銭湯へいこう
「ゆういち〜」
祐一が学校から帰宅し、部屋で着替えていると、どたどた〜、とけたたましい音が近づいてきた。
「大変だよ、祐一。あのね……」
真琴は勢いよく扉を開けた。すると中では祐一が上半身裸の状態だった。
「真琴……部屋に入るときはノックしろ……」
「あう〜、祐一の変態!」
「見られたのは俺だっ!」
とりあえず真琴には部屋の外にでてもらい、祐一は急いで着替えを済ませた。
「それで真琴、何が大変なんだ?」
「あう、そうなの大変なのよ。あのね……」
真琴は一生懸命身振り手振りを交え、微にいり細にいり説明をした。
「……お風呂が壊れた……?」
何か重大な事かと思いきや、なんとなく祐一にはたいした事では無い様に思えた。
「別にいいじゃないか。風呂に入れなくたって」
「あう〜、せつじつな問題なのよぅ」
せめて切実くらい漢字で表現しろ、と言いたい祐一であった。
「とにかく、真琴も秋子さんも、名雪もあゆもみ〜んな困ってるのよ」
「そうか」
別にあゆや真琴が困っても痛くも痒くもない祐一であったが、自分の愛する女性が困っているとあれば重い腰を上げざるをえなかった。
「困ったわね……」
「そうだね……」
「うぐぅ、どうしよう……」
浴室の前の脱衣所では、秋子さん、名雪、あゆが暗い表情で顔を見合わせていた。
「どうしました? 秋子さん」
「あ、祐一くん。あのね、お風呂が壊れちゃったんだよ……」
真琴と一緒に脱衣所に現れた祐一に、あゆが暗い表情で話しかけた。
「前々から風呂釜の調子が悪かったんですけど……」
古いものですしね、と秋子さんは付け加えた。
「今からだと業者の人も来てくれないし……」
困ったね、と名雪は暗い表情でため息をついた。今日も部活でたっぷりと汗をかいた名雪は、それこそ一刻も早くさっぱりとしたいのだろう。その表情からはいつもの能天気さはうかがう事が出来なかった。
「それじゃ、俺がちょっと見てみましょうか?」
「直せるの? 祐一」
名雪の表情が明るく輝いた。その笑顔のまぶしさに、祐一は一瞬見とれてしまった。
「ああ、その……俺も良くわからないから……。あまり期待はするなよ」
「うん、わかってるよ」
そうは言うものの、名雪の瞳は期待に満ち溢れていた。
「さすが男の子ですね、助かります」
美女二人の無言の声援を背中に受け、祐一は敢然と家の外に設置されている風呂釜に立ち向かっていった。
「うぐぅ、大丈夫かな祐一くん……」
「そーねー、こういう時ってマンガだと大抵どかーん、もわもわって……」
と、真琴が言った丁度そのとき、表からどかーんという音が鳴り響いた。
あわてて名雪たちが駆けつけてみると、もわもわとした黒い煙の中で祐一は、一昔前のバラエティ番組のように真っ黒になっていた。
結局この日は、秋子さんの提案で銭湯へ行く事となった。
「おっふろ、おふ〜ろ、おっふっろ〜。おっふろおっふっろ〜、おっふろおっふっろ〜♪」
奇妙な歌をユニゾンしながら、あゆと真琴は楽しげに道を歩いている。
「お風呂屋さんなんて久しぶりだね、お母さん」
「そうね、こうしてお風呂屋さんに行くなんて、子供のころみたいね」
「そうだね」
楽しげな親子の風景を眺めつつ、祐一は深いため息をついた。
「……すいません、秋子さん……」
「祐一は気にしなくていいよ。元々古かったんだし……」
「そうですよ、祐一さん。業者の方も明日には来てくれるそうですから……」
暖かい声をかけてくれるのはありがたかったが、そういわれるたびに自分のふがいなさが許せなくなる祐一であった。
「ところで祐一」
「なんだ? 真琴」
「銭湯ってなに?」
あまりにも基本的、かつ根本的な問いに、祐一はめまいを感じた。だが、よく考えてみると、元々妖狐である真琴が銭湯なんて知るわけがないのであった。
「銭湯って言うのはだな……。大衆浴場とも言って、みんなで一緒に入る風呂の事だ」
間違ってないよな、と小さく口の中でつけ加えるところが、祐一の自信のなさの現れであった。
「あう〜、みんなで?」
「そうだよ、すごい大きなお風呂があるんだよ〜」
祐一の後に続くように、名雪が答えた。
「そうなんだ、楽しみだな〜」
「なんだ、あゆも銭湯初めてだったのか」
「うん、ボク銭湯って行ったことなくって」
「それじゃあさ、あゆちゃんの背中はわたしが流してあげるね」
「ありがとう、名雪さん」
「それじゃ、真琴の背中は私が流してあげるわ」
「あう〜、秋子さんありがとう」
そんな家族の風景を、祐一は微笑ましく見守っていた。
「ここが銭湯だよ」
名雪はガイドのように片手を上げて銭湯を紹介した。それにあわせてあゆと真琴から感嘆の声が漏れる。
「そんなに大げさなものでもないだろうに……」
「そういえば祐一覚えてる?」
「なにがだ?」
「子供のころ、ここに一緒に来たよね」
言われてみると、確かに子供のころに名雪と一緒に銭湯に行った事があった。それがこの場所である。
「ああ、思い出した。そういえばここだったな……」
「うん」
名雪は嬉しそうにうなずいた。
「名雪が銭湯に行きたいってだだこねて、それで来る羽目になったんだよな」
「そんな事まで思い出さなくっていいよ〜」
名雪は顔を赤くしてうつむいた。
「それより祐一、待ち合わせは一時間後くらいでいい?」
「待ち合わせ? ああ、そうだな。入り口のところで待ってるよ」
「うふ、なんだかこういうのもいいよね……」
同意を求めるように、名雪は祐一を上目遣いで見た。
「はは……。それじゃ秋子さん、また後で。行くぞ、名雪」
「うん! ……って、わああっ!」
祐一につられて名雪は男湯のほうに入ろうとしてしまい、あわてて祐一から離れた。
「ち……違うよ、祐一。わたしはそっちじゃないよ……」
「そうだっけ?」
祐一は意地悪っぽく聞き返した。
「そりゃあ……確かに子供のころはそっちだったけど……」
名雪の声は語尾のほうが小さく聞き取りにく、ついでに名雪は小さく口の中で、祐一の馬鹿、と呟いていた。
「ははは……っておい、お前らはどこに行こうとしてるんだ?」
祐一は名雪の後に続いて、男湯に入ろうとしていたあゆと真琴の肩をつかんで止めた。
「どこって……銭湯ってみんなで一緒にお風呂に入るんでしょ?」
「さっき祐一くんがそう言ってたよ」
祐一はあゆと真琴の穢れなき純朴な瞳に、深く脱力するものを感じた。
「……男女は別だ……」
「あらあら」
その光景を、秋子さんは微笑ましく見守っていた。
かぽーん。
入浴中を表現するのに、これほど優れた効果音はないだろう。
男湯は人が少なかったので、祐一は広い風呂にのんびりと浸かって極楽気分を味わっていた。
「風呂が壊れたって聞いたときにはどうなるかと思ったけど、たまには銭湯もいいもんだよな……」
極楽極楽、と呟くあたりが、祐一の歳相応ではない部分であった。
「よう、相沢」
祐一がのんびり湯に浸かっていると、見知ったアンテナが話しかけてきた。
「誰がアンテナだ」
「地の文に突っ込むなよ。よう北川、どうしたんだ? こんなところで」
「ああ、アパートの風呂が狭くてな、たまに来るんだよ。それよりおまえは? 水瀬の家があるだろ」
「風呂が壊れたんだよ。だからだ」
「そうか、なるほど……」
北川は意味ありげに思案した。
「……と、いう事は……。壁一枚隔てた向こうには水瀬の裸が……」
「き〜た〜が〜わ〜」
「なんだよ、相沢。お前興味ないのか?」
「べ……別に興味ないとか……そういう訳じゃ……」
北川のからかい口調に祐一は押されぎみだった。
「ああ……それとも……」
北川は意味ありげにニヤニヤ笑った。
「……もう見慣れてるわけか……」
「そそそそそんなことはないぞ」
「それじゃ、そういう事にしておいてやろう」
北川に言われたから、と言うわけではないが、壁一枚隔てた向こうにいる名雪の姿を、ついつい想像してしまう祐一であった。
「じゃな、相沢」
「なんだよ、もう上がるのかよ」
「どうせ水瀬と待ち合わせなんだろ? 野暮な真似をするわけにいかないさ」
颯爽と去っていく北川の背を眺める祐一の顔は異様に赤かった。それは風呂にのぼせたばかりではなかったようだ。
ちなみに北川は脱衣所で、風呂上りのフルーツ牛乳を腰に手を当てて一気飲みしていた。
そのころの女湯。
「じゃあ、あゆちゃん。背中洗ってあげるね」
「うん、よろしくね名雪さん」
名雪はボディソープをふんだんに含ませたスポンジを、ワシュワシュと手でもんであわ立てた。
「それじゃあ、真琴の背中は私が洗ってあげますね」
「ありがとう、秋子さん」
そのとなりでは長い髪を頭の上でまとめた真琴が、秋子さんに背中を洗ってもらうところだった。
「あゆちゃんの肌ってきれいだね、ぷるぷるしてるよ」
「そ……そうかな?」
入院生活が長かったせいか、一時期のあゆの体はひどいものだった。何しろずっと寝たきりであったために骨と皮ばかりにやせ細っており、体にはいくつもの床ずれの痕があったのだ。それが今では、普通の女の子となんら変わらない状態にまで回復していた。
もっともまだメラニンなどの生成が不十分であるため、強い日差しを浴びることが出来ないのであるが。
「真琴の肌ってきれいね、やっぱり若いっていいわね」
「あう〜、秋子さんも若いよ」
真琴の正直な言葉に、秋子は喜んだ。何しろ真琴は器用に嘘がつけないので、思った事がそのまま口に出てしまうのだ。
「それじゃ、あゆちゃん。今度は前を洗ってあげるね」
「え?」
そういうと名雪はあゆの前に手を回した。名雪の手が怪しげに動き、あゆの小さな胸をもむ。
「な……名雪さん?」
「大きな声出しちゃだめだよ、あゆちゃん。ここは公の場なんだからね」
名雪は半ば確信犯的に自分の胸をあゆの背中に押し付けた。あゆは大きな声をあげるわけにもいかず、真っ赤な顔でうつむいていた。
「前も洗ってあげますね、真琴」
「あう?」
あゆが隣を見ると、真琴も同じように秋子に抱きつかれて真っ赤な顔をしていた。その姿を見たあゆは、やはりこの二人は母娘なんだなあ、と言う事を実感した。
それからはみんなで洗いっこなどをして、女湯では楽しい一時を過ごしていた。
「おまたせ〜 祐一」
「お待たせしてしまってすいません。祐一さん」
「いや、俺も今上がったところですから。あまり気にしないでください」
「楽しかったね、真琴ちゃん」
「うん」
風呂上りの美女の色香と、元気いっぱいのお子様達の姿に、祐一は妙な幸せを実感していた。
「大きなお風呂だったね」
「あう〜、あれなら泳げそうよ」
初めての銭湯に、あゆと真琴は満足そうに微笑んでいた。
「はは……。そういう恥ずかしい真似はするなよ……」
「あと、腰に手を当ててフルーツ牛乳を飲んだりとか……」
「あう、扇風機に向かって声出したりとか、楽しかった〜」
「お前達そんな恥ずかしい事やってたのか?」
「ええっ? 違うの?」
あゆが大きな目をさらに大きく見開いて祐一を見た。
「だって、銭湯に来たらやらなくちゃいけない掟だって、名雪が……」
真琴は驚いたように名雪の顔を見た。
「名雪……お前な……」
「それは、祐一が悪いんだよ」
祐一のジト目に反抗するように、名雪が声を荒げた。
「子供のころ祐一が『銭湯に来たらやらなくちゃいけない掟だ、やらないと怒られる』って言うから……」
「俺そんな事言ったっけ?」
「だから銭湯に来るとつい……。もう、祐一のばかっ!」
途中までの声が尻すぼみ的に小さくなり、最後は顔を真っ赤にして怒鳴る名雪だった。
「それじゃ、みんな。そろそろ帰りましょうか?」
秋子さんの声に、あゆと真琴は元気に返事をした。そのまま二人は秋子さんと一緒に家路に着き、必然的に祐一は名雪と二人で残された。
「俺達も、そろそろ行くか?」
「うん」
名雪は明るく微笑んで、祐一と腕を絡めた。そんな名雪の温もりを肌で感じつつ、祐一は少しだけゆっくり歩いて帰る事にした。
今のこの家族と一緒に歩んで行ける、こんな些細な幸せがいつまでも続けばいい。祐一は心のそこからそう望んだ。
「それで、故障の原因はなんだったんですか?」
「……お味噌です」
後日祐一は、リビングで事情を聞いて頭を抱えたと言う。
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