第六話 幻惑、死の調べ
「祐介さん、有紀寧ちゃんに続いて渚ちゃんまで倒されてしまうなんて……」
ヴァルハラ宮殿にて、神闘士たちの小宇宙が消滅していくのを感じ、公子は忌々しげに口を開いた。
「ただし、聖闘士たちも無傷ではないでしょう。万に一つもここにたどり着くようなことは……」
その傍らに控えるドゥーベの智代が、重々しく口を開く。
それを聞いて公子は、満足そうに妖しげな微笑を浮かべるのだった。
あゆたちはそれぞれにヴァルハラ宮への道を急いでいた。だが、舞は有紀寧たちと共に倒れ、名雪もまた、歩みをはじめたばかりだ。
いずれも満身創痍、無傷なのは栞だけという状態だ。
「うぐぅ……」
その道の途中で、あゆはうめく。
「この聖衣じゃなかったら、今頃ボクの身体は……」
神闘士の攻撃で、ばらばらになっていたことだろう。あゆはこの聖衣を修復してくれた美汐と、生命力の源となる血を提供してくれた黄金聖闘士たちに感謝した。
あゆの聖衣には茜が。
「たい焼き、美味しかったです……」
舞の聖衣には佐祐理が。
「あはは〜、舞のためなら、佐祐理はがんばっちゃいますよ〜」
名雪の聖衣には真希が。
「ま、仕方ないわね」
栞の聖衣にはみさきが。
「声が雪ちゃんにそっくりな人の妹だし」
それぞれ血を提供してくれたのだ。
それは黄金聖闘士たちが、あゆたちを真の聖闘士として認めた証。その想いに応えるためにも、あゆはこんなところでくじけるわけにはいかないのだ。
そのころ栞は舞の小宇宙が感じられないことや、あゆや名雪の小宇宙が著しく弱まっていることに心を痛めていた。
十二宮の戦いが終わったばかりだというのに、再びはじまるこの戦い。終わり無き戦いの連鎖、そこに流される血の多さに、栞は深いため息をついた。
邪悪を倒す、それは栞にもわかっている。
そんなことを考えていると、不意に栞は不思議な音色を耳にした。
んぎいぃいぃいぃいぃっ!
音楽と呼ぶには、見事なまでの不協和音。例えるならそれは、たんすの角に小指をぶつけたゴジラの悲鳴のような……。
とにかく形容しがたい音色、と言うよりもすでに音色ではなく、のこぎりを挽いているとでも言うか……。
あえて表現するなら、ガラスを引っかく音と、黒板を引っかく音と、フォークで食器を引っかく音が程よくブレンドされたような音色だった。
「私の音楽……。気に入ってくれた?」
そこに、一人の少女が姿を現した。
「こんにちは、はじめまして」
ガラス細工を扱うよりも丁寧にヴァイオリンを構えた少女が、ペコリとお辞儀をする。
「私、エータ星ヴェネトナーシュの神闘士、一ノ瀬ことみ。ひらがな三つでことみ。呼ぶときはことみちゃん」
「ことみちゃん?」
栞がそう呼ぶと、ことみは嬉しそうに微笑んだ。
「あなたは戦いを好む人ではないみたいなの。でも、その優しさは、いずれ自分の首を絞めることになると思うの」
「私には祐一さんを守り、この地上に平和をもたらすという使命があります。あなたが邪魔をするというのなら、戦うまでです」
栞はことみに向かってネビュラストールを放つが、何故か途中でストールは攻撃をやめてしまう。栞のストールは相手の殺気に敏感に反応することで、優れた攻撃力を誇る。
ところが、ことみからはまるで殺気というものを感じない。言うなればそれは、深い悲しみをたたえているような小宇宙だ。
「あなたに私は倒せないの。だからこれ以上の戦いは無意味なの」
ことみの手がゆっくりと動く。だが、その凄まじい拳圧はまるで光速。凄まじい威力で栞を圧倒した。
「守って、ストール!」
栞のストールがその身体に巻きつくようにして防御体制をとる。これなら例え光速の動きでも防御できるはず。だが、ことみの拳の前には、その防御すら通用しなかった。その凄まじいまでの拳圧により、栞の身体は防御の上からはじき飛ばされてしまう。
「まだ、わからないの?」
「あなたのいうとおり、私は戦いを望んでいるわけではありません……」
栞は立ち上がりながらも口を開く。
「でも、十二宮での戦いのように、私には戦うしかないんです。正直言って、私はあなたを敵として憎めません。なぜかあなたも私と同じように、心のそこから戦いを望んでいるようには見えないからです」
それをことみは、不思議なものを見るような瞳で見ていた。
「だからと言って、私に躊躇している時間は無いんです。どうしてもあなたが私の行く手を塞ぐというのなら、戦うしかありません」
栞はことみに向かってネビュラストールを放つ。だが、ヴァイオリンを奏ではじめたことみの姿は、栞の目の前でかき消すように消えた。
ぎょいぃいぃ〜ぃ〜。ぐぎゅいぃ〜〜ぃ。
すでに怪音波となったヴァイオリンの音色があたりに満ちたとき、栞の目にことみの姿は何人にも分身しているように見えた。これは光速の動きを持つものが行う幻惑。
「これは……」
「あなたのストールでは、私をとらえることなんて出来ないの」
本当に敵を憎まずに倒すことなんて出来るのだろうか? もしそんなことが出来るとしたら、それは実力に数段の差がある場合だろう。
「とらえて見せます。ネビュラストール!」
耳の奥がキーンとなるような不協和音の中で、栞のストールが次々にことみの分身を消していく。やがてストールは、ことみの身体に絡みついた。
「捕まえましたよ」
「もう一度言うの。あなたでは私は倒せないの」
とらえたと思ったことみは、実は石柱だった。
瞬時に栞の背後に回りこんでいたことみは、容赦なく光速拳を叩き込む。
「どうして、そうまでして戦うの?」
「祐一さんを守り……。この地上を守るためです」
それが聖闘士の務め、栞は即答した。
「本当にこの地上を守れると思っているの? ううん、この地上がそれほどまでして守る価値があると思っているの?」
「えっ……?」
「あなたの言う邪悪や、戦いの無い平和な世界が来ると思っているの?」
聞かせて欲しいの、とことみは真剣な瞳で栞を見つめた。
その姿に栞は、ことみが今までの敵とは違うということを感じていた。まるで自分の心を見透かされでもしているかのように。
「あなたたちは十二宮の戦いで、多くの相手を傷つけて、そして自分たちも傷ついたの。それで得たものはなんなの? 新たなる戦いなんじゃないの?」
その言葉に栞は言葉を失ってしまう。
例え正義の名の下のことであっても、人を傷つけていいというものではない。
現実に多くの人を傷つけてきたのは、当の栞なのだ。
どうすればいいの、と栞は自問する。戦いが終わっても、新たなる戦いがはじまるだけ。終わらない戦いの連鎖に、栞はうちひしがれていく。
(あゆさん、舞さん、名雪さん、祐一さん……)
救いを求めるように、栞は呼びかける。しかし、誰からも答えは無い。
「あなたが戦いを終えるとき、それはあなたが死んだときなの……」
栞に引導を渡すべく、ことみは拳を構える。そのとき、暖かい小宇宙があたりを満たした。
(栞……。そんな答えなんて無いのよ……)
「お姉ちゃん?」
(あたしたちは、未来を信じるしかないわ。それは確かに辛いことかもしれない。でもね、それもあきらめてしまったら、あたしたちになにが残るっていうの? なんのためにこの地上に生まれてきたというの? あたしは信じてるわ、あたしたちの戦いは無駄にはならないって。だけどあきらめてしまえば、そこで全てが終わってしまうのよ。さあ立って、栞……)
それは香里の小宇宙。姉らしいことがなにひとつ出来なかった香里の心からの言葉だった。
「アンドロメダ……」
「正直私にも良くわかりません……」
先ほどまでうちひしがれ、大地に倒れかけていた栞の身体が、新たなる乙女小宇宙を萌やして立ち上がる。
「でも私は……お姉ちゃんが信じているものを信じたいんです。そのためにもあなたを倒します」
「お姉ちゃんですか……」
甘いです、とことみは小さく呟いた。
「そんなあなたが聖闘士なんて……」
再びあたりをヴァイオリンの音色が満たす。
ぎごぎごぎぃ〜。ぎょおぉおぉ〜ん。
だが、今度は栞も負けてはいない、相手が光速の動きを持つというなら、こちらもストールの速さを光速にまで高めるだけ。
「行け、ストール!」
だが、栞のストールはことみの身体を突きぬけていく。そして、演奏の合間に放たれることみの光速拳は、容赦なく栞に襲いかかるのだった。
それでも栞はストールを放ち続ける。だが、ことみから殺気が感じられないために、ことみの分身を消していくのが精一杯だ。
何度同じことを繰りかえしただろうか、栞の顔に疲労の色が濃くなっていく。それとは対照的に、ことみの表情は涼しいままだ。
やはり栞のストールでは、ことみの動きについていけないのだろうか。それとも、殺気を感じない相手にはストールが反応しないのか。
しかし、これだけ強力な光速拳を放てることみから、殺気を感じないということはありえない。
先ほどからことみは、恍惚とした表情でヴァイオリンを奏でているだけだ。その不協和音は栞の神経を苛立たせ、集中を阻害する。
(もしかしたら……)
栞はことみのヴァイオリンを聞くのをやめ、全神経を目とストールに集中した。
やがてそこに日が差していく。
「まだ懲りませんか?」
「本物のあなたはそこです。行けっ! サンダーストール!」
地面に落ちた影がなによりの証拠。今度こそ栞のストールはことみの身体をとらえる。
ことみは光速の動きで幻惑していたのではなく、ヴァイオリンの不協和音で栞の神経を幻惑していたのだ。
今まで幾たびもことみの光速拳を受け、意識が朦朧となったことで音が遠のき、そのことが栞に答えをもたらしたのだ。
「あなたのヴァイオリンさえ聴かなければ、私のストールは本来の威力を発揮します」
「よく見破ったの」
だが、栞のストールはことみの身体から離れてしまう。どうやらことみに殺気が無いというのは、本当のことのようだ。
(まさか……)
思うところがあるのか、栞は自分の聖衣を脱ぎ捨てていく。ことみはヴァイオリンを顎からはずすと、不思議なものを見るようにその光景を眺めていた。
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