第二十三話 天高く、馬肥ゆる秋

 

 秋、それは様々な季節。

 スポーツの秋。読書の秋。芸術の秋。

 秋にも色々あるけれど、やはり食欲の秋が一番であろう。

 

 それは、とある休日の出来事だった。

「お〜い、祐姫……」

「はい、なんですか? お兄様」

 ここは、水瀬家。家族が集うキッチンで、エプロン姿のままで忙しく動き回っている祐姫に、力なく声をかける祐一。

「どうして、俺は縛られているんだ……?」

 なぜか祐一は、椅子にがっちりと縛られていた。

「それは……しかたないよ……」

「そうよぅ。ほどいたら祐一、逃げちゃうじゃないの」

 なにかにおびえる小動物のように、あゆと真琴がキッチンの入り口付近から覗き込んでいる。

「さあ、できましたよ。お兄様」

 そう言って祐一の前に、にこやかに皿を並べて行く祐姫。どの料理もすばらしい出来映えで、食欲をそそるように暖かな湯気が立っていた。

 だが、祐一の表情は恐怖にひきつったままだ。あゆと真琴もお互いに手を握り合い、少しはなれたところから固唾を呑んで見守っている。

「……なあ、祐姫……」

 まるで油の切れたロボットのように首を、ギギィ、と動かし、祐一は乾いた声で祐姫を呼ぶ。

「やっぱり、食べなくちゃダメか……?」

「当然ですわ」

 即座にうなずく祐姫。

「潤様に美味しい料理を食べていただくためでございます。そのためには、お兄様の批評が欠かせないのですから」

 秋子に名雪に佐祐理に栞。それ以外にも多くの女の子の料理を食べている祐一の批評は、祐姫にとってなによりも信頼できるものである。それに、久々の主演作品でもあるので、必要以上に祐姫は固い決意のまなざしを祐一に向けていた。

 

 ここで、物語は少し前にさかのぼる。

 それは、昼休みの出来事だった。

 

 この日も祐一は、名雪をはじめとしたみんなと集い、教室で昼食を摂っていた。

「うん、美味い」

「本当ですか?」

 祐一の賛辞に、瞳を輝かせて応える栞。今日の昼食当番は栞なのだ。

 かつては病魔に冒され、余命いくばくも無いと宣告されていた栞。残された時間を精一杯に生きようとしていたときは、重箱一杯のお弁当をつくっていた彼女であった。

 しかし、あの冬の出来事を乗り越えたあとは、少なくとも命の危機に陥るような事はなくなっており、こうして普通に学校に通えるようにまで回復していた。

 そして、それに比例するように、お弁当の量も減少していったのである。なにしろ彼女には、また『今度』があるのだから。

「栞もずいぶんと料理がうまくなったじゃないか」

「ありがとうございます」

 続いてアスパラのベーコン巻きを口に放り込む祐一。

「うん、これも美味い。でも、ちょっと味加減が違うな……」

「それはお姉ちゃんが作ったんです」

「香里が?」

 よく見ると、栞の隣に座った香里が頬を赤く染めてうつむいている。そんな香里の姿を可愛いと思ってしまう祐一であるが、隣の名雪から静かなプレッシャーが発せられているため、それどころではなかった。

「いかがですか? 潤様」

「美味いっ! 美味いよ、祐姫ちゃんっ!」

 そのとき、半ばやけになったかのような北川の声が響き渡る。

「どうしたのよ、一体……」

「それは、祐姫ちゃんの料理が……」

 香里の疑問に、その隣に座っていたあゆが言い難そうに答えた。

「不味いの?」

「うぐぅ……」

「あう〜……」

 あゆは隣にいた真琴と顔を見合わせ、沈黙してしまう。

「ちょっと、いいかしら?」

「はい?」

 いくら料理が下手だといっても、そんなにひどいものでもないだろう。そう思った香里は祐姫の弁当箱から鳥のから揚げをつまんで一口かじってみると、少しだけ眉をひそめてからむぐむぐと咀嚼して飲み込む。その一部始終を、祐一達は固唾を飲んで見守っていた。

 

「あはっ! あははっ! あはははははっ!」

 

 突然香里は立ち上がり、大きな声で笑いはじめた。

「か……香里……?」

 

「あははははははっ!」

 

 あたかも狂ってしまったかのような香里の哄笑に、少しだけ驚いたような名雪の乾いた声が響く。教室内にいたクラスメイト達が何事かと注目するなかで、ゲラゲラと笑い続ける香里の表情は白目をむいており、普段のクールビューティーがウソのようだった。

「はうっ……」

 ひとしきり笑った後で、あたかも糸の切れた人形のように崩れ落ちる香里。

「大丈夫か? 香里っ!」

 祐一はあわてて助け起こすが、香里はなおもしゃっくり上げるように笑っていた。

「やむをえん」

 そのまま香里をお姫様抱っこで抱えあげる祐一。

 

「あーっ!」

 

 その途端にまわりの女の子達から大きな声が上がる。

「お姉ちゃん、うらやましいです」

「なにを言ってるんだ、栞。緊急事態だ、行くぞ名雪」

「うんっ!」

 名雪が立ち上がり祐一の横に並んだ、丁度そのとき。

「なにやってるんだよ、真琴ちゃんっ!」

「放して、あゆ。真琴もこれ食べて、祐一に抱っこしてもらうんだからっ!」

 叫び声に振り向いた祐一が見たものは、祐姫のお弁当に手を伸ばそうとする真琴と、それを必死に止めようとするあゆの姿だった。

 そして、香里を連れた祐一が、名雪と一緒に教室から出ていった後。

(台詞がありませんでした……)

 と、がっくりと肩を落とす美汐の姿があったと言う。

 

 と、そういう出来事があった。

 香里はその日の放課後には回復したのだが、目は落ち窪み、げっそりと頬はこけ、普段の美貌が見る影も無く憔悴しきっていた。

 一応栞が付き添って帰ったのだが、翌日の学校は休みだった。

 休み明けには元気な姿を見せてくれるだろうと、今は名雪がお見舞いに行っている。さすがに女の子が寝ているところに押しかけるわけにもいかなかったので、祐一は家に残っていたのであるが、どうやらそれが敗因だったようだ。

 ちなみに、秋子はどうしてもはずせない用事のために外出中であり、あゆと真琴では祐姫を止められない。

 つまり、今祐一を救えるものは、誰一人としていなかったのだ。

「……念のために聞くけど、祐姫……」

「なんでございますか? お兄様」

「ちゃんと誰かに教わったんだろうな?」

「その事でございますか……」

 不意に勝ち誇ったかのような笑みを浮かべる祐姫。

「この程度の事で、秋子様や名雪お姉様のお手を煩わせるわけにいきませんわ」

「煩わせろっ! 頼むから……」

「さあ、お兄様……」

 うっとりとしたような笑顔を浮かべつつ、祐姫が鳥のから揚げを祐一に差し出してくる。

「い……いやだっ!」

 祐一は激しく抵抗するが、椅子にがっちりと縛り付けられている今の状況では、それすらも虚しい抵抗でしかない。

 

「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 やがて水瀬家中に響き渡る祐一の絶叫に、あゆと真琴はお互いの体をしっかりと抱きしめあい、キッチンで展開される地獄絵図から必死に目をそらすのだった。

 

「あらあら」

 祐一がいくつかの料理の試食を終えた後、仕事から帰ってきた秋子がキッチンの惨状にほんのわずかだが眉をひそめる。普段あまり表情を変えずにたおやかな微笑を浮かべている秋子なだけに、その表情の変化は劇的ともいえるものだった。なにしろ、朝出かける時はきちんと整えられていたキッチンは、今は見る影も無く荒れ果ててしまっている。そのうえ、真琴は恐怖におびえてしまっているのか、必死に宥めるあゆの胸に顔をうずめたまま顔をあげようともしない。

 さらに祐一が、椅子にしばられたままぐったりしているのだから、驚くなと言うほうが無理な相談だ。

「これを祐姫さんが?」

「はい……」

 その妙な雰囲気に圧倒されているのか、祐姫がおずおずと言う感じで口を開く。心のそこから待ち望んでいた援軍の到着に、祐一は憔悴しきった表情のまま、静かに心の中で快哉をあげた。

 今の祐一の目には、秋子の姿が救いの女神の様に見えていたからだ。

「どれ?」

「あっ!」

 あゆが叫ぶが、もう遅い。秋子は祐姫の作った料理をつまむと、そのまま口に放りこんでしまったからだ。秋子にしてみればせっかく祐姫が作ったのだから、どんな出来映えなのか確かめてみる必要がある。もし問題があるなら、その都度アドバイスを与えればいいだけの事だ。

 だが、祐姫の料理の腕前を知るあゆにとって、その行動は無謀もいいところだ。一同の視線が秋子に集まる。そんな中で、不意に秋子の目が大きく見開かれた。

「あ……秋子さんっ!」

 これから続く惨事を予想してか、祐一が叫ぶ。

 その胸中に様々な思いが湧き上がっていく。秋子にもし万が一の事があれば、一体どうやって名雪を支えたらいいのか。あの冬に秋子が事故のあったときの出来事が、祐一の頭の中をよぎっていく。祐一はもう、あんな名雪の姿を見たくなかった。

 しかし、そんな祐一の思いをよそに秋子は戸棚に近づくと、なかからそっとオレンジ色の物体が入った瓶を取り出した。

「秋子様、それは?」

 祐姫が知らないのも無理はない。なぜならそれは秋子がお気に入りの、例のジャムだったからだ。

「このジャム、試していただけませんか?」

 言われるままに祐姫は、一さじすくって食べてみる。

「………………………………」

「どうですか?」

 嬉しそうに秋子は訊くが、そのジャムの実体を知る祐一達はこれから祐姫の身に降りかかるであろう惨事に胸を痛めるのだった。

「……美味しいです……」

 しかし、きっかり三秒後に祐姫の口から飛び出した言葉に戦慄する祐一達。話を総合すると、祐姫の味覚は常人のそれとは著しく異なるらしい。そのため、普通に料理をしても、とんでもない味付けになってしまうのだ。

 そんな中で秋子だけが、いつもより三割増しの笑顔で微笑んでいる。

 やがてゆっくりと祐一の方に向き直ると、二人並んでたおやかな笑顔を見せる。

 その二人の笑顔を見たとき、祐一は思った。

 悪魔が二人に増えた、と……。

 

「……で?」

 水瀬家の邸内に、静かな声が響く。

「どうしてこういう事になったのかな……?」

 その声の主は水瀬名雪。この家の主、水瀬秋子の一人娘である。秋子にとっては目に入れても痛くない、あたかも良質のコンタクトレンズのような愛娘。普段は見るものを穏やかにさせる暖かな微笑を浮かべている彼女なれど、今は形のよい眉がつりあがり、怒りの表情に彩られている。

 名雪から静かに立ち上る怒りに、秋子も祐姫もおろおろしっぱなしである。とはいえ、あまり迫力が感じられないのが、なんとも名雪らしいところではあるが。

 その彼女の胸には、小さなこげ茶色の頭が抱えられており、小さくしゃっくりあげていた。

 

 家に帰ってきたところまではよかった。しかし、家の中に漂う得体の知れない匂いと、リビングから響いてくる音に違和感があったのも事実。

 不審に思った名雪がリビングを覗いてみると、そこではうつろな瞳をしたあゆが、おなじくうつろな瞳の真琴を背後から抱きかかえていた。

 

 ちりーん……。

 

 真琴の手首に付いた鈴を、指ではじいてならすあゆ。

「ほら、真琴ちゃんの番だよ」

「あ……う……」

 

 ちりーん……。

 

 あまり上手に動かせない指で、真琴は一生懸命に鈴をはじく。

「ちりんちりんって遊んでいようね……」

「あぅー……」

 だが、真琴のまぶたは次第に下がっていく。

「ほら……」

 

 ちりーん……。

 

 あゆは鈴をはじくが、真琴は動かない。

「真琴ちゃん……?」

 優しくあゆが呼びかけたそのとき、真琴の腕が、とすっ、と落ち、鈴が最後の音を奏でた。

「名雪さん……」

 不意にあゆは名雪を見る。

「ボクの事、忘れてください。最初からいなかったんだって、そう思ってください……」

「あゆちゃん? 真琴?」

 よほど恐ろしい目にあったのだろう。二人ともまったく目の焦点があっておらず、おまけに今にも消えてしまいそうなくらいに追い詰められていた。

 そんなとき、キッチンからリビングに飛び出してきた小さな影が、名雪の胸に飛び込んできたのである。

 

「それで……?」

 再度名雪は、秋子と祐姫に向けて問いかける。その静かな名雪の気迫に気おされてしまったのか、二人はまったく口を開こうとしない。と、言うよりは、どうしてこんな事になってしまったのかがわからないという感じだ。

「どうして祐一が女の子になっちゃってるんだよーっ!」

 名雪に胸に顔をうずめて泣きじゃくる女の子。祐一は椅子にがっちりと縛りつけられていたのだが、女の子になった事で体が小さくなったためか、なんとか脱出に成功したのだった。

 これで祐姫の料理から解放された。そのかわりに祐一は、なにかとても大切なものを失ってしまったようであるが。

「どうしてなんでしょうね……」

「まさかお兄様が女の子になってしまうとは、思いもよりませんでしたわ……」

 どうやらこの事態は、秋子も祐姫もまったく想定していなかったようだ。とはいえ、誰がこんな事態を予想できただろうか。

「しかたありませんね……」

 いつもの左手を頬に当てるポーズのまま、秋子がすっと一歩前に進み出る。

「私がなんとかしましょう」

「秋子様が? いえ、これはわたくしの責任ですから、わたくしが……」

 そんな祐姫を秋子は優しく抱きしめた。

「いいえ、祐姫さん。子供の責任は、すべて保護者である私の責任です。それに、私にも悪いところがありますし……」

「秋子様……」

 お互いに抱きしめあう二人の姿は、どこから見ても仲の良い親子のそれであった。

「そんな事はどうでもいいんだよーっ!」

 その雰囲気をぶち壊すかのような名雪の声が響く。

「一体どうすれば祐一は元に戻れるんだよーっ!」

 名雪にとっては一大事だ。せっかく祐一と想いが通じ、相思相愛の関係になれた。大好きな陸上部も引退し、家事の負担もあゆがお手伝いしてくれるので楽になった。これから祐一と一緒に過ごせる時間が増えると思ったその矢先に、この出来事だ。

 たとえ祐一が女の子になってしまっても名雪の想いは変わる事は無いが、それはあくまでもたとえであって、名雪自身はノーマルなのだ。

 確かに名雪と香里が一緒にいるときにそう思われる事もあるし、その香里からは告白もされている。そんな香里の気持ちも嬉しくはあるのだが、名雪にとってそれは友情の延長線上にある気持ちであり、祐一のような男の子に向ける気持ちとは似て異なるものだ。

 なんと言っても、祐一に抱かれる時のあの感じ。優しさと力強さを兼ね備えた男の子ならではの感じは、女の子相手に得られるものではない。女の子同士だと、よほど特別な事情でもない限り、せいぜいスキンシップどまり。

 そんなわけで祐一が女の子になってしまったのは、名雪にとって重大な問題なのだ。

 

「まずは、状況を整理しましょうか。祐姫さん、レシピは?」

「はい、確か……」

 名雪の冷ややかな視線の中、祐姫は自分が使った食材や調味料をすらすらとよどみなく秋子に伝えていく。

「それを使ったんですか? でも……」

「はい。まさかわたくしもこのような効果があるとは……」

「だとすると……これがこうで、あれがああですから……」

 話を聞いているうちに、だんだんあたりが不穏な空気に満たされていく。

「……お母さん……?」

「治ります、治しますっ!」

 親子の間に妙な軋轢が横たわる中、名雪の胸に顔をうずめる祐一の嗚咽だけが響いていた。

 

 某月某日、秋のある日。

 この日祐一は、女の子になってしまった……。

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