとも、写真やテレビで見るのとは違い、この肌をさすような寒さにはいつまでたっても慣れる事はできそうになかったが。
それでも、左右両隣りに美人を侍らせて、両手に花状態で歩くのは実に気分のいいものである。
「着いたよ」
そして、何事もなく学校に到着する。
「名雪、時間は?」
「えっとね……。わ、予鈴までまだ10分もあるよ」
腕時計で時間を確認した名雪が、驚きの声を上げる。
「奇跡だな」
「そうだね」
「あんた達の会話を聞いてると、奇跡が安っぽいものに思えてくるわ……」
実際に祐一と名雪のふたりが力を合わせれば、小さい奇跡のひとつやふたつは起こせそうではあるが。
「いい、相沢くん。奇跡ってね、そんな簡単に起こるものじゃないのよ」
祐一の方を見ないまま、香里は一方的にそう言うと、昇降口に向かってすたすたと歩き出す。
「なあ、名雪。今日の香里は機嫌が悪いか?」
「そうみたいだね……」
朝からあんなジャムの話題が出たのだから、機嫌が悪くなってもおかしくない。しかし、付き合いの長い名雪が首を傾げているのだから、祐一はそればかりではないだろうと思っていた。
相変わらず、それがなにかまではさっぱりわからなかったが。
いつもと同じ平穏な日常。祐一がこうして椅子に座っている間にも、時空管理局の武装局員達は今日も闇の書の手掛かりを求めて東奔西走している。あの砂漠での激闘以来、闇の書の守護騎士を名乗る少女達が活動している様子がないせいか、捜査は依然として進展していないようだ。そんな事を考えつつ、祐一は先生の話を右から左へと聞き流していた。
別に授業を受けるのが嫌だというわけではないが、内容が全くわからないのでは話が別だ。それに祐一はこの事件が終わったら、ミッドチルダの方へ帰らなくてはいけない。そう考えると、余計に身が入らなくなる祐一であった。
この日のお昼休みも、祐一は中庭でいつものように栞と会っていた。別にそこまでする必要もないとは思うのだが、どうにも栞の事が気になってしまう。
どうして、お昼休みに中庭にくるのか。香里との関係はどうなっているのか。なんでそんなに儚げな笑顔を浮かべているのか。
結局のところ、今日もなんの進展もないまま午後の授業が終わった。
「祐一ーっ、放課後だよ」
HRが終わると、1メートルと離れていない自分の席から名雪が駆け寄ってくる。
「ふ……俺にはもうどうでもいい事さ」
そのまま祐一は、窓の向こうの空を見上げる。
「俺はこのまま、このどこまでも広がる空の向こう側に……」
「どうでもよくないよ。今日は一緒に帰るんだから」
突っ込みもなにもいれずに祐一のボケを止めてしまうのは、名雪の技ではないだろうか。
「……それで、なんの話だったっけ?」
「放課後だよ」
「それは聞いた」
「一緒に帰るんだよ」
「誰が?」
「祐一が」
「誰と?」
「わたしと」
「どうして?」
「約束したからだよ」
「誰が?」
「祐一が」
「誰と?」
「わたしと」
「どうして?」
「約束したからだよ」
「誰が?」
「お前ら、突っ込むやついないのか?」
「いや、北川に期待してたんだ」
突っ込み役になってくれる香里が足早に教室から出ていってしまったので一時はどうなる事かと思ったが、北川が突っ込んでくれたので胸を撫で下ろしている祐一であった。
「北川くんも、これから帰るの?」
「そのつもりだったけど、やっぱり学食でなんか食ってから帰るわ」
「そっか、残念」
そのまま足早に教室を出ていく北川を見ながら、祐一は妙に気をまわされたような気がする。もっとも、名雪はそれに気がついた様子もなく、北川の態度に首を傾げていた。
放課後の商店街は、木曜日という事もあって閉まっている店も多く、どこか寂しい雰囲気だった。
「たまには、ふたりでゆっくり歩くのもいいよね」
「いつもは3人で走ってるからな……」
ここ最近の香里の態度がおかしいのは気にかかるが、本人がいないのでは詮索のしようがない。
「そう言えば、お腹空いたね」
「そう言えば、そうだな……」
昼飯は食べたが、時間的に小腹がすいてもおかしくない。見ると名雪は切なそうにお腹を押さえている。その仕草がなんとなく子供っぽくて、祐一は思わず苦笑してしまう。
「よし、なんか食っていくか?」
「百花屋さんのイチゴサンデーがいいな」
間髪いれずに即答する名雪が、実に可愛らしい。
「今日はおごりじゃないからな」
「それでもいいから。行こう、祐一」
名雪に手を引っ張られ、一緒に走り出す祐一。結局走るのかと思いはするが、名雪の笑顔の前ではなにも言えなくなる祐一であった。
「ごちそうさまでした」
礼儀正しく両手を合わせ、小さくお辞儀をして名雪は銀色に輝くスプーンをパフェグラスに滑り込ませる。たっぷりのイチゴとクリームが乗っていた大きなパフェグラスは、すっかり空っぽになっていた。
「そんな甘いもの、よくそれだけ食えるな」
「うん。あと3杯くらいは大丈夫だよ」
「夕飯が食えなくなるぞ」
「あ、そうだね……」
頷きはするが、どうにも名雪は名残惜しそうだ。
「それに、太るぞ」
「大丈夫だよ。ちゃんと運動してるから」
確かに、最前線で闘う魔導師のカロリー消費は半端ではない。名雪の場合は朝の登校ダッシュに加え、部活動でも汗を流しているのだから、カロリーを消費しやすい体質なのだろう。
「……ねえ、祐一。後1杯だけいいかな?」
「それくらいならな」
祐一は苦笑しながらウェイトレスを呼んだ。
「ありがとうっ、祐一」
「この1杯だけだぞ?」
「わかってるよ。流石にそんなには食べられないもん」
やがて、名雪の前には先程と同じパフェグラスが運ばれてくる。
「わたし、幸せ」
¥880(税別)で幸せになれるんだから安いものだ。少し冷めてしまったコーヒーを飲みつつ、祐一は名雪の幸せそうな表情を眺めていた。
「いただきます」
秋子の教育の賜物か、礼儀正しく両手を合わせた後、名雪は先の割れた銀色のスプーンでイチゴをすくい取る。
「うん。やっぱり美味しい」
嬉しそうに眼を褒める名雪の姿を見ているうちに、祐一はふと気になった事を思い出した。
「そういえば、さ……」
「ん?」
クリームをスプーンですくい取りながら、名雪が顔を上げる。
「名雪は確か、香里とは長い付き合いなんだよな?」
「香里と友達になったのが中学1年生の時だから、長いといえば長いかな?」
実はそれ以前から、香里とはジュエルシードをめぐる闘いで顔を合わせている。その後は時空管理局の決定で自由に会う事は出来なかったため、本格的な交友関係がスタートしたのは中学生になってからだ。
「それなら、香里の事ならなんでも知ってるよな?」
「なんでもって事はないよ」
お互いの仲が悪いというわけではないが、名雪はそこまで相手に踏み込んで詮索するようなタイプではない。
「それじゃ、香里の家族について知らないか?」
「……ごめん、祐一」
名雪が申し訳なさそうに首を横にふる。
「香里って、家族の事とかあまり話したがらないから……」
「そうなのか?」
「ごめんね、役に立てなくて」
名雪がもう一度謝る。
「でも、どうしてそんな事を訊くの?」
「いや、ちょっとな……」
こうして名雪とふたりでいるというのに、別の女の子の話題を出すのはマナー違反かもしれない。そう思った祐一は話題を切り替えようとした。
「あのね、祐一」
その時、名雪は真剣な瞳で祐一を見つめた。
「香里ってね、いつも明るく話すけど、時々悲しそうな顔をするんだよ……。心配で……理由を訊くんだけど、いつも気のせいだって言ってなにも話してくれない……」
そう言って名雪は、悲しそうな表情を浮かべる。
「最近の香里、特にそうなんだよ……。わたしは、香里の力になってあげられないのかな?」
「名雪に心配かけたくないだけじゃないか?」
わざとそっけなく答えてから、祐一は名雪の表情を窺った。
「そうだね……。うん、ありがとう祐一」
名雪は先程より、自然な笑顔を浮かべていた。不意に恥ずかしくなって視線をそらすと、窓の外には綺麗な赤色の世界が広がっていた。
「ねえ、祐一……。香里の力になってあげてね。わたしの代わりに……」
「……俺は、自分の出来る事をするだけだぞ」
「それが誰かのためになるんだよ。祐一は特にね」
話をしているうちに食べ終えたのか、ごちそうさま、と言って名雪が席を立つ。
「次は、CD屋さんを探さないとね」
「そう言えば、そうだったな」
名雪と商店街に来た目的はそれだった。
「行こう、祐一」
「ああ」
今度は自然に手をつなぎ、長く伸びたふたりの影は商店街の奥へ走りだした。
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