第二話 雪の街で

 

 始まりの街

 

 七年ぶりのこの街で、名雪との再会は二時間遅れだった。

「もう、なゆ姉ちゃん遅いよ!」

「ごめんね、真琴」

 遅刻した名雪の非を攻める真琴だったが、そう言って微笑む名雪の表情は反省の色が見えず、不思議と許せてしまう笑顔だった。

 祐一は名雪が事故にでも遭っていたのではないかと思っていたが、どうやらそれは杞憂に終わったようである。

「部活のミーティングが長引いちゃったんだよ。本当にごめんね、寒かったでしょ?」

「あう〜、部活?」

「うん、陸上部。こう見えても部長さんなんだよ」

「なゆ姉ちゃんすごいんだ……」

 さっきまで怒っていたのが嘘のように、真琴は目を見開いた。だが、祐一にはどうも名雪と陸上部というのがうまく結びつかなかった。

 昔の名雪。祐一の記憶の中にある名雪の姿は、不器用で要領が悪く、とろくて危なっかしい姿しかなかったからだ。

 そんな他愛のないおしゃべりに夢中になっているうちに、祐一達は水瀬家に着いた。

「着いたよ、ここがわたしのお家。そして、今日から祐一たちが住む家だよ」

 七年ぶりに見る水瀬家の外観は、祐一の記憶の中にある風景とさほど変わった様子はなかった。

「ただいま〜」

「お帰りなさい、名雪さん」

 家に戻った名雪達一行を出迎えたのは、肩先で揃えた栗色の髪に、赤いカチューシャをした小柄な少女だった。ちなみに祐一が少女だと判別できたのはカチューシャをしていたからで、体形的には小学生か少年といってもいいぐらいスレンダーだった。

「ただいま、あゆちゃん」

「あゆ……?」

 名雪の言葉は祐一の記憶の糸を手繰らせた。七年前の冬、そこで出会った一人の少女。

「そうだ、あゆ……。あゆだ……」

「思い出してくれたんだね……祐一くん……」

 見るとあゆの大きな瞳が涙で濡れていた。

「お帰りなさい、祐一くんっ!」

 突然あゆは両手を広げ、祐一めがけて突進してきた。

「おっと」

「あう?」

 咄嗟に祐一は身をかわした。勢い余ったあゆはその後ろにいた真琴に抱きつくように押し倒していた。

 しかもあゆの桜色の小さな唇は、真琴の唇を奪っていた。

「な、な、な、なにするのよぅ! 真琴のファーストキッス……」

「それはボクだって! 大体祐一くんが避けたりなんかするから……」

「いきなり攻撃を仕掛けてきたのはあゆのほうじゃないか」

「攻撃じゃないよ。せっかくの感動の再会のシーンだったのに……」

 あゆはぷいとそっぽを向いた。

「せっかくの感動のシーンで女の子押し倒してキスしたのなんて、ボクぐらいだよ」

「良かったな、世界初だ」

「ちっとも嬉しくないよっ!」

 そう言ってあゆは形の良い眉を吊り上げて怒るが、どうにもその姿は可愛らしく、微笑ましいものだった。

「二人とも仲良いね」

 名雪は二人の姿を見て能天気に微笑んでいた。ちなみに真琴は初対面のあゆに唇を奪われ、消沈していた。

「あらあら、にぎやかね」

「あ、おかあさん。ただいま」

「お帰りなさい、名雪、祐一さん、真琴」

「あ、お邪魔します秋子さん」

「祐一、それは変だよ」

 名雪が笑顔で指摘した。

「祐一はこれからここで暮らすんだから、それは変だよ」

 それを聞いた祐一は、真琴と目を合わせ、同時に口を開いた。

「「ただいま、秋子さん。これからお世話になります」」

 

 追憶

 

 水瀬家のリビングは、重苦しい雰囲気に包まれていた。

「びっくりしたんだぞ、本当に……」

「うん、ごめんね祐一くん」

 七年前。祐一がこの街を拒む原因となったのがあゆだった。

 当時母親を亡くし、途方にくれていたあゆが出会ったのが祐一だった。

 二人はすぐに仲良くなり、毎日遅くまで遊んでいた。

 だが、祐一が帰るその前日。あゆは木から落ちてしまった。

「……あの時は俺、あゆが死んだと思ってたんだぞ……」

 それが祐一の街を拒む原因だった。大切に思うから失ってしまう。そう考えた祐一が心を閉ざすのに、それほど時間はかからなかった。

 妹の真琴がいるおかげでそれほど深刻にはならなかったものの、祐一にはいまだに人間不信じみたところがあった。

「ボクもそう思ってた……。でもね、祐一くん」

 あゆは真剣な表情で祐一を見た。

「秋子さんがいてくれて、名雪さんがいてくれたから、ボクは目を覚ます事が出来たんだよ。それにあの時祐一くんに出会わなかったら、今のボクはいないんだよ……」

 あゆの大きな瞳から涙があふれ出た。

「本当にごめんね、祐一くん……」

「あゆが悪いんじゃないさ」

 祐一はあゆの小さな肩に手を置いた。

「元はと言えば、あんなところにあゆを連れてった俺も悪いんだ」

「でも……」

 まだなにか言いたげなあゆを、祐一は制した。

「だから、おあいこだ。それでいいだろ?」

「うん、ありがとう。祐一くん……」

 本格的に泣き始めたあゆを、祐一は優しく抱きしめた。

「それにしてもな、あゆ。目を覚ましたんだったら、教えてくれても良かったじゃないか……」

「え……?」

 その言葉に反応を示したのは名雪だった。

「わたし……手紙に書いたよ?」

「へ?」

 祐一が妙に間の抜けた声を出した。

「もしかして……読んでくれてもいなかったの……?」

 今度は名雪の瞳から涙があふれ出た。

「……祐一くん……」

 祐一の腕の中にいるあゆが低い声を出した。

「それはちょっと酷すぎるんじゃないかな?」

「そうよ。なゆ姉ちゃんを泣かすなんて……」

 あゆに続いて真琴も口を開く。祐一がふと秋子さんを見ると、いつもの様子で微笑んでいる。だが、その目はしっかり祐一を非難していた。

 こうなってしまうと、祐一に味方はいなかった。

「ごめん、名雪。決して読んでなかったわけじゃないんだ。ただ、俺にも事情が……その……」

 祐一は必死に弁明をはじめた。その姿はまるで三行半を突きつけられた男のようだったと、後に秋子は語った。

「……いいよ、もう……」

 その祐一の姿に、名雪は軽くため息を漏らして苦笑した。

「わたしも、今日は遅刻しちゃったからおあいこだよね……」

「いいのか? 名雪……」

「うん、これでこの話はおしまいね」

 そう言って、名雪はいつもの笑顔に戻った。

「それじゃ、ご飯にしましょうか」

「あ、お母さん。わたしも手伝うよ」

「ボクも〜」

 そう言って秋子がキッチンに向かうと、名雪とあゆが続いていった。

 

 水瀬家の団欒

 

 久しぶりに食べる秋子さんの料理はすばらしく、祐一と真琴は夢中で舌鼓を打っていた。この二人はこういった家庭料理を食べる機会が少ないため、こうしてにぎやかな団欒の中で食事をする事に憧れに近いものを持っていた。

「そういえばさ、あゆ……」

「なに? 祐一くん」

 祐一はとなりの席のあゆに話しかけた。

 一応食卓での席は決まっており、まず上座に秋子さん。その右手に名雪で対面が祐一。名雪のとなりが真琴で、祐一のとなりがあゆである。これは水瀬家での順位を示したものであるのだが、左利きのあゆに配慮したものでもあるため、厳密な順位ではない。

 もっとも、秋子さんが子供達に順位をつけるわけでもない。

「お前……良く無事だったよな……。あんなにいっぱい血を流していたのに……」

 祐一の脳裏にはあのときの光景が思い出されていた。真っ白な雪が、あゆの血によって真っ赤に染まっていく光景を。

「ああ、その事?」

 あゆは事も無げに答えた。

「雪ってね、浸透圧って言うのかな? その関係で血とかが染みこまないんだよ。表面の方で薄く広がっちゃうから、ちょっとの出血でも大げさに見えちゃう場合があるんだって」

 ボクもすぐに気絶しちゃったからよくわからないんだけどね、とあゆは軽く笑って付け足した。

「あの後しばらく意識不明になったりして、入院とかリハビリとかしなくちゃいけなかったから、結局学校は一年遅れなんだけどね……」

「と、言う事はまだ中学生なのか?」

「違うよっ! ボクは祐一くんや名雪さんと同じ歳なんだよっ!」

 あゆは形の良い眉を吊り上げて怒るが、どうもその表情には迫力がない。

「そうなのか? 俺はてっきり……」

「てっきり、なにかな?」

 どうやら本格的にあゆの逆鱗に触れてしまったようである。あゆの表情は絶対に祐一の事を許さない目だった。

「もう、だめだよ。祐一」

 見かねた名雪が仲裁に入った。

「いくらあゆちゃんが可愛いからって、いじめちゃだめだよ」

「なっ!」

 名雪の言葉にあゆの顔が真っ赤に染まった。

「昔からそうだよね、祐一は。好きな子の事をいじめちゃうの……」

「そ……そんな事はないぞ……」

 顔を真っ赤にしていたのでは、説得力のない祐一だった。

「そうなの? 祐一」

 真琴が興味津々と言う感じで口を開いた。

「それじゃあ、祐一もなゆ姉ちゃんの事もいじめてたんだ」

「へ?」

 真琴の無邪気な発言に、名雪は言葉を失った。

「あらあら」

 結局祐一、名雪、あゆの顔が真っ赤に染まり、それ以後は静かに食事が続けられた。

 

「ふ〜……」

 食事も終わり、風呂に入った祐一は荷物のない殺風景な部屋で大きく息を吐いた。

 正直言ってこの街に戻りたくはなかった。

 だが、今は少しだけ戻ってきて良かったと思っていた。

 七年前の出来事は今となってはどうする事も出来ないが、それでも新しい生活と言うものはなにかを期待するものだ。

 こんこん。

 祐一がそういう事を考えていると、不意にドアがノックされた。

 扉を開けると、枕を抱えた真琴がもじもじしながら立っていた。

 なんでも、まだ荷物のない部屋が怖いので、一緒に寝て欲しいと言うものだ。

 水瀬家の二階に四部屋あるうちの一室が真琴の部屋だったが、確かに殺風景な部屋の中に真琴を一人にはしておけない。普段は子ども扱いされるのを拒む傾向のある真琴ではあるが、たまにこうして甘えてくるのは祐一にとっても嬉しい事だ。

 傍らで安らかな寝息を立てる真琴の寝顔を見守りつつ、祐一もいつしか眠りの世界に引き込まれていた。

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