転校生がやってきた♪
春。それは出会いと別れの季節である。
奇跡が起きた。
月並みな表現であるが、そうとしか言えなかった。
七年間眠り続けた少女が目を覚まし。
割腹自殺をした少女が何故か生き返り。
狐が人間になり。
次の誕生日まで持たないと言われた少女の病気が治り。
交通事故で意識不明だった女性が回復し。
弟を失った少女が自分を偽らなくなり。
おばさんくさい少女が社交的になり。
北川と香里が恋人同士になった。
「それも奇跡かっ!」
「祐一、どうしたの?」
いつものように祐一と名雪は学校への道を走っている。今日は始業式だというのに、相変わらずの二人であった。
もっとも、この二人が恋人同士になったのは、ある意味奇跡の産物といえるだろう。
「そんな事はないぞ」
「祐一、変だよ」
普段は一人称で、地の文を読まれてうろたえる祐一であったが、今回は三人称であるため、逆に突っ込まれているのだ。
「……急ぐぞ、名雪」
そう言って祐一はスピードを上げる。
「わっわっ……待ってよ祐一」
あわてて名雪もその後をついていく。いつもの朝の風景であった。
「いつもどおりね、あなた達……」
「いつもどおりだな、お前達……」
この学校では二年から三年に進級するときにクラス替えはなく、クラスの顔ぶれは替わらなかった。
いつものように遅刻ぎりぎりで教室に入ってくる親友とその恋人を、香里は冷めた目で見ている。
「おはよう、香里。北川くんも」
「おはよう、名雪。いつも元気ね」
それだけがとりえであるかのように名雪は微笑んだ。それとは対照的に祐一は息が上がって言葉にならない。
「おはよう、相沢。いつも大変だな……」
軽く片手を挙げて挨拶する親友を、北川は冷めた目で見ていた。
「大変なんて……ものじゃ……」
「……無理にしゃべらなくていい……」
その言葉に甘え、祐一は席についてその身を横たえた。
ちなみに席は前の席と同じである。どうせ担任も変わらないのであるから、この方が都合が良いのだ。
「もう、聞いてよ香里。祐一ったら酷いんだよ」
久方ぶりに会う親友に、名雪は早速祐一に対する不満をぶつけた。
「一生にいこうって言ったのに、祐一ったら一人で先にいっちゃうんだもん……」
聞き方によってはえらく危ない台詞である。
「はいはい、わかったから席に着きなさい。先生来たわよ……」
これ以上しゃべらせるとなにを言い出すかわからないため、香里は名雪を席につかせた。
「ああ、諸君」
替わり映えのしない石橋のホームルームが始まる。
「カノンで君達の担任教師を務める石橋と言えば、日本では私一人だ」
その言葉にクラスの一同は、豪快な足ずっこけを見せる。なかなかにノリの良いクラスだ。
「さて、それでは……。今日は転校生を紹介する」
「うおーっ!」
どんどんどんどん。
替わり映えのする内容に、クラス中から歓声が上がり、鳴り物が響く。
「ちなみに、女子だ」
「うおーっ!」
どんどんどんどん……。
クラス内の男子生徒が、さらに大きな歓声が上がる。
「入ってきたまえ……」
石橋に呼ばれ、一人の女生徒が入ってくる。
茶色のショートヘアを肩先で切りそろえた、快活そうなイメージのある美少女だった。
「はじめまして、榎木咲耶と言います。よろしくお願いします」
桜色の小さな唇から、鈴を転がすような声が響いた。
「こちらに引っ越してきてまだ間がありませんので、いろいろ教えてください」
そう言って咲耶が小さな頭を下げると、クラス中の男子が盛大に拍手をした。
「お前ら静かにしろ、質問なら後だ。とりあえず席は……」
石橋の目には机に突っ伏す祐一の姿が見えた。
「相沢の前が開いてるな。そこに座るように……」
周囲のざわめきで、祐一は目を覚ました。
顔を上げると、そこには茶色いショートヘアの美少女がいた。
「はじめまして、わたしは榎木……。あれ? もしかして、祐?」
「咲耶じゃないか、久しぶりだな」
「なによ、その態度。久しぶりに恋人同士が会ったって言うのに、祐ったらちっとも嬉しそうじゃないじゃない」
咲耶の発言に、クラス中がざわめきだす。
「聞いたか? 今の……」
「ええっ? 相沢くんって水瀬さんと付き合ってたんじゃないの?」
「いや、わかんねーぞ。相沢のやつ女をとっかえひっかえしてるって言うじゃねえか」
「ああ、例のハーレムの……」
「くそう、相沢許すまじ……」
クラス中の男子が祐一に殺気のこもった視線を向ける。
がたん!
そんなクラスの喧騒を打ち破るような、大きな音が鳴り響いた。
「……どういう事? 祐一……」
それは名雪が席から立ち上がった音だ。
「な……名雪……」
「恋人って……どういう事……?」
名雪の大きな瞳が涙に濡れている。
「酷いよ祐一……あんまりだよ……」
「俺の話を聞けっ! 名雪」
「祐一の馬鹿っ! 嫌いっ!」
名雪は後ろも見ずに教室を飛び出した。
「名雪、待てっ!」
あわててその後を追う祐一だったが、名雪が閉めた扉にぶち当たり、その場に崩れ落ちる。
「名雪〜っ!」
それにもめげず、祐一は名雪の後を追っていった。
「あ……あのう……」
咲耶はおずおずと香里に話しかけた。
「さっきの人……祐と付き合ってるんですか?」
「そうよ」
憮然とした様子で応じる香里。そこには咲耶に対する明確な敵意があった。
「……じゃあ……悪い事しちゃいましたね……」
「そうね」
香里のつっけんどんな態度に、咲耶は気おされてしまう。
「はあ……」
消沈した様子で席に着いた咲耶を、香里は少し気の毒に思ってしまった。
「ねえ……」
「はい?」
「あたしは、美坂香里。あの二人の親友よ。良かったら、事情を聞かせてもらえないかしら?」
ここは水瀬家。
「どういう事なんですかっ!」
今日は始業式だけだったので、早くに学校が終わったメンバーがここに集っていた。
香里、北川をはじめとして、あゆ、真琴、栞、美汐に咲耶を加えた一同が、ソファーに座る祐一を取り囲んでいる。
その中で栞はテーブルに小さな手のひらを叩きつけ、祐一を睨んでいた。もっとも、その表情は怖いと言うよりも、むしろ可愛いものであったが。
「どういう事って……。なにが?」
「とぼけないでください! 祐一さん」
栞は再度小さな手のひらをテーブルに叩きつけた。
「今日転校してきたばかりの昔の恋人とよりを戻すために、名雪さんの事をふったそうじゃないですか!」
その言葉に祐一は、豪快な足ずっこけを見せる。
「なんだ? その話は……」
「ええっ? 違うの、祐一くん……」
「真琴もそう聞いたよ」
あゆと真琴はお互いに顔を見合わせ、学校での噂話を手短に話す。基本的には栞の話した内容と同じだが、何故かもうすでに咲耶との間に子供がいる事になっているらしい…….
「酷いです……祐一さん……」
「栞……」
「どうせ名雪さんをふるんだったら、どうして私のところに来てくれなかったんですか?」
「それが本音かっ!」
叫んだ後で祐一は、この事に関して学校でどういう噂になっているのか、知るのが怖くなった。
「……俺、明日学校休もうかな……」
「往生際が悪いわよ、相沢くん」
香里が、ぽんぽんと手を叩いて場のまとめに入る。
「とりあえず榎木さんから話は聞かせてもらったわ。確か彼女、相沢くんの昔の恋人だったのよね?」
「ああ、俺が中学二年のころの話だ」
祐一はその日を懐かしむように目を細めた。
「確か一学期の最初に出会って、二学期の終わりぐらいに俺が転校するまでの間だったと思う……」
「そうね……」
祐一の言葉に合わせるように、咲耶も首を縦に振る。
「祐が転校してきたのが二年の初めぐらいだから、大体そのぐらいね……」
そのときのことを懐かしむように咲耶は静かに話し始めた。
「そのころの祐って……ぶっきらぼうで、なんだか怖そうなイメージがあったんだけど……。時折優しいところもあったから、わたしはそんな祐の事が好きになったのよ……」
「それで、俺が転校する事になって別れたんだよな」
「……それが理由ってわけでもないわ……」
「どういう事だ?」
不意に咲耶は真剣な表情で祐一を見る。
「わたしと付き合っているときの祐って……。なんとなくだけど、わたしじゃない別の誰かを見ているような気がしたのよ……」
確かにあのころの祐一はこの街の事を拒み、必要以上に人と係わり合いを持とうとしなかった。
その意味では、咲耶と付き合っていたのは特筆に値するだろう。
「今までずっと気になっていたんだけど……。今日その理由がわかったわ。ずっと好きだったんでしょ? あの人の事……」
「それは……」
「言わなくてもわかるわ。だって今の祐……すごく安らいだ表情をしているもの……」
悲しい思い出がある街。心を閉ざすきっかけとなったのもこの街だが、それを癒してくれたのもこの街だ。
ここでの名雪との再会。そして仲間達との出会いが、今の祐一の全てといっても過言ではない。なにより祐一は、こんな自分を名雪がずっと待っていてくれたと言う事が一番嬉しかった。
「……急に転校が決まって……。誰も知ってる人のいないこの街に来て……。それで……祐に会えて、つい嬉しくなっちゃって……」
咲耶は小さく肩を振るわせ、その小さな口からは嗚咽が漏れはじめた。
「ごめんね……祐……」
「咲耶が悪いんじゃないさ……。俺もそうだったからな……」
幼いころから両親の仕事に都合により、転校を繰り返してきた祐一にはその事が良くわかる。
転校先の学校で、すでに出来上がっている人の輪のなじめなかった事も、一度や二度の事ではない。その上祐一は、両親の仕事の関係により引っ越す事が多く、それが余計に他人との関わりを拒ませる要因になっていた。
祐一は別れの悲しさを知るだけに、出会いに対して臆病になってしまったのだ。出会わなければ別れなくていい。それがあのころの祐一だ。
だから祐一は咲耶に対しても、いずれ別れる事を前提として付き合っていたのだ。
そうして凍てついた祐一の心が文字通り氷解したのは、ある意味名雪のおかげと言える。大切なものは失ってしまう事があるからこそ、なによりもかけがえがないのだと言う事に気がついたのだ。
「相沢さんと榎木さんの事情はわかりましたが……」
それまで黙っていた美汐が、重苦しく口を開いた。
「名雪先輩のほうはどうなのですか?」
「どうなのかって言われてもな……」
祐一は名雪の部屋のある方向を見上げ、軽く呻いた。
「あの時と……秋子さんが事故にあったときと一緒さ。部屋に閉じこもったきり、呼びかけにも応じようとしない……」
あの冬の出来事を思い出し、祐一は頭を抱えた。あの時は名雪の心に祐一の声が届いた事で、名雪は心を開いてくれたが、今は状況が違う。
名雪は祐一の声すら拒み、部屋に閉じこもっているのだ。
「……ねえ、祐……」
咲耶がおずおずと口を開いた。
「わたしに……任せてくれないかな?」
「いいのか? 咲耶……」
咲耶は静かに頷いた。
「たぶん……この中で一番、わたしが祐の事を知ってると思うの……。あの人の……水瀬さんの知らない祐の事を話す事が出来ると思うわ」
現状ではこれが一番の方法なのだろう。結局打開策となるような案も出なかったので、咲耶は名雪の部屋の前に立つ。
「あの……水瀬さん?」
咲耶は部屋の扉を軽くノックした。
「お話があるんですけど……開けてくれませんか?」
しかし、中からの反応はない。
「開けてくれないと、わたしが祐をもらってしまいますよ? それでもいいんですか?」
しばらく咲耶が待っていると、ゆっくりと部屋のロックがはずされた。
咲耶が名雪の部屋に入り、名雪となにを話したのかは誰も知らない。
約二時間が経過した後、咲耶は名雪を伴ってリビングに現われた。
「名雪っ!」
祐一は名雪を抱きしめた。
「心配したんだぞ……」
「うん……ごめんね、祐一」
「仲がいいですね」
その光景を、咲耶は微笑ましく見つめていた。
「そうなのよ。仲が良くって、こっちまで恥ずかしくなっちゃうわ」
香里もまた、そんな二人を微笑ましく見つめていた。
周囲の人の目が集中する中で、抱きしめあう二人の顔が赤くなったのは言うまでも無い。
「そんな事があったんですね」
夕食のひと時。家族が揃うこの時間に、食卓を囲んだ水瀬家一同は、この日にあった出来事を話すのが習慣になっていた。
まったくの余談だが、水瀬家では食卓に着くときの席順が決まっている。まず上座に家長である秋子さんが座り、その右手側が名雪の席。祐一の席が名雪の対面で秋子さんの左手側となり、真琴が名雪の隣であゆが祐一の隣だ。
このように家の中での順位が示されているのだが、基本的にはこの家に来た順番どおりだ。
そうなるとあゆが一番下位になってしまうのだが、これは利き腕が左であるあゆに配慮した並びであるため、厳密なものではなく、秋子さんがそのような順位で子供達に接する事はない。
「まったく、大変な目にあいましたよ……」
そうは言いつつも、祐一はどこか嬉しそうだ。
それを名雪にジト目でにらまれてしまったため、祐一は無言でごはんをかきこむ。
「でもね……」
「うん」
あゆと真琴は目で会話をする。
「祐一くんが名雪さんの事をどれだけ好きかわかったし」
「名雪が祐一の事をどれくらい好きかわかったもんね〜」
「あらあら」
あゆと真琴の無邪気な発言に、顔を赤くした祐一と名雪が食事どころでなくなったのは言うまでもない。
翌日の学校には、珍しく朝から二人の姿があった。
「……まったく昨日はえらい目にあったぜ……」
「ごめんね、祐」
いつもの朝の喧騒の中、クラスメイト同士の会話に香里は耳を傾けていた。
「ああ、諸君」
そして担任の石橋が現われ、いつもの朝が始まる。
「今日は転校生を紹介する」
その言葉にクラスの一同は豪快な足ずっこけを見せた。
「え? え?」
このクラスのノリについてゆけず、咲耶は小さな頭をふってあたりを見回した。
「せ……先生!」
いち早く立ち直った香里が、教壇に立つ石橋に向かって叫んだ。
「なにかね? 美坂」
「どうしてこのクラスには転校生が多いんですか?」
あまりにも的を得た質問に、クラス中からざわめきが走った。
「そういえばそうだよな……」
「相沢といい、榎木さんといい……」
「流石は美坂さんだけの事はある……」
そのような喧騒を眺めつつ、石橋はゆっくりと口を開く。
「なかなか良い質問だ、美坂……」
「恐縮です、先生」
「では答えてやろう、その理由は……」
「その理由は?」
クラスの注目が石橋に集中する。
「『世の中の仕組み』というやつだ」
それを聞いた香里は、妙に悟ったような表情で微笑んだ。
「なるほど……世間様には勝てないわね……」
「美坂もわかってくれたようだな。それでは気を取り直して諸君! 女子だっ!」
「うおーっ!」
どんどんどんどん。
ようやくいつものペースに戻ったのか、クラスの男子が歓声を上げる。
「入ってきたまえ」
石橋の呼びかけで、一人の少女が教室に入ってくる。
肩先で切りそろえた黒髪と、快活そうな大きな瞳が印象的な少女だ。
「このたび転校してきました、安藤奈津子です。好きな食べ物はアンドーナツです。皆さんよろしくお願いします」
奈津子がペコリと挨拶すると、クラス中から再度歓声が上がった。
「アンドーナツ? 奈津子?」
「ああっ! 祐一じゃないの。ひさしぶり〜」
「どうしてお前がここに?」
「ああっ! なによその言い方。恋人同士が再会したって言うのに、それはないんじゃない?」
「どういう事だよっ! 祐一っ!」
奈津子の言葉に真っ先に反応したのは、やはり名雪だ。
「誤解だ名雪。俺の話を聞けっ!」
「祐一の馬鹿っ! 嫌いっ!」
「名雪〜っ!」
教室を飛び出し行く名雪、それを追いかけていく祐一。どこかで見たような光景が再現された。
「あの……あなたも祐の恋人なんですか?」
「ええっ? と、言う事はあなたも?」
「わたしは中学の二年のころでしたけど」
「あたしは中学の三年のころよ」
そうして目の前で祐一談義をする咲耶と奈津子の姿に、香里は頭を抱えた。
「なあ……美坂……」
そんな香里に、静かに声をかける北川。
「後何人転校生が来ると思う?」
「お願い……聞かないで……」
こうして、転校生が来ることで始まった騒動は終わりを告げたかに見えた。
だが、安心するのはまだ早い。まだ次なる転校生が来ないとも限らないのだ。
恋人同士になれたとはいえ、祐一と名雪の前途は多難であった。
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