第十六話 夏の終わりに

 

 楽しい海での出来事を終え、祐一達は順調に夏休みを消化していった。

「……納得いかねぇ……」

 そして、ふと気がつくと夏休みももうすぐ終わりに近づいていた。

 冬の寒さが厳しいこの地方では、夏休みが短い分二月に休みがあるのだが、だからといって夏休みの宿題が少なくなるわけではないのだ。

「……納得いかねぇ……」

 そんなわけで祐一達は水瀬家に集まり、祐一の部屋で夏休みの宿題の最後の頑張りに入っていた。特に祐一は今年受験という立場であり、夏を制するものが受験を制するという格言もあるとおり、夏休みの宿題を片付ける以上に勉強をしなくてはいけない立場であった。

「なにをぶつくさ言ってるのよ?」

 問題集から祐一が顔をあげると、そこには呆れた様子の香里がいる。すでに夏休みの宿題を全て終了し、幾分晴れ晴れとした表情だ。

 学年トップの成績を誇る香里がすでに夏休みの宿題を終えているのはある意味想像の範囲内なのだが、祐一の想像をはるかに超えていたのが名雪もすでに夏休みの宿題を終えていると言う事だった。

 どうやら祐一の思う以上に名雪はしっかりしているらしい。部活にいそしんで大会にも出場して全国で勇名を馳せているにも関らず、普段のこうした勉強もおろそかにしていないのは流石だと祐一は思う。

 そこで祐一が名雪に夏休みの宿題を見せてくれと泣きついたのは、ある意味当然の帰結といえた。

 こういう事は自分でやらないとダメだよ、といつもの様子でやんわりとたしなめるように言いつつも祐一に宿題を差し出そうとした名雪ではあったが、どこからかそれを聞きつけた香里によってそれを阻止されてしまったのだ。

 確かに香里に夏休みの宿題を見てもらえるなら安心であるといえるが、そのあまりの厳しさに祐一は早くもくじけそうになっていた。

「さっきから手が止まってるわよ? 一体どうしたのよ……」

「だってなあ……」

 祐一が顔を向けたほうには、同じく夏休みの宿題と格闘しているあゆと真琴の姿がある。

「ねえ、名雪。ここは?」

「えっと……そこはね。ここの関係代名詞節にThere isがある場合はね……」

「あう、そっか」

 名雪のアドバイスを受け、真琴は問題集にさらさらと和訳を書き込んでいく。少し前まで『あるふぁべっとってなに?』と聞いていたのが嘘のようだ。

「ねえ、名雪さん。ここなんだけど……」

「えっと……そこはまずここにXを代入してね……」

「うぐぅ……代入って?」

「数字とかがわかんないところの代わりに、記号を当てはめる事だよ。だから、この問題だとこっちのこの公式を使って解いていくんだよ」

「あ、そっか」

 という具合に、名雪が英語の真琴と数学のあゆの二人を同時に面倒見ていた。陸上部の部長をしていたせいか名雪は指導者に向いているようで、二人と一緒になって考え、問題が解けるたびに一緒になって喜び、そして大げさに褒めてあげるのだった。そのせいかあゆも真琴もかなり長い間問題集と格闘しているというのに、少しも疲労した様子を見せないばかりか、積極的に宿題を片付けていっているのだ。

 それに引き換え、と祐一は香里を見た。

 香里は容赦なく問題の解き方にチェックを入れ、問題点を指摘していった。確かにこういう指導方法もありとは思うが、名雪のそれと比べると明らかに対照的だ。そのせいか一緒に夏休みの宿題を片付けていた北川はすでにダウンしていた。

「……納得いかねぇ……」

 同じ部屋、同じ空間で同じ事をしていると言うのに、まったく対称の構図となってしまっているという事実に、祐一は呪詛のように同じ言葉を吐き出すのだった。

 

「皆様、お茶が入りましたよ」

 するとそこに軽くノックの音が響き、祐姫が良い香りの紅茶の入ったティーカップを持って現れ、その後ろにはお茶請けのケーキを持った美汐と栞が続く。この三人はすでに夏休みの宿題を終えているため、みんなのサポート役に回っているのだった。

「あまり根を詰めても能率は上がりませんわ。適度に休息を取るのが一番です」

「うん、じゃあボクはこれが終わったらそうする」

「真琴も、ここまでやっちゃってからね」

 いつもだったら真っ先に飛びつくであろう二人が一生懸命に勉強をしている。その姿に祐一は微笑ましさを感じると同時に、思わず二人の成長振りに目を見張るのだった。

「潤様、そろそろご休憩なされてはいかがですか?」

「あ〜、そうするか……」

 息も絶え絶え、疲労困憊といった風情の北川が、よっこらせっと言わんばかりに顔をあげる。先程まで香里の容赦ないチェックを受け、憔悴しきったような表情に貼り付けたような笑顔が痛々しい。流石に学年主席を維持し続けている香里と、中辺から底辺をいったりきたりしている北川とでは同じ勉強をするのでもかなりの開きがあるようだ。

 とはいえ、北川も一応は進学希望。その志望校は祐一と同じところなのだが、北川の場合はかなりがんばらないと厳しいと言う現実が待ち受けていた。このあたりが基本的にどこでも大丈夫な香里と、すでに何校かからオファーを受けている名雪とは違うところだ。

 そんなわけで人一倍勉強しなくてはいけない立場の北川は、苦手な英文の和訳にてこずっていたのだった。

「この和訳が難しくてさ」

「どれですか?」

 

『TWO LAKE TAKE NEW GET YOUR

 TO WE TAKE “Oh! IDEON”

 YOU GOOD RAY KNOW ARE MAY GOT FOUL

 YAT GIVE LEAVE KNOW WHAT A SHE』

 

 差し出された北川の問題集には、このように書いてある。

「これはですね、潤様。『つれて逃げてよ、ついておいでよ、夕暮れの雨が降る、矢切の渡し』と書いてあるのです」

 すらすらと訳してみせる祐姫に、その場にいた一同の視線が集中した。

「ちょっと、祐姫ちゃん」

「はい、なんですか? 香里お姉様」

「それ……三年生の問題なんだけど……」

 香里の言っている事の意味がよくわからないのか、祐姫は可愛らしく小首を傾けた。やがてその意図に気がついたのか、祐姫は、ああ、とうなずいた。

「それでしたら。実はわたくし、高等学校の教育課程は全て修了しておりますから」

 通信教育ですけど、と祐姫は小さく付け加えた。なんでも去年の夏休みにあまりにも暇だったので、暇つぶしも兼ねて修了してしまったのだそうだ。これで後は大検に合格すれば、いつでも潤様とキャンパスライフが楽しめますわ、と言うのが祐姫の談である。

 それを聞いた北川は自信を喪失してしまったのか、再び問題集に顔を埋めてしまうのだった。

「北川さん、大変そうですね」

 そんな北川の様子を見ていた栞が、祐一にケーキを差し出しながらこそっと囁いた。

「やっぱりあれですか? お姉ちゃん厳しいですか?」

「厳しいなんて生易しいものじゃない……」

 アレは鬼だ、とそっと囁く祐一に、同意するようにこくこくとうなずく栞。ある意味姉の恐ろしさを誰よりもよく知っているのは彼女であるともいえるからだ。

 病弱でほとんど学校に通った記憶もない栞が夏休みの宿題を片付けるにあたり、真っ先に頼りにしたのが学年トップの成績を誇る実の姉だった。記憶力には自信のある栞は暗記科目を得意としているのだが、予習や復習などの普段の蓄積がモノを言う科目を苦手としていた。

 幸いにして中間と期末の二大イベントを乗り切り、補習や追試を免れた喜びをあゆや真琴と分かち合ったのも束の間。家に戻って成績表を見せたときの姉の豹変振りは、栞の心に深く刻まれる事となった。

 栞が生死の境をさまようような生活を続けていれば、成績不振もやむをえないと言えるだろう。しかし、それこそほとんど学校に通った事のないあゆや真琴が順調に成績を伸ばしていっている実情を考えると、香里は自分が指導者として不適格なのではないかとも思えてくるのだ。

 奇跡が起きてからは少々シスコン気味なくらいに妹を溺愛していた香里ではあったが、このまま甘やかしてはいけないと思ったのも事実。そして、その背景には名雪への対抗意識があった事は、もはや言うまでもない。

 そんな香里が行った徹底的なまでのスパルタ教育。その地獄の日々を思い出し、思わず栞は身体を震わせた。

「祐一さん、よく我慢できますね……」

「いや、まあ……」

 実際香里の指導は厳しいのだが、祐一はあまりその事を気にしてはいなかった。なにしろすぐ隣にいる香里の髪からほのかに漂ってくる名雪とは違ったシャンプーの甘い香りに鼻腔をくすぐられ、容姿端麗にして頭脳明晰、才色兼備とはまさに彼女のためにあるような言葉を再確認しているような状態だったからだ。

 その香里が祐一の横にしなだれかかるように座り、右斜め四十五度の角度でやや覗き込むような上目遣いで祐一の顔を見ているのだからたまらない。しかも今香里が着ているのは肩に紐が結んであるだけのタンクトップなので、祐一の目線からだと少々目のやり場に困ってしまう。

 ちょうど対面に座っている名雪の視線は冷たくなる一方だし、そんなわけで祐一は別の意味で厳しい状況に置かれていたのだ。

 そのせいか、本来和やかな空気に包まれるはずの休憩時間が、不思議とぴりぴりとした感覚に包まれていく。祐一に寄り添って勝ち誇ったような微笑を浮かべる香里。穏やかな笑顔ながらも底冷えのするような殺気を放つ名雪。

 文字通りの一触即発の緊迫した空気に、次第にその場にいた一同が凍りついていく。誰もが指一本すら動かせなくなるその寸前だった。

「あっ、そうだ」

 突然あゆが大きな声を上げた。

「ボク、栞ちゃんに聞きたい事があったんだ」

「あっ、そうですか。それじゃここではなんですから……」

 そう言ってあゆは勉強道具を持ち、栞と一緒に部屋から出て行った。

「そういえば真琴も美汐に聞きたい事があったのよ」

「そうですか、それでは……」

 真琴も勉強道具を片付けると、美汐と一緒に部屋から出て行く。

「あの、潤様。わたくし少々お手伝いしていただきたい事が……」

「しょうがないな」

 口ではそう言いつつも、勉強道具を持ってそそくさと部屋から出て行く北川の表情は安堵に満ちていた。

 そして、部屋の中には必然的に祐一、名雪、香里の三人が残る事となる。名雪は穏やかな微笑を浮かべたまま、香里とは反対側に席を移した。

 今の祐一が置かれている状況を端的に説明するならば、ことわざにもある両手に花、と言う表現が適切であろう。だが、その場を取り巻く空気の雰囲気は、とてもじゃないがそうしたのんきな状況とは正反対であった。

「それじゃ、相沢くん。そろそろ勉強を再開しましょうか」

 静かな声音で香里が口火を切る。

「そうだね、祐一もがんばらないとね」

 穏やかな口調で応じつつも、名雪は香里を牽制するように祐一に身を寄せた。二人の間にはいつしか火花が飛び散り、その間に挟まれた祐一は火傷してしまいそうだった。

「がんばってね、相沢くん。夏休みの宿題が終わったら、ご褒美にキスしてあげるから」

「ふふっ、可愛いね、香里は……」

 香里の可愛いご褒美に、名雪は勝ち誇ったような微笑を浮かべる。

「わたしなら“ピー”してあげちゃうよ」

「な……なによ“ピー”くらい、あたしだって……」

「でも、香里に“ピー”は無理だよね」

 真っ赤な顔で反論を試みる香里に対し、名雪は容赦なく言葉を浴びせかける。それは祐一に愛されているのは自分だと言う自信がなせる技だろうか。

「馬鹿にしないで、あたしにだって“ピー”も“ピー”も“ピー”できるんだから。それに……」

 先程とは一転して、今度は香里が勝ち誇ったような微笑を浮かべる。

「相沢くんにだったら、は……初めてをあげても……いいのよ?」

 最後のほうが多少聞き取りにくくなってしまっているが、ほんのりと頬を朱に染めた香里の言葉は、祐一の心を大きく揺さぶるものだった。その香里の決意には、思わず名雪も唇をかみ締めてしまう。その手があったか、と。

「それならわたしは……」

 今度は名雪が頬を真っ赤に染め、すがるような瞳で祐一を見上げる。

「う……うしろのはぢめてを……」

 次第にエスカレートしていく過激な発言、しかもそれは名雪に香里、少なくとも見た目は並みの水準をはるかに上回る可憐な美少女の唇に乗せられた言葉だ。その上二人は祐一の両側を挟み込み、豊かに自己主張する柔らかい部分をぐいぐいと押し付けてくる。

 とてもじゃないが、勉強どころの騒ぎではなかった。

「……勘弁してくれ……」

 そう祐一は内心毒づくが、とてもじゃないがそれを口に出すような勇気は持ち合わせてはいない。しかし、名雪には悪いが祐一も男である。香里のような美少女に迫られるのに悪い気はしていなかったりするのだ。元来男と言う生き物は複数の女性を同時に好きになる事もできる。女性にしてみれば自分だけを見て欲しい、と言うものなのだが、いかんせん男の本能に由来する部分はどうしようもない。

 それにしても、と祐一はふと思う。香里は名雪の事が好きなんじゃないのか、と。

 で、あるにもかかわらず、香里はこうして祐一を誘惑している。一体その真意はどこにあるのか、この問題はどうやら数学の方程式を解くよりも難しそうだった。

 

「『将を射んと欲せば、まず馬を射よ』ですか……」

「なんですか? それは……」

 あゆ達の避難先である二人の部屋にではあゆ、真琴、栞、美汐の四人が少し大きめのちゃぶ台を囲み、おやつの続きを楽しんでいた。そんなとき栞がポツリと呟いた言葉に、美汐が疑問を投げかける。

「お姉ちゃんが言っていたんですよ。どういう意味なのかは私もわかりませんけどね」

 その言葉に美汐は、今の状況を照らし合わせてみる。この場合の『将』が名雪であるなら『馬』に該当するのは祐一。だから祐一を落とせば、名雪を落とす事も可能。

 確かに理屈ではあっているが、美汐はなにかが完全に間違っているような気がした。

「いずれにしても……」

 美汐はため息交じりにそっと呟いた。

「しばらくあの部屋には近づけませんね……」

「うぐぅ」

「あう〜」

 そんな二人の声だけが、今の状況をなによりも雄弁に物語っていた。

 

「二人っきりですわね、潤様」

「ああ、そうだな……」

 ここは祐姫達の避難先である名雪の部屋。女の子の部屋に入るのに緊張しているのか、先程から北川の声は多少上ずっているようだ。部屋の大きさは祐一の部屋と大差ないのだが、女の子の部屋というのものは雰囲気そのものが違うらしい。

「それでは、潤様……」

 祐姫は北川に寄り添うように、そっと身を寄せた。

「ゆ……祐姫ちゃん……」

 祐姫の艶やかな髪から放たれる甘い香りが鼻腔いっぱいに広がり、北川は背筋が痺れるような感覚に襲われた。女性に対してまったく免疫がない北川には、かなり酷な状況といえた。

「まずはこの問題からはじめましょうか」

 そんな北川の思惑を斟酌もせず、祐姫は自分の使命だといわんばかりに容赦なく問題にチェックを入れていく。その厳しさは、香里にも勝るとも劣らないものであったと後に北川は語った。

 

 この後、佐祐理と舞が水瀬家に訪ねてくるまで、二人の苦境は続いたという。

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