第三話 北川の春

 

 空はどこまでも青く澄み渡り、梢では小鳥達が楽しそうに歌っている。

 見上げれば雲。風に乗り、遠くから旅をしてきたのだろう。足を止める事もなく通り過ぎていく。

 足元には大地。黒で塗りかためられた舗装道路。

 右手には白い壁。左手にも壁が連なる。通りを進むその気分はほとんどミニ四駆。

「……ここは一体……。どこですか……?」

 相沢祐姫十六歳。今の彼女の状態を一言で表した場合、もっとも適切な言葉は迷子であった。

 

「はぁ……」

 この日北川潤は何度目になるかわからないため息をついて住宅街を歩いていた。

 いつも陽気な彼のイメージとは裏腹にその足取りは重く、全体的に消沈したようなイメージが印象的だ。

 こういうときには商店街あたりで騒いで憂さを晴らすところだが、何故か今日に限って誰とも知り合いに逢う事がなかった。

 流石に一人で騒ぐのもなんだし、気分転換にもならなかったので家に戻ろうとしているところだ。

 この北川の様子には理由がある。

 それは、昨日の放課後の事だった。

 

 この日は土曜日。学校が半ドンで終わる日だ。

 そんなわけで相沢祐一は、一年生トリオの急襲。二年生コンビの支援。卒業生コンビの乱入により、哀れ百花屋行きが確定となった。

 この危急存亡の事態に際し水瀬名雪は同行を志願するも、忙しい部活動の部長という責任ある立場ではそれすらもかなわず、結局祐一の『部活がんばれよ』という言葉を胸に、泣く泣く教室を後にする事になる。

 そして、普段ならこのような事態に調停役となる美坂香里は、級友である北川潤に呼び出され、屋上への階段の途上にあった。

 後にこの惨劇を目にしたクラスの女子生徒はこう語る。

「自業自得なんじゃないの?」

 こうして、祐一の図書室で香里と勉強、部活が終わるのを待って名雪と一緒に帰ろう計画は水泡に帰したのだった。

「……俺、受験生なのに……」

 その呟きを聞きつけた佐祐理が『祐一さん、佐祐理と一緒に手取り足取りじっくりしっぽりとお勉強しましょう』と言ったのは、また別の話。

 

「悪いな、美坂。突然呼び出したりして」

「いいのよ。気にしないで」

 香里にとって北川はクラスでも仲の良い男子生徒。普通にどついたり、殴ったり、叩いたりする事が出来る貴重な存在だ。

 その北川が自分に話したい事があるという。もしかしたらなにか力になってあげられるかもしれない、このときの香里はそう思っていた。

「実はな、美坂……」

「なに? 北川くん」

 北川の真剣な瞳に、香里は何故か胸の高鳴りを感じた。

「オレの女王様になってくれっ!」

 衝撃の告白に、香里の目は瞬時に点になる。

「いつもいつもどつかれているうちに、それが快感になったらしくてな。頼む美坂、オレの女王様になってく……ぐへっ!」

 その次の瞬間、香里の足元から立ち上る七色の光に突き上げられ、北川の身体は天空高く飛ばされる。

「……ふざけないでほしいんだけど……」

 笑顔だが目が笑っていないかおりん。潤ちゃんピンチ!

「いや、悪かった。まじめにやるから、な?」

 気を取り直して、再度真剣な表情をする北川。いつでもこういう表情が出来れば、彼も美形で通るのだろう。だが、それが出来ないのが北川と言う漢だ。

「美坂っ! オレと付き合ってくれ」

「突き合えばいいの?」

 そう言うと香里は両手にナックルを装備し、じわりじわりと北川に近づいていく。まるでかみ合わない会話に北川は思わず眉間にしわを寄せた。

「……なあ、美坂……」

「なによ」

「お前最近、相沢に似てきてないか?」

 その言葉が香里の耳に届いた途端、いつも冷静な瞳が驚愕に見開かれた。

「いやぁぁぁぁぁぁっ! それだけはいやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 それこそ血涙を流すかのような激しい香里の慟哭に、北川は一瞬引いた。

「……そろそろまじめに話をしようか……」

「……そうね」

 先ほどまでの乱れようがウソのように、香里はクールビューティーの側面を見せて立ち上がる。

 長い前フリであった。

「美坂。俺は、お前が好きだっ!」

 北川の右手が光ってうなる。

「お前が、欲しいっ!」

「ごめんなさいっ!」

 その一言で、勝利を掴めと轟き叫ぶ右手が虚しく空を切る。

「ごめん……なさい……」

 香里は北川に頭を下げたまま、小刻みに肩を震わせている。やがてその足元に雫が落ちはじめ、黒いしみを描き出した。

 こうして、北川のキングオブハートは、哀れブロークンハートになったのだった。

 

 その事を思い返すといまだにため息が出る。しかもそれはつい昨日の出来事だ。やはり美坂は相沢の事が好きなのだろうか、とも考えてしまう。

 しかし、それ以上に北川を悩ませているのは、明日学校で香里とどう接するかだ。

 流石にこう気まずくなってしまうと、今まで通りというわけにもいかないだろう。その意味では香里に告白したのは失敗であるようにも思えた。

 とはいえ、目の前で祐一が名雪といちゃいちゃしているのを見て、うらやましくなったのも事実。

「きゃっ」

「おっと……」

 そんな事を考えながら歩いていると、北川は一人の少女と出会い頭にぶつかってしまった。

「悪い、よそ見してて……」

「そんな、わたくしのほうこそぼうっとしてて……」

 少女がペコリペコリと何度も頭を下げるたび、長い黒髪に巻かれた白いリボンが何度も揺れる。

「とりあえず怪我は無いようだし、そんじゃオレはこれで……」

「あの……待ってくださいっ!」

 そう言って北川は別れようとしたが、少女が足を掴んで呼び止めたために、おもいっきりひっくりこけてしまう。

「オレがなにかしたか?」

 したたかにぶつけた鼻の頭が赤い。しかも鼻を押さえた北川の声はすごく変だった。

「あの……商店街へはどのように行けばよろしいのでしょうか……?」

 

 ここは水瀬家。

 この日は休日であったが、部活で朝早くから出かけていた名雪を待ち、少し遅めの昼食となっていた。

 皆でわいわいと食卓を囲む中で、祐姫は一人浮かない顔をしている。

「どうした? 祐姫」

「なんでもありませんわ、お兄様……」

 口ではそう言うものの、祐姫は明らかに様子が変。家に帰ってきたときから、ずっと虚ろな視線でため息をついている。

 祐一が心配して声をかけるも祐姫の態度は素っ気無い。名雪達も祐姫の事を心配して様子を窺っている。

「なにかあったのですか?」

「はい……実は……」

 秋子に促され、祐姫はポツリポツリと語りはじめた。

 祐姫の話によると、商店街へ行こうとしたときに道に迷ってしまい、途中で出会った男性に道案内をしてもらったのだそうだ。

「とても素敵な方でしたのに、わたくし名前を聞くのも忘れてしまっていたのです……」

 沈痛そうな面持ちで呟く祐姫の姿に、名雪達は、ああ、と頷いた。祐姫は間違いなく恋をしていると。

「それでお前、商店街になにしに行ったんだ?」

 的外れな質問をする祐一に、この鈍感、といってやりたい名雪達だったが。

「はい、マスターグレードの新作が発売されましたので……」

 もっと的外れな祐姫に、揃ってため息をつくのだった。

 

「急ぐぞ、名雪〜」

「走るよ〜」

 一夜明けた月曜日、祐一と名雪は学校への道を走っていた。

 あの目覚ましを使えば名雪も起きられるのだが、祐一によりそれは禁止されている。その代わりに名雪を起こしているのが同室の祐姫となるのだが、こうして二人が走っているのには理由がある。

 それは、こうでもしないと祐一は名雪と二人きりになれないからだ。

 奇跡が起きた。それはいいのだが、結果として家には秋子さんをはじめ、あゆ、祐姫、真琴がいて、どうしても祐一は名雪といい雰囲気になれない。

 それにくわえてクラスは北川や香里と同じ、昼には栞や美汐達がやってきて、放課後は何故か校門に舞と佐祐理が待ち構えている。

 さらに大会が近いせいか、休日でも名雪は部活。とてもじゃないが祐一は、名雪と二人きりでのんびりと甘い時間を過ごす余裕がないのだ。

 そんなわけで祐一は、唯一名雪と二人きりで過ごせる朝の時間を大事にしているのだ。毎朝全力疾走で身体は辛いが、少なくともこの時間だけは他の邪魔が入らない。

 こういう表現もなんだが、これがいつも通りの二人の朝の風景なのだろう。

「おはよう、二人とも」

「おはよ〜 香里〜」

 二人が教室に駆け込んでくるとかわされるいつものやり取り。いつも通りの日常。

「あれ? 香里どうかした?」

「え?」

 突然の名雪の言葉に、内心冷や汗をかく香里。普段はポケポケとした天然娘の名雪だが、こういうときの勘は鋭い。もっともこれは、名雪自身が内に溜め込んでしまう体質なだけに、あまり顕在化しない部分だ。

 去年までの名雪なら、そういった事を感じても相手が話してくれるまで待っていたのだが、今の名雪からは困った事があったら相談して欲しい、という感じが見て取れた。

 そうした名雪の成長ぶり。おそらくは祐一の影響によるものを見るのは親友としても嬉しいものだと香里は思う。でも、やっぱり余計な心配をかけたくないという気持ちも働く。

「ううん、なんでもないわ。ほら、早く席に着かないと先生来るわよ?」

 そうして香里はいつも通りのスマイルを名雪に返す。それに釈然としない様子ながらも、名雪は席に着いた。

「よぉ、北川」

「よぉ、相沢」

 男二人もいつも通りの挨拶と、いつも通りの会話。

「随分しけた面してるじゃないか。なにかあったのか?」

「いや、別に……」

「じゃあ、なにか悪いものでも食ったのか?」

「お前と一緒にするな」

 そうしていつも通りに笑いあうバカ二人。乙女心の複雑さに比べると、シンプルさが目立つ二人であった。

 

「祐一〜 お昼休みだよ〜」

「おお」

 いつもの名雪の呼びかけで身を起こす祐一。寝てはいない、目を閉じて考え事をしているだけだとは、本人の談であるが。

 まあ、はたから見ていれば寝ているのと大差ないのだが……。

「今日は誰の日だったっけ?」

「今日は栞ちゃんの日だよ」

 お昼はみんなでお弁当、という事になっている。そこで名雪をはじめとして、栞や美汐達が持ち回りでお弁当を作ってくることになったのだ。

 今のところ祐一の口から『合格』をもらったのが佐祐理と名雪だけとあって、まだまだと評された栞は特に気合を入れて作ってくるのだが、佐祐理や名雪、ましてや秋子さんの領域には遠く及ばない。こうした栞の向上心は特筆に価するが、その反面作りすぎてしまう傾向があるのは玉に瑕だ。

 そこで祐一は、本当に俺に食べてもらいたい自信作だけを作るように提案したのだ。

 また、最近は香里も腕を振るうようになったので、ここ最近のお弁当は祐一の楽しみの一つとなっている。

 もっとも、祐一が一番楽しみなのは名雪のお弁当の日なのだが……。

「あれ? 香里どこ行くの?」

 お昼休みになると同時に席を立った親友に、名雪は声をかける。

「あ、ごめんね。ちょっと用事があるから……。お昼は一人で済ませるね」

 そう言って教室を出て行く香里の後姿には、いつも凛とした様子がなかった。

「なんだ? 北川もか?」

「ああ、悪いな……」

 名雪は香里を心配そうに見送っていたが、祐一はのんきに戦力減か、と呟いていた。

 そうこうしているうちに栞達の登場となり、お弁当の時間がはじまる。これは佐祐理達と食べていたときから半ば恒例となっており、祐一を慕う少女達が仲良く交流する儀式みたいなものになっている。元々祐一はこうした大勢での食事が好きな事もあり、ある意味身内に不幸を抱える少女達が望んだ結果ともいえた。

 具体例をあげれば、名雪は父親がおらず、祐一が来るまでは秋子と二人きりの食事。七年眠り続けたあゆは家族で過ごした思い出も少なく、真琴にはその記憶すらない。祐一も両親が健在であるものの、共稼ぎであるために一人きりの食事が多く、話によると祐姫も似たような状況だったらしいのだ。

 そういうわけで、名雪と二人きりの時間も大切だが、祐一はこうしてみんなと過ごす時間も大事にしているのだ。

 

「はぁ……」

 みんなでお弁当、となったのだが、ただ一人祐姫は深くため息をついており、箸も進んでいない様子。ちなみに並びは祐一を起点に右から名雪、祐姫、真琴、美汐、あゆ、栞となっている。祐一の右が名雪と言うのは定位置だが、その左側はお弁当の製作者に優先権がある。

「あの……祐姫さんはどうかしたんですか?」

 せっかく腕を振るったというのに、妙に浮かない様子の祐姫を心配して、栞がおずおずという感じで話しかけた。

 それになんでもありませんと答えつつも、祐姫は再度大きくため息をつく。

「……祐姫ちゃんは恋をしているみたいなんだよ」

 栞の隣で、あゆがそっと囁く。

「恋ですか……」

 その言葉に栞の瞳が明るく輝く。やはりこのあたりは女の子、恋の話には俄然興味がわく。

「そういえばお姉ちゃんも似たような状態でしたね」

「えっ? 香里もなの?」

 今朝から様子のおかしい親友を心配していた名雪が、思わず大きな声を出す。

「はい、私の長年の経験から言って間違いありません!」

 そう言って栞は小さな胸をはる。それはいいのだが、ある意味ここに集ったメンバーの中で、もっとも若い栞の長年の経験というのはどうにも胡散臭い。

 それはともかくとして、唐突に始まった少女達の恋愛談義を、祐一はどこか遠い世界の光景であるように感じはじめていた。

 

「祐一〜放課後だよ〜」

「おお」

 名雪の声で祐一はムクリと身を起こす。もはや定例となった行事だ。

「……今日も部活か?」

「あ……うん……」

 悲痛そうな顔で頷く名雪。本音を言えば、名雪も祐一と一緒にいたいのだ。

「部活、がんばれよ」

「うん!」

 泣いたカラスがもう笑う。そんなことわざが良く似合うくらい単純に名雪は笑顔に変わる。祐一にしてみれば、名雪の悲しそうな表情を見ていたくないというだけなのだが……。

 そんな二人のやり取りを、北川はしばし呆然と眺めていた。

 笑顔で教室を出ていく名雪を見送ったあと、祐一は妙な視線を感じて北川に向き直る。

「どうした? 北川……」

「いや、なんでもない……」

 仲むつまじい二人の様子に見とれていた、と北川は言えない。そのせいかごまかしかたもつっけんどんなものになってしまう。

「そういや朝から様子が変だったな……。よし、ここは俺のおごりでラーメンでも食いにいくか?」

「それは良いけど……。いいのか?」

 北川はちらりと香里を見る。

「たまには良いだろ? こうして男同士の親睦を深めるのもさ。……と、言うわけで香里……」

「はいはい、みんなにはあたしのほうから言っておけばいいんでしょ?」

 長い付き合い。というほど長くも付き合っていないが、即座に祐一の意図を了解する香里。

「お兄様〜放課後です……わ?」

 丁度そこに現われた祐姫が教室の中を見て、ただでさえ大きな瞳をさらに驚愕で見開いた。祐一と楽しげに会話をしている金髪の男性、彼こそが祐姫の思い人なのだ。それを見たとき祐姫は、思わず祐一達の元に駆け寄っていた。

「あ……あのっ! お名前は……?」

「え? あ……北川潤……」

「潤様……素敵なお名前……」

 突然教室に乱入してきた少女。リボンの色からして下級生の少女の剣幕に気おされつつも、北川は律儀に返事をする。一方祐姫は、憧れの人の名前を聞く事が出来、その感動のためかうっとりと瞳を閉じる。

「わたくし、相沢祐姫と申します!」

「……相沢?」

 妙に聞き憶えのある言葉に、北川は一瞬怪訝な顔をする。祐姫は真剣な表情で北川の瞳を見つめ、頬を紅潮させたまま言葉を続けた。

「潤様、お慕い申し上げております。どうかわたくしとおつきあいしてくださいませっ!」

 衝撃の告白に、教室内が静まり返る。それこそ耳が痛くなるような静寂に包まれた次の瞬間、教室内の誰もが同じ言葉を叫んだ。

 

「なにぃぃぃぃぃぃぃっ!」

 

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