第四話 過ぎ去りし、春の日常

 

「なあ、あゆ……」

「うぐぅ?」

 窓辺で祐一は、黙ってあゆの肩を抱き寄せる。これが比較的長身の名雪だったら頭が丁度目の位置にくるのだが、小柄なあゆの身体では頭が丁度顎の下あたりにくるのだ。淡い栗色の髪から漂うシャンプーの香りを楽しみながら、祐一は言葉を続ける。

「見てみろ、青い空……白い雲……。小さい事で悩んでる自分が馬鹿に思えてくるだろう……」

「……どうせボクは小さいもん……」

 笑顔の祐一とは対照的に、あゆの表情は暗く沈む。あゆに小さいと言うことが禁句であるのに祐一が気づくのは、これからちょうど四時間後の事だったりする。

「それにな、あゆ。春は英語でスプリングと言うだろう。それは春になるとみんな心がうきうきして、ぴょんぴょん飛び跳ねるからそう言うんだ」

 なにを言いたいのかがまるでわからず、あゆは怪訝そうな瞳で祐一を見上げた。

「そういえばさ、こんな話を……」

「祐一くん!」

 あゆは強い口調で祐一の話をさえぎった。

「……そろそろ現実に帰ってこようよ……」

「……頼む、もうしばらくは夢を見させてくれ……」

 

 事の起こりはほんの数分前だ。

 いつものように帰り支度をはじめたところに二年生コンビがやってきて、なにを思ったか祐姫がいきなり北川に愛を告白したのだ。

 突然の出来事に教室内に残っていたクラスメイトたちはざわめきをはじめ、とり残された美汐は教室の入り口で呆然と立ち尽くすのみだった。

 この現場を目撃した香里は踵を返して教室を立ち去り、北川は祐姫のタックルを受けた影響で頭から大量の血を流していた。普段ならもう社会復帰しているところなのだが、今回の出来事は北川にも衝撃的なのだと思われ、未だに回復する兆候を見せない。

 そこで祐一は事情を知らずに近寄ってきたあゆを相手に、現実逃避をしていたのだ。

「うるさいですよ、なにがあったんですか?」

 騒ぎを聞きつけたのか、生徒会長の久瀬が教室にやってくる。それに美汐は軽く一礼して、簡潔に事態を述べた。

 そのときの久瀬の顔は実に見ものであったと後に美汐は語る。メガネずり落ちてたし……。

 現実逃避に忙しかった祐一は、これを見逃した事をずっと後まで悔いていたと言う。

「……すまないが……。もう一度いってくれるかな……?」

「北川さんの事を好きだと仰る女生徒が現れたのです」

 まったく口調も変えないまま、美汐は同じ言葉を繰り返す。

「そうか……こうしてはいられないな……」

 ずれたメガネを元に戻しつつ、久瀬は奥歯をぎっとかみ締めた。

「安藤くん、安藤くんはいるか?」

「はい、こちらに……」

 彼女の名前は安藤奈津子。生徒会副会長を務める才女である。この学校の生徒会は何故か全員メガネ着用が義務付けられており、彼女もまた長い黒髪を三つ編みにし、メガネを着用している。

 もっともこれは、メガネっ娘と言えば三つ編みがデフォだろう、と言う久瀬の主張によりそうなっているだけなのだが、本人はあまり気にしていないようだ。

「これより緊急会議を行う、すぐに準備したまえ」

「はい、議題はなんでしょうか?」

 久瀬はちらりと騒然としたままの教室内を見た。

「北川くんに告白した女生徒がいる。その対策に関してだ」

「かしこまりました」

 軽く一礼して奈津子はその場を去る。

 まったくの余談だが、この騒動は学校全体に波及し、ついには緊急の職員会議まで開かれる事となった。

「潤様〜、わたくしとおつきあいしていただけませんか?」

 そんな騒動を微塵も感じず、祐姫は愛の告白を続ける。やがて、北川は力尽き、がっくりと頭をたれる。

「嬉しいですわ。潤様〜」

 その首の動きを了承の合図と受け取ったのか、祐姫は前以上に熱烈に北川の体を抱きしめる。

 すぐ脇でそのような出来事があるにもかかわらず、祐一はただ現実から目をそらすのに必死だった。

 

「で?」

 ひとしきりの騒動が終わった後で、祐一は生徒会室に呼び出された。

「で? とは?」

 両手をテーブルに叩きつけ、高圧的な態度を取る祐一は対照的に、久瀬は冷静にテーブルの上で腕組み、所謂ゲンドウタワーを作って応じていた。

「だからなんで俺が生徒会室に呼び出されなくちゃいかんのだっ!」

「聞けばあの女生徒は君の妹だそうじゃないか。問題を起こした生徒の保護者を呼び出すのは当然の事だと思うが?」

 いきなり妹の保護監督責任を押し付けられ、うろたえる祐一。たしかに教室内で堂々と告白する女生徒と言うのはなにかと問題がある。

 校内の風紀、秩序を保つと言う意味では正論と言えるだろう。

「大体君だって、不特定多数と不純異性交遊をしているじゃないか」

「特定多数と純粋異性交遊だっ!」

 それだけは譲れない一線だ。祐一も誰彼構わず付き合っているわけではない。あの一冬の体験を通じて知り合った女の子達は仲間だと思っているし、友情も感じている。それに祐一が好きなのはあくまでも名雪だ。だからそう言われるのだけは我慢がならない。

 だが、傍からみているとそうとしか見えないと言うのが問題だ。しかも祐一のそばにいるのは校内でもランクの高い美少女ばかり。いらないやっかみが入るのも無理は無い。

「まあ、君を呼び出したのはその事を責めるためではない、むしろ妹さんに関しての事だ」

「どういう事だよ」

 祐姫も校内美少女ランキングをすればベストテンに入る事は間違いないだろうし、それが北川に告白したのなら騒ぎになるのもわかる気がする。

 だが、久瀬が言いたいのはそういう事ではないようだ。

「君は北川君についてどれだけの事を知っている?」

「どれだけって……」

 そこで祐一は言葉に詰まってしまう。考えてみると、北川についてはなにも知らないのだ。

 せいぜいわかっているのはアルバイトをしている事や、人形発掘の際に手伝ってもらった事ぐらいだ。後はクラスメイトとしての認識しかない。

「ああ見えて北川君も下級生の女子に人気が高くてね、誰が恋人になるかを競っていたんだが、ある意味お互いに牽制しあっていた状態だったんだ」

 流石の祐一もこれは初耳だ。

「今まで彼の周りにいた女子。水瀬さんと美坂さんの二人を相手にしては、とても勝ち目は無いと思ったんだろうな」

 確かにこの二人は校内でも双璧とも呼ばれるほどの美少女である。

「君が転校してくる事でこの事態に変化が訪れてね、このうち君が水瀬さんと恋仲になる事で残りもカップル成立か、と周囲では思っていたのだよ」

「ところがそうはならなかった、と……」

 その言葉に久瀬は静かに首肯する。

「美坂さんが北川君の相手なら問題はなかったのだが……」

 大方の予想に反して二人はくっつく素振りすら見せなかったのだ。この微妙で曖昧な関係を周囲に人間はやきもきしながら見ていたのだろう。そのあたりは祐一にも容易に想像できた。

「まあ、過ぎた事を悔いてもしょうがない。むしろ本題はここからだ」

 ゲンドウタワーを崩さぬまま、久瀬は真剣な目で祐一を見た。

「今回の一件で、今まで微妙に保たれていた均衡が大きく崩れてしまう事になった。今後北川君の周囲でなんらかの騒動が起きるであろう事は想像に難くないと思うが?」

「まさか……」

「美坂さんが相手ならまだあきらめもついただろう。ところが、相手は君の妹さんだ。最悪の場合彼女の身になんらかの被害が及ぶ可能性がある……」

 そう言われて祐一は息をのむ。

「もうすでに教師陣も対策に動いている。生徒会側としても、手をこまねいて見ているわけにはいかないのだよ」

 なんだかよくはわからないが、祐一の知らないところで色々と話が動いているらしい。

「……まったく、なぜ僕の任期中にこうも問題ばかり起きるんだ……」

「それが本音かっ! 一体なんのための生徒会なんだ?」

「まじめな生徒のための生徒会だよ。だから今はまじめな生徒のために活動している」

 完璧なまでの正論に祐一は言葉に詰まる。確かに祐姫が不真面目な生徒だという話は聞いた事が無い。それに生徒会は祐姫を守ろうと言う趣旨で活動しようとしているらしい。久瀬の本音はともかくとしても、生徒会は祐一に味方してくれるようだ。

「そこで今回君を呼び出した理由だ。学校内の事であれば職員なり生徒会員なりで対処は可能だが、校外の事となると手がおえない場合もある。そこでだ……」

「俺に祐姫のガードにつけ、と言うわけだな?」

 話が早い、と言わんばかりに久瀬は意味ありげな笑みを浮かべる。

「別に君一人でする必要は無い。祐姫さんも女の子だ、とにかく彼女が一人きりにならないように気を配ってくれればそれでいい」

 

「と、いうわけなんだ。頼めるか? 天野」

「はい、私でよろしければ」

 生徒会室に呼び出された後、祐一は教室で待っていたあゆ、真琴、栞、美汐と一緒に百花屋に来ていた。祐一はとりあえずこのメンバーに事の次第を説明し、協力を要請する事にしたのだ。特に美汐は祐姫と同じクラスだ、ある意味もっともうってつけの人物であるといえる。

 ちなみに祐姫はというと、復活した北川がパニックで逃げ出したために、その後を追いかけていってしまったのだそうだ。まあ祐一も同じ男として、逃げ出したくなる気持ちもわからないでもない。ある意味女の子の恋心とは、男にとっては恐怖の対象にすらなりうるのだから。

「……でも、まさか祐姫さんにあんな情熱的な一面があるなんて思っても見ませんでした」

 バニラアイスを口に含みつつ、栞が感心したような声を出した。ちなみに、これは祐一のおごりではない。

「そうだね、ボクもビックリしたもん……」

 と、あゆ。こちらは小倉のアイスだ。

「あう〜、恋は唐突だっていうけど……」

 と、自分の大好きなマンガの一節を引用する真琴。こちらは美汐と一緒の抹茶アイスだ。その隣ではかいがいしく美汐が真琴の世話をしている。

「まあ、なにも起きないのが一番なんだが、万一を考えてな。あゆ達もいいか?」

「うん、ボクはいいよ」

「あう、真琴も〜」

「私もかまいませんよ。それに、ドラマみたいで格好いいじゃないですか」

 約一名的外れなものがいるような気がするが、一応の賛同は得られたようだ。ここにいる誰もが祐一に恋する少女なだけに、北川に恋する祐姫の気持ちもわかるのだろう。

 多少の方向性は別にしても……。

 そのとき、カランカラ〜ンとドアベルがなり、新しい客が入ってきた。

「あ、名雪さ〜ん」

 丁度入り口のほうを見ていたあゆが大きく手を振って名雪を招き寄せる。祐一たちの座っている席は六人がけのテーブルで、祐一のとなりに栞、その向かいにあゆ、真琴、美汐が並んでいる。祐一は名雪の席をつくるために、栞に頼んで一つ席をずらした。

 席に着くなりイチゴサンデーを注文するところが、いかにも名雪らしいが……。

「あ、そうだ祐一。ちょっと聞きたいんだけど……」

「ん?」

「祐姫ちゃんと北川くんの間に子供がいるって本当?」

 

 だごしゃぁぁぁぁぁっ!!

 

 名雪の爆弾発言に、祐一たちは全員テーブルに頭をぶつけてしまう。

「どこでそういう話を聞いたんだ?」

「う……」

 なんでも祐姫と北川とは七年程前に出会って別れた恋人同士で、この学校に祐姫が転校して来る事で再会した運命の二人なのらしい。

 どこかで聞いたような気もするが、噂話と言うのは本来そうしたものだろう。結局のところ事実が人を経由していくうちに、個人の想像力が追加されてしまうために、元の話とは大きくかけ離れた内容になってしまうのだ。

「じゃあ、そう言う話はなかったんだ」

 そう言って名雪はほっと胸をなでおろした。

「まあ、それはちょっとおいといてだな、名雪にも頼みたい事があるんだ」

 祐一は名雪にも事情を説明していく。

「うん、そういう事なら私はおっけーだよ」

 名雪は満面の笑みで承諾してくれる。なんといっても名雪は人の機微を見るのが聡い。それに祐姫とは同室だ、なにかがあればすぐにわかるだろう。

 こうして祐一は、とりあえず今の自分に出来そうな手を全て打ち終えたが、それと引き換えに平穏な日常が遠くにすぎさっていったように感じた。

 

 さて、そのころ北川と祐姫は……。

「のわぁぁぁぁっ!」

「潤様、お待ちください。待ってください〜!」

 赤い夕日を追いかけて、どこまでもどこまでも走っていたそうな。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送