第二十話 浴衣でGO! 4

 

「ふぅ……」

 祭りの喧騒から少し離れた休憩所。自分と真琴以外には誰もいないベンチで、美汐は一息ついた。

 はじめてのお祭りではしゃぎすぎてしまったのだろう。ひざの上には真琴が寝息を立てており、美汐はその小さな頭を優しく撫でてあげるのだった。

(そういえば……)

 ふと脳裏をよぎる既視感。

(あの子もこうして撫でてもらうのが好きでしたね……)

 そのときの事を思い出し、美汐は顔をほころばせる。その慈愛に満ちた表情は、見るものすべてを優しく包み込むような輝きがある。普段祐一に『オバサンくさい』とまで評される彼女なれど、やはりそれは生来の母性がなせる業なのだろう。

 ふと、気配を感じて顔をあげると、そこには明るいキツネ色の髪をした少年が立っていた。少年はキツネのお面で顔を隠しているので誰なのかまではわからないが、全身を纏う独特の雰囲気に美汐は覚えがあった。

「やあ、ひさしぶりだね」

 聞き覚えのあるその声に、美汐の目が驚愕に見開かれた。

「隣、いいかな?」

 返事も待たずに、少年は美汐の隣に腰を下ろす。

「……どうして……」

 美汐の声がかすれる。だってこの少年は、あのときの……。

「さあ。どうしてだろうね」

 お面越しで表情はうかがえないが、少年は笑っているように美汐は感じた。なにか楽しい事を思いついたときに、輝いているような少年の瞳で。

 あたりを満たす穏やかな雰囲気に、美汐はあのころの事を思い出していた。

 

 その当時の美汐はまだ小学生で、家に一人きりでいる事が多く、彼女自身もそれが当然であるかのように思っていた。

 両親が共稼ぎであるせいか鍵っ子で、誰もいない家に帰ってくるのが日常となっていたそんなある時、美汐は怪我をした子狐を見つけた。

「大変……」

 子狐はひどい出血で、呼吸も弱々しく今にも死んでしまいそうなくらいに衰弱していた。そこで美汐は子狐を家に連れ帰り、手当てをする事にした。美汐が住む家の近くにはものみの丘と呼ばれる場所があり、そこには多くの野生動物が暮らしている。ところが、ここ最近は人間が家で飼えなくなったペットをそこに捨ててしまうために、その事が深刻な問題となっていた。

 冬になるとエサが乏しくなるため、半ば野生化したペットが街に下りてくる事もある。そればかりか、丘ではそうした元ペットと野生動物との間で熾烈な生存競争が繰り広げられている事だろう。この子狐は、そうした戦いで傷を負ったのかもしれない。そう考えれば、この子狐は人間の犠牲者ともいえるのだ。

 美汐はこのときほど両親の不在と言うのを感謝した事は無い。そんな美汐の熱意が通じたのか、子狐は順調に回復し、元気に走りまわれるくらいにまでなった。

 幸せだった。

 今までたった一人きりだったのが、一人ではなくなったのだから。

 学校から帰るとその子を話し相手にして、色々おしゃべりをした。一緒に漫画を読んだりもした。寒い夜には、一緒にお布団で寝た事もある。その子にこっそりと、淡い初恋を打ち明けたりもした。

 だが、そんな幸せは、ある日突然音を立てて崩れていった。

「こないでっ!」

 通せんぼをするかのように、部屋の扉の前に立ちふさがる美汐。しかし、父親の大きな手はいとも簡単に美汐を脇にどかしてしまう。

「なにもいないっ! なにもいないったらっ!」

 隠れていて。そんな美汐の願いもむなしく、子狐はあっさりと見つかってしまう。

「……やはり、キツネがいたか……」

 父親の手により、子狐は遠くに連れられていく。必死に子狐を助けようともがく美汐をしっかり抱きながら、母親は言う。

「人とキツネは、共に生きられないのよ……」

 そして、母親の口から語られる物語。それは、この街に伝わる妖狐の伝説だった。

 ものみの丘にはたくさんの生き物が住んでいて、そこには妖狐と呼ばれる特別な存在があるという。

 多くの歳月を経たキツネがそのように変化するらしく、姿かたちは普通のキツネと変わらないが、その正体は物の怪と言うものだ。

 妖狐達はものみの丘から人間の街を眺めていて、時には驕る人間達を戒めるために人里に下りてくるのだそうだ。

 彼らが現れた街は例外なく災禍に見舞われたため、いつしか人間達は妖狐達を厄災の象徴として扱うようになっていったのだ。

 ただそれだけの、どこにでもあるような昔話。

 今にして思えば、キツネなどの野生の生き物には危険な寄生虫などがいる場合があるので、普通のペットのように扱ってはいけないという戒めがこめられた伝説なのかもしれない。

 それでも、まだ幼かった美汐の心には、この伝説が深く刻み込まれる事となった。

 

 あのキツネ事件以後、母親は美汐といる時間を多く取るように努めていたのだが、美汐自身が持つ本質的な孤独感まではどうする事も出来なかった。

 美汐が元々社交的ではない性格のためか、中学生となった今でも一人と言う状況は続いていた。にぎわう教室の中で、ただ一人ぽつんとたたずむ。クラスの中で孤立し、浮いた存在。

 もっとも、クラスの中で美汐は近寄りがたい雰囲気を纏っているせいか、話しかけにくい印象で見られていただけなのであるが、美汐自身が進んでそういう状況に身を置いていた事もあり、いつしかそれが自然な風景になっていただけなのだ。

 なるべく他人と関りたくない。そうすれば自分が傷つく事はない。これがあのころの美汐だった。

 そして、その日も美汐は教室の喧騒から逃げるようにして家路を急いでいた。

「やあ」

 家の近く。ものみの丘に別れる道の角で、美汐は一人の少年に出会った。人懐こそうな瞳をくりくりと動かす、明るいキツネ色の髪をした少年だった。

 しかし、それを無視して通り過ぎる美汐。少年はなにかを言っているが、聞く耳持たずに家に入ってしまう。

 それから何日か過ぎても少年は同じ場所にいて、美汐に話しかけてくるのだが、そのたびに無視して通り過ぎていた。

 そんなある日の事。この日は昼過ぎあたりから激しく雨が降りはじめていた。幸いにして美汐は学校に置き傘をしていたが、少しばかり気になる事がある。

(まさか……)

 この雨の中いるはずもないだろう。そうは思うのだが、不思議と美汐は家路を急いでいた。はじめは早足だったのが、気がつくと傘も役に立たないくらいの速度で走っていた。

 普段から体育の授業以外にはあまり運動をする事がない美汐。すでに息は上がり、呼吸も苦しくなっているのだが、それでもなにかに突き動かされるように美汐は走り続けていた。

「こんなところでなにをやってるんですかっ!」

 思わず美汐は叫んでいた。なにしろその少年は、傘も差さずに雨の中に立っていたからだ。

「よかった……」

 美汐の姿を見た少年は、紫色に変わった唇で微笑んだ。

「……やっと気がついてくれた……」

 そのまま少年は、美汐の腕の中に倒れこんだ。ずぶぬれになった少年の額から熱が美汐に伝わってくる。

(ひどい熱……)

 このときほど美汐は、この少年の事を無視していた事を悔やんだ事はない。もっと早く話をしていれば、少なくともこの雨の中で待ち続ける事もなかったろうからだ。

 

 とりあえず少年を家に運び込んで看病をはじめた美汐は、帰ってきた両親に事の次第を説明した。そうした事情ならやむをえないと両親も承諾してくれたので、まずは一安心だ。

 少年の看病をしているうちに、美汐は不思議と以前にもこうしていたような気がするのを感じていた。もっとも、そのころは子狐を相手にしていただけなのだが、この少年も見ていると不思議とそういう気持ちになった。

 美汐の手厚い看護のおかげか、数日後に少年は回復したのだが、ここで困った問題が起きてしまった。この少年から、自分の名前を含めたほとんどの記憶が失われてしまっていたからだ。

 名前もわからない。どこに住んでいたのかもわからない。これには両親も美汐も困り果ててしまった。流石に追い出すわけにもいかなかったため、少年はなし崩し的に美汐の家にお世話になる事となった。

「おはよう、美汐」

「おはようございます」

 仕事に出かけるのが早い両親に代わって美汐が朝食の支度をしていると、少年が眠そうに目をこすりながら起きてくる。今まで一人きりだったのが、少年が来てからは随分とにぎやかになったと美汐は思う。

「いってきます」

「いってらっしゃい、美汐」

 朝の些細なやり取り。学校にいく美汐を玄関で見送る少年。そんな小さな出来事なのに、なぜか心が暖かくなるような気持ちになる美汐。

「ただいま」

「おかえり、美汐」

 そして、学校から帰ってきた美汐を、まるで子犬のようにはしゃぎながら玄関で迎える少年。いつの間にか、美汐にとってそれは自然な風景となっていった。

 そんな少年の姿に、美汐はかつての子狐の面影を見てしまう。そんな事はあるはずがないと、そのたびに首を振りながら。

 あるとき美汐は、この街に伝わる妖狐の伝説を知る事となる。それは学校の自由研究に、かつて母親から聞いた昔話を調べていただけだったのだが。

 伝説の真相を知っていくにつれて、美汐は少年の変化を知る。

 まず、二本の足で歩くのが困難になる。言葉を話すのが困難になる。そして、発熱。

 このとき美汐は、この伝説の本当の意味を知る事になるのだった。

 

 少年は穏やかな雰囲気を纏い、静かにたたずんでいる。美汐の胸中も知らないまま……。

「美汐」

 不意に少年は、優しい声で呼びかけた。

「ぼく達はね、束の間の奇跡の中にいるんだよ……」

 

「ふぅ〜……」

 丁度そのころ佐祐理は、倉田邸の自室で一息ついていた。さっきまでリビングで開かれていたパーティで、招待客に挨拶をしてまわっていたのだが、流石に少し疲れてしまったようだ。

 椅子に腰掛け、うとうととまどろみかけた丁度そのときだった。

 控えめなノックの音がして、扉が僅かに開かれた。その隙間からおずおずと覗く顔に、佐祐理は見覚えがある。

「……一弥……」

 そのとき、佐祐理の脳裏にかつての日々が蘇ってきた。

 

 倉田一弥。

 幼くしてこの世を去った佐祐理の弟。

 そして、佐祐理が敬語を使わずに話をする唯一の存在。

 一弥が生まれたのは、佐祐理が小学一年生になったころだった。当時両親の仕事が多忙を極めていた事もあって、一弥の面倒は佐祐理が見る事となる。

「かずや、わたしがおねえさんだよ」

 お姉さんになった、と言う実感はまだわかなかったが、倉田家に新たに加わった家族を佐祐理は素直に歓迎した。

「さゆり。さ、ゆ、り」

 それは佐祐理が敬語を使わずに話した最初の会話だった。一弥はあーうー、と言っているだけでわかっているのかわかっていないのかわからなかったが、姉である以上佐祐理はそうして弟に接し続けるのだ。

「威厳を持て、甘やかすな」

 佐祐理が一弥の面倒を見るようになってから、父親は口癖のようにそう言っていた。だから佐祐理は、甘やかさない事が威厳を持つという事だと思った。

 そうすればきっと、一弥も大好きな父親のような立派な人になると思ったのだ。

 佐祐理の父親は代議士をしている。それは多くの人に信頼され、その信頼に応える事が出来なければ勤まらない仕事だ。子供のころ佐祐理は、人が大勢集まる場所によく連れて行かれた。それは両親が威厳もって佐祐理に接し、正しい子に育ててくれたからだ。

 したがって、佐祐理は忙しい両親に代わって一弥を正しい子に育てなくてはいけなかった。

 甘やかせないと言う事は、厳しくすると言う事だ。そして、厳しいと言う事は、一弥にとっては苦しい事だ。

 一弥が泣き出すと、佐祐理は叱った。泣き止むまで、ミルクはあげなかった。それでも泣き止まなかったので、佐祐理も辛かった。

 本当はすぐにでもミルクを上げて、頭を撫でてあやしてあげたかった。そうすればとても穏やかで、優しい気持ちになれると思った。

 でも、そうしてあげることが出来なかった。

 一弥を正しい子に育てたかったから。だから、辛かった。

 あのころは本当に辛かった。佐祐理も、一弥も。

 やがて一年、二年と月日が流れるうちに、家族は一弥が言葉をしゃべらない事に気がついた。一応言葉を理解しているようなのだが、一言も口をきかなかったのだ。

 医者の診断は、失語症の一種。いわゆる精神疾患の類だ。元々一弥は体が丈夫なほうではなかったので、病院通いが続く毎日だった。

 そして一弥は病院で寝泊りするようになり、日に日にやせ細っていった。そんな一弥に姿を見るたびに、佐祐理はこう考える。いつか一弥も、自分が両親に感謝しているように、佐祐理に感謝してくれる日が来るのだろうかと。

 その後佐祐理は、一度だけ悪い子になろうと思った。いつでも佐祐理が一弥にそうしてあげたかったように、パンパンにつまった駄菓子と、色違いの水鉄砲を持って病室を訪れた。

 二人で駄菓子を食べて、水の入っていない水鉄砲を撃ちあう。そしてこれが、姉弟が遊んだ最初で最後の事となった。

 

 佐祐理は自分が正しいと思っていた事が、正しくなかった事を知る。それは、結果と言うものを見てしまったから。

 もっと二人で笑いあっていればよかったんだ。虫歯になるくらい駄菓子を食べて、日は暮れるまで遊んでいればよかったんだ。そんな幸せの日々の中を生きていればよかったんだ。

 怒涛の後悔が佐祐理に押し寄せてくる。だから、これは罪滅ぼし。

「いらっしゃい、一弥」

 その佐祐理の優しい微笑みに答えるように一弥は部屋に入ってくる。佐祐理の記憶の中で色あせずに残る、最初で最後の笑顔を浮かべながら。

 

「……ん」

 ここは、倉田邸で秋子にあてがわれた一室。普段はゲストルームとして使われていると思しき部屋で、つい秋子はまどろんでしまったようだ。

 どうやらだいぶ疲れているみたいですね、と秋子は軽く微笑む。いつもならこんな失態を演じる事もないだろうに。

 それにしても、と秋子は思う。

 いま自分は、なんて幸せなのだろうと。

 あの人がこの世のものではなくなり、秋子はすべてにおいて絶望してしまっていた。生きる事に意味を見出せなくなり、後を追おうとまでした事もある。

 そんな秋子に一筋の光を投げかけたのが、祐一の母親となる姉と、あゆの母親となる親友。そして、秋子に宿った小さな命だった。

 産まれてくるこの子は、きっと私達を幸せにしてくれる。愛する夫を失って悲しみにくれる秋子を、親友はそう言って励ましてくれた。

 やがて月日は流れ、小さな命がこの世に生を受ける。秋子が好きなこの街を象徴する、雪の名を持つ少女の出会いは、確かに幸せを予感させるものだった。

(そういえば名雪は、あまりわがままを言う子じゃありませんでしたね……)

 秋子の記憶では、猫さんを飼いたい、と涙混じりに訴えたくらいだ。そのときに名雪のネコアレルギーが発覚し、とてもじゃないが猫を飼えるような状況ではなくなってしまった。あの時祐一の一言がなければ、名雪はあきらめてくれなかったかもしれない。

 それ以外の点では確かに、名雪は手のかからない良い子であると言えるだろう。しかし、育児の先輩となる姉に言わせれば、そういう子が一番危ないのだそうだ。

 些細な事でも人に相談できない。誰かに頼られる事はあっても、誰かに頼る事ができない。そして、必要以上にプレッシャーを背負ってしまう事で潰れてしまう。これは長女とか長男とか、責任感の強い子供によく見られるケースなのだそうだ。

 それを聞いた秋子は、まさかうちの子に限って、と思っていた。親の欲目と言うわけではないが、秋子にとって名雪は本当に素直で明るい良い子だったからだ。

 だが、秋子が事故に遭っていたとき。後でそのときの事を祐一から聞き、秋子は愕然とした。

 すべてを拒絶し、引きこもる名雪。それはかつての秋子の姿そのものだったからだ。ある意味、血は争えないものである。

 幸いにして祐一が名雪を悲しみの淵から救ってくれたが、もしも名雪が一人ぼっちだったら、と考えると目の前が暗くなる。

(やっぱり、まだまだ死ぬわけにはいきませんね)

 親友の遺児であるあゆを引き取る事にしたし、身寄りのない真琴の面倒を見る事にした。姉さんからは祐一と祐姫を預かっているし、まだまだこれからなのだ。

 そう決意を新たにしたとき秋子は、不思議な安心感に包まれている事に気がついた。まるで陽だまりのような温もりに包まれているような感じに覚えがある。

「お目覚めかい? 秋子……」

 静かに秋子の耳朶を打つ、優しく甘いバリトン。その声に顔をあげた先には、秋子の良く知る人が居た。

 見る人を優しく包み込んでくれるような名雪の笑顔は、きっとこの人譲りなのだろう。その面影を娘に見ていた秋子の視界が不意に曇り、まっすぐに見る事が出来ない。

「あなた……」

 優しく抱きしめるその腕の中で、秋子はただそれしか口にする事が出来なかった。

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