第二十六話 カミングアウト
「あ〜、諸君」
朝のホームルーム。担任教師の石橋は、教壇の上でクラスにいる一同を見回して欠席者の有無を確かめた後、重々しく口を開いた。
「今日はみんなに嬉しいニュースと悲しいニュースがある」
いつもなら名簿を取り出して出欠を取っているタイミングで出たその言葉に、クラス内からざわめきが走る。
「先生、悲しいニュースってなんですか?」
その女子生徒は、いまだ姿を現さない祐一の席を気にしながら口を開く。名雪が来ているのに、祐一が来ていないのはおかしい。祐一の身になにか起きたのなら、名雪が取り乱しているか、学校を休んでいるだろう。それだけに余計気になるのだった。
「このクラスの相沢祐一が、個人的な事情でしばらくの間学校にこれなくなった」
「なんだって?」
真っ先に立ち上がったのは北川だった。
「おい、どういう事なんだよ水瀬っ!」
「……北川くん……」
おそらくはこの事情を知っているであろう名雪に強い口調で訊く北川。その北川の様子には、名雪も唇をかみ締めてしまう。
「ごめんね、言えなかったんだよ……」
「落ち着きなさいよ、北川くん。少しは名雪の気持ちも察しなさいよ」
香里に言われ、北川ははっと息を飲む。こうして平静を装っているが、きっと名雪は祐一の事で胸が張り裂けんばかりの思いをしているに違いない。
「ごめん、水瀬……」
これだから祐姫にデリカシーが足りないなんていわれるんだよな。と、思いつつ北川は席に着く。
「それで嬉しいニュースの方だが、このクラスに転入生が来る事になった」
先程とはまた違うざわめきが教室に走る。
「男子諸君喜べ、女子だ」
途端に男子生徒から大歓声が上がる。こうなるともう、祐一がどうしたのかはどうでもいいようだった。
「……うみゅぅ〜……」
扉一枚隔てただけだというのに、向こうの教室はまるで別世界のようだ。転校は日常茶飯事だったとはいえ、どうにもこの雰囲気には慣れないものを感じる。
これが見ず知らずの人間ばかりならまだ気も楽なのだが、よく知っている人達の前にでるのだから、緊張するなというのが無理だった。
(……大丈夫、だよな……)
このとき祐一は、昨夜の水瀬家家族会議の事を思い返していた。
「やはり、お兄様の事は伏せておくのがよろしいかと思います」
おずおずという感じで、祐姫が口を開く。祐一がこうなってしまったのには自分に原因があるためか、幾分消極的な様子だ。
「でも、ウソはよくないよ……」
それに真っ向から対立してるのが名雪だった。
「それだとウソにウソを重ねる事になっちゃうよ?」
「それは、そうですけど……」
祐一の身の安全を第一に考え、周囲に与える影響を最小限にするように配慮すると、やはり祐一が女の子になってしまったという事実は伏せておいたほうがいいだろう。そういう祐姫の意見もわからなくも無いのだが、名雪としてはウソをつくというのが好ましくないのだ。
確かに混乱を抑えるという目的であるならば、多少のウソはしかたない部分もあるだろう。しかし、それはここにいる全員。秋子、未悠、名雪、あゆ、真琴、祐姫、香里、栞、美汐、佐祐理、舞が揃って口裏を合わせなくてはいけないという事だ。
香里に美汐に舞、栞に佐祐理に祐姫ならまだ大丈夫といえるが、根が正直なあゆや真琴にウソは無理だ。
それに、ウソがばれてしまった場合の事を考えると、はじめから本当の事を話しておいた方がいいようにも思える。はじめから公表しておけば、秘密は秘密で無いからだ。
「名雪の言い分もわからないでも無いけど……」
そこで香里が静かに口を開く。
「それだと余計に祐ちゃんを好奇の目にさらす事にならないかしら?」
「う〜」
香里の意見ももっともである。男が女に性転換したというのは、どう考えてもタブロイド誌をにぎわすネタだ。下手をすれば世間の余計な興味をひいてしまい、日常生活すら出来なくなってしまう恐れがある。
実際に祐一達は舞という実例を知っているだけに、どうしても慎重になってしまうのだ。
「確かに、最初から事実ありのままを公表するのも一手だと思うわ。でもね、その場合なんて言って説明するのよ?」
秋子の作ったジャムと祐姫の作った料理の複合作用で祐一の女性ホルモンが活性化し、若返りの効果と成長促進の効果の複合作用で女の子になってしまいました。
事実を説明するとこうなるが、本気でそんな事を説明するとなると、別の意味で病院送りにもされかねない。祐一が半陰陽で元々両方の性を持っていて、どちらか一方の性にするために手術を受けました。という説明ならまだ理解も得られるかもしれないのであるが、いくら説明を科学的にしたとしても、どう考えても状況そのものが非科学的すぎるのだ。
「ウソをつくならつくで、また問題はありますが……」
そうおずおずと口を開いたのは美汐だ。
「この場合は事実を隠し、相沢さんを女性として公表するのですが、その場合ですと綿密なプロフィールを作成しておく必要があります」
「ぷろふぃーる?」
美汐の言葉に、真琴は首を傾げる。
「わかりやすく説明しますと、いつどこで産まれてどうやって生きてきたか。本人ならわかる事を作成しておくのです」
「でも、真琴自分の事よくわかんない。だって覚えて無いもの……」
「それも一つのプロフィールですけどね……」
ちょっぴりすねた様子の真琴に苦笑しつつ、美汐は言葉を続ける。
「この場合ですと、男性の相沢さんはどうしているのか、女の子の相沢さんはどんな人なのかを綿密に設定しておくのです。そして、それを誰に聞かれてもよどみなく答えられるように、相沢さんには完璧に記憶してもらう必要がありますけど」
あまり詳細に覚えているのも不自然なので、ある程度は適当でいいのだが、あまり適当すぎても問題なのである。その話を聞いただけでも、祐一にとっては頭が痛くなるのであるが。
しかも、この場合はもし万一ウソがばれてしまった場合も想定しておかなくてはいけない。
その後も色々意見は出たが、どれも決定打に欠けていた。しかし、これだけみんなが真剣に討論するというのは、それだけ祐一の事が心配なのだ。
結局、明け方近くになってやっと、事実をありのままに公表する事に落ち着いたのである。
「よし、それでは入ってきたまえ」
石橋に呼ばれるまでが、祐一にはやたらと長く感じられた。
制服は大丈夫。ちゃんと女子用を着ている。はじめは男子で通そうとしていた祐一であるが、ここまで背が縮んでしまっては無理な相談だった。幸いにしてあゆの制服に予備が合ったため、それを着用しているのである。
とはいえ、小柄なあゆの制服でも今の祐一にはかなりぶかぶかなのであるが。
髪はきちんと梳かした。顔もきちんと丁寧に洗った。そうとは気がつかない程度のメイクもした。そして、祐一は自分の頬を両手で叩いて気合を入れると、覚悟を決めて教室の扉を開けた。
途端にクラスの視線が集中するのを感じる。なんとか祐一は教卓の隣まで行こうとするが、あまりの緊張感のためかなかなか前に進めない。もっとも、それはよほど祐一がパニックに陥っているせいか、右手と右足が同時に出てしまっているせいでもあるのだが。
そして、祐一がもうすぐ教卓の隣まで辿り着く、その刹那の出来事だった。
「うみゅぅっ!」
教壇に躓き、豪快に転んでしまう祐一。このときに弾みでスカートがまくれあがってしまい、最前列に並んでいた生徒にぱんつが丸見えとなってしまう。お尻のところにアリクイさんがプリントされたぱんつが。
「大丈夫か」
「うう〜」
石橋に助けおこしてもらったものの、したたかに鼻を打ちつけてしまったのか、祐一は涙目になってしまう。
なんとか立ち上がって祐一が教室を見渡してみると、静かなざわめきがさざ波のように広がっていく。壇上にいる少女の姿にどことなく見覚えがあるせいか、クラスメイト達がどこか戸惑っているようなのが祐一にもうかがい知れる。そんな中で、必死に笑いをこらえているような名雪と香里の姿だけが、やけにはっきりと見えた。
「先ずは自己紹介だ。みんなわからんようだからな」
どこか面白がるかのような口調で促してくる石橋。小さくうなずくと祐一は礼儀正しく頭を下げ、ゆっくりと教室中を見回してから思い切って口を開いた。
「相沢祐です……。よろしくお願いします」
「……っえ?」
ざわざわと広がるさざ波。
「相沢……?」
誰かがボソリと呟いただけのようでもあるが、それは教室に一発の爆弾を放り込むような効果をもたらした。
「先生、その子は相沢君となにか関係があるんですか?」
「一応、本人だそうだ」
女子生徒の質問に、石橋は簡潔に答える。
「ウソだろぉぉぉぉぉぉっ!?」
はじめはさざ波程度だったざわめきが、ついには怒涛となって教室を埋め尽くしていった。
だが、それも無理は無い。休み前は普通の男子生徒だったのに、いきなり女子生徒になってしまっているのだから。しかも祐一の外見は十歳児程度の可愛い女の子なのだ。
「先生、どうして相沢君は女の子になっちゃってるんですか?」
「知りたいか?」
教師生活二十五年。その人生の年輪が刻まれた石橋の顔が苦渋に満ちる。
「世の中には知らないほうが幸せだ、と思う出来事がいくつもある。これもその中の一つなんだ。それでもお前達は知りたいか?」
そう言われてしまうと、流石にそれ以上の追求も出来なくなってしまう。
「姿形は変わってしまったが、相沢である事に変わりは無い。そういうわけだから、これからも仲良くするように。以上」
「本当に相沢なのか?」
まだ喧騒が残る教室で、北川が呆れたように口を開く。
「信じられないのも無理ないかもしれないけど、ここにいるのは正真正銘本物の相沢くんよ」
「まさか……知ってたのか?」
「うん、ごめんね。北川くん」
その名雪の笑顔に、知らなかったのは自分だけかと呟く北川。
そんななかで周囲から集中する視線に恥ずかしくなったのか、祐一が顔をそらしたその時。するすると伸びた北川の手が、祐一の胸を、むにょん、と鷲掴みにしていた。
「きゃうっ!」
次の瞬間、北川は大きく宙を舞っていた。
「祐ちゃんになにするんだお……」
どうやら北川は、名雪の目にも止まらぬ早業で蹴り飛ばされたらしい。
「ほ……本当に女なのか確かめたかったんだ……」
「それで、どうだったんだ?」
介抱に当たった男子生徒に、北川は答えた。
「この手触り……温もり……どれをとっても本物の胸だ……」
やり遂げた。そんな満足そうな笑みを浮かべて、北川は静かに瞳を閉じた。その時教室にいた男子生徒は、皆一様に勇者への黙祷を捧げるのだった。
「まあ、それはともかくとして、みんなで決めておかなくちゃいけない事があるわ」
クラスをまとめる委員長らしく、軽く腕組みをして香里が口を開いた。
「今日の一時限目は体育よ」
それがどうした、といわんばかりの視線が香里に集中する。
「見てのとおり、今の相沢くんは女の子。しかもこんなに可愛くなっちゃってるのよ」
今度は祐一に視線が集まる。名雪の腕の中にいる祐一は、確かに華奢で守って欲しいオーラを発散させている。
「着替えは更衣室でするわ。男子更衣室に相沢くんが入って見なさいよ。どういう事になると思う?」
その時、女子生徒がはっと息を飲む。
「餓えた狼の群れの中に、生きた子羊を放り込むようなものだわ……」
その惨状を想像してか、女子生徒達の男子生徒を見る目が厳しくなる。
「じゃあ、相沢君は女子更衣室で着替えるの?」
一人の女子生徒の疑問に、香里は黙ったままうなずいた。
「授業も女子で受けてもらうつもりよ。少なくとも今の相沢くんじゃ、男子の授業は無理よ」
そういう事なら。と女子の間では好意的に受け入れられるが、そこで香里は爆弾を投げ込む。
「ただ、その場合の問題はあたし達の着替えを相沢くんに見られちゃう、って事なのよね」
祐一の身体は女の子になってしまったが、心は男の子のままだ。だからといって男子更衣室に入ってしまうと貞操の危機だし、女子更衣室というのも問題がある。しかも授業は出ないわけにはいかない。なにしろ祐一は、当分の間は女子の履修科目に出席しないと単位がもらえないのだ。
「どうする? みんな」
唐突に突きつけられた問題は、ある意味において究極の選択といえた。
「うみゅぅ〜……」
祐一は今、女子更衣室にいた。あれから色々あったが、やはり祐一を男子更衣室で着替えさせるわけにもいかないという、女子生徒大多数の意見によってこうなってしまったのだ。
祐一が男子だったころは聖地であり、桃源郷ともいえる場所であったが、こうして女の子になってしまうとただ虚しいだけだった。それにブルマは見るほうが好きだったのだが、着用するほうとなるとどうしてもあたりの視線が気になってしまう。
クラスの女子が談笑しながら着替えているさなかの更衣室には、女の子独特の甘ったるいような空気が立ち込めており、男子更衣室とはまた違った雰囲気の中で祐一は違和感を覚えていた。まさに女子更衣室ならぬ、女子香異質である。
「はい、祐ちゃん。両手上げて、ばんざいしてね」
そんな中で祐一は、しっかり目隠しをされたまま名雪の手によって着替えさせられていた。
制服のリボンを解かれてケープをはずし、臙脂色の制服になったところでブルマを穿く。そうなったところで制服を脱ぎ、後は名雪に体操着を着せてもらうだけとなったのだが、その時脇から伸びてきた手が祐一の胸をわしづかみにしていた。
「きゃうっ!」
「わっ、本当に胸があるんだ」
目隠しをしているのでよくわからないが、クラスの女子が感心したように祐一の胸を揉んでいる。しかもブラの隙間から手を入れ、直接触っていたのだ。
「や……わ……」
異様に慣れた手つきでもみもみされてしまうせいか、祐一はすでにパニック状態だ。そもそも自分でもあまり触ったりした事が無いだけに、その意味では新鮮な感覚であった。
「わっ、だめだよ〜。祐一は、わたしのなんだよ〜」
「あ、ごめ〜ん。水瀬さん」
名雪が祐一を抱きしめると同時、その女の子は祐一の胸から手を離す。
「相沢君が本当に女の子になっているのか、ちょっと確かめたくって」
「もう……」
名雪も着替えている最中だったのか、ブラだけの胸に祐一の頭が押しつけられている。このときに祐一は、あゆと真琴が名雪の事をうらやましそうに見ている本当の意味を知った。
「謝るのは、わたしにじゃないよ?」
「あ、うん。相沢君、じゃなくて相沢さんもごめんね」
そう言って女子生徒は女の子のグループに戻っていくが、祐一はただ名雪の胸に顔をうずめたまま、嵐が過ぎ去るのを待つばかりだった。
「うう……汚された……」
あの後何人かの女子に似たような事をされてしまい、すっかり女性不審に陥ってしまう祐一であった。
「あんまり気にする事無いわよ。女子にとっては、単なるスキンシップよ?」
「そうは言っても……」
「それじゃあ相沢くんは、男子にスキンシップされたかったの?」
一瞬その光景を想像してしまい、祐一は激しく頭を振る。
この日の授業はバレーボール。出番待ちで体育座りをしている祐一の隣には、香里が座っている。ちなみに名雪はコートで元気に飛び回っていたりする。
それはともかくとして、体育館に集まっている生徒全員がブルマという言うのはなかなかに壮観な眺めではあるのだが、女の子になってしまった今の祐一にとっては虚しいだけである。とはいえ、男子が外でマラソンなのに比べると、天国と地獄なのであるが。
「そ〜れっ!」
黄色い掛け声と同時に、ボールが大きく孤を描いて宙を舞う。
「はーいっ!」
「名雪っ!」
レシーブ、トスと流れるようにボールが飛び、大きくジャンプした名雪のスパイクが相手コートに突き刺さる。
「やったぁっ!」
にこやかにチームメイトとハイタッチをしていく名雪の姿が、祐一にはまるで別人のように見える。すらりとした長身。リボンで一括りにして、ポニーになったロングヘア。そして、躍動するバスト。なんとなく祐一もコンプレックスを感じてしまう。
「意外だった?」
「まあ……」
普段ポケポケしているような感じが強いだけに、余計にそう思うのかもしれない。そう思うと、まだまだ名雪には自分の知らない一面があるんだな、と思う祐一であった。
やがて担当教師のホイッスルが鳴り、試合終了となる。結果は名雪のいるチームの勝利、意外なまでに運動能力の高い名雪を祐一は知る。
「さ、今度はあたし達の出番よ」
香里に連れられ、祐一はコートに足を踏み入れる。さっきの試合で勝ったほうのチームとの対戦だ。結構な運動量をこなしているというのに、息一つ切らせていない名雪が頼もしく見える反面、驚異的な存在として祐一の目には映る。
担当教師のホイッスルと同時に試合が開始される。
「そ〜れっ!」
黄色い掛け声と同時に孤を描くゴールが相手コートに飛んでいく。
「はいっ!」
「名雪っ!」
高々とジャンプした名雪のスパイクが、まっすぐ祐一目指して飛んでくる。
「祐ちゃんっ!」
「うみゅっ!」
咄嗟にレシーブの体勢に入る祐一であるが、このとき自分の手足が短くなっている事を失念していた。
ばっしぃぃ〜ん!
なんとか両手で受け止めた祐一であるが、そのボールは前へ行かず、祐一の顔面にぶち当たった。
「祐ちゃ〜んっ!」
名雪の叫び声を耳にしつつ、祐一の意識は闇に落ちていった。
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