第三話 新しい生活

 

 水瀬家早朝

 

 誰かが廊下を走るけたたましい音で、祐一は目を覚ました。

「わ〜ん、ないよ〜」

 廊下を走る音と一緒に、泣き声が聞こえてくる。

「どうしよう……時間ないのに〜」

 そう言う割にはまるで緊迫感がない声だった。

「どうしたの? 名雪さん」

「あ、おはようあゆちゃん。わたしの制服知らない?」

「名雪さんの? さあ……」

「なにを騒いでいるんだ?」

 祐一はあまりのうるささに体を起こすと、真琴を起こさないように注意して部屋から出た。

「あ、おはよう祐一」

「おはよう、祐一くん」

 祐一の姿を見つけた名雪とあゆがにこやかに朝の挨拶をする。

「祐一、朝はおはようだよ」

「あ、ああ……おはよう二人とも。ところでなにを騒いでいるんだ?」

「ああ、そうだよ〜」

 先程まで能天気そうだった名雪の表情が、真剣なものに変わった。

「祐一、わたしの制服知らない?」

 なんで俺が、と言いかけた祐一だったが、不意にある事が頭の隅をよぎった。

「制服って、昨日お前が着てた変な服の事か?」

「変じゃないよ〜」

「そうだよ、ひどいよ祐一くん」

 怒り出す名雪とあゆを片手で制し、祐一は言葉を続けた。

「それだったら秋子さんがなにか知ってるんじゃないか? 昨日のままなら濡れたままだろ?」

「あ……」

 なにか思い当たる事があるらしく、名雪は大慌てで階段を下りていった。

「名雪のやつ、なにを朝から大騒ぎしてるんだ? 学校はまだはじまってないだろ?」

「名雪さんは部活だからね」

 そういえば陸上部だとか言っていた事を祐一は思い出した。

「あったよ〜」

 二人でそんな事を話していると、トタタタ〜、と軽快なリズムと共に、名雪が階段を駆け上がってきた。

「名雪さん、時間の方は大丈夫なの?」

「百mを七秒で走れば大丈夫だよ」

 そう言って名雪は着替えるために部屋に入った。

「……それが出来たら世界新だな……」

 祐一の言葉にあゆは苦笑した。

「そうだ、あゆ。お前今日の予定は?」

「ボク? 特にないけど、なんで?」

「引越しの荷物が今日届く予定なんだ。それで片づけを手伝ってもらいたいんだ」

「そう言う事ならお安い御用だよ」

 あゆは満面の笑みで承諾した。

「それならわたしも手伝うよ」

 着替え終わった名雪が姿を現し、こちらも満面の微笑みで承諾してくれた。

 もっとも、祐一は制服に着替えた名雪を見て、やっぱり変な服だと思ったが、トラブルになる事を避けるために口には出さなかった。

「名雪、まだいたの?」

 丁度そこに秋子さんが現われた。

「おはようございます、秋子さん」

「秋子さんおはよう」

 祐一とあゆが元気に挨拶する。ある意味若々しい秋子さんの姿は、自分と同年代の娘がいるように見えない。この家族が揃って出かけた場合、まず間違いなく三姉妹として認識されるであろう。

「おはようございます。祐一さんにあゆちゃん、朝食はどうしますか?」

「はい、いただきます」

「ボクも」

「わたしの分は?」

「時間あるの?」

 秋子さんの鋭い突っ込みに、名雪は、う〜、とうなった。

「……お腹ぺこぺこ……」

「お昼は少し遅めに用意しますから、帰ってきたら一緒に食べましょうね」

「うん。それじゃあ、行ってきま〜す」

 にこやかに微笑んで名雪は部活に向かった。

「本当に大丈夫なのか? あいつ……」

「祐一くんも、明日から大変だね……」

 妙に意味深な台詞を残してあゆはキッチンに向かった。

 

 余談だが、真琴が目を覚ましたのは、祐一達が朝食を終えた少し後の事だった。

 

 引越し

 

「さてと……」

 部活から帰ってきた名雪と一緒に少し遅めの昼食を食べた後、祐一は玄関付近に高く積まれたダンボール箱を見上げた。

 流石に二人分の荷物だけあって、相当な量だ。

「これから荷物を部屋に運び込むわけだが……」

 祐一は静かに戦力となる人員を見渡した。気合充分のあゆ。どこかのんきそうな名雪。物珍しそうにダンボール箱を見上げる真琴。

 ……不安だった……。

 とりあえず手近なダンボール箱を持って二階に上がろうとした祐一を、名雪が呼び止めた。

「ん?」

「……重くて持てない……」

「軽い箱はないのか?」

「全部試した……」

 名雪は戦力にならなかった。良く見るとあゆと真琴も高く積まれたダンボール箱を前に、呆然と立ち尽くしていた。この二人の身長では、手が届かないのだ。結局、人数が揃っていても、戦力として期待できなかった事に、祐一は深いため息をついた。

「俺が荷物を部屋に運ぶから、お前達は部屋で荷物の片づけをやってくれ……」

 

「……俺……。明日筋肉痛だな……」

「ご苦労様、祐一」

 最後のダンボール箱を部屋に運び終えた祐一を、荷物の整理をしていた名雪が労った。

 ちなみに名雪が祐一の部屋の整理を手伝い、あゆが真琴の整理を手伝っていた。

 名雪は祐一がダンボール箱を運んでいる最中から積極的に荷物の整理を行っており、祐一が運び終えるころにはすでに半分以上を片付けていた。その作業能力の高さは祐一でも目を見張るくらいに手際が良かった。

「後でマッサージしてあげるね」

「それはありがたいな」

 先程まで戦力外だと思っていただけに、名雪の笑顔が痛い祐一であった。

 丁寧に梱包を解き、箱の中身を整理していく名雪の姿を、祐一はしばし呆然と見つめていた。

(やっぱり可愛いよな……)

 さらさらのロングヘア、均整の取れたプロポーション、整った顔立ち、その他もろもろ……。そんな名雪がこうして祐一のためにかいがいしく動いてくれると言うのは、ある意味男冥利に尽きると言うものだろう。

 七年前には感じることはなかったが、なぜか祐一は名雪に女を感じてしまい、妙に心臓の鼓動が早くなった。

「どうしたの? 祐一」

 視線に気がついたのか、名雪は祐一の方を見てふわりと微笑んだ。

「あ、いや……。ちょっと休憩してた……」

 なんとなく祐一は、名雪と顔をあわせるのに抵抗を感じてしまった。

「さ〜て、作業を始めるか」

 それから数十分後には、祐一の部屋の片付けはほとんど終了していた。無論この作業の最大の功労者は名雪であるといっても過言ではないだろう。

「お疲れ様、祐一」

「ああ、サンキュな。名雪」

「祐一、疲れたでしょ?」

「まあな」

「マッサージしてあげるよ。そこに横になって」

「ああ」

 祐一はベッドの上に横になった。

「いくよ〜」

 間延びした事と同時にマッサージが開始される。

「お……これは……」

 祐一は、しばしの間その心地よさに身をゆだねていた。

 

 丁度そのころあゆは、お手洗いに行った帰りに祐一の部屋の前を通りかかった。

「お……」

 祐一の部屋からくぐもった声が聞こえてきたので、悪いとは思ったがあゆは扉に聞き耳を立てた。

「硬くなってるよ、祐一……」

 名雪の声が聞こえる。その声はどうもなにかをこらえているように聞こえた。

「どう? 祐一……気持ちいい?」

「ああ、上手じゃないか……」

「うぐぅ?」

 どうやら部屋の中で二人はなにかをしているようだった。

(二人とも……なにしているんだろう?)

 悪いとは思いつつも、ついついあゆも部屋の中が気になってしまう。

 

「祐一、すっきりした?」

「ああ」

 先程まで疲れ果てていたのが嘘のように、祐一の体は回復していた。そうなると今度は、ほとんど密着状態の名雪との距離が気になってしまう祐一だった。

「のどが渇いたな、なにか飲むか」

「そうだね」

 そう言って祐一が部屋の扉、内開きの扉を開けると、突然あゆが転がり込んできた。

「うぐぅ……」

「……なにしてるんだお前?」

「な……なんでもないよっ! ボク、なにも聞いてないから」

 あゆはあわてて立ち上がると、顔を真っ赤にして両手をぶんぶん振り回した。

「祐一くんの硬いところを、名雪さんのテクニックで気持ちよくしてあげて、それで祐一くんがすっきりしたなんて事聞いてないから」

 それじゃ、と言い残してあゆは真琴の部屋に消えた。残された祐一はわけがわからず、名雪と顔を見合わせた。

 

「うぐぅ〜」

 一方のあゆは真琴の部屋に入ったはいいが、なかなか胸の鼓動が収まらなかった。

「知らなかったよ……まさか祐一くんと名雪さんの関係が、あそこまで進んでいるなんて……」

 意外と耳年増なあゆだった。

 本音を言えば、七年前に出会ってからあゆは祐一の事が好きだった。でも、名雪の事を考えるとあゆにはそれが言えなかった。

 当然あゆは名雪が祐一の事を好きなのも知っている。二人が仲良くなってくれたらいいとも思っていた。

 ある意味容姿端麗な名雪。それに比べて幼児体形なあゆ。同じ女性なのに、どうしてこんなにも違うのかと悩んだ事も一度や二度の事じゃなかった。

「あゆ、どうしたの?」

 真琴は部屋に入ってくるなり、暗く落ち込んだ表情をしたあゆを心配して声をかけた。

 その真琴の真剣な表情に、なんでもないよ、とだけ声をかけてあゆは作業を再開した。

 今はただ、忙しさの中に身をおきたいあゆだった。

 

 お買い物

 

 祐一が名雪と一緒に下へ降りて行くと、丁度秋子さんが出かけようとしているところだった。

「お母さん、どこか行くの?」

「お夕飯の買い物に行くのよ。名雪達にはお留守番をお願いしますね」

 そう言って秋子さんはいつもの微笑を浮かべた。

「あ、それならわたしが行ってくるよ、その間にお母さんは準備してて。今日のおかずはなに?」

「ロールキャベツにしようと思っているけど……。大丈夫?」

「大丈夫だよ」

 そう名雪は微笑むが、秋子さんの顔からは不安の色が消えなかった。

 もうすでに昼は大きくすぎており、日もだいぶ傾いていた。今から商店街に出かけたとなると、かえって来るころには真っ暗になってしまう。

 都会に比べてもこの街は田舎であり、その分危険は少ないと言っても、若い娘の一人歩きが危ない事には変わりなかった。

「大丈夫だよ、祐一がいるもん」

 そう言って名雪は祐一の顔を覗き込む。上目遣いのこの視線は、祐一にとっては反則技に近い破壊力を持っていた。

「そうですね……。それでは、お願いできますか? 祐一さん」

 正直に言って、この寒い中表に出たくないと言うのが祐一の本音だ。だが、他人行儀などではなく、こうして用を言いつけてもらえると言うのはありがたいことではあるし、なにより女の子を寒い中に出させて自分は暖かい家の中にいるというのは、なんとなく気分が悪い。

 短い逡巡の後、祐一はその申し出を受け入れる事にした。

 

「ねえ、祐一は覚えてる?」

 商店街へと向かう途中で、名雪は妙に上機嫌な様子で話しかけた。

「なにをだ?」

「小さいころ、こうやって二人でお買い物に行ったよね」

「そんな事もあったな……」

 どうもそのあたりの記憶が曖昧な祐一であった。

「あの時は、祐一がかごを持ってくれたんだよ」

 そうだっけ、と言おうとした祐一であったが、かごを持つことに不満があったわけでもないので、黙って名雪の手からかごを受け取った。

「らくちん♪ らくちん♪」

 名雪は足取りも軽く、まるでスキップでも踏むかのような上機嫌で先を歩き、やがて二人は商店街に着いた。

「それじゃあ、わたしはお買い物をしてくるけど……。祐一はどうする?」

「一緒に行くよ。荷物もちがいるだろ?」

 その言葉に名雪は微笑んだが、祐一の本音は別のところにあった。

 流石にこれ以上寒い中に居たくは無い。店の中なら、まだ暖かいだろうと思ったからだった。

 

 買い物を終えて店から出ると、あたりは鮮やかな朱色に包まれていた。

 その光景に祐一は、一つの記憶が蘇えるのを感じた。

「……そういえば、丁度こんな時間だったな……」

「なにが?」

「あゆと初めて出会った時の事さ……」

 帰る道を歩きながら、祐一はそのときの事を名雪に語った。

 初めて出会ったときにあゆが泣きべそをかいていた事。お母さんがいなくなってしまったと、泣きながら訴えていた事を名雪に語った。

「そうなんだ……。だから祐一、わたしを待っててくれなかったんだね」

 名雪には祐一を責める意図はなかったのだが、それに対して祐一は素直に謝った。

「それじゃあさ、祐一。ここの事は覚えてる?」

 名雪が指差したのは、商店街から帰る途中にある小さな児童公園だった。

「わたし、ここで猫さんを拾ったんだよ」

「思い出したぞ、お前確かネコアレルギーだったろ」

 その言葉に名雪は、少し寂しそうに頷いた。ネコが飼いたかった名雪であったが、ネコアレルギーと言う体質のために飼う事が出来なかったのだ。

 名雪は誰よりもネコ好きなのに、アレルギーのために触れる事も、近づく事も出来ないのだった。こう考えると名雪も不憫な娘である。

「でもね、そのときに祐一が言ってくれた言葉。わたし嬉しかったよ」

「俺なにか言ったっけ?」

「『いつか俺が、ネコアレルギーを治す薬を作ってやる。だから泣くんじゃない』って」

「そっか……。ごめん、名雪」

「……? どうして謝るの? 祐一……」

 名雪は心配そうに祐一の顔を覗き込んだ。

「……医者になれるほど、俺頭良くないしな」

 その言葉に名雪は、気にしてないよ、と微笑んだ。

「そうやって思い出していけると良いね……。この街の事」

「そうだな……」

 ふと祐一は、空を見上げた。

 この街には辛い思い出がある。なんとなく祐一は、この街での記憶を取り戻しつつある事を感じていた。

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