十七話 浴衣でGO!
「ここ、どうすんのよぅっ!」
「えっと、下着はつけててもいいんだよね?」
先程から閉ざされている室内。一階にある秋子さんのお部屋から、明るい元気な声と一緒にうぐぅ、あう〜と聞こえてくる。二人とも浴衣なんて着たことないんだろうな、とか思いつつ、祐一はリビングのソファーに座ったまま、女性陣の仕度が出来上がるのを今か今かと待ちわびていた。
話はさかのぼること、およそ二時間。水瀬家に佐祐理と舞が訪れてくるところからはじまる。
「浴衣パーティー?」
「はい」
ここは水瀬家のリビング。名雪と香里の二人がかりの指導にかなり憔悴した様子の祐一の声に、いつもと変わらぬ穏やかな笑顔の佐祐理がにこやかにうなずき、その隣では相変わらずの無表情の舞が静かにうなずいている。
なんでも今晩佐祐理の家でパーティーを開くので、皆さんお誘いあわせの上御参加くださいとの事だった。
「それでですね、皆さんには浴衣を着てきてほしいんですよ〜」
「なるほど」
パジャマパーティーというのは良く聞くが、名前の響きからすると参加者は全員浴衣を着るのだろう。だとするなら、俺には無縁の企画だよなと、このときの祐一はのんきに考えていた。
「もちろん、祐一さんも浴衣を着てきてくださいね」
「俺もですか?」
とはいえ、浴衣を持っていない祐一。さてどうするかと口を開きかけた、丁度そのときだった。
「あら、素敵ですね」
リビングに良く冷えた麦茶を持ってきた秋子が嬉しそうに目を細めていた。
「はい、それでは全員参加ということで」
「了承」
準備をするために一度帰宅した北川、美汐、美坂姉妹を見送った後、祐一は秋子から一着の浴衣を手渡された。
「秋子さん、これは?」
「主人が着ていたものです」
そう言うと秋子は少し寂しげな表情で、祐一の身体に浴衣を合わせた。
「思ったとおり、ぴったりですね」
「秋子さん。いいんですか? この浴衣、俺なんかが着て……」
繊維に染み付いてしまったかのような防虫剤のにおいをかぐ限りでは、この浴衣は相当大切にしまわれてきたものなのだろう。秋子にとってこの浴衣は、大変思い出深い品であろうことは容易に想像できた。
それがわかってしまうだけに祐一は、自分がこの浴衣を着ることにためらいを憶えてしまうのだ。
「いいんですよ」
祐一の印象に残るような少し力のない微笑を浮かべ、秋子は静かに口を開いた。
「せっかくの浴衣も、誰にも袖を通してもらえないのではかわいそうじゃありませんか?」
秋子にそうまで言われてしまっては、もはや祐一に断る術はなかった。
「どうかなさいましたか、お兄様?」
「ん?」
浴衣の繊維を眺めつつ、ついつい思索にふけってしまった祐一は、不意にかかった声に顔をあげる。
「お兄様?」
しばし陶然としたような祐一の姿に、白地に鮮やかな花火が描かれた浴衣を着た祐姫は、不信に思いながらも再度声をかけた。
「あ……いや……」
普段は下ろしている艶やかな長い黒髪を、頭の後ろのほうでトレードマークとなる白いリボンで結んでいる祐姫が、その黒髪を今は頭上でアップにまとめており、いつもは隠れて見えない白いうなじが白日の元にさらされている。
しかも少しかがんだ今の状態では、胸元のあわせ目から白い谷間がちらりと覗いている。祐一も見てはいけないと思いつつも、ついつい視線がそこに吸い寄せられてしまうのは、悲しい男のサガというものだろう。
「よく似合っているな……と思って……」
「そうでございますか?」
内心の動揺を悟られまいとあいまいに言葉を濁そうとした祐一ではあるが、それでも祐姫は嬉しかったのだろう。少し照れたような感じで頬を染め、はにかんだような笑顔を祐一に向けた。
「名雪お姉様のお下がりなんです。去年の夏祭りに着たものなのだそうですよ」
そう言って胸を張る祐姫は、どこか誇らしげだった。実のところ祐姫は名雪に理想の女性像を見ているせいか、似たような格好をしたがる傾向があるのだ。
「そうか、それなら北川のやつも祐姫に惚れ直すんじゃないか?」
「……潤様……」
突然祐姫は虚空を見据え、うっとりとした表情で瞳に星を輝かせはじめた。どうやら北川の名前が出た瞬間に、祐姫は妄想の世界へと旅立ってしまったらしい。普段は結構冷静な面もあるのだが、北川が絡むと祐姫はこうなってしまう場合が多かった。これはしばらく戻ってはこないだろうと判断した祐一は、そのまま祐姫を放置しておくことにした。
「あれ? 祐姫ちゃんどうしたの?」
「あう〜……」
「あゆに真琴か」
リビングの真ん中付近で虚空を見上げる祐姫の姿に、丁度そこにはいってきたあゆが至極まっとうな疑問を投げかけた。あからさまに不審な祐姫の様子に圧倒されたのか、真琴もあゆの小さな背中に隠れたまま、少しおびえた様子で祐姫を見つめている。
「いつものアレだ、気にすることはない。それより二人とも、その浴衣よく似合ってるじゃないか」
「そうかな……」
「ま、当然よね。真琴が着てるんだし」
薄いピンク地に魚模様の浴衣を着て照れたように頬を染めるあゆと、白地に花びら柄の浴衣を着て誇らしげに胸を張り、そのままクルンと一回転して見せる真琴の姿は、見るからに好対照だった。
いつもの紅いカチューシャの代わりに白いリボンを巻き、右サイドのアクセントになるように結んだあゆと、いつものサイドで一括りにしているツインテイルを、後ろでポニーにまとめた真琴が、はにかんだような笑顔を祐一に向ける。
二人が着ている浴衣も名雪のお下がりであるらしく、内心祐一は秋子の物持ちに良さに感心していた。そして、大切にしまいこんでいるわけではなく、こうして受け継がれていく品々に、祐一は秋子の優しさのようなものを感じるのだった。
ぴんぽ〜ん
そのとき、突然響いた呼び鈴の音に、びくっと肩を震わせてあゆの背中に隠れる真琴。相変わらずこういう来客には弱いんだよな、と苦笑しながら出迎えに行く祐一であった。
扉を開けると、その向こうには白地に大きな一輪の花が描かれた浴衣姿の美汐がいた。普段はおばさんくさいと祐一に言われている彼女ではあるが、このような浴衣姿はかなり新鮮であり、全体からかもし出されるような和の気品とあいまって、怖いくらいに良く似合っている。
そんな普段のイメージとはまったく異なる美汐の姿に、一瞬祐一が言葉を失ってしまうのも無理のないことであった。
「あ〜、その……似合ってるぞ、浴衣……」
「そうですか?」
先程まで不安げだった表情が緩み、美汐は頬を染めて照れたようにうつむいた。こういう表現も失礼であるが、そんな美汐のなんとも女の子らしい仕草に、ついつい祐一もそっぽを向いてしまう。そのまま妙に気まずい雰囲気のまま、固まってしまう二人であった。
「あう、美汐〜」
そんな二人の硬直をといたのが、明るい真琴の声だった。浴衣の袖を金魚のようにふわふわひらひらとゆらして、奥のリビングからとてとてと真琴が駆け寄ってくる。
「うわ〜、うわ〜、うわ〜」
そのまま真琴は美汐のまわりをぐるぐると回り、感嘆の声を上げ続けた。
「やっぱり美汐って浴衣似合うね」
「そ……そうですか?」
「うん、あゆなんかとは大違いよぅ」
「あゆさんと……?」
そこで美汐はリビングからそっと顔だけ覗かせているあゆと目があった。
「だってあゆってばお腹にタオル巻いてるのよ? 美汐とは大違いよぅ」
それを聞いた美汐は、どーーーーーーん、という効果音が良く似合うくらいに落ち込んだ。
実は浴衣などの和装をするときには、あまりグラマーだと似合わないのだ。だからウェストが細い場合には、お腹にタオルを巻くなどして調整をする必要がある。美汐はあゆとそう大して変わらないスタイルだと思っていたのだが、どうやらあゆのほうが若干グラマーだったらしい。
「どうしたの? 美汐。顔色悪いよ?」
心配そうに覗き込む真琴に、大丈夫ですよ、と告げながらも、美汐は今までにないような衝撃の事実に、しばし呆然としていた。
「……立ち直れるか?」
天国と地獄というのはこういう事をいうのかもしれないな、と思いつつ祐一は、がっくりと肩を落とす美汐にやさしく声をかけてあげるのだった。
まったくの余談だが、後でこの事を聞いた栞も同じように落ち込んでしまうのだが、それはまた別のお話しである。
「あれ? みんなどうしたの?」
丁度そこに、のほほんとした声がかかった。
「美汐ちゃんもそんなところに座ってないで、上がったら?」
確かに玄関先でがっくりと落ち込んでいるのは、あまり絵になる構図ではない。とはいえ、きっちり浴衣の裾をそろえて座り込んでいるところが、いかにも美汐らしい上品なところではあるが。
「名雪……お前……」
「うにゅ?」
名雪はこくんと小首を傾けて祐一を見る。そのときに後ろで結ばれた二本の三つ編みが、その動きにあわせて僅かに揺れる。
「その浴衣……」
今、名雪が着ている紺色の浴衣に祐一は見覚えがあった。それはずっと昔に秋子が着ていたものだからだ。
ふと祐一はそのときのことを思い出す。確かあの日にいった縁日で、舞のためにプレゼントを買ってあげたんだったな、と。
「あ〜と……。馬子にも衣装ってやつだな……」
「あ、うん。そうだね……」
そう言って名雪は、そっと頬を赤らめるのだった。
「あの……ちょっといいですか? 水瀬先輩……」
するとそこに、おずおずとした様子で美汐が声をかけた。
「今の相沢さんの言葉。どう聞いてもほめ言葉ではないようなんですが……」
「うん、いいんだよ」
名雪は満面の笑顔を美汐に向ける。
「だって、こういうときに祐一が意地悪を言うのは、本当は照れ隠しなんだって知ってるから」
予期せぬ名雪ののろけに、ついつい頬を赤らめてしまう美汐であった。ちなみにその脇で真琴はきょとんとした様子で小首を傾けており、リビングの入り口付近でその様子を眺めているあゆは、こういうところに付き合いの長さが現れるのかな、と考えていた。
「潤様……だめですわ。ああ……」
そして、リビングでは相変わらず祐姫が妄想の中でもだえていた。
「皆さん、支度は出来たみたいですね」
「あ……秋子さん……」
綺麗な花が描かれた若草色の浴衣を着た秋子の姿に、思わず祐一は目を見張る。その着こなしは名雪をはじめとした少女達とはどこかが違う、非常に洗練されたものだったからだ。
「浴衣なんてひさしぶりですね」
こうした和装は着慣れていないと意外と似合わないものなのであるが、秋子の立ち居振る舞いは完璧であり、少しかがむと胸元の白い谷間が覗けそうなくらいなところまで計算されているようだった。
「よくお似合いですよ、秋子さん」
「まあ……」
祐一の言葉に、秋子はいつもの様子で微笑んだ。
「こんなおばさんをほめても、なにも出ませんよ?」
左手を頬に当てるいつもの仕草なのだが、着ているものが浴衣のせいか、祐一の目にはかなり新鮮に映った。成熟した大人の女性の魅力というのは、こういうことをいうのかもしれない。その意味であゆや真琴には少々失礼な表現になってしまうが、まだまだだということだろう。
「それじゃ、そろそろ出発しましょうか」
そう言って秋子は祐一の腕に、そっと自分の腕を絡めた。
「あ……あの……。秋子……さん……?」
「はい?」
そのままうるうると上目遣いで祐一を見る秋子。
「あの……腕……」
祐一にそういわれて秋子は腕を絡める力を強くし、さらに密着度を高めていく。祐一の腕に押し付けられる秋子の胸の感触が、心地よい快楽となって伝わってきた。
「さあ、行きましょうか」
「……はい……」
「だめ〜っ!」
名雪の叫びと同時に、引き裂かれてしまう二人。
「お母さん、祐一を誘惑しないでっ!」
代わって祐一の腕を取ったのは名雪だった。名雪は秋子を威嚇するように形の良い眉を吊り上げているのだが、その姿は怖いというよりも微笑ましいぐらいで、それがわかっているのか秋子もいつもの微笑を浮かべている。
(流石ですね……)
この一連の攻防を見ていた美汐は、内心秋子の知略に舌を巻いていた。
人前では照れが入るせいか、あまりべたべたする事のない二人。そこで秋子が娘のためを思って一芝居うったのだとしたら、これもまた一つの愛の形というものであろう。
「仕方がありませんね。では、祐一さんにはこれを渡しておきましょう」
「なんですか? これは……」
祐一に渡されたのは、細く切られたはぎれだった。
「きっと、後で役に立ちますよ」
その秋子の微笑みの意味するところが祐一にはさっぱりわからなかったのだが、この後待ち合わせをしていた栞が、ああ! 下駄の鼻緒が切れてしまいました、と言い出したときに、この意味を知る事となったという。
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