週末
香里の事情
「悪いな、香里。突然呼び出したりして……」
「別にいいわよ。気にしないで」
お昼休みにみんなでお弁当を食べた後、あたしは相沢くんに呼び出されて屋上に来ていた。
春が来たといっても学校を囲む山から吹き降ろしてくる風はまだ冷たく、春の日差しで温かいはずの空気を遠くに飛ばしてしまっていた。
この街では珍しくもない春の風景の中で、あたしは悪戯な風に乱れる髪を右手で押さえ、気を抜くと巻き上げられてしまいそうなスカートを左手で必死に押さえていた。
「……まじめな話なんだ」
そう言うと相沢くんは、真剣な表情であたしの顔を見た。こういう相沢くんの顔も悪くないわね。
「実はな、香里。俺のために、飯を作って欲しいんだ」
「ええっ?」
その言葉を聞いて、あたしは動揺した。だってそれって……。
「香里の作った味噌汁が飲みたいんだ」
「で……でも、あたし……」
突然そんな事言われても、あたしにだって心の準備っていう物が……。それは確かに、相沢くんの事は……嫌いじゃないけど……。
でも、こういう事ってもう少し、それなりの準備期間をおくもので……。やだ、あたしったらなに考えてるのよ。
「ついでにパンツを洗ってくれるとありがたい」
あ……目が笑ってる……。
絶対相沢くんって隠し事できないわね……。
「詳しい話を聞かせてもらえるかしら?」
「イエス、マム!」
あたしはにっこり微笑んだはずなのに、相沢くんったらどうしてそんなにおびえているのかしら?
でも、こういう相沢くんの顔ってそそるわね。
「ああ、実はな……」
相沢くんの話によると、明日からの週末に秋子さんが所用で出かけてしまうため、今晩からその間にかけて水瀬家では家事をするものがいなくなってしまうとの事だった。秋子さんは朝早くに家をでてしまったために、夕食の支度も出来なかったのだそうだ。
「まあ、その間は店屋物でも食べててください、って秋子さんは言ってたけどな……」
「名雪はどうしたのよ? あの子なら大丈夫でしょ?」
「あいつは陸上部の強化合宿だ」
言われてみればその通り。あたしも今朝方その話を聞いたばかりだったのをすっかり忘れていた。相沢くんは最後の大会に向けてがんばっている名雪を応援したいらしく、余計な気を使わせたくないようだった。
名雪ってば愛されてるじゃない。
「でも、今相沢くんのところにはあゆちゃんとか、真琴ちゃんとかいるんでしょ? あの子達はどうしたのよ」
「あいつらに家事をやらせるくらいなら、インスタントでも食べてたほうがましだ」
ひどい言われようだけど、あたしもその意見には賛成だわ。別に料理の上手い下手とかじゃなくて、なんとなく不安なだけなんだけど……。
「まあ、俺一人だったらインスタントとかで何とかするけど、あいつらが一緒じゃな……」
「どういうこと?」
「俺もそうだけど、あゆとか真琴は家族が揃ってご飯を食べるって言うのに憧れてるところがあるんだよ。特にあいつらは一人だったときが長いからな……。せっかくの楽しい時間が店屋物だと、なんとなく寂しい気がするだろ?」
「そうね」
それにはあたしも同意見だわ。お昼にみんなでお弁当を食べているときもずっとそうだったし。
「俺が作ってもいいんだが……。俺だと焼きそばか、焼きライスぐらいしか作れないからな」
焼きそばはわかるんだけど、焼きライスって言うのはなに?
「だから……悪いとは思うんだが、香里に飯を作りに来て欲しいんだ」
「なるほどね」
やっとあたしは納得がいった。
「でも、あたしでいいの? こういう事は佐祐理さんとかの方が適任なんじゃないかしら?」
「俺も最初はそう思ったけどな……」
そう言って相沢くんは言いにくそうに頬を指で掻いた。
「佐祐理さん達は卒業したけど、大学ってなにかと忙しいだろ? だから余計に頼みにくくてさ……」
相沢くんはそう言うけど、あの人達は相沢くんのためにがんばってくれると思うわよ。
「天野とか栞とかも考えたんだけど、流石に下級生にこんな事は頼めないし、特に栞は病み上がりだろ?」
「それであたしってわけ?」
「ああ、そうなんだ。こういう事を気軽に頼めるのは、香里しかいないって思ったからさ……」
そう言うと相沢くんはそっぽを向いた。多分照れているのね、頬が赤いわ。
「わかったわ。今晩から相沢くんのところにご飯を作りに行ってあげる」
「サンキュー、香里。助かったよ」
「おおげさよ、それより放課後はお買い物に付き合ってね。」
「ああ、荷物もちだな」
それであたし達は教室へ帰った。先を歩く相沢くんの背中を眺めつつ、あたしは楽しい週末になりそうな予感に胸をときめかせていた。
栞の事情
「これは、由々しき事態です! 美汐さん」
午後のHRも終わり放課後となった教室に突然栞さんが現れ、私の机に小さな手のひらを勢いよく叩きつけました。それはいいのですがもう一度一年生の栞さんが、二年生である私の教室に入り浸っているというのは問題があるように思います。
「これは天が私達に与えたもうた、千載一遇のチャンスなのです!」
それはお昼休みが終わった後の事です。いつになく暗い表情だった名雪さん達から、私達は事情を聞く事が出来ました。
それによると明日からの週末に秋子さんが所用で出かけてしまい、名雪さんが陸上部の合宿で家を空けてしまうため、その間に家事をする人がいないのだそうです。
「今こそ私達が祐一さんに対して自分達の優位性をアピールするときなのです!」
それはいいですが、祐一さんはもう名雪さんを選んでいるはずですけど。
そんな私の思いも知らず、栞さんの演説はとどまることなくヒートアップしていきます。栞さんが小さな体を精一杯使い、手足を振り回して演説する姿は、昔どこかで見た記憶があります。
そう、あの人です。アドルフ=ヒトラー。
いつの間にか栞さんの話はロリやぷに萌え、育ちきっていない青い姿態の素晴らしさについての内容になっていきました。教室内をそっと見回して見ますと、同じクラスの男子生徒が何故か栞さんの話で歓喜の涙を流しているところが見えました。
私は話に夢中になっている栞さんを残し、そっと教室を後にしました。
「えう、私を置いて帰っちゃうなんてひどいです。美汐さん」
昇降口へ向かっていると、後ろから栞さんがものすごい勢いで走ってきました。
「どうやら私には関係のない話みたいでしたので」
「そんな事言う人嫌いです。私達は志を同じくするもの、いわば同志じゃないですか」
私には教室で大きな声を出して騒ぐ同志はいません。そんな事を考えていると、昇降口のところに相沢さんがいるのを見つけました。
「相沢さん……」
……運命ですね。
「あ、本当です」
栞さんが相沢さんに声をかけようとしたそのときでした。そこに美坂先輩が現れ、相沢さんと腕を組んで帰っていきました。
「ふふふ……」
「栞……さん……」
隣を見ると、栞さんが鬼気迫る表情で笑っています。
「……そういう事だったんですね……」
地獄のそこから響くような声音で、栞さんは呟きます。
「お姉ちゃんの分際で、この機に乗じて抜け駆けしようと言うのですね……」
栞さんは素敵な笑顔を見せています。それはもう怖いくらいに。
「それじゃ行きましょうか美汐さん。お姉ちゃんに正義の鉄槌を下すために……」
「……はい」
これはもう私が何を言っても無駄ですね。今の栞さんの笑顔の向こう側には何があるのでしょうか。
とにかく、真琴に被害が及ばないようにしないといけませんね。
佐祐理の事情
「あははー♪」
佐祐理が壊れた。どうしよう……。
今日は私が食事当番の日だから、お夕飯のお買い物をするために佐祐理と一緒に商店街に来た。
そこで私たちは祐一と香里に出会った。これは別に珍しい事ではない。
ただ、珍しいのは二人が腕を組んで歩いていた事だけ。
「あははー♪」
それを見たとたん佐祐理が壊れた。帰りたい……。
でも、私は今佐祐理にしっかり腕をつかまれ、物陰に隠れている。
……逃げられない。
……どうしよう。
「あっはっはー♪」
佐祐理の声につられて見てみると、祐一が大きめの買い物袋を持って、香里と一緒に歩いていた。
「ねえ舞……」
佐祐理は笑顔で聞いてくる。いつもなら私を温かい気持ちにさせてくれる笑顔。でも、今はその笑顔が怖い……。
「今の見て、許せる? 許せないよね、舞……」
佐祐理は笑顔で私の体を揺さぶる。そうなると私はただうなずくしか出来ない。
「そうだよね、舞もやっぱりそう思うよね?」
佐祐理はなおも私の体を揺さぶる。だから今の私はうなずく事しか出来ない。
「祐一さんにまとわりつく毒婦を退治するときだよね、舞」
うなずく事しか……。
「さあ、行きましょうか。舞……」
ようやく揺さぶるのをやめてくれた佐祐理は、素敵な笑顔でそう言った。
私は……。
剣を捨てた私は弱いから……。
だからどうする事も出来ない……。
……誰か助けて……。
水瀬家の事情
はっきり言って、俺は後悔していた。
まあ、香里に頼むのが無難かな、と思ったのは事実だ。
それが何故このような事態になっているのだろうか?
「うぐぅ……」
「あう〜……」
キッチンから漂ってくる怪しげな気に、あゆと真琴は心底おびえまくり、俺から離れようとしない。
あゆは俺の右腕にすがりついたまま小刻みに震え、真琴は真琴で俺の左腕にしがみついたまま顔を上げようともしなかった。
二人とも妙に鋭いところがあるから、無理もないのかもしれない。
この怪しげな気の発生源は、先程からキッチンで睨み合っている佐祐理さん、香里、栞の三人である。いつもだったらさゆりん、かおりん、しおりんのトリオなんだが、何故か三人は鋭い殺気で三すくみを形成している。
「えう……」
いや、訂正。どうもこの状況は栞が不利のようだ。早いうちになんとかしなくちゃいけないのはわかっているんだが、俺達がいるリビングでは、舞と美汐が素知らぬ顔でのんびり茶をすすっていた。
「なあ……」
俺の呼びかけに舞が静かに顔を向けた。
「舞が佐祐理さんを連れてきたんだろ? なんとかならないのか?」
「祐一……」
「なんだ?」
「祐一はテレビが壊れたとき……どうする?」
変に的外れな質問だ。
「とりあえずぶん殴る」
「正解」
舞は深くうなずいた。
「佐祐理はテレビじゃないから……治せない」
そう言うと舞は、再び茶を楽しんだ。
逃げたなこの野郎……。
「そうだ天野、栞を連れてきたんだろ? だから……」
「それでしたら……」
不意に天野はカウントダウンを始めた。
「えうっ……」
天野のカウントがゼロになると同時に突然栞が倒れた。まあ、無理もないだろう、まともな神経の持ち主が長時間あそこにいられるわけがない。できれば俺も近づきたくはない。
だが、そう言う訳にもいかない。俺はあゆと真琴を引き離すと、意を決してキッチンに向かった。
「あ……あのさ、二人とも……」
「なに? 相沢くん」
「なんですか? 祐一さん」
二人の凍てつく眼光が俺を直撃する。あたかも目からビームが出るような感触に少しだけくじけそうになったが、俺は渾身の力を振り絞って口を開いた。
「佐祐理さん、悪いんだけど……」
俺の言葉に、佐祐理さんは『ふえっ』と目を見開いた。
「今日は俺、香里に頼んだんだ。だから、ちょっと遠慮してもらえないかな?」
俺がそう言うと佐祐理さんは、今にも泣きそうな表情でうつむいた。
「そのかわり、明日の夕食は佐祐理さんに頼んでいいかな? 香里もそれでいいだろ?」
「まあ……相沢くんがそう言うんだったら」
不承不承、と言う感じだったが、香里も納得してくれたようだ。
「それじゃ香里、後は頼んだ。佐祐理さんも香里を手伝ってあげてくれ」
こうして何とか丸く収める事に成功した俺はリビングへと戻った。
「祐一、すごかった」
「立派です、相沢さん」
舞と天野が出迎えてくれた。天野はいつの間にか気絶した栞を回収し、介抱していた。
「博愛主義者の処世術、お見事でした」
「ありがとう、天野……」
ちなみに俺が香里達をなだめている間中、あゆと真琴は抱き合って震えていた。
そして、楽しい夕食となったのだが、栞の事をすっかり忘れていたために、後で俺は文句を言われる事となった。
そこで栞には明日の昼食を頼む事となった。
名雪の事情
今日は名雪が合宿から帰ってくる日。いろいろあったけど、過ぎ去ってみればあたしにとっては楽しい時間だった。
栞の超豪華お昼ごはんに、佐祐理さんの高級料理並みの夕食、どれをとっても得がたい経験だったと思うわ。
おかげであたしの料理の腕も上がったみたいだし。
でも、相沢くんにはちょっと辛い週末だったみたいだから、そこのあたりはちょっと反省しなくちゃいけないわね。
「ただいま〜♪」
そんな事を考えていると、玄関から元気な声が響いてくる。どうやらこれで、あたしもお役ごめんみたいね。
「うぐぅ、名雪さ〜ん」
「あう〜、名雪〜」
あゆちゃんと真琴ちゃんが揃って名雪を出迎えに行き、その後を相沢くんが面倒臭そうについていった。あたしもエプロンをはずして名雪を迎えた。
あたしの姿を見た名雪の笑顔が少しひきつっていたけど、あゆちゃんや真琴ちゃんの手前、表に出せないみたい。
「うぐぅ、祐一くんが……祐一くんが……」
「真琴ね、とっても怖かったの……」
二人が名雪の胸にすがり付いて泣き始めると、次第にあたりに妙な気が立ち込め始めた。どうやら引き上げ時みたい……。
「それじゃ相沢くん、あたしはそろそろ帰るわね」
帰り支度を始めたあたしを、相沢くんは雨にぬれた子犬のような瞳で見つめていた。
「楽しかったわ。またね、相沢くん」
そう言ってあたしは一目散に家に逃げ帰った。玄関を出るとき『なにがあったんだお!』とか『説明するんだお!』とか聞こえてきたけど、あたしだって自分が可愛いわ。
こうして、あたしの楽しい週末は終わりを告げたのだった。
翌日の学校で、げっそりと頬がこけて憔悴しきった表情で机に突っ伏している相沢くんと、幸せそうな笑顔で机に突っ伏している名雪を見る事が出来た。
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