第七話 旧友、凍てついた憎悪
「あれ? 香里、どこに行くの?」
「ポセイドン神殿よ」
「え?」
意外な香里の言葉に、目を丸くする真琴。
「それって、抜け駆けするって事?」
あまりにも無邪気な真琴の台詞に、内心戦慄する香里。
うっすらとだが、香里の後頭部に涙滴形のマークが見える。
「そ……そんな事、ないわよ」
なんとか笑顔を向けるものの、それは妙にひきつっていた。
「あたしには、ちまちまと柱を壊してくってのが性に合わないのよ。このまま一気にポセイドンの首を上げてやるわ」
「ええ? でもぉ……」
真琴はあたりを見渡す。リュムナデスとの闘いで傷ついたあゆ、名雪、栞の三人はまだ倒れたままだ。
「あゆ達はどうするの?」
「放っておきなさい」
香里の冷たい言葉に、真琴は息を飲み込んだ。
「ここは戦場よ。たとえ相手が自分の最愛の人間であっても、戦場で油断するほうが悪いのよ」
自分の甘さが死を招く。いわばあゆ達は聖闘士として失格なのだ。
「でも、手当てをすれば助かるかもしれないのに」
「それなら、血止めの急所の真央点をついておいたわ。このまま死んでしまうか、それとも再び立ち上がるかは、名雪達の小宇宙次第よ」
「……そうだよ……」
そのとき、息も絶え絶えという状態ながらも、名雪が立ち上がった。
「名雪っ!」
「みんな自分の甘さから出た事なんだよ。だから香里、これ以上わたし達にかまわないで、先に行って……」
「言われなくても、そうするわ」
名雪に背を向けたまま、香里は足早にその場を去る。
「いい? 一人の海将軍も倒せないようなら、そのキグナスが泣くわよ。名雪」
(ありがとう、香里)
名雪の目から大粒の涙が溢れ出す。
(敗残者のわたしを見ないように、背を向けて行ってくれた……。やっぱり香里はわたしの親友だよ)
名雪の涙が大地を濡らす。
(やっぱりわたし、聖闘士失格なのかな……)
あの十二宮の闘いで、名雪は一体なにを学んだというのか。秋子との死闘で、なにを得たというのか。
目的のためなら相手が誰であれ、非情に徹して打ち倒さなければならないという事ではなかったか。
「くっ」
涙をぬぐい、立ち上がる名雪。
「どこ行くの? 名雪」
「次の北氷洋の柱だよ。あゆちゃんと栞ちゃんの事はお願いね、真琴」
「あ、ちょっと。名雪〜」
真琴の制止を振り切るようにして、名雪は次の柱を目指して走る。
(馬鹿だ、わたし……)
走りながら、名雪は大粒の涙をあふれさせた。
(祐一がわたしに振り向いてくれるなんて、あるはずがないのに……)
やがて、北氷洋の柱に辿りついた名雪を出迎えたのは、以前にも感じた事のある凍気だった。
「ひさしぶりね、名雪」
名雪の前に、立派な鱗衣を纏った少女が姿を現す。
「そのキグナスの聖衣、よく似合っているわよ」
「え……? あなたは?」
「あたしの事、忘れたかしら?」
そう言って少女は鱗衣のマスクをはずす。その下から現れたのは、名雪の良く知る人物だった。
「雪見さん……」
彼女の名前は深山雪見。かつては名雪と一緒に秋子の下で、聖闘士になるための修行を受けていた仲だ。
どちらかといえばポケポケのほほんとした名雪とは対照的に、雪見はしっかりした性格で面倒見がよく、頼れるお姉さんという感じだった。
本当なら、雪見がこのキグナスの聖衣を纏っているはずであった。それがなぜ、海闘士になっているのか。
「雪見さん。どうして……」
「それはね……」
返事の代わりに雪見は、いきなり名雪を蹴り飛ばした。
「戦場でなにを寝ぼけているの? 名雪。あなたの目の前にいるのは、北氷洋の柱を守る海将軍なのよ」
実のところ雪見は、キグナスの聖衣をどちらに渡すかを決める間際に姿を消した。その結果名雪にキグナスの聖衣が渡されたのだ。
「いい? 名雪。この地上はもうどうしようもなく汚れてしまっているの。だから、ポセイドン様のお力で浄化し、もう一度新しく創り直す必要があるのよ」
「そんな……」
雪見の言葉に、名雪は愕然とした。この地上の平和を守るのが聖闘士の使命。そして、雪見は誰よりも強く、この地上の平和を欲していたはずだった。
雪見には目の不自由な親友がいる。そんなハンデを背負った人でも、明るく生きていける世界を守る。それが雪見の願いなのだと、以前名雪は聞いた事がある。
「そんなの違う……。そんなの間違ってるよ」
「問答無用よ。死になさい、名雪」
雪見から放たれる圧倒的なまでの凍気により、名雪の身体はあっさりと弾き飛ばされてしまう。修行時代とは比べ物にならない雪見の実力に、名雪は戦慄した。
(……でも)
名雪はゆっくりと立ち上がると、静かに雪見を見る。
「そんな汚れた小宇宙で、わたしは倒せないよ」
「なんですって? あたしの小宇宙が汚れている?」
名雪は静かにうなずいた。
「ポセイドンの邪悪な野望に加担する今の雪見さんでは、祐一の聖闘士であるわたしを殺せないよ」
「なにを言い出すかと思えば……」
雪見は鼻先で軽く笑い飛ばした。
「好きな男の気を引くためだけに、聖闘士になったあなたに言われたくないわね」
雪見にしてみれば、名雪もこの地上の平和を守るために聖闘士になるのだと信じていた。ところが、名雪はアテナの使命に目覚めた祐一の気を引くためだけに聖闘士になるのだという。
それを知った雪見は怒った。そんな甘い考えではいつか死ぬ事になると。
「確かに、海界はアテナを守る聖闘士にとっては禁断の地とも言える場所よ。でも、名雪。キグナスの聖衣を手に入れたあなたはなにをしたの?」
「それは……」
「地上では愚かにも聖闘士同士が争い、傷つけあった。そんなあなた達に地上を守る資格なんて無いわ。だからあたしは、ポセイドン様に忠誠を誓ったのよ」
割といい男で好みだったし、というのは言わないでおく雪見であった。
「待って、雪見さん。わたしの話を聞いて」
「今さら生命ごいかしら?」
雪見の小宇宙が高まりを見せる。
「いくわよ。これがクラーケンの深山雪見最大の拳!」
雪見の背後に凄まじく巨大なエイの姿と、ジャムの瓶が浮かび上がる。
「謎ジャムボレアリス!」
「うにゅぅぅ〜っ!」
ほとんど抵抗らしい抵抗も見せないまま、名雪は謎ジャムボレアリスの餌食となった。大地に倒れ伏す名雪の姿を見たとき、雪見の心にはかつて秋子と交わした会話が思い出されていた。
「名雪が聖闘士に向いていないですって?」
静かにうなずく秋子の姿に、雪見は自分の耳を疑った。ここ数年間の修行の過程で、名雪の持つ小宇宙は飛躍的な高まりを見せている。それは下手をすれば雪見の小宇宙をも上回るだろう。
みずがめ座の黄金聖闘士である秋子の指導の賜物か、あるいは彼女自身の才能によるものかは定かではないが、このまま成長していけばとてつもなく強い聖闘士になれるはず。それなのになぜ秋子はそう判断するのか。
「あの子は、優しすぎるんです……」
「あ……」
一度聖闘士となったなら、この地上の平和を守るために闘わなくてはいけない。そして、そのためには相手が誰であれ、倒せるだけの非情さを身につけなくてはならない。
だが、名雪の優しすぎる性格は普通の女の子ならまだしも、聖闘士には不向きなものだ。少なくとも名雪に、クールに徹して敵をうつなどという事は不可能だろう。
それがわかるだけに、雪見には秋子の苦悩が手に取るようにわかった。
(でも、名雪。あなたは本当にそれでいいのかしら?)
静かに大地に横たわる名雪を感慨深げに眺めていると、不意に大きな声が響いた。
「ああっ! 名雪」
それは、てんびん座の聖衣を背負った真琴だった。
「あなたね、てんびん座の聖衣を運んでいるのは」
雪見はゆっくりと真琴に向き直る。
「丁度いいわ。二度と柱を破壊できないように、あたしが聖衣を粉々にしてあげる。さあ、その箱をこっちに渡しなさい」
「やだっ! これは大事なものなんだから、誰があんたなんかに」
「おとなしく渡さないと、痛い目を見る事になるわよ?」
「言っとくけど、名雪がやられたのは首に怪我してたからよ。そうじゃなかったら、あんたなんかにやられるはずないもんっ!」
真琴のまわりに大量の肉まんが浮かび上がる。
「その程度の念動力で、なにが出来るっていうの?」
雪見の小宇宙により、まわりに浮かんだ肉まんが一斉に真琴に向かって飛んでくる。
「あう〜っ!」
自分の生み出した肉まんに、埋め尽くされてしまう真琴。
「自分で仕掛けた技でやられちゃ、世話ないわね」
てんびん座の聖衣を引っ張り上げようとする雪見ではあるが、真琴の小さな手はしっかりと箱を掴んで放さない。
「手を放しなさい」
「やだ。殺されたって放さないんだから」
雪見は容赦なく真琴を蹴り飛ばす。それでも真琴は聖衣の箱にしがみつき、決して放そうとしない。
「みんなが生命がけで闘ってるのに、真琴だけ生命ごいなんてしたら、美汐に怒られる。真琴だって正義と平和を守る、祐一の聖闘士になるんだから」
「あらそう。だったらあの世でみんなにほめてもらいなさい」
真琴に最後の一撃をくわえようとした雪見ではあるが、不意に雄大な小宇宙を感じて動きを止めた。
雪見の背後に優しく、慈愛に満ちた小宇宙が立ちのぼっている。
「名雪……あなた……」
名雪はゆっくりと真琴に向かって歩を運ぶと、優しくその身体を抱き起こした。
「名雪……」
その腕の中で、真琴は苦痛に耐えながらも精一杯の笑顔を見せる。
「真琴ね……放さなかったよ。てんびん座の箱……放さなかったよ……」
「うん、わかってる」
名雪も、真琴に向かって優しく微笑みかけた。
「真琴にはまだ次の柱に聖衣を運んでもらわなくちゃいけないんだから、今はゆっくり休んでいて。わたしがあの人を倒すまでね……」
名雪は真琴の身体をそっと横たえると、ゆっくりと雪見に向き直った。
「今あたしを倒すとか言ってたけど、本気?」
名雪は静かにうなずいた。
「雪見さんには色々とお世話になったし、感謝もしてるけど、やっぱりそんな個人的な事で地上を崩壊させるわけにはいかないよ」
名雪の小宇宙が高まりを見せる。
「罪もない多くの人達のために、わたしは聖闘士として雪見さんを倒すよ」
「出来るの? あなたに」
「やるよ。お母さんが教えてくれたみたいに」
凄まじいまでの凍気が、名雪の身体から溢れ出す。考えてみれば、昔から名雪はそうだった。自分の身体が傷つく事は厭わないくせに、他の誰かが傷ついてしまう事を恐れるのだ。
そして、そんなときの名雪は他の誰をも凌駕する、凄まじいまでの力を発揮する。
むしろ雪見にとってはこの方が好都合だ。これで心置きなく名雪を始末できると言うもの。今が勝負のときだ。
「いくよっ! 雪見さん。これがわたしの拳っ!」
名雪の凍気によって生みだされたクリームが、雪見に襲いかかる。
「イチゴサンデー!」
「きゃぁぁぁっ!」
イチゴの甘酸っぱさとクリームの甘さが見事なまでに調和したイチゴサンデーが、雪見の身体を弾き飛ばす。
「くっ……半死半生の名雪のどこに、こんな力が……」
そのとき雪見は、名雪から不思議なオーラを感じた。
「そんな……あれは、秋子さん?」
名雪とかつての師である秋子の姿が重なって見える。確かに二人は親子なのだから、似て見えるのも当然なのだが。
「十二宮の闘いで、お母さんはわたしにすべてを託してくれた。だからこれは、お母さんの拳でもあるんだよ」
とはいえ、やはりこれは名雪の拳だろう。どんなに凄くても、雪見に致命傷を与えるようなものではないからだ。
そして、そこに雪見の勝機がある。
「今度こそ死になさい。謎ジャムボレアリス!」
「くっ」
だが、名雪は一歩も引かずにその威力を受け止めた。そればかりか、名雪の聖衣は黄金色に光り輝いている。
「十二宮の闘いで死に絶えたこの聖衣は、黄金聖闘士の黄金の血によって蘇っているんだよ」
「そういう事ね。だから謎ジャムボレアリスの衝撃にも耐える事が出来た……」
しかし、名雪の首筋から激しく血が噴き出した。謎ジャムボレアリスの衝撃により、リュムナデスにやられた傷が開いてしまったのだ。
いくら聖衣が限りなく黄金聖衣に近づいたとはいえ、その下にあるのは生身の身体。このままでは、出血多量によって、間違いなく名雪は死ぬ。
「雪見さんの言うとおり、わたしは甘いのかもしれない。だから、もう一度だけお願いするよ……」
真剣な瞳を雪見に向ける名雪。
「目を覚まして雪見さん。ポセイドンの野望のせいで、地上の罪無き多くの人達が死に絶えようとしてるんだよ。雪見さんの拳は、正義のために使うべきじゃないの?」
「今のあなたが、そんな事を言える状態だと思ってるの? このまま黙って立っていても、いずれあなたは死ぬのよ?」
名雪の説得にも、雪見は耳を貸す様子は無い。
「それに次の謎ジャムボレアリスの衝撃は、確実にあなたを殺すわ」
やっぱり、闘わないといけないんだね。そう思った名雪は静かに凍気を高め、組んだ両腕を天空高く伸ばし、両脚を大きく左右に広げた独特のポーズをとる。
そう。それはみずがめ座の秋子最大の拳、謎ジャムエクスキューションの構え。
「そんな借り物の拳でなにが、謎ジャムボレアリス!」
そのとき、名雪の心に様々な想いが去来した。
雪見と過ごした修行時代。あゆ達と過ごした闘いの日々。そして、秋子と過ごした幸せな日々。
名雪はそれらすべての想いを結集させ、この地上の平和を守るために拳を振るう。
「ごめんなさい、雪見さん……」
名雪の頬を、一筋の涙が伝う。
「謎ジャムエクスキューション!」
組み合わされた名雪の両腕から、オレンジ色に輝くゲル状の物質が滔々と溢れ出る。その威力は雪見の謎ジャムボレアリスを押し戻し、そのまま一気に雪見の身体を弾き飛ばす。
「雪見さん……」
「それでいいのよ、名雪……」
激しく大地に叩きつけられ、今まさに力尽きようとするそのとき、雪見は精一杯の笑顔で名雪を見ていた。
「これでやっと、敵に対してクールになれたわね。さあ、早くあの柱を……」
雪見に促され、てんびん座のスプーンを構えた名雪は柱に相対する。そして、裂帛の気合と共に、柱を打ち砕いた。
「名雪……最後に一つだけ忠告しておくわ……」
「しっかりして、雪見さん」
名雪は雪見の身体を支えた。
「一番恐ろしいのは、ポセイドン様じゃないの……。この戦いを目論んだのは……あなた達もよく知っている、あの……」
衝撃の事実が名雪の耳朶を打つ。
「そんな……それじゃこの闘いは……」
雪見の言う事が真実であるなら、これはまさしく名雪達聖闘士を抹殺するための目論見。
早くこの事実をあゆや香里に伝えなければと思う名雪ではあるが、傷口から溢れる出血のため、次第に意識が遠くなっていった。
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