第二十二話 浴衣でGO! 6

 

「そんな事が……」

 少年からの話を聞いた美汐は、驚きで目を見開いた。それは人とキツネの係わり合いについての話だったからだ。

 キツネ、と一口に言うが、正確にはキツネに良く似た別の存在。狐族というのだそうだ。

 狐族の目的は、仙狐。人間で言うところの仙人になる事で、その修行の一環として人間に交わって生活する。その時に選ばれる家は比較的裕福な家庭が多いが、祐一と真琴のように過去の因縁から家族として過ごすケースもある。

 狐族の目的は仙狐となり、最終的には天狐と呼ばれる存在になる事だ。この天狐というのが、俗に言う金毛白面九尾のキツネである。天狐は神にも匹敵する通力を持つため、そうおいそれと人間達の世界に関わる事は出来ない。

 ほとんどの仙狐はより上位の存在となる事を選ぶため、人間の世界に長く留まる事はないのだ。

 人間にも良いものと悪いものがいるように、狐族にも良いものと悪いものがいる。その悪い狐族が人間に悪さをする事があったため、人間達は災いを呼ぶ妖狐と呼ぶようになったのだ。ある意味、より上位の仙狐となるために、手段を選ばない狐族が多くなってしまったのである。

「それでぼく達の長が、人間との交わりを禁じたんだよ」

 狐族といっても深山幽谷に住んでいるわけではない。人間との交わりが不可欠であるために人里近くの山野、この街では物見の丘の周辺に一族単位の群れを作って暮らしている。その一族の長老の命は絶対で、それが一族の総意となる。

 しかし、狐族は人を求める生き物であるため、真琴のように人との交わりを求める狐族も多い。

 人化の際に代償として記憶と命が必要になるのは、言うなれば担保のようなものである。このような形で時間に制限を加える事で、必要以上に人間と交わらないようにしているのであるが、この少年や真琴のようにそれを過ぎてまでも人間と共にありたいと願ってしまうものもいる。

 その結果、狐族としての存在そのものに著しい負担がかかってしまい、消滅の危機に陥ってしまう。この少年が美汐と共に長くいられなかったのも、それが原因なのだ。

「それでは……」

 美汐はひざの上で安らかな寝息を立てている真琴を見た。

「それでは、真琴は一体……」

 この少年の話が真実であるのなら、真琴も帰ってくるはずがないはずだ。にもかかわらず真琴はこうして帰ってきて、水瀬家の家族として暮らしている。

「その子は……」

 慈愛に満ちた瞳で真琴を眺めつつ、少年は言葉を続ける。

「いわば、架け橋かな?」

「架け橋、ですか?」

 少年は静かに頷いた。

「ぼく達がより高次の存在になるには、人間とのかかわりが不可欠なんだ。だけど、人とのかかわりは不幸をもたらす」

 君達にもぼく達にもね、と少年は楽しげに話す。

「それで、ぼく達としても君達が信頼に足る人間であるか見極める必要があった。そして、その子は合格した」

「合格?」

 その言葉に美汐は眉を寄せる。いきなり合格と言われても、なにがなにやらさっぱりだ。

「愛されているからね、その子は……」

 それを聞いて美汐は、ああ、と思い当たる。確かに真琴は、みんなに愛される存在だ。

 水瀬家の人達。祐一。そして、自分。ここまで多くの人に愛された妖狐は、いないのではないだろうかと思うくらい。

 思い起こせば美汐が妖狐と、つまりはこの少年と別れた時、すべてに絶望して心を閉ざしてしまった。ある意味同じ運命を辿ろうとする祐一の力になったのは、単なる同情だったのかもしれない。

 強くあってください。という願いは、強くはなれなかった自分への戒めだった可能性もある。

 そして、祐一は強くあり続けた。その想いに応えるように、こうして真琴は帰ってきた。

 それはきっと、祐一一人の想いではなかったのだろう。秋子の想いと名雪の想い、真琴と家族として過ごしたみんなの想いが一つに集まった結果なのかもしれない。

 かつて、美汐が祐一に語った奇跡の在りかた。丘のキツネやみんなの想いがたくさん集まれば、とんでもない奇跡も起こせるかもしれない。真琴の帰還は、まさしくそれを体現するものだ。

「だとしたら……」

 ひざの上で眠る真琴の頭を撫でつつ、美汐は少年を見る。

「だとしたら、あなたはなぜ……」

 帰ってきてくれなかったのか。その言葉は、美汐からあふれた嗚咽によって形にならない。

「ぼくは……」

 それでも、その意図を察した少年は静かに口を開く。

「ぼくは、美汐の悲しむ姿を見たくなかった……」

 まるで吐き出すような少年の声が静かに響く。

「ぼくのせいで美汐が悲しむ。それはとっても嫌な事だからね……」

 美汐の笑顔が見たかった。もっと美汐の温もりに触れたかった。だけど、一緒にいる事で美汐に悲しい思いをさせてしまう。それが嫌だった。

「だからぼくは……より高次の存在になる事を選んだ……」

 そうする事で少年は、美汐を悲しませずにすむと思っていた。ところが、思い通りにいかないというのが世の常だ。

 少年を失う事で美汐は心を閉ざし、周囲に笑顔を見せなくなってしまう。これは少年にも予想外の事だった。

 やはり、一人の人間はそれほど強くはなれないのだ。

 それがわかっていながらも、少年にはどうする事も出来ない。そして、いたずらに時だけが過ぎ去っていった。

「もう、美汐を救う事が出来ないと思ったけど、その子がきてくれたからね」

「真琴が?」

「うん」

 嬉しそうにうなずく少年。

「その子のおかげで、美汐は笑顔を取り戻してくれたからね。だから、その子にはとても感謝しているんだよ」

 はじめのうちは、やがて訪れる悲劇を知っているがゆえに関りあいになるのを拒んでいた美汐だった。だが、そんな悲劇的な結末を知ってなお、祐一は強くあり続けた。そんな二人に関っていくうちに、美汐は次第に笑顔を取り戻していく。

 今では多少おばさんくさいと言われはするが、すっかり普通の女の子だ。

「さてと、そろそろ時間みたいだ」

「……え?」

 そう言って少年はすっと立ち上がった。

「お別れだよ。美汐」

「そんな……」

 その後を追おうとした美汐ではあるが、ひざの上に真琴の頭がのっているのでは立ち上がる事も出来ない。

「言ったよね。ぼく達は今、束の間の奇跡の中にいるって」

 美汐に背を向けたまま、少年は言葉をつなぐ。

「じゃあね、美汐。ぼくはいつでも君の事を見守っているよ……」

「あ……」

 少年から発せられた柔らかな光に包まれた次の瞬間、美汐の意識は闇に落ちていた。

 

「……は?」

 頭の下に柔らかい温もりを感じつつ、美汐は目を覚ました。

「あ、やっと起きた」

「私……寝ていましたか……?」

「うん」

 どことなく嬉しそうな様子で真琴はうなずいた。

「美汐の寝顔って、はじめて見た気がする」

 頬が熱くなるのを感じながら、美汐は身を起こす。

(今のは、夢……?)

 だとするなら、なんて幸せで、なんて残酷な夢だろうと思う。

「あう?」

 突然抱きしめられ、真琴は驚いたような表情を浮かべるものの、すぐにまた笑顔に戻る。

 そんな真琴の温もりを腕の中に感じながら、これが現実なのだと思う美汐であった。

「さあ、そろそろ時間ですよ」

「みんなで花火をするのよね」

 そうして、休んでいた庵を後にする二人。そのときに美汐は、夢の中でもあの少年に出会えた奇跡に心の中で感謝するのだった。

 

「おいしいね」

 一弥がうなずいた。

「たのしいね」

 一弥がうなずいた。

 他愛のない事を話し、一緒にお菓子を食べる。そんな些細な出来事なのに、佐祐理は涙が出るほどの喜びを感じていた。

 それは、夢。

 もしも、一弥が生きていたら、一緒にいろいろな事がしたかったと言う夢。

(これは夢なのよ……)

 もう一人の自分が佐祐理に囁く。だから佐祐理は、自分でも驚くほど冷静にこの事態を受けとめていた。

 本来ならありえない事。でも、もしかしたらありえた事。

 

 もしも、ありえたのなら……?

 

 空虚な佐祐理に、少し上に浮いた状態で客観視する本当の自分が囁く。

 それに対する佐祐理の答えは唯一つ。

 正しくなかった姉に一弥が教えてくれた、本当に大切な正しい事をする事だ。

 人は誰かを幸せにする事で、自分も幸せになれる。相手に幸せを与える事で、みんなで一緒に幸せになる。

 一生懸命に幸せになる事。

 こうして再びめぐり合えた奇跡に、心の中で佐祐理は感謝した。一弥と接しているうちに、本当の自分と佐祐理の距離が縮まっていくようにも感じていた。

 だが、そんな幸せなひと時も、やがて終わりを告げる時が来る。

「もう、お別れですか?」

 一弥がうなずいた。佐祐理の記憶に残る、最初で最後の笑顔を浮かべながら。

「やっと会えたのに……」

 にっこりと微笑んだまま、一弥はそっと佐祐理の左手を取る。

「そこは……!」

 かつて佐祐理が、一弥を死に追いやってしまった罪から逃れるための罰。にもかかわらず、一弥はそっとその傷跡に口付けるのだった。

「許して……くれるんですか……?」

 一弥が微笑んだ。

「佐祐理は……幸せになってもいいんですか……?」

 一弥がうなずいた。

「わたしは、幸せでいればいいんですか?」

 一弥が、小さな体をいっぱいに使って佐祐理を抱きしめた。その途端に佐祐理の瞳から涙があふれ出る。

「一弥……」

 佐祐理も腕を精一杯伸ばして、一弥の体を抱きしめた。

「もっといっぱい、一弥と遊びたかった……。もっとこうして、一弥を抱きしめてあげたかった……」

「……すぐ……だよ……」

 今にも消えてしまいそうな一弥の声が、喉の奥から絞り出されるように聞こえてきた。

「すぐまた……会えるよ。お姉ちゃん……」

「一弥……」

 その腕の中に感じる一弥の温もり。そして、一弥から発せられた柔らかな光に包まれた次の瞬間、佐祐理の意識は闇に落ちた。

 

「はえ?」

 どうやら、わずかな時間であったがまどろんでしまっていたらしい。よくは憶えていないが、どうもとても幸せな夢を見ていたようだ。

「一弥……」

 ふと、佐祐理は自分の左手首に刻まれた傷跡を見る。それはかつて佐祐理が、一弥を死に追いやった自分の罪に対する罰の痕。言うなれば佐祐理の悔恨の証だ。

 結構深く切ったようだが、死には至らない傷。

 傷は治ったが、佐祐理にとっては痛かった。それは舞に出会う事で多少の痛みはやわらいだものの、決して癒される事がなかった。

 だが、不思議な事に、今はまったく痛みを感じなくなっている。ひょっとするとそれは、先程まで見ていた夢のせいなのかもしれない。

「ありがとう」

 誰に告げるわけでもない、感謝の言葉が佐祐理の唇から自然に出てきた。それと同時に、佐祐理の顔に微笑が浮かびあがる。

 それが心の奥底から自然にあふれ出てくる笑顔である事に佐祐理が気づくのは、これより少し後の事だった。

 

 ひとときの安らぎ。

 包み込まれるような優しい温もりに、秋子はそう思うのだった。

 なにも知らなかった無垢な少女のような笑顔で愛する人を見上げると、秋子の記憶の中と少しも変わらない笑顔で見つめ返してくる。

 それはまだ名雪が生まれる前の事。秋子はこうして愛する人の腕に抱かれるのが、好きだった事を思い出していた。

「変わっていないね、秋子」

 少しだけ困ったような。それでいて優しい雰囲気を持った声が響く。

「そうでもないですよ」

 あれから何年たったと思っているんですか、と秋子は彼の手を軽くつねりながら続ける。

「私だってもう……すっかりおばさんなんですからね」

 とはいえ、娘の名雪とほとんど変わらないような容姿を保っている秋子。あのころと少しも変っていない秋子の笑顔に、彼は満足げにうなずくのだった。

「寂しくなかったかい? 秋子」

 しっかりしているようで、君は意外と寂しがりやだからね。と、いつもの穏やかな微笑をうかべたまま問いかけてくる。

「そうですね……」

 その問いに秋子は形のよい眉を寄せ、少しの間考え込む。

「あなたがいなくなって、私がこの世に一人残されてしまったと思った時……。私はすべてを拒絶していました……」

 ただ一人部屋にこもり、食事もろくに摂らずに秋子は一人ぼっちの虚しさを噛み締めていた。それは秋子が事故に遭った後、部屋に引きこもってしまった名雪と同じように。

「でも、姉さん達が私を一生懸命に支えてくれました。そのおかげで私は立ち直る事ができたんです」

 身重の女が三人寄って、口々に旦那の不満を言い合っているのだが、いつの間にかノロケになってしまうのは御愛嬌だろう。それに、秋子に宿る小さな命は、あの人が確かに生きていたなによりの証。

 産まれてくるこの子は、きっとあなたを幸せにしてくれる。そんな親友の励ましは、なによりも秋子を勇気づけるものだった。

「それじゃあ、今秋子は幸せなのかい?」

「ええ」

 今度は即答だった。いつもの一秒了承のように。

「名雪がいて、祐一さんがいて。今はあゆちゃんに真琴、祐姫さんもいますから」

 自分の娘に姉と親友の子供達。それに身寄りのない真琴を加え、二人きりだった家が一気ににぎやかになった。

「そうか……。それはよかった」

 ずっと心配していたんだ。と、彼は言う。秋子が毎日を泣き暮らし、後を追ってくるんじゃないかとひやひやしていたものだ。

 幸いにして秋子にその兆候は無かったのだが、つい先日も彼は秋子に会っていた。

 

 それは、秋子が事故にあっていたときの事。そのとき秋子は、川を挟んだ向こうに彼の姿を見る。

 来るんじゃない。思わず駆け寄ろうとした秋子に向かい、彼はそう言った。それは秋子もはじめてみる、彼の厳しい表情も合わせての事。

「どうして……」

 愛しい人がすぐそこにいるというのに、秋子の足はまったく動こうとしない。どうする事も出来ない秋子の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。

「いいかい、秋子……」

 静かで優しい彼の声が秋子の耳朶を打つ。

「君は、生きなくちゃいけない。まだこっちに来るには早すぎるだろう?」

「あなた……」

「生きていくって言う事は、時として死を選ぶ事より辛い事かもしれない。でも、命ある限り生きて、生きぬいて、熱い血潮の通う幸せを作りだす必要もあるはずだ」

 そのとき、秋子の脳裏に浮かんだのは名雪の姿。これまでの十何年間の間共に苦楽をわかちあい、支えあって生きてきた愛娘の姿だった。

 確かに娘の幸せを見届けるまでは、死ぬわけにいかない。

「だから秋子、君は生きるんだ。僕の分まで……」

「はい……」

 その後秋子は柔らかい光に包まれ、気がつくと知らない天井を見上げていたのだった。

 

「あなたには心配かけてしまいましたけど、私はもう大丈夫ですから」

 そんな秋子の笑顔に、彼は安堵したように微笑む。

「そうだね」

 そして、そんな幸せな時間は静かに終わりを告げた。

 

「……あなた」

 ふと気がつくと秋子は、一人で知らない天井を見上げていた。でも、秋子の手には、確かにあの人の温もりが残っている。

 なんて不思議で、幸せなひととき。それを実感した時、秋子からは自然な微笑がこぼれていた。

 

「あ……」

 部屋を出たところで、佐祐理と会う秋子。見ると佐祐理からも自然な笑顔があふれている。

「いい夢、見られましたか?」

「はい、秋子さんもですか?」

 お互いの姿からは、なにかすっきりしたような感じがする。それはまるで、胸の奥にわだかまっていたしこりが取れたかのようだ。

「さあ、そろそろ時間ですよ?」

「そうですね。行きましょうか」

 連れだって歩く二人の中では、例え夢の中でも愛する人に出会えた感謝の気持ちで一杯だった。

 

 こうして夏の宴は、ひっそりと終わりを告げる。

 最後に、夏の夜空を彩る花火のような束の間の奇跡を残して。

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