第五話 お弁当パニック♪
「祐一〜、お昼休みだよ〜」
「おお……」
いつものお昼のいつものやり取り。あの衝撃の告白から一週間ほど経過したが、いまだ事態は平穏の渦中にあった。
一応久瀬からは注意を勧告されてはいたが、今までにこれといった被害もないために、祐一はなんとなく拍子抜けしていた。
もしかしたら、このままなにも起きないかもしれない。祐一としては出来る事ならそのほうがいいのだが、今はまだ雌伏のときで、そのうち大爆発するのではないかとも思われる。
それだけに予断を許さない状況というのが現状だろう。
そんなささくれ立った神経を癒す時間。このお昼のひと時は今の祐一にとってはなによりも大切なものになっていた。
「今日は誰の番だ?」
「あゆちゃんだよ」
あの冬の日。真っ黒にこげた碁石を作っていた少女は今ではすっかり腕を上げており、その上達振りは祐一の喜びとするところだ。娘の成長を見守る父親というのは、もしかするとこんな気持ちなのかもしれない。
あゆは名雪や秋子さんに師事する事で料理の腕を上げたが、それと対照的なのが真琴だった。
真琴も祐一に自分の作った料理を食べてもらいたいと常々思っているのだが、生来天邪鬼な気質であるために素直になれない。料理を教えてもらう相手が名雪でも秋子さんでもかまわないはずなのだが、真琴が選んだのは美汐だった。
だが、それが真琴の失敗になるとは、誰も予想し得なかったのだ。
「いいですか? 真琴。にんじんはイチョウに、他はコクチに切りそろえます……」
「あうあうあうあう……」
「次にそれをひたひたの水で……」
「あうあうあうあう……」
料理初心者の真琴に、和食を得意とする美汐の指導は意味不明な専門用語の羅列でさっぱりわけがわからない。美汐にとってはある意味これが当たり前なのだが、やはり真琴には荷が重すぎたのだろう。そんな真琴が料理をあきらめ、食べる専門になったとしても誰が責められようか。
「あれ? 香里、どうしたの?」
お昼休みになるなり教室を出て行こうとした親友を呼び止める名雪。
「あ……ごめんね、今日もちょっと用事があって」
「またかよ、ここ一週間ばかりずっとそうじゃないか」
「女の子には、色々とあるものなのよ」
祐一の声に香里はいつものように返す。だが、その口調はどこか弱々しく感じられた。
「なんだそりゃ?」
「言葉どおりよ」
いつもの台詞を残し、香里は教室を出て行く。
「じゃ、俺も……」
「いや、お前は逃がさん」
香里の後に続いて教室を出て行こうとした北川を、祐一はがしっと捕まえる。
戦力の確保が第一の理由であるが、祐一にはもう一つ心算があった。それは……。
「祐一く〜ん、お昼休みだよ〜」
「潤様〜、お昼休みですわ〜」
こうしてお昼はみんなでお弁当なのだし、そのときに祐姫と北川の仲の良いところを見せ付けるようにすれば、余計なやっかみを背負う必要もなくなるのではないかと考えたのだ。祐一と名雪がそうであるように。
それに、正直な話祐姫の幸せを願う気持ちもある。こうして少しでも兄らしいところを見せたいというのが本音だ。
もっとも、この場合は北川の事情は考慮されていないが……。まあ、祐姫のアプローチにどぎまぎする北川を見ているのが面白いというのもある。
結局、祐一もヒマなのだ。
「あの……潤様。わたくし、今日は潤様のためにお弁当を作ってまいりました……」
「オレにか……?」
その瞬間北川の両目から滂沱の涙が溢れ出した。
「いきなりどうした?」
「だってな……女の子がオレのためにお弁当を作ってきてくれるなんて……」
実際北川が望むのならお弁当を作ってあげたいと思う女子生徒の数はかなりの数に上るだろう。ただ、普段彼の周りにいる女子生徒、祐一を中心に集まったメンバーを前にしてはどうしても影が薄くなってしまうであろう事は容易に想像できた。
特に佐祐理と名雪、単純に料理の腕前では双璧となる二人を相手に料理勝負を挑むのは無謀であるともいえるし、北川も相伴という形でそれを味わっているので、その舌はかなり鍛えられているのだ。
ただ、これらのお弁当はあくまでも祐一のために作られたものだ。その意味で祐姫の作ったお弁当は、紛れもなく北川のために作られているものであり、感涙にむせび泣くのも無理のない事だ。
「祐姫がお弁当をね……」
「うん、今日祐姫ちゃん早起きして、北川くんのために一生懸命作ってたんだよ」
祐一の左隣であゆが我が事のように胸をはる。今朝方は一緒にお弁当作りをしたせいか、奇妙な連帯感で結ばれているようだ。
ふたを開けると、そこには色とりどりのおかずが並んでいる。その配色の見事さは、かなり洗練されたもののように思えた。
「いただきます」
丁寧に両手で箸を持ってお辞儀をする北川。そして、北川がたこさんウインナーを口に運ぶまでの全てを見逃すまいと、真剣な表情で見つめる祐姫。
全員の視線が集中する中、北川はゆっくりと咀嚼し飲み下す。
「ごふっ……」
そして、北川は倒れた……。
「潤様、しっかりしてください! 潤様っ!」
「……そんなに酷い出来なのか……?」
あわてて北川を介抱する祐姫を横目で見ながら、祐一はまともそうに見えるおかずに箸を伸ばした。
(見た目は大丈夫だな……)
一時期のあゆと違い、少なくとも黒焦げで歯が立たないという事はなさそうだ。それに安心して祐一は、北川と同じくたこさんウインナーを口に運ぶ。
「うぶっ!」
その瞬間どろりとした感触を味わい、祐一の意識は闇に落ちていった……。
「……ここは……?」
気がついた祐一が見たものは、不思議な風景だった。
柔らかな日差しと綺麗な花。梢では小鳥が歌い、遠くからは小川のせせらぎが聞こえてくる。
ここはあまりにも幻想的であり、のどかで平和な雰囲気に包まれていた。
もしかすると、天国というのはこのような風景なのかもしれない。
「ん……? あれは……」
そんな風景の中、祐一は見知った顔を見つけた。金色の髪に特徴的な一本の癖毛、まぎれもなくそいつは親友北川だ。
北川は今まさに川を渡ろうとしている。それを見たとき祐一は、全身にいやな予感が駆け巡った。
「おい、北川。まてっ!」
あわてて祐一は川に入り、北川の肩をつかんで引き戻す。
「相沢?」
振り向いた北川は、祐一を見るなり鳩が豆鉄砲を食らったように驚いた。
「相沢? じゃねえよ。お前この川渡ったらどうなるって思ってるんだ?」
これが噂に聞くあの川なら、洒落にならない。
「そうはいってもよ、あれ見ろよ」
祐一は北川が指すほうを見る。するとそこにはナイスバディの綺麗なお姉さんがいて、二人を手招きしていた。
「おお……」
思わず祐一もお姉さんのほうに足を向ける。
「だめだよ、そっちにいっちゃ」
その声に振り向くと、そこには背中に白い翼を生やしたあゆそっくりの少女がいた。
「そっちにいったら帰れなくなるよ。それでもいいの?」
「そうはいっても……」
「なあ……」
祐一は北川と互いに顔を見合わせる。
かたやナイスバディのお姉さん。かたやあゆそっくりなスレンダーな少女。
どちらを選ぶのかなど答えを言うまでもない。二人はあゆそっくりの少女に背を向けてお姉さんのほうに一歩を踏み出した。
「ちょ……ちょっと、帰れなくなるんだよ?」
よく見るとナイスバディのお姉さんは服を脱ぎ始めており、グラマラスなボディラインを惜しげもなく披露しようとしている。鼻の下が伸びた二人がそれに惹かれているのだという事は、このあゆそっくりな少女でなくても良くわかる。
勝ち誇ったかのような妖艶な笑みを浮かべる川向こうのお姉さんの姿に、あゆそっくりの少女は小さな身体全体に怒りをみなぎらせた。
「馬鹿〜っ!」
あゆそっくりの少女の生み出した稲妻が二人を射抜く。その衝撃で祐一と北川の意識は再び闇に落ちた。
「はっ……? 俺は一体、今までなにを……」
「祐一くん、大丈夫?」
ふと気がつくと、祐一はあゆの膝枕で横たわっていた。こうして見上げてみると意外に大きなあゆのふくらみが目に入る。そこで祐一は少しだけあゆの感触を味わう事にした。
数字の上では小さめの部類に入るあゆなれど、他もコンパクトにできているために小柄だけどグラマーという相反する要素を兼ね備えているのだ。無論その心地よさで名雪とは比べ物にならないが、この弾力には目を見張るものがある。あゆも成長してるんだな、と祐一はしみじみ思った。
「……気がついたんだったら、早く起きたほうがいいと思うよ……」
「なんでだ?」
不意にあゆが小声で話しかけてきたので、祐一はふと我に返る。ここは水瀬家ではなく教室。そして、ここにいるのはあゆだけではない。
「……名雪さんがあんなものすごい顔で怒ってるよ……」
その次の瞬間、祐一はばね仕掛けの人形のように跳ね起きた。
鋭く凍てついた氷の刃のような殺気が祐一に襲いかかる。恐る恐るその方向を見ると、そこには名雪の素敵な笑顔があった。
その目は、どうしてわたしのほうに倒れてこなかったの? とでも言いたげなのだが、そこには祐一の身体を心配する色も含まれている。乙女心とは複雑なものだ。
「祐一、大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫大丈夫、ほれ……」
祐一が力瘤を作り、少しおどけて見せるとそれに安心したのか、名雪の表情から険が取れる。
「そんなに酷い味なの?」
そう言って祐姫のお弁当に箸を伸ばそうとした名雪を、祐一はあわてて止める。
「やめとけ、名雪。お花畑が見えるぞ……」
それを聞いた名雪の表情が一瞬にして凍りつく。そんな中、祐姫の膝枕で気絶していた北川がバネ仕掛けの人形のように跳ね起き、お弁当をがつがつと食べはじめた。
「お……おい、北川……」
「これは、俺のために作ってくれた弁当だ。食ってやるのが漢ってもんだろ?」
「北川……」
「美味い、美味いよ祐姫ちゃん……」
目から大粒の涙を流しながら、お弁当を平らげていく北川。
祐一はそこに、真の漢の姿を見たような気がした。知らずに祐一の目からも二筋三筋と涙があふれる。
「漢だぜ、北川……」
結局この日のお弁当はせっかくあゆが腕を振るったのだが、祐姫のお弁当のせいで味がわからずじまいだった。
「祐一〜、放課後だよ〜」
「……ああ……」
いつもの放課後のやり取りであるが、なぜか祐一は物憂げな瞳で窓の外を眺めながら返事を返し、その後ろの席では北川も同じようにして窓の外を眺めていた。
「……なあ、相沢……」
「なんだ? 北川……」
「桜の散り際って、どうしてこうも物悲しいんだろうな……」
「さあな……」
「やっぱりあれかな、ぱっと咲いてぱっと散る。そこに粋があるからなのかな……」
「さあな……」
奇妙な男二人のやり取りがかわされる。
「ちょっと、どうしたのよ二人とも」
「う〜ん……」
あまりの奇妙さに香里が大声を上げる。それに対して名雪はかわいらしく小首を傾けるだけだ。
「……なにか変なものでも食べたんじゃないでしょうね?」
「そういえば……」
名雪には思い当たる事があった。
「二人ともお昼に祐姫ちゃんの作ったお弁当食べてたよ……」
「それはどういう意味でございますか? 名雪お姉様……」
丁度そこに祐姫が現れた。いつも通りの温和そうな表情からはそうは見えないが、どうやら祐姫は怒っているようだ。
「祐姫ちゃん、ちゃんと味見とかした?」
「しておりませんわ」
祐姫はきっぱりと言い切った。名雪に比べるといささか貧弱であるが、形の良い胸をそらせて。
「……だからだよ……」
名雪は頭を抱えてしまう。
「せめて味見くらいはしたほうがいいと思うよ……」
「つまり、名雪お姉さまはわたくしの料理が不味い。そう仰りたいわけですね?」
「う……」
はっきりそう言ってあげるのが祐姫のためなのかもしれない。でも、名雪の性格上そういう事はできない。
「よお〜くわかりましたわ……」
う〜ふ〜ふ、と妖しい微笑を浮かべる祐姫。
「こうなりましたらわたくしにも意地というものがございます。絶対に美味しいお弁当を作ってごらんにいれますわ」
「あ、ちょっと待ってよ祐姫ちゃん」
鬼気迫る表情で教室を出て行く祐姫をあわてて名雪は追いかける。だからだろう、祐姫を見たときの香里に表情に、誰も気がつくものはいなかった。
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