第六話 彼氏彼女の事情

 

「はあ……」

 放課後の部室で、美坂香里はこの日何度目になるかわからないため息をついていた。

 窓の外では陸上部が元気に走り回っており、その中で部長を勤める名雪の姿は、今の香里にはとてもまぶしく見えた。

 彼氏がいて、生活が充実していると、誰もがあんな幸せそうな笑顔になれるのかしら?

 ふと心に浮かんだ疑問に、香里は再び物憂げなため息をつく。そのため息の正体は、クラスメイトの北川潤にあった。

 突然の北川からの告白。今までずっとただのクラスメイトだと思っていた相手からの告白。香里にしても北川の事が嫌いというわけでなく、むしろ好きな部類に入る男子だ。ただし、それはあくまでも友達と言う観点からの話で、一人の男性としてどうかは香里にもわからないだろう。

 そんな急すぎる北川の告白に応えられなかったのは、別に香里のせいではない。

 だが、そのことは祐姫にチャンスをもたらす事となった。

 あんなにもまっすぐに自分の気持ちを相手にぶつけるなんて、自分にはとても出来ない事だと香里は思う。

 なぜなら、香里は頭がいいから。

 いつでも自分が一番傷つかないですむ方法を思いついてしまうから。

 いつでも逃げ道を用意してしまうから……。

 あの日の香里は、栞が次の誕生日まで生きられないと聞かされたときに、自分には妹がいないんだと思い込もうとしていたから。

「……莫迦みたいね……」

 ふと、窓ガラスに映る自分自身に向かって、そんな言葉が唇から漏れる。

「なにも変わってないじゃないの……」

 その口元には妖しく、そして自嘲めいた笑みが浮かぶ。

「あのときのあたしと、なんにも……」

 自分でも気が付かないうちに香里の瞳から涙があふれて頬に一筋伝い、低く物悲しい嗚咽が誰もいない部室に響く。その涙はなんの涙なのか。

 栞に起きた奇跡。それは今にして思えば、偶然の産物であったのかもしれない。

 名雪と香里が親友である偶然。名雪と祐一がいとこ同士であるという偶然。香里と栞が姉妹である偶然。そして、祐一と栞が出会った偶然。

 そうなると、北川が祐姫と出会ったのも偶然の産物なのだろうか?

 わからない……。

 どんなに考えても答えは出ない。

 人と人の出会いや、恋愛には教科書や参考書がないから。

 そもそも、それには答えがあるものではないのだから……。

 

「ふられる方法?」

「ああ」

 窓の外の校庭を名雪が走る。揺れる胸、躍動する太腿。気のせいか、他に部活動で校庭を使っている男子生徒が名雪を見ているようにも思える祐一。

 見るんじゃねえ、そいつは俺のだ。と心の中で呟きつつ、祐一は聞き返した。

「北川、お前本気か?」

「当然」

 北川は鷹揚にうなずく。その瞳にはある種の決意の色が秘められていた。

「祐姫のどこが気に入らないんだ? 顔か?」

「顔は可愛い」

「プロポーション?」

「スレンダーだが悪くない」

「性格?」

「素直で明るい」

「声?」

「澄んでてきれいだ」

 こうして聞いてみても、祐一は祐姫のどこに不満があるのかわからない。兄の欲目というわけでもないが、ある意味自慢の妹ともいえるからだ。

「お前の事を『義兄さん』と呼ぶ事になるが?」

「ふられる方法か……う〜む……」

 北川にそう言われて祐一は真剣に考え込む。予想していなかったわけではないが、こうして言われてみるとちょっとだけ違和感がある。

「まあ、それはともかくとして、やっぱりお前は祐姫じゃなくて、他に好きなやつでもいるのか?」

「それは……」

「やっぱり、香里か?」

 その名が出た途端、不意に北川は押し黙ってしまう。どうやらこれが地雷のようだ。

 最近香里の様子もどこかおかしい。祐一はあまり気にはしていないが、名雪は親友として香里の事を心配している。祐一と違って香里は頭もいいし、なにかと頼れる人柄なだけに大丈夫なのではないかとも思うが、やはり香里も女の子。人にはいえない悩みの一つや二つくらいあるだろう。

 相談してくれるのならいくらでも応えてやる事は出来るが、向こうが話したくないようなことを根掘り葉掘り聞き出すのは得策ではない。

 それに香里は悩み事を自分の中に溜め込んでしまう傾向があるように見える。名雪も似たようなタイプなので、祐一にはその事がよくわかるのだ。

 もっとも、名雪に言わせれば『祐一と香里はそっくりだよ』との事だが。

「ああ、じつはな……」

 北川は校庭を眺めつつ遠い目をして話しはじめた。

「美坂に告白したんだ」

 それを聞いて祐一は、ああ、と軽くうなずいた。ここ最近の二人の様子がおかしかったのは、そのあたりに原因があったのだ。

「それでどうした?」

「ふられた」

 やや自嘲気味の笑みを浮かべ、北川はそう言う。

「まあ、あれだよな……」

 北川の視線が祐一に向く。

「お前と水瀬の仲がいいところを見て、それでオレもって思って告白しても上手くいくわけないよな」

「なるほどな」

 おそらく、北川の告白は香里にとって急すぎたのだろう。今までずっと近くにいて、お互いに信頼しあえていたとしても、それで一足飛びに恋愛関係に発展するわけがない。

 結局のところ、下手をすれば今まで築き上げてきた関係を壊しかねない。今の状況がそうであるように。

「そして、チャンスは祐姫に回ってきたと……」

「ああ……」

 再び北川は深くため息をついて押し黙ってしまう。

「まじめな話、お前祐姫の事はどう思っているんだ?」

「どうって言われてもな……」

 普段は軽妙なノリの北川の表情が、このときばかりは真剣なものに代わる。それは男の祐一から見てもドキッとするようなものだ。もし北川のこんな表情を見た女の子がいたなら、まず確実に一目ぼれするだろう。ひょっとしたら祐姫も、北川のこの表情を見たのかもしれないのだ。

「確かに可愛いとは思うし、性格的に難があるというわけじゃない。ただな……」

「ただ?」

「女の子の方から告白されたなんてオレ初めてだからさ、だから……どう応えていいかわからなくてさ」

 どうやら北川は自分のほうから好きになる事はあっても、誰かに好きになられた事はないらしい。だからこそ余計に祐姫みたいに全身でぶつかってくるような愛情には免疫がないのだろう。

「なんだ、結局お前も意識してるんじゃないか。祐姫の事……」

「まあ、あれだけ可愛い子だからな。悪い気はしない……」

 二人は互いに顔を見合わせ、軽く口元で笑いあう。

「まあ、今は悩めよ」

 先に口を開いたのは祐一だった。

「悩んで、悩みぬいたすえにお前が出した結論なら、祐姫もわかってくれるさ」

「そういうものかな?」

「だからといって、いつまでも祐姫を待たせるなよ。これは兄としての忠告だ」

 

「お疲れ〜」

「お疲れ様で〜す」

 西の空が茜色に染まろうとするころ、元気な黄色い声が一人、また一人と家路に着いていく。放課後の充実したときを過ごし、どの顔も皆一様に輝いて見える。

 やはりなにかに打ちこんでいる人の顔は、どこかいつもとは違う印象を与えるものなのだろう。部長という立場から部員達を見た名雪は、ふとそんな事を考えた。

「やっほ、名雪」

「あ、香里〜」

「今から帰るところなら、一緒に帰りましょ」

「うん、待っててね。すぐ着替えてくるから」

 女の子二人が一緒に下校、そうなると自然に足が向くのが商店街である。

「珍しい事もあるものね」

「なにが?」

「名雪が百花屋以外のお店に行くのがよ」

 ここは商店街の百花屋のある通りから一本奥に入った通りの甘味どころ。ここは百花屋のような洋風の店とは違い、餡蜜やぜんざいを主体とした和風のお店だ。

「ここなら誰も来ないだろうからね」

 ここは表通りの百花屋の派手さとは違い、どちらかといえば裏通りにある地味な店だ。それだけに知る人ぞ知るスポットとなっており、女の子好みの甘いもの屋なだけに女の子同士の内緒話をするにはうってつけのお店なのだ

「なにか悩んでる事があるんでしょ? 香里」

 名雪の笑顔に、香里は観念するしかないかと思った。

「うん……実はね……」

 香里はかいつまんで事情を話していく。北川に告白された事、自分がそれに応えられなかった事。そして、祐姫の事。

「それで、香里はどうしたいの?」

「どう……って言われても……」

 不意に香里は押し黙ってしまう。それが一番の悩みどころなのだから。

「……わからない……のよね……」

 自嘲を含んだ笑みが香里の口元から漏れる。ここ最近の香里はずっとこんな状態を繰り返していた。

「名雪は……どうだった?」

「どうって……」

「相沢くん」

 その名が出た途端に名雪は押し黙ってしまう。だが、やがて意を決したように口を開いた。

「祐一から好きって言われたときには、わたしどうしていいかわからなかった。だって祐一はわたしの事なんて見ていないって思ってたから……」

 七年前、名雪は雪ウサギを持って祐一を探しに出かけた。名雪としてはなかなか帰ってこない祐一を心配していたし、なによりも自分でつくった雪ウサギを見てほしかったから。

 あちこち探し回って、名雪は祐一が駅前のベンチで泣いているのを見つけた。きっと誰かと悲しいお別れをしたんだろう、直感的に名雪はそう思った。

 子供のころから祐一は両親の仕事の都合で転校が多く、そのたびに悲しい別れを経験していた。名雪も母と二人暮しであるため、一人ぼっちのつらさや悲しさについて誰よりも良く知っていた。

 だから名雪は自分がそばにいてあげる、そんな気持ちで祐一に雪ウサギを差し出すが、それは次の瞬間に見るも無残な姿に変わる。ほかならぬ、祐一自身の小さな手によって。

 そのときに名雪はわかった。祐一は自分を必要としていないのだと。翌日にくるはずのない祐一を待ち続けたのも、それを証明するものだ。

 翌年から祐一がこの街を訪れる事はなくなり、名雪もそれまでしていた三つ編みを解いた。

 そして七年の歳月が流れ去り、その間に名雪は祐一に手紙を書いたりもしたが、一通も返事は来なかった。きっと祐一は忙しいんだろう、そう思う事で名雪は自分を納得させた。

「……あのときにわたしは、祐一にふられているんだよ……」

「でも、名雪は待っていられた。そうよね?」

「あれから七年たって、祐一がまた家に来るって聞いたとき、わたし……怖かった……」

 祐一の名雪が不安に思う気持ちを香里は知っている。その二日前には映画に誘っているし、前日には電話もかけているからだ。そのときの名雪は嬉しい気持ちとどこか不安に思う気持ちとがごちゃ混ぜになり、躁鬱を繰り返しているような状態だったからだ。

 待ち合わせの時間から二時間遅刻したというのも、なんとなく判る気もする。

 でも、はじめて祐一が教室に入ってきたときの名雪の笑顔を、香里は生涯忘れないだろう。あんなにも輝いた名雪の笑顔を見たのは、後にも先にもあれが初めてだ。

「祐一は昔のこと忘れてたみたいだから……だから、突然あんな事言われるなんて思ってもみなかったよ」

 突然の告白に名雪は自分の気持ちがわからなくなってしまったのだ。祐一を好きな気持ちは確かにあるが、それはあくまでもいとことして、家族としての気持ちだ。でも、祐一は名雪をひとりの女の子として好きだと言う。だからこそ余計にわからなくなってしまったのだ。

 このあたりの事情は香里も似たようなものだ。ただ、決定的に違うのは、香里は北川を拒絶してしまい、その間に祐姫が告白してしまったという事だ。

「だからね、今香里がわたしと同じような事で悩んでいるんだとしたら……」

 そこまで言って名雪は軽く微笑む。それは見るものを和ませ、暖かい気持ちにさせてくれるような、そんなやわらかい微笑だった。

「素直になればいいと思うよ」

「素直に?」

 名雪は軽くうなずいた。

「あの時わたし、いっぱい考えたよ。あんまり頭はよくないけれど、一生懸命考えたんだよ。でもどんなに考えても、答えは同じだった……」

 そして、名雪は祐一の告白を受け入れたのだ。

「だからね、香里。ふぁいと♪ だよ」

 いつもは力が抜けるような名雪の声。でも、今は優しく背中を押してくれるようにも思える。

 少しだけ気持ちが軽くなったような気がして、香里は名雪とわかれて家路についた。

 

「もう一度聞こう……」

 ここは水瀬家の食卓。この日秋子は仕事で帰りが遅くなるため、夕食は先に摂っていてくださいという伝言を残して不在だった。これが名雪と二人きりだったころには多少無理をしてでも帰ってきたのだが、今は祐一さんがいるから大丈夫ですね、とは秋子さんの談だ。

 もっとも、祐一は一つ屋根の下に若い男女がいて、別の心配はないんですかと問いたいところだ。とはいえ、同居しているのが名雪、あゆ、真琴、祐姫という具合に女の子ばかりでは、当の祐一もかなり肩身が狭いものなのだが。

「……今晩の夕食を作ったのは誰だ?」

 テーブルの上に山盛りになった鳥のから揚げを見て、祐一はうめくように口を開いた。

「あゆちゃんと祐姫ちゃんだよ」

 いつもの様子で名雪が答えるが、その口調はいつもののほほんとした様子がなく、なにかにおびえているようだ。

「で? どっちが祐姫の作ったもので、どっちがあゆの作ったものなんだ?」

 その言葉に、一同はため息混じりにから揚げの山を見る。あゆが作ったものならまだ食べられもするが、祐姫の作ったものははっきり言って毒だ。なまじ見た目がいいから余計に始末が悪い。

 一時期のあゆが作っていた黒焦げの物体なら、まだ回避もできるのだが。

「……これじゃ、まるでロシアンルーレットだ……」

 祐一の呟きに名雪達はただ沈黙するしかなかった。

 

 さて、一方祐姫は。

「潤様〜」

 から揚げの味見で力尽き、リビングのソファで幸せな夢を見ていた。

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