第二十一話 姉妹の真実

 

「今日は時間もあるから、そんなに急ぐ事無いよ」

「そんな事言って、途中で時間がない事に気がつくだけだろ?」

 水瀬家の玄関が広いといっても、ふたり並んで靴をはくのにはちょっと狭い。おまけにまだ香里とあゆが靴を履かなくてはいけないので、さらに時間がかかりそうだった。

「名雪、時間」

「まだ8時をちょっと過ぎたとこだよ」

 どうやら本当に大丈夫そうなので、祐一も一安心だ。走って学校へ行くのもフィジカル面のトレーニングと考えれば気も楽であるが、たまにはこんな感じでのんびりできる日もないと身体がもちそうにない。

 特に今日はあゆも一緒なので、いつものように慌ただしくというわけにもいかないのだった。

 途中までは一緒だからという理由で、あゆも交えて4人でいつもの通学路を歩く。女3人寄ると姦しいとは言うが、よくも話題が尽きないものだと、祐一は適当に相槌を打ちながら感心していた。

「あ……」

 そんなとき、突然あゆが大きな声を上げて振り向いた。

「どうしたの? あゆちゃん」

「うぐぅ……行き過ぎたよ」

「それなら、ここで解散」

「うん」

 あゆは嬉しそうに手を振りながら来た道を引き返し、途中の脇道に入っていく。

「そう言えば、あゆの学校は私服通学OKだって言っていたが、この辺にそんなところがあるのか?」

「そうね、あるといえばあるし、ないといえばないわね」

「でも、あゆちゃんがあるって言ってるんだから、きっとあるんだよ」

 あゆが消えていった先。街並みの向こうには、雪をかぶって白く浮かび上がる森があった。どう考えてもあの方向に学校があるとは思えないが、森を超えたその先にあるのかもしれない。

「なぁ、名雪。7年前の冬、この街でなにがあったか知ってるか?」

「……7年前の冬?」

「そうだ」

「その頃なら、祐一もこの街にいたよ」

「覚えてないから訊いてるんだ」

「う〜ん……」

 いつもの通学路を学校に向かって歩きながら、名雪が頭をひねる。

「相沢くんは7年前の事を覚えていないの?」

「ああ」

 首をひねっている名雪に代わって香里が訊いてくる。闇の書関係の事件を担当する嘱託魔導師として、思い出深いこの街に派遣されてきてから1週間が過ぎ去っていた。その間に祐一も断片的に色々と思い出しているのだが、肝心な部分となるとさっぱりだ。

「やだ。相沢くんもしかして、若年性健忘症じゃないでしょうね?」

「そんな事はないぞ。名雪がねこアレルギーだとか、そんなつまらない事ばかり思い出してるんだ」

「つまらなくないよっ! すっごく嫌なんだから」

 それまで首をひねっていた名雪が、凄い剣幕で会話に参加してきた。普段のスローモーな名雪を見ていると、3倍以上の素早さで動いているように見える。

「本当、名雪ってねこが絡むとキャラクターが変わるわよね……」

 無類のねこ好きにして、ねこアレルギー。そう考えると、名雪も不憫な娘である。香里の呆れたような声がする中で、祐一はそんな事を考えていた。

「ねこさん飼いたいのに、ずっと我慢してるんだからね」

「だけど名雪はカエルも好きだったよな。だったら、ねこの代わりにカエルを飼ったらいいんじゃないか?」

「嫌だよ。ぬるぬるしてるもん」

 それには同意と言わんばかりに、香里もうんうんとうなずいている。

「ふさふさのカエルが可愛いの」

 このあたりの名雪の感性は普通の女の子らしく、生き物のカエルは好みではないらしい。

「どうでもいいけど、名雪。あのけろぴーはなんとかならないかしら?」

「けろぴーがどうかしたのか?」

「空を飛ぶのよ」

「それくらいいいじゃないか」

「カエル泳ぎで……」

「あ〜……」

 その姿を想像して、思わず納得してしまう祐一。

「え? だってけろぴーはカエルさんだから……」

 日常会話と同じで、こういうところもどこか人とは違う道を歩んでいるようだった。

「だからって、あれはないわよ」

「う〜ん。わかったよ……」

 いまいち釈然としない様子で、名雪は頷いた。後日、豪快なバタフライで空を飛ぶけろぴーの姿が見られるようになるのだが、それは全くの余談である。

 結局、そんな他愛のない話に花を咲かせているうちに学校に到着した。

 

「祐一ーっ、お昼休みだよ」

 今日も今日とて平穏な午前中が終わる。ここのところは闇の書の関係者達もおとなしくしているのか、世の中は平穏そのものだった。今はまだこうして呑気に学校に通っていられるが、いつ何時戦闘態勢に入るかわからない。

 そう考えると、こういう時間が本当に貴重なものに思えてくる祐一であった。

「今日もひとりで外に出るの?」

「そうだ」

 心配そうな名雪の声に頷きながら、祐一は席を立つ。窓の外は白い雲すらないような、憎らしいくらいの晴天だった。

「でも、どうして外なの?」

「なんでだろうな……」

「もしかして、ごまかしてる?」

「いや……」

 本当のところはどうなんだろうか。確かに風邪で学校を休んでいる奴が、私服で校内をうろついていたら問題なのかもしれないが。

 そんな栞が毎日学校に姿を見せる理由。それにつき合っている祐一本人の気持ち。そして、それを知っているであろう香里の態度。どれもこれもわからない事だらけだ。

 祐一は教室を出るときに香里の姿を探してみたが、すでに教室からはいなくなっているようだった。

 栞と香里。このふたりが姉妹である事はわかっているのだが、香里はそれを否定している。そこには一体どういう理由があるのか、祐一には全くわからない。なにしろ、踏み込んで事情を訊いていいのかすら判断できないからだ。

 いつものように祐一は、重い鉄の扉を開けて外に出る。当然の事ながら、こんな時期にこの出入り口を使う生徒は、祐一以外にはいなかった。仰ぎ見た空はどこまでも青く澄み渡っている。そして、真っ白に染まった地面は、絨毯を敷き詰めたように誰の足跡もない。

 そんないつもと変わらない風景の中に、いつもなら既にそこにいる少女の姿はなかった。

「……遅刻だぞ、栞」

 学校を欠席している生徒に遅刻もなにもないが、それでも呟かずにはいられない。この季節であるならアイスクリームは溶けないが、それを持つ手はすでに指先の感覚がなかった。

 そのまま、時間と風だけが過ぎ去っていく。そうしているうちに、雪を踏む心地よい音が聞こえてきた。

「すみません、遅刻しました」

 栞は胸元に手を当てて、真っ白な息を何度も吐き出した。呼吸を整えるように何度も深呼吸をすると、そのたびに小さな肩が上下に動く。

「……馬鹿だな」

「わ、せっかく来たのにその言い方はひどいです。そんな事言う人嫌いです」

「アイスクリーム買ってあったんだが……」

「わ、今のウソです。祐一さん大好きです」

 祐一は苦笑しながらアイスクリームを手渡した。

「悪いが、栞。ひとつだけ正直に答えてくれないか?」

「わかりました、体重以外ならなんでも……。あ、あとスリーサイズもダメです。……自信ないですから」

 そっちに興味がないわけではないが、祐一が聞きたいのはそう言う事ではない。

「どうして栞は学校に……と、言うよりも俺に会いに来るんだ?」

「そうですね……」

 栞は少し考えて言葉を紡ぐ。

「風邪は、人にうつすと治るっていうじゃありませんか」

 アイスクリームを食べつつ、多少冗談めかして栞はそう言った。しかし、祐一の真剣な瞳に気圧されたのか、やがてゆっくりと重い口を開いた。

「本当は、私にもわからないです」

 やや自信なさげに栞は口を開いた。アイスクリームのカップを握る手に、薄らとだが力がこもる。

「祐一さんには、前に一度言いましたよね? わからない答えを探すために来てるって……。実は、あれ本当なんです」

「それで? 答えは見つかったのか?」

「……わかりません」

 栞は少しうつむいて小さく首を横にふる。それを見て祐一は、軽く息を吐いた。

「まあ、いいか。それで栞は明日どうするんだ? 土曜日だから昼休みはないぞ」

「そうですね、盲点でした」

 下手をすると、夕方までずっと中庭で待っていそうだ。

「だったら、放課後どこかに遊びに行かないか?」

「デートのお誘いですか?」

「……そうは言っていないが……そうなるのか?」

 意外と乗り気な栞の態度に、祐一はデートではないという事が出来なかった。

「それでは、祐一さん。明日の放課後、この場所で待ってます」

「わかった。それじゃ、1時くらいにここで待ち合わせだ」

「はい。約束です」

 栞が満面の笑顔で頷いたところで、昼休み終了のチャイムが鳴り響く。

「じゃあ、これで解散だな」

「はい」

 いつもは雪のように白い肌をした少女が、この日はいつもより赤みの帯びた笑顔を見せた。

「明日忘れないでくださいね。約束ですよ」

「大丈夫だって」

 いつものようにぺこりとお辞儀をして、栞はそのまま歩きだす。いつものようにその後ろ姿を見送って、祐一も教室に戻るのだった。

 

 午後の授業も滞りなく終了し、そのままHRがはじまった。この日は特に話題もないらしく、ほんの1分程度でおしまいとなった。

「ふ〜、これで今日の学校もおしまいだ」

「お疲れ様」

 祐一が大きく伸びをしたところで、隣の席から名雪がにこやかに話しかけてきた。

「とりあえず、風呂な」

「ここ、学校だよ?」

「だったら、メシだ」

「わたしに言われても……」

「ノリが悪いぞ、名雪」

「そんな事言われても、わたし困るよ……」

「こんな事では、立派な社会人にはなれないぞ」

「祐一、言っている事がめちゃくちゃだよ」

「まぁ、冗談はいいとして……。名雪は今日も部活か?」

「うん。今日は帰るのも遅くなると思う」

「大変だな……」

 祐一なら、5秒で嫌になるところだろう。しかし、名雪は好きだから、という理由で部活を続けているのだ。どんなに頑張って考えても、祐一には真似すらできそうにない。

 これが魔導師の訓練であるなら、怠ると死に直結しかねない重要なものなので祐一もそれなりに真剣になるが、単なる遊びの部活にそこまで夢中になれる名雪が少しだけうらやましくなる。

「それで、ゆっくりしててもいいのか?」

「うん、そうなんだけど……」

 少しだけ不安そうな表情で、名雪は香里の席を見た。香里は放課後ともなると、足早に教室を後にしてしまうのだ。朝はいつもどおりに名雪を起こしに来て、なにも問題はないという事をアピールしているが、放課後になると話をする余裕も与えずに姿を消してしまうので、名雪は心配しているのだ。

「……香里ね、祐一になにか相談があるみたいだったよ」

「俺に? 相談なら名雪とか北川の方が適任なんじゃないか?」

「そんな事無いよ。だって祐一は、祐一が自分で思っているよりもずっと頼りになるから」

「根拠は?」

「祐一だから」

「……言ってる事が秋子さんに似てきたな」

 なんの根拠もなくそう言いきるところが、実にそっくりである。とはいえ、祐一の知る限りでは、秋子の言う事に間違いはない。

「じゃあ、わたしはそろそろ部活に行くね」

「俺も帰宅部があるから」

「がんばってね」

「ああ」

 帰宅部のなにをどう頑張ればいいのかわからなかったが、最後に少しだけ笑顔をのぞかせた名雪と別れて祐一は家路についた。

 

 事態が進展したのは、この日の夜だった。祐一と名雪は電話で香里に呼び出され、夜の学校に来ていた。

「……遅いわよ、ふたり共」

「いきなり呼び出しといてそれか」

「うわ、ごめんね香里」

「冗談よ」

 街灯が照らす丸い輪の中で香里は微笑むが、祐一にはどうもその笑顔は無理をしている様に思えた。

「それで、香里。話って言うのはなに?」

「大事な話よ……」

「栞の事か?」

 祐一からその名を聞いた香里がわずかに頷いた。

「大事な妹の話……」

 香里の口調は淡々としたものだった。

「あの子は……栞は小さな頃から体が弱くて、入退院を繰り返していたの」

 遠い目をして、香里は話を続けた。

「面会時間が終わると、あたしは栞と別れたくなくて、よく泣いたわ」

 祐一の持つ香里のイメージからは、ちょっと想像できない光景だ。

「そんなあたしを慰めてくれたのが栞だったの。本当は、ひとりで病院に残らなくちゃならないあの子の方が何倍も辛いはずなのに……」

 わずかに香里の声が震える。

「でも、いつかはきっと病気も治る。そうしたら、色々な事が出来るってふたりで約束していたの」

 雪こそ降っていないものの、空気すら凍りつきそうな寒風の中で、祐一と名雪はただ黙って香里の話を聞いていた。

「そうして……栞が進学する歳になったとき、どうしてもあたしと同じ制服が着たいって言って、あの子はじめて両親に逆らったの」

 香里の言葉に嗚咽が混じる。

「お姉ちゃんと一緒の制服を着て……一緒に学校に行って……一緒にお昼を食べて……そんな些細な事を切望していたの……それなのにあの子」

 涙で崩れそうになる香里を、名雪が支えた。

「始業式の日に……倒れたのよ……」

 祐一と名雪は思わず顔を見合わせた。

「あたし、栞の病気がよくなったんだって思ってた。でも違ってた、お医者さんも両親もみんな知ってた。栞が進学したのも、制服も、みんな気休めだって」

「気休め……?」

 祐一の声に、香里は名雪の胸に顔を伏せたまま頷いた。

「あの子は……次の誕生日まで生きられないだろうって……お医者さんに言われているの……」

「そんな……」

 名雪は悲鳴に近いような声を上げる。

「それで、知っているのか? 栞はその事を」

 香里は力なく頷いた。

「あたしが教えたから……」

「なんで教えた?」

「あの子が聞いてきたから。両親もあたしも、このごろ様子が変なのはどうしてなのかって」

 もっとも、香里自身はその事実を偶然立ち聞きしてしまったのだが。

「その事を知って、泣かれたり、憎まれたりするならまだよかったわ。でも、あの子それでもあたしに微笑みかけてくるのよ」

 完全に涙声のまま、香里は話を続けた。

「栞の笑顔を見るたび、あたしの心が苦しくなる。あの子の事が好きだから、悲しくて、苦しくなるくらいあの子の事が好きだから……」

 香里はもう話すのも精一杯の様だ。

「だったら最初から……最初から妹なんていなかったら……こんなに辛くなる事も、悲しくなる事もなかったって、そう思って!」

 香里の両目から、大粒の涙がこぼれだす

「あの子一体、なんのために生まれてきたのよっ!」

 香里は名雪にすがりつき泣き叫んだ。名雪は香里の頭をやさしく包み込み、泣くにまかせた。

 

「このごろあの子調子いいのよ。一時期は日に日に衰弱していったのに、今は小康状態を保っているの」

 泣き叫んで落ち着いたのか、香里は再び口を開いた。

「相沢くんのおかげかしら?」

「俺は、別になにもしていないぞ」

 香里は軽く首を振った。

「栞が本当に楽しそうに話してくれたわ。中庭で一緒にアイスクリームを食べたとか、色々話を聞いてもらったとか」

 祐一と名雪は思わず顔を見合わせた。

「だから、今度の誕生日は越えられるかもしれないって、お医者さんも言ってるわ。でも、それでもいずれあの子が消えてなくなる運命に変わりないわ」

「それで、いつなの? 栞ちゃんの誕生日って」

「2月1日……」

「もう後少しじゃないか」

 香里は力なく頷いた。残された時間の短さを実感するような空虚な笑みを浮かべて。

「でも、だからってわけでもないけど。相沢くんのおかげで気がついた事があるの」

 涙で目は真っ赤だったが、香里の笑顔に生気が戻りはじめた。

「あの子にとっては、そんな些細な事でも大切な思い出なんだって事。この先苦しい事や辛い事があるなら、あたしがそばにいて一緒に頑張ってあげなくちゃいけない、って言う事」

 だんだん祐一の知っている、いつもの香里に戻りつつあった。

「あの子には今までひどい事をしてきた分、いっぱい。でも、今からじゃ遅すぎるかな……?」

「そんな事ないよ、香里」

「ああ、そうだよ。それに栞が望んでいる事は、やっぱり香里との思い出なんじゃないかな?」

「わたし達でよかったら、いつでも協力するよ。ね、祐一」

「ああ」

「ありがとう……」

 再び、香里の目から大粒の涙があふれた。

「ありがとう、本当に。あなた達がいてくれて本当によかった」

「ううん、そんな事ないよ香里」

 名雪の目からも涙があふれている。

「香里は、ずっと前から苦しんでいたんだよね。でも、わたしが鈍かったから気づけなくてごめんね」

「いいのよ名雪」

「香里」

 ふたりはお互いにひしと抱き合い涙を流した。美しい友情だな、と祐一は思いつつも、妙に恥ずかしくて視線をそらしてしまった。

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