第一話 旅立ちの日
相沢家の団欒
それは、もうあと一月ほどで年が変わろうかという、冬のある日の事だった。
「祐一、真琴。話があるんだけどいいかしら?」
「なんだよ、急に……」
「あう?」
この日は珍しく家族が揃った日だった。両親が共稼ぎであるために普段は不在がちで、祐一は一つ年下の妹である真琴と二人きりでの食事をとる事が多く、このように家族が全員揃っての食事というのは珍しい事だった。
「お父さんの仕事の事よ」
「親父の?」
母親である未悠の言葉に、祐一は、また転校かよ、と口の中で小さく呟いた。
祐一は子供のころから父親である大祐の仕事の都合で転校が多かった。こっちに半年、向こうに三月というのは良くある事だった。
真琴が高校に入学してからは比較的安定した生活を送っていたのだが、もうすぐ年も変わろうかというこの時期に突然の話だった。
「あう〜、それで、今度はどこに行くの?」
すでにあきらめの境地に達した真琴は、話の先を催促した。
「ああ、実は父さん今度は海外に行く事になってな」
「海外?」
その言葉に真琴は目を丸くした。
「海外のどこ? 真琴、英語なんて出来ないよ?」
「うむ、向こうに行ったら戻ってくるのに何年かかるかわからないからな。それで母さんには一緒に来てもらうことになっている」
「それに祐一の受験の事だってあるし、そんなところに祐一達を連れて行くわけにはいかないわ」
海外は危険だしね、と未悠は付け加えた。
「それじゃ、俺達は日本に残って自由気ままな生活を……」
「なに言ってるの祐一、あなたも真琴も家の事なんてなにひとつ出来ないでしょう?」
「あう〜……」
それを言われて、真琴はがっくりとうなだれた。
「だからね、祐一達には秋子のところに行ってもらう事にしたのよ」
「秋子……さん?」
それを聞いた祐一は、頭の奥でなにかが痛んだ。
「憶えてないかしら? あそこに行かなくなってからもう七年くらいになるものね……」
七年という言葉に、祐一は強い嫌悪感を抱いた。そしてそれ以上にあの街へ行く事を拒む自分を感じていた。
祐一が小学生だったころは、毎年冬になるとあの街に行っていた。だが、七年くらい前から祐一はあの街に行く事を拒むようになっていたし、そのころの大祐の仕事の都合で遠くに引っ越したために疎遠になっていたところだった。
もっとも、祐一自身もなぜあの街に行く事を拒むのかがわからなかったが。
「母さん、俺……」
「えっ? それじゃあ、なゆ姉ちゃんに会えるの?」
祐一の言葉は、真琴のあかるい声にかき消されてしまった。
「いとこの名雪ちゃんね。会えるわよ、真琴」
「やったあ!」
真琴は心底楽しそうにはしゃいでいた。七年前までは真琴も一緒に毎年冬には名雪のいる街に訪れていたため、すでに真琴は久しぶりに会う事の出来る名雪に心が向いている様子だ。
「名雪か……」
七年前にあの街でなにがあったのか、祐一は思い出せずにいた。思い出そうとするたびに頭の奥に白い霧がかかったような感じになり、記憶が曖昧になってしまう。
それに、名雪の名前を聞くたびに、祐一は心の奥が引き裂かれるような痛みを感じるのだ。
そんな祐一の心の苦悩も知らず、両親の海外渡航と北の街への引越しは順調に進んでいった。
職員室
「そうか、相沢は転校か……」
「ええ、まあ。ここしばらくは落ち着いてると思ってたんですけどね」
職員室で祐一は担任の教師、通称『髭』に転校する旨を伝えた。遠くを見ると、真琴も担任教師に同じ話をしているらしい。
「まあ、向こうに行っても元気でやれよ」
「はい」
相変わらずそっけない先生だと祐一は思った。まあ、教師がこういう人物なので、ある意味助かっている祐一であった。
祐一が教室に戻ると、そこは朝の喧騒の只中にあった。
「おはよう、相沢」
「おはよう、住井」
クラスの悪友、住井護と挨拶を交わし、祐一は席についた。
「随分と景気悪い面してるが、何か悩み事か? 俺でよければ相談に乗るぜ」
住井は心配してくれているようだが、その目はしっかり何か面白い事を探している目だった。とりあえず祐一は、その気持ちだけを受け取っておく事にした。
「別になんでもないさ。まあ、そんな事よりも……」
祐一は予鈴も近いというのに、自分の隣にある空いたままの席を見た。
「今のところ六対四で遅刻優勢だ」
流石に胴元だけあって住井の対応は早かった。
「で? 相沢はどうなんだ?」
「そうだな……今日は大丈夫だと思う」
「相沢は『遅刻しない』と……」
住井はくしゃくしゃになった紙になにやら書き込む。この男はクラス内でこうしたイベントを積極的にやるという珍しい男だった。ちなみに賭け事といっても昼食を賭けた程度のもので、基本的に金銭の収受を伴わないお遊びである。
今回の賭けの対象となっているのは、朝の風物詩とも言える遅刻寸前のデッドラインで教室に飛び込んでくるクラスメイトが、遅刻するかしないかというものであった。
時計は無情にも機械的に時を刻み(当たり前だが)死へのカウントダウンを始めた。普段は感じない時間の流れが、このときばかりは蝸牛の歩みのようにゆっくりと感じられる。
時計の秒針が最後の働きを見せようとしたそのとき、遠くからけたたましい足音が聞こえてきた。
「がんばれ長森、あと少しだ」
「浩平がもっと早く起きれば、こんな苦労はしなくてすむんだよ」
「来たみたいだな」
「ああ……」
住井は心底悔しそうに舌打ちをした。
「……今日はだめだと思ったんだけどな……」
しかし、その事を引きずらないのがこの男、住井護の良いところである。
「ゴール」
「まにあったよ〜」
教室の扉が開き、そこから一組の男女、折原浩平と長森瑞佳の二人が現れた。この二人は幼馴染らしく、たまに一緒に行動しているの見かける事があるくらい仲がいい。
「おはよう、長森。今日も朝からご苦労さんだな」
「おはよう、相沢くん。まったくだよ……」
と言って、瑞佳は祐一に微笑みかけ、隣の席に座る。窓際の席に座った浩平には、いち早く住井が駆けつけた。まったくの余談だが、瑞佳はクラスの男子に人気が高く、明るい人柄から人気投票をすれば常に上位に食い込む活躍を見せる才媛である。かく言う祐一も人間不信じみたところがあるものの、この瑞佳の笑顔は自然に受け入れる事が出来た。
瑞佳と祐一は高校入学時に同じクラスだったことで知り合い、高校二年の現在に至るまでに大切な友人同士となっていた。
まったくの余談だが、クラス内では瑞佳と浩平との仲が噂されており、事実上のカップルとして扱われている。
もっとも、当人同士は強硬に幼馴染だと言い張っているのだが、時たま息のあったところを見せるため、その噂を払拭するまでには至っていない。
「やっぱり浩平にはしっかりした人についててもらわないと、心配でしょうがないよ……」
それなら長森が一緒にいてやればいいじゃないか、と祐一が言おうとしたところで、担任の髭が教室に入ってきた。
「んあー、席につけー」
一瞬のざわめきのあと教室内は静けさに包まれ、髭が出席を取る声だけが響いた。
「今日はみなに連絡事項がある。相沢」
名前を呼ばれ、祐一はその場に立った。
「突然の事だが、相沢が今学期限りで転校する事になった。各自別れを済ませておくように。以上」
髭は教室から去っていくと、とたんに教室はざわめきに包まれた。
「相沢くん、転校するって本当なの?」
まず口火を切ったのは瑞佳だった。
「ああ、急な話で俺も驚いている」
「なんとか鳴らなかったの?」
「俺としちゃ一人暮らしでもなんでもしたかったんだが、受験勉強と家事の両立は無理だろ? だから叔母さんの家に預けられる事になったんだ」
そうなんだ、と力なく呟いて、瑞佳は視線を窓際に向けた。そこではすでに浩平が、夢の世界に旅立っているであろう事を、祐一は長年の経験で知っていた。
同じころ、一年生の教室も朝の喧騒に包まれていた。
「おはよう、澪」
『おはようなの』
明るい笑顔で、小柄な少女はスケッチブックに書かれた文字を見せた。
真琴が声をかけた少女、上月澪は生まれつき言葉がしゃべれなかった。だが、その代わりにスケッチブックを携帯し、筆談で意思の疎通を行うのだ。
このようなハンディキャップを背負っていながらも、澪は常に明るい笑顔を周囲に振りまいているため、クラスのアイドル的存在となっており、真琴にとっては高校入学以来の親友だった。
『どうしたの?』
「え?」
『暗い顔してたの』
澪はすばやくペンを走らせ、スケブに次の言葉を書いていく。
『心配なの』
「澪には叶わないな……」
親友の洞察力の鋭さに、真琴は内心舌を巻いた。そこで真琴は手短に転校する旨を伝えた。
『寂しいの』
「あう、真琴も澪の演劇楽しみだったのに……」
澪は少し悲しそうな表情でうつむいたが、すぐに笑顔でスケブにペンを走らせた。
『お手紙書くの』
「ありがとう、澪」
担任が来るまで、二人の会話は続いた。
最後の日
祐一が住みなれたこの街に別れをつげる前、つまり今年最後のイベントとなったのがクリスマスだった。祐一達はクラスでも親しい男子一同が浩平の家(正確には彼の叔母の家)に集まり、飲めや歌えのドンチャン騒ぎをしていた。
「相沢と会うのは今年で最後だな」
「まあな」
普段はあまり会話らしい会話をしない浩平と祐一だったが、今回は祐一の送別会もかねているための参加となった。ちなみに、お膳立てを整えたのは住井である。
「来年にはおばさんのいる、遠い北国だ。寒いのは苦手なんだけどな……。それに……」
「それに?」
本当はあの街には行きたくないんだ、と言おうとして、祐一は言葉を飲み込んだ。
「いや、なんでもない」
真琴は名雪に会えると言う理由で、あの街に行く事に乗り気だった。今頃はクラスでも親しいやつが中心になって送別会を開いている事だろう。だが、祐一はなんとなく名雪に会う事に抵抗を感じていた。
「まあ、なんにしてもだ……」
浩平は不意にまじめな口調で話し始めた。
まったくの余談だが、祐一は浩平がこんな真剣な表情で話をするところを見るの初めてだった。普段はクラスでも仲のいい住井達とつるんでの奇行が目立つ彼であり、クラス内で机を積み重ねた事件は有名である。
しかし、時期外れに転校してきた女生徒、七瀬留美の存在と二学期の期末試験を境にそういった奇行が見られなくなっていき、それまではさほど人と接する事をしなかった浩平が、積極的に人と関わろうとするように変わっていったのだった。
もっとも、彼の関わる人物は学校内でも有名な女生徒であったため、それまでとはちがった意味で奇行が目立つようになったのだが。
「がんばれよ、向こうの街に行ってもな……」
そんな奇行の目立つ浩平だが、このときばかりは真剣な表情で祐一にグラスを差し出していた。
「ああ」
その様子をいぶかしげに思う祐一だったが、差し出されたグラスに自分のグラスを軽く合わせた。
祐一は引越しの準備があるために早々に引き上げたが、住井をはじめとした数名は引き続き残留し、年明けまで騒ぎ続けるのだそうだ。
「さむ……」
いきおいよく吹きぬけていく風に負けないように、祐一はしっかりとコートの前を押さえた。
ふと見上げた空は雲ひとつ無く晴れ渡り、星達のドラマを演出していた。
そんな星空を見上げながら、祐一は雪に閉ざされたあの街の風景を思い出そうとした。
「……だめか」
祐一は軽い頭痛を覚え、思い出す事を断念した。
「……なんでだろうな……」
思い出すきっかけとなるのはあの街なのはわかっている。だが、祐一はあの街に行く事に乗り気ではない。
それは何故か。
「行ってみる必要があるな……」
祐一は降ってくるような星空の下で、決意を新たにした。
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