第二話 春の嵐

 

『あさ〜、あさだよ〜。あさごはん食べて〜、学校行くよ〜……』

 今日は新学期がはじまる日、祐一にとっては三年生に進級して初めて登校する日だ。同じように初めてなのがあゆと真琴で、特に真琴は初めて学校にいく日でもある。そんな記念すべき日に遅刻したりするわけにもいかないので、祐一はいつもより早めに目覚ましをかけておいたのだ。

 そして、この日も目覚まし時計は快調に誘眠効果抜群のボイスを流しだす。祐一は軽く伸びをするついでに目覚ましを止めた。

(こんなんで起きられる俺も俺だよな……)

 例の目覚まし時計を名雪に返してからというもの、不思議と祐一は朝に弱くなってしまっていた。その反対に名雪は朝起きられるようになり、一時期は二人の朝の立場が逆転していた事があった。

 なにしろ例の目覚ましには祐一の『愛のメッセージ』が録音されているので、そのおかげで名雪も朝早く起きられるのだ。

 だが、祐一にしてみればそんな恥ずかしい台詞を毎回聞かれてしまうわけで、世間体が悪い事この上ない。そこであの目覚ましを使わなくてすむように、いつものように祐一が名雪を起こす事にしたのだが、何故か市販の目覚ましでは効果がなかったのだ。

 結局祐一が名雪の声でなければ起きられない事が判明したために、名雪のメッセージ入り目覚まし時計マークUが登場する事となったのである。収録されている台詞は以前のものと変わらないのだが、愛情がたっぷりこもっている、というのが名雪本人の談だ。

 もっとも、このあたりの事情を知る香里あたりに言わせれば、恥ずかしいくらいのバカップル、なのであるが。

 それはさておきとして、祐一が名雪を起こそうとベッドから身を起こしたそのときだった。

「みにゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 凄まじい悲鳴が隣の部屋から響いてくる。続けて乱暴に扉を開ける音と同時に、どたどたとけたたましい音が近づいてきた。

「な……なんだ?」

「祐一―っ!」

 ノックもせずに部屋の扉が乱暴に開かれた。唖然とする祐一の前には、涙目の名雪がいる。

「ど……どうした? 名雪……」

「……祐一……」

 瞳にこぼれそうなほどの涙を浮かべたまま、名雪は祐一の胸にすがりついた。

「あ……あのね……」

「うん」

 祐一は名雪をなだめるように、優しく髪を撫でてやる。それに落ち着いたのか、名雪はポツリポツリと話しはじめた。

「ウネウネってしてね……」

「うん」

「クネクネってしてね……」

「うん」

「にゅるにゅるってね……」

「…………」

 名雪がなにかを言うたびに祐一はうなずいてあげるのだが、名雪がパニックに陥っているせいか、その話はまるで要領を得ない。

「おはようございます、お兄様。それに名雪お姉様」

 不意に開けっ放しの扉がノックされる。よく考えてみると、朝早くから名雪を抱きしめているというのはさすがにやばい。恐る恐る祐一がそこを見ると、扉の付近には笑顔で祐姫が立っていた。

 ちなみに祐姫はすでに祐一達の学校の制服に着替えていた。いつもの学校の制服は、よく言えばスレンダー、悪く言えば名雪よりも貧弱な祐姫のボディに良く似合っている。

「あ……ああ。おはよう、祐姫……」

 名雪は祐姫の声を聞いた途端、何故かその肩が小刻みに震えだし嗚咽をもらしはじめる。

「朝食の支度が出来ておりますわ。早く着替えて降りてきてくださいませ」

 去り際に祐姫は、ごゆっくり、と言い残して扉を閉めた。

「うみゅ〜……」

 名雪は本格的に祐一の胸で泣きはじめてしまい、祐一はそれをなだめるのに必死だった。

(なにがあった? 名雪……)

 

「……わたし……もう笑えないよ……」

 学校へ向かういつもの通学路で、祐一の隣を歩く名雪は暗い表情でそう呟いた。それは学校に通える事で喜びを隠せないあゆや真琴とは対照的な表情だったので、祐一には特に印象的だ。

 名雪がこうなった原因を知っているのは、部屋数が少ないために名雪と同室になった祐姫なのだが、何故か祐一は聞くのが怖かった。

 あの『寝雪』の異名をとる名雪を一瞬にして目覚めさせる実力、それもジャムなどの支援もなく起こす方法。にこやかにあゆや真琴と談笑しつつ学校へ向かう祐姫を見ながら、祐一は学校に着くまでの間中その事をずっと考えていた。

 

「おはよう」

 新しい朝。新しい教室。これからはじまるであろう新しい生活に、美坂香里は胸を膨らませていた。もっともこのあたりはスレンダーな彼女の妹に言わせると、それ以上胸を膨らませる人は嫌いです、との事であるが。

「美坂さんおはよう」

 去年も同じクラスだったクラスメイトがにこやかに声をかけてくれる。香里も笑顔でそれに答えた。

「おはよー」

「おはようっす」

「はよー」

「おはようございまーす」

「……斉藤くん、落研の練習だったらよそでやってね……」

「香里ー、おはよう」

「おはよう名雪」

 今年も同じクラスになることになった一番の親友に、香里は笑顔で返事をした。

「名雪?」

 突然、笑顔が凍りつく香里。

「そんな……そんな事があるはずないわ……」

「うにゅ?」

 名雪は目の前で狼狽する親友の姿に首を傾けた。

「だって……名雪が……。あの名雪があたしより早く学校に来るなんて事があるはずないわ……」

 香里の台詞に教室のそこかしこでざわめきが広がっていく。

「香里……?」

「夢ね……これは夢を見ているのね……。その証拠に、ふんっ!」

「へぶしっ!」

「……痛くないわ……。やっぱり夢ね……」

「おいっ! 北川っ! しっかりしろっ!」

 いきなり香里にどつかれた北川を、祐一は必死に介抱する。

「うわ……北川くんの顔……。ひしゃげてる……」

 かおりんナックルの直撃を受けた北川の顔は、左半分が見るも無残な姿に変わっていた。

「いきなりなんばすっとねっ! 美坂っ!」

 妙な方言と一緒に北川は立ち上がり香里を睨みつける。よく見ると、先程どつかれたときの傷はすでに完治していた。

「あ……北川くんの顔、もう社会復帰してる……」

「あきれた回復力だな……」

「ごめんなさいね、殴りやすそうな顔があったもんだから、つい……ね……」

「殴りやすそうな顔とはどういう顔だっ!」

 無言で北川の顔を指差しす香里。その姿には一片の容赦も無い。

「そりゃねえぜ、美坂……」

 男泣きに泣いて教室を飛び出していく北川。その姿を祐一は、名雪と一緒にただ呆然と見送っていた

「北川くん、可哀相……」

「そんな事より名雪、貴女一体なにかあったの?」

 香里の言葉に、名雪はその細い肩を小さく振るわせる。

「祐一ぃ……」

 なにか嫌な事でも思い出したのか、再び祐一の胸にすがりつき、再び嗚咽をもらしはじめる名雪。

「相沢くん……」

 香里の声は、妙に冷たくえぐるような感じで祐一の胸に響く。

「あなた……あたしの名雪になにをしたの……?」

 怖いくらいに素敵な香里の笑顔に、祐一は背筋が凍りつくような感触にとらわれた。なにしろ香里の視線は冷たく祐一を射抜いていたからだ。

「誤解だぞ、香里。俺はなにもしていないぞ、天地神明に誓って言い切れる」

 胸をはり、自信たっぷりにそう言い切る祐一。だが、それすらも今の香里相手では虚勢に等しい。

「そう……。そう言う事……」

 香里は納得したように、何度も首を縦に動かす。

「つまりは放置プレイな訳ね……」

「どういう意味かな? 香里……」

「なにもしていないんでしょ?」

 妙に含みのある香里の言葉に、祐一はなにを言っても無駄だと悟った。

 

 三年生の教室が朝の喧騒に包まれているころ、二年生の教室も同様のにぎやかさがあった。

 そんな教室の賑わいをどこか遠い世界の出来事のように感じつつ、天野美汐は一人大きなため息をついていた。

「はあ……」

 二年生になってクラス替えがあり、美汐は誰一人知る人のいない教室に取り残されたような気持ちになっていた。

 一年生だったころに仲がよかったのは香里の妹の美坂栞であるが、彼女は出席日数の関係から留年となり、今学期からまた一年生だ。幸か不幸か彼女の外見は中学生と言っても差し支えはないためにさほどの違和感はなく、加えて新入生となるあゆや真琴と一緒のクラスであるために、楽しい学校生活は約束されたも同然。

 無事に進級できた美汐ではあるが、彼女の場合はとにかく一年生であったころの印象が悪く、その意味での友達は少なかった。三学期に入って祐一と知り合う事により、交友関係はある程度改善されはしたものの、新学期までほとんど間がない時期で知己を得るのは非常に困難な事だ。

 つまり美汐は、新学期から再度友達作りに励まなければいけないのだ。ため息の一つも出ようというものである。

「んあー、席につけー」

 そんな美汐の思いを知ってか知らずか、今学期から一年間お世話になる担任教師が入ってきた。先程までにぎやかだった教室が、嘘のように静まりかえる。

「新学期にはいって早速だが、転入生を紹介する」

 すると教室のあちこちからざわめきは聞こえだした。

「喜べ男子。女子だ」

 担任教師がそう言うと男子生徒から歓声が上がり、ウェーブが開始された。

「こら、静かにしろっ! 君、入ってきたまえ……」

 担任教師に呼ばれ、一人の少女がゆっくりと教室に入ってきた。一見すると大和撫子のように見える少女に、不思議と教室が静けさに包まれる。

「本日転入してきました、相沢祐姫と申します。皆さんよろしくお願いします」

 つややかな長い黒髪に映える大きな白いリボンを揺らし、祐姫はペコリと頭を下げた。

「まだ、こちらに越してきて間がありませんので、いろいろ教えていただけたらと思っております」

 祐姫が挨拶を終えると教室内から拍手がおこる。特に男子生徒から盛大な拍手をしているようだ。

「相沢……?」

 妙に聞き覚えがある名前に、美汐は祐姫の顔をまじまじと見る。

「相沢って事は『あの』相沢祐一となにか関係があるんですか?」

「はい、相沢祐一はわたくしの兄に当たります」

 クラスの男子の質問に、祐姫はよどみなく答えた。

「趣味はなんですか?」

「音楽鑑賞に読書、後は色々ですわ」

「好きな異性のタイプは?」

「背が高くて、足が長くて、着こなし抜群で、髪は金髪で、目は切れ長で、物静かで優しくて、さりげない気配りが出来る人がいいです」

「ののしってください!」

「女王様とおよびっ!」

 最後のはもう質問ではない。

「お前達そのくらいにしろ。始業式が終わったらHRだから、質問はその後でしろ。席は……あー」

 担任教師は教室を見回した。

「天野の前が開いてるな。そこの空いている席に行きたまえ」

 祐姫は言われた席につき、美汐に微笑みかけた。

「はじめまして、天野です。天野美汐」

「美汐様でございますね。わたくしは相沢祐姫と申します」

「……先程自己紹介していましたが……」

「名乗られたら名乗り返すのが礼儀でございますわ」

 流石に相沢さんの関係者だけあって、変な人だと美汐は思った。

 

 始業式も滞りなく終了し、HRも終わった教室では、転入生を囲んでの質問タイムが開始された。

 性格的にどうもそういった人の輪に入る事が出来ない美汐は、ただ呆然とその光景を見つめるばかりだ。

 しばらく美汐がそうしていると、不意に遠くからパタパタパタ、という足音が近づいてきた。

「みしお〜、帰ろ〜」

 やたらと能天気な声と同時に教室の扉が開き、真琴が飛び込んできた。

「真琴ちゃん、早いよ〜」

「えう〜、置いていっちゃうなんて酷いです」

 続けてばたばたとあゆと栞が駆け込んでくる。

「真琴、ここは教室ですから静かに……」

「あう……。ごめん、美汐……」

 意外と素直な真琴の頭を、美汐はやさしくなでる。すると真琴はほわぁ、と恍惚の表情を浮かべた。

「あら? あゆ様に真琴様」

「あう、祐姫〜」

「祐姫ちゃんもこのクラスだったんだ」

「どうやら迎えも来たみたいですし、わたくしはこれで失礼させていただきます。それでは皆様、ごきげんよう」

 祐姫は優雅に一礼すると、あゆ達と一緒に教室を出た。

 

「ところで、あの……」

 あゆ達五人で廊下を歩いているときに、栞がおずおずと口を開いた。

「その人は誰なんですか?」

 栞は初対面である祐姫を見た。

「はじめまして、相沢祐姫と申します」

 祐姫は栞に深々と一礼した。

「あ、はい。はじめまして、美坂栞です。あの……相沢って……」

「祐姫ちゃんは祐一くんの妹なんだよ」

 あゆがフォローの紹介を入れる。

「そうなんですか?」

「あう〜、真琴も良くわからないけど、そうなんだって」

 どうも真琴はいまいち状況が飲み込めていないようであった。

「詳しい事は後程お話いたしますわ。よろしくお願いしますね、栞様」

「はい、よろしくお願いします。……えっと……」

 栞様、と呼ばれて頬を赤くした栞だったが、祐姫の事をなんて呼ぼうか迷ってしまった。

「わたくしの事は祐姫をお呼びください」

「はい、祐姫さん」

 

 あゆ達が昇降口に着くと、丁度祐一達が帰るところだった。

「祐一く〜ん」

「おお、あゆ。どうだ? 学校は」

「まだ始まったばかりだからね。それよりも祐一くん達も帰るところ?」

「ああ、今日は名雪も部活がないそうだからな」

「あゆちゃん達も帰るところなの?」

 祐一の後ろからの名雪の声に、あゆ達は一斉にうなずいた。

「それじゃあさ、みんなで百花屋に行こうよ。ねえ、祐一」

 今日は部活が休みの名雪が、にこやかに提案した。陸上部の部長を務める名雪が部活を休めるのは今日くらいで、明日からは新入部員獲得に忙しくなってしまうのだ。そのため、少しでも多く祐一と一緒の時間をすごしたい、というのが名雪の本音だ。

「いいけど奢らないぞ。俺は」

「それでもいいから行こうよ。あゆちゃん達の入学のお祝いと、祐姫ちゃんの歓迎もかねて。ね?」

 笑顔の名雪にそうまで言われては、祐一も了承せざるを得ない。

 

「あはは〜、祐一さんだ〜」

 商店街に到着すると、佐祐理と舞の二人に出会った。

「舞に佐祐理さん、丁度良かった。今から百花屋に行くんですけど、一緒にどうです?」

「はぇ〜、よろしいんですか? 祐一さん」

「ええ、みんなの入学祝いと、ついでに紹介したいやつもいますからね」

 祐一は祐姫を見ると、祐姫は軽く会釈をした。それにつられて佐祐理も会釈を返す。

「それにしてもお兄様……」

 祐姫はそっと祐一の耳元で囁いた。

「……お綺麗なお友達がたくさんいらっしゃるんですね……」

 

 ここは百花屋。いつものメンバーが、自分の分は自分で払うのだと言明された上で、思い思いに注文をする。

 流石にこれだけの人数になると、祐一一人の財布では面倒が見切れなくなってくる。

 無論、名雪達も祐一の台所事情はわかっているため、一見ハーレムのように見える集団なれど、不思議とうまくいっているのだ。

「それでは皆様、改めまして……」

 それぞれが注文した品が到着したあたりで、祐姫は口を開いた。

「相沢祐姫と申します、皆様よろしくお願いします」

「俺の妹なんだ」

 その言葉に、佐祐理ははぇ〜、と感嘆の息を漏らす。

「祐一さんに妹さんがいたなんて知りませんでした。ねえ、舞?」

「はちみつくまさん」

 舞は鷹揚にうなずいた。

「そうだろうな、俺も知らなかったもんな……」

 思わず祐一は、親父のバカヤロー、と小声で叫んでいた。

「……ちょっと説明がしにくいので今日のところは顔見せって事で……」

「わかりました、倉田佐祐理です。ほら、舞も……」

「……川澄舞」

「はい、佐祐理お姉様に、舞お姉様でございますね」

 お姉様、と言われた途端舞の顔が真っ赤に染まる。

「……舞でいい……」

「それでは、舞様で」

「あたしは美坂香里よ。名雪の親友で、栞の姉よ」

「わかりました、香里お姉様」

 お姉様という言葉の響きに、悪くないかも、と小さく呟く香里。

 どうやら祐姫が無事に仲間達に溶け込めたようなので、祐一はほっと胸をなでおろした。

 

 こうして、北の街で暮らす仲間が増えたのであった。

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