第二話 氷雪、アスガルドの大地
「ふぅちゃんは、まだ見つからないんですか?」
「ただいま捜索中であります……」
公子の問いに、臣下が慇懃無礼に返事をする。
「公子さん、私たちが……」
アルファ星ドゥーベの神闘士、坂上智代が公子に直言する。
「妹を連れ戻すのに、神闘士を使うなど……」
「しかし、一緒に聖域の聖闘士がいるとか……」
「まさか、いくらふぅちゃんでも……」
どういうつもりなんですか、と公子は内心呟く。
「まあ、よい……」
公子は口元に妖しい笑みを浮かべる。
「今こそ祐一を倒し、聖域をひねりつぶし、この氷に閉ざされた国から、一挙に日のあたる世界に出て、このアスガルドが地上を支配するときがきました」
背後に雷鳴を轟かせ、居並ぶ神闘士たちを前に、公子は高らかに宣言する。
アスガルドの地は雪と氷に閉ざされた北の果て。
日の光も知らず、豊かなる緑も知らず、ただひたすら世界の平和を祈り続けていた。
それがアスガルドの民に課せられた試練。世の人々の平和を守るため、神に与えられた苦難を受け入れ、耐え忍んできた。
だからこそ日の当たる豊かな世界に出ることは、アスガルドの民の悲願といえるのだ。
走る、走る、走る、走る……。
走る、走る、走る、走る……。
氷雪吹き荒ぶ氷の大地の上を、二人の少女が走っていく。
一人はキグナスの聖衣をまとった名雪。もう一人は年端もいかないような少女だ。
「ふぅちゃん。まだ走れる?」
「最悪です……」
「もうじき祐一に会えるよ。だから、それまでがんばろ」
「はいです」
公子の妹である伊吹風子は、姉の変わりように心を痛めていた。
アスガルドの伊吹公子と言えば、大神オーディンの地上代行者であり、若き女性でありながらも北欧の聖地を治め、民の信頼を一身に集めている。
その風子が最も尊敬する姉、公子が変わってしまった。姉を救い、世界の平和を維持するためには、もう風子は聖域にすがるしかないと考えていた。
そのとき雲が割れ、光が差し込んでくる。
「祐一がきたみたいだよ」
名雪の嬉しそうな声に風子は顔を上げ、祐一を見た。
祐一の持つ雄大な小宇宙が風子を包み込んでいく。優しかったころの姉の小宇宙にも通じる安らぎに満ちた小宇宙に、風子はこの人なら信頼できると思った。
流石は祐一、聖域を統べるだけのことはある。
ただの女たらしではない。
「おねぇちゃんは変わってしまいました……」
祐一に会い、風子はおもむろに口を開いた。そのそばではあゆ、名雪、栞、真琴が黙って話を聞いている。
「変わったって……。どんな風に?」
「悪魔に魅入られたんじゃないかと思うくらい最悪です。お願いです。おねぇちゃんを救ってあげて欲しいです」
風子の真摯な叫びは、祐一たちの心を動かすのに充分だった。
「うぐぅ、やっぱりアスガルドに異変が起こっていたんだね……」
「アスガルドだけの問題じゃないよ。全世界に危機が迫っているんだよ」
あゆと名雪の重苦しい声が響く。
公子はその祈りにより、北極と南極の氷が一度に融け出さないようにしていたのだ。もし両極の氷がすべて融けてしまえば、全世界の主要都市はすべて水没することになるだろう。
そうなる前に、なんとしても公子を元に戻さなくてはいけないのだ。
そのとき、突如として鋭く攻撃的な小宇宙があたりにみちる。すごい冷気を含んだ小宇宙が七つ。祐一の周りを取り囲むようにして現れた。
「おねぇちゃん……」
かすれたような声で風子は呟く。
祐一たちの前に、伊吹公子と七人の神闘士が姿を現した。
「ふぅちゃん、どうしてあなたはおねぇちゃんの言うことが聞けないんですか?」
「今のおねぇちゃんは、別人みたいです」
「そう……。それなら今から姉でもなければ、妹でもありません」
「……そこはかとなく最悪です」
奇妙な姉妹のやり取りが続く。
「うん?」
祐一は公子の左手の薬指にはめられた指輪を見た。
「なあ風子。あの指輪は一体いつから……」
「指輪……?」
言われてみると、何日か前から公子はあの指輪をはめている。そして、その日から姉は変わったのだ。
「間違いない、あれはニーベルンゲンリングだ……」
祐一の声が響く。
ニーベルンゲンリングとは伝説の指輪。全世界を支配する魔力を秘めたといわれている魔の指輪だ。
しかも、指輪に封じ込められた呪いにより、戦いを欲するようになるという。どうやら今の公子は指輪の魔力で別人になってしまっているようだ。
「そうか、それなら指輪をはずせば……」
「元の優しい公子さんに戻るというわけですね」
あゆと栞は納得したようにうなずきあう。
「でも、そううまくいくかな……」
ただ一人、名雪は慎重だ。
「もう、ボクたちは祐一くんの聖闘士だよ。ね、名雪さん、栞ちゃん」
あゆの明るい笑顔に、名雪と栞は黙ってうなずいた。
「頼んだぞ、あゆ。俺はその間に氷が融けるのを少しでもくいとめる……」
「え……? 祐一くん」
祐一はみんなに背を向けると、黙って公子が祈りを捧げていた祭壇に向う。
公子に代わり、祐一は祈りを捧げるつもりなのだ。
「愚かですね……」
その姿を公子は鼻先で笑う。
「あなたがいくらがんばっても、半日持つかどうか。しかもその代償は……。ふふっ、今夜になれば間違いなく息絶えるでしょうに……」
「そんな、祐一く〜ん」
公子の宣告に、あゆは思わず叫び声を上げる。
「いいか、あゆ。地上の平和はお前たちにかかっている。俺は、あの十二宮の戦いを生き抜いたお前たちのことを信じている」
祐一が小宇宙を萌やすと、融けはじめていた氷が元に戻っていく。
「ラブスパナー!」
そんな祐一めがけ、ガンマ星フェクダの芳野祐介がスパナを投げる。
「ネビュラストール!」
咄嗟に栞がスパナを止めようとするが、その勢いは止まらずに祐一めがけて突き進んでいく。
「あっ!」
命中すると思われた刹那、祐一の小宇宙がスパナをはじき返す。
「自慢のスパナが通用しないとはな……。流石は祐一といっておくか……」
祐介は妙に格好つけている。
「日が沈むまでに、公子さんの指輪をはずさないと。行こう、名雪さん、栞ちゃん」
あゆの声に二人は小さくうなずく。
「真琴ちゃんは舞さんが来るまで、祐一くんとふぅちゃんをお願いね」
「うん、任せて」
真琴が大きくうなずいたのを見て、三人は揃って走り出した。
たった一つしかない生命をかけるものもいる。その生命を守るために自らの生命を盾にするものもいる。
様々な人間模様が交錯する。
公子をはじめとした神闘士たちはすでに姿を消していた。どうやら高みの見物としゃれ込むつもりらしい。
「舞さんはまだ佐祐理さんのところなの?」と名雪。
「うん、香里さんもどこかに行っちゃったし」とあゆ。
「お姉ちゃんは必ず来てくれます」と栞。
三者三様の想いを胸に、あゆたちは神闘士たちを追って、アスガルドの大地の奥深くへと進んだ。
あゆたちは日没までに祐一を救うため、公子のいるヴァルハラ宮への道を急いでいた。
途中までは道もあり、それなりに進みやすかったのだが、風雪に閉ざされ、道を見失ってしまう。
そう簡単に、公子の元には行けないということだ。
「みなさん、あれを!」
栞が指差したその先から、二つの竜巻が迫ってくる。
いや、よく見るとそれは激しく回転しながら迫り来る、二本のスパナだった。
スパナはあゆたちに襲いかかると、まるでブーメランのように戻っていく。見上げるとそこには、スパナを構えた一人の男が格好をつけて立っていた。
「うぐぅ、誰?」
「ガンマ星フェクダの芳野祐介。お前たちを、これ以上先には進ませない」
「そうはいきません。ネビュラストール!」
スパナを構える祐介の腕を、栞のネビュラストールが絡めとる。
「イチゴサンデー!」
すかさず名雪が祐介をクリームで固める。
「一気に駆け抜けるよ!」
あゆたちは祐介のわきを駆け抜けようとした。
「キグナスよ、お前が北の地で身につけたという凍気はこの程度か?」
「えっ?」
「忘れたのか? 俺たちがアスガルドの神闘士だということを。お前が固めたのはこの俺の薄皮一枚に過ぎないのさ」
祐介の小宇宙が高まり、名雪のクリームを砕いていく。そればかりかその余波は栞のストールを伝い、その身体を大地に叩きつけた。
「栞ちゃん!」
「……大丈夫です」
駆け寄ってきたあゆに、栞は微笑んでみせる。
恐るべき芳野祐介。いや、真に恐るべきはアスガルドの神闘士か。
アスガルドの地に足を踏み入れたばかりだというのに、こんなところで足止めされるわけにはいかない。ぐずぐずしていたら、祐一はおろか全世界の危機だ。
誰か一人でもいい。公子の元にたどり着き、一刻も早く指輪をはずさなくてはいけないのだ。
「よし、ここはボクに任せて二人は先に進んで」
「わかったよ、あゆちゃん」
「ヴァルハラ宮で会いましょう、あゆさん」
三人は一斉にうなずきあう。
「話し合いは終わったか? では、そろそろいくぞ。ラブスパナ!」
祐介はあゆたちめがけてスパナを投げつけてくる。
「タイヤキ流星拳!」
高速で回転しながら迫りくる二本のスパナを、あゆが流星拳でくいとめているうちに、名雪と栞が祐介のわきを駆け抜けていく。
祐介のスパナは流星拳の威力に押されたのか、その軌道を変える。
「やった、スパナを跳ね返した」
「それはどうかな?」
「えっ?」
あゆが跳ね返した、と思ったスパナは、そのまま名雪と栞に襲いかかる。
「うにゅぅ!」
「えぅっ!」
「名雪さんっ! 栞ちゃ〜んっ!」
「言ったはずだぞ、ここから先には行かせないと」
完全に作戦が読まれていた。あゆの流星拳がスパナを跳ね返したのではない。祐介ははじめから名雪と栞を狙ってスパナを投げていたのだ。
「今度はお前の番だぞ」
「くっ!」
祐介の投げるスパナを、あゆはかろうじてかわす。
「タイヤキ……」
「はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
あゆがタイヤキ流星拳を放とうとした刹那、祐介はものすごい勢いで走りよってくる。
「うけろっ! ガンマ星フェクダの祐介最大の拳。エレクトリックエンジニア!」
電光を伴う祐介の一撃で、あゆの身体は容易くはじき飛ばされてしまう。恐るべき剛拳だ。
「俺がスパナの使い手のみだと思っていたのか? アスガルドの神闘士を甘く見るな」
「どうやら祐介さんが聖闘士たちの相手をしているようですね」
「しかし、このアスガルドの凍てついた風に乗ってたどり着いてくるのは、聖闘士たちの悲鳴ばかりです」
ヴァルハラ宮にて公子は、智代と話していた。
「祐一さんもかわいそうに……。その祈りもなんの役にも立たないでしょうに」
くぐもったような公子の笑い声が、ヴァルハラ宮に響く。その姿を智代は、公子の前にひざまずきながら見つめていた。
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