第五話 転校初日2

 

 朝の教室 二年生

 

「間に合ったね〜」

「……そうね……」

 息も乱さずにこやかに話しかけてくる名雪とは対照的に、すでに肩で息をしている状態の香里が短く答える。

 昇降口で靴を履き替え、一気に階段駆け上がり、そのまま廊下を全力疾走。後半は完全に名雪に手を引かれ、ほとんど引きずられている香里であった。

 やっぱり、石橋と勝負と言ったのが間違いかな、と香里は思ったが、今となってはもう遅い。名雪のペースに巻き込まれた香里は、教室に駆け込むなり自分の机に突っ伏してしまうのだった。

「おはよう、お二人さん」

「おはよう、北川くん」

 久しぶりに会うクラスメイト、北川潤と名雪はにこやかに挨拶をかわすが、とてもじゃないが香里にそんな余裕はない。荒い息で小さく、おはよう、というのが精一杯だ。

「水瀬さんおはよう」

「あ、玲菜ちゃん。おはよう」

 同じクラスの女子生徒、間玲菜とにこやかに挨拶をかわす名雪。頭の後ろで二つにまとめた短いおさげを揺らしながら、玲菜は名雪を背後から抱きしめると、ん〜ふ〜ふ〜ふ〜ふ〜、と口元に笑みを浮かべ、耳元で囁いた。

「み〜たわよん」

 言われている意味が良くわからず、名雪は小首を傾ける。

「水瀬さん昨日、商店街を男の子と一緒に歩いてたじゃない。誰? 彼氏?」

「彼氏って……。違うよ、祐一はそんなのじゃないよ」

「ふ〜ん、祐一君って言うんだ」

「うん、相沢祐一。わたしのいとこなんだよ」

 とびっきりの笑顔で答える名雪に、歩くゴシップの異名をとる流石の玲菜も少しだけ引いた。とはいえ、その話題に興味があるのか、名雪のまわりにクラスの女の子達がちらほらと集まってくる。

「え? 水瀬さんのいとこっていうと?」

「うん、祐一のお父さんとお母さんがね、お仕事で海外に行く事になったの。だから、その間うちで預かる事にしたんだよ」

 ざんばらショートのクラスメイト、元気だけがとりえの美樹本蓮の質問に、にこやかに答える名雪。

「……それじゃあ、水瀬さんと相沢くんは、いっしょの家に住んでるの?」

「そうだよ、佳澄ちゃん。だって祐一は家族だもん」

 少しどもりがちでおとなしめな性格をした江木佳澄の質問に答えると、女の子達の間から、きゃ〜、という歓声が上がる。

 そんな名雪の姿を後ろの席から横目で眺めつつ、香里は大きく息を吐いた。

「だめだわ、あの子。全部しゃべっちゃってるわ」

「同情するぜ……」

 トレードマークとなる頭頂部の癖毛を揺らし、北川はメッカの方向を向いて十字を切り、口の中で小さく『ナムアミダブツ』と唱え、まだ見ぬ相沢祐一とやらに祈りを捧げた。

「そういえば北川くん、気になっていたんだけど……」

 香里は自分の隣の机を見る。香里の席は列の一番後ろで、名雪の席がその前だ。北川の席が名雪の隣なのであるが、その後ろに去年まではなかった机が置かれている。

「この机って?」

「ああ、これか?」

 北川は興味なさそうにその机を見た。

「オレにもよくわかんねーんだが、朝来たら石橋のやつが持ってけって」

「ふう〜ん……」

 そのとき香里は、今まで見た事もないようなとびっきりの笑顔でいとこの祐一について語っている名雪の横顔を見て、ある事を思いついた。

「北川くん、ちょっとお願いがあるんだけど……。いいかな?」

 

 朝の教室 三年生

 

「間に合ったね〜」

「そうですね〜」

 教室に駆け込み、久方ぶりに会うクラスメイト達と軽く挨拶をかわしてから自分の机にたどり着いた佐祐理は、ほへぇ〜、と一息ついた後にのんきそうな声で親友の声に答えた。結構な速度で廊下を走ったにもかかわらず佐祐理も舞も息一つ乱しておらず、この辺りは陸上部のOBである舞や、それほど運動神経は悪くない佐祐理の面目躍如といったところであろう。もっとも、佐祐理と舞の教室は二階にあるので、三階に教室がある名雪達や、四階に教室があるあゆにくらべれば、まだましなほうなのであるが。

「みんな元気そうで良かったね〜」

「あはは〜、そうですね〜」

 冬休みも終わり、久しぶりに名雪達と出会えて嬉しいのか、舞の明るい口調に佐祐理もいつものぽやぽやとした様子で相槌をうつ。

「まさか祐君とまた会えるなんて思っても見なかったけど」

「そうですね〜」

 いつもの様子で受け答えをしているように見えるが、どうも舞には佐祐理が心ここにあらずといった印象を受けた。佐祐理とは結構古い付き合いになるし、その意味では心友であると言っても過言ではない。そこで舞は話の矛先を変えてみる事にした。

「祐君、かっこよかったねぇ〜」

「そうですね〜……」

 佐祐理はあわてて口を押さえるが、ぽろっと口から出てしまった言葉はもはや戻らない。なにやら意味ありげな舞の笑顔を前にして、見る見るうちに佐祐理の顔が真っ赤に染まっていく。

「そっかぁ〜、佐祐理にも春が来たって事かぁ〜。うんうん、そっかそっかぁ〜」

「わっわっ、違うんですよ舞。誤解しないでくださいっ!」

 やっと得心がいったとばかりにうんうんとうなずく舞の背中を、佐祐理はかわいらしく握り締めた拳でぽかぽかと叩く。

「もうっ! 舞ったら。佐祐理が気にしているのは一弥の事なんです」

「一弥? ああ……」

 ようやっと舞も佐祐理の懸念に気がついた。なにしろそれはつい今朝方の事だからだ。

「なゆ姉ちゃんも舞姉ちゃんも渡すもんか、ね。あの一弥も言うようになったじゃないの」

 なにしろ舞と佐祐理は、お互いに小さなころからの知り合いで、もう十年にもなるだろう。当然名雪や一弥ともそのくらいになるので、感覚的には家族姉妹というほうが近い。その意味で舞にとって、五つ歳下の一弥は少し生意気な弟というところだ。舞の笑顔には弟の成長を喜ぶ姉としての輝きがあった。

「あれからもう……十年になるんですね」

「そうだね……」

 ポソリと呟くような佐祐理の声に、舞も短く相槌をうった。

 

 今から十年前。それは佐祐理が舞と初めて出会った時の事である。

 そのころの佐祐理は父親の言いつけを守る、典型的な良く出来た子だった。だが、それは裏を返せば自分という意思を持たない人形にも近いものだったのである。それは弟である一弥にも、深く影響を与える事となっていた。父親の言いつけを守って甘やかさなかった佐祐理の意思を反映してか、そのころの一弥はまったく言葉をしゃべらなかったのだ。

 失語症の一種。一弥を診た医者は、そう診断した。

 当時佐祐理の両親の仕事は多忙を極めており、そんな中で佐祐理は広い家に一弥と二人きりでお留守番をするという事が多々あった。当然幼稚園への送り迎えも佐祐理がする事となり、朝嫌がる一弥を連れて幼稚園へ行き、夕方に泣いている一弥を連れて帰宅するという生活が続いていた。

 本音を言えば佐祐理も一弥と一緒に遊んであげたい。本当は一弥と一緒にお菓子を食べたり、他愛のない事で笑いあったりしていたかった。しかし、父親の言いつけにそむく事は、そのころの佐祐理には出来なかったのだ。

 丁度そんなときに、佐祐理は舞達と出会ったのだった。

 

 その日佐祐理はいつものように一弥を幼稚園に迎えに行った帰り道で、麦畑に通りかかった。自分の背丈よりも高い麦の穂が風になびき、夕暮れの光に照らされている姿は黄金の中を歩いているようでもあった。

 普通の人がこの光景を見たならば、しばし心を奪われてしまうだろう。だが、佐祐理は無機質な瞳のままで一弥の手を引き、足早にそこを通り過ぎようとしていた。

 そのとき、不意にがさがさがさっと麦の穂が揺れ、なにかが佐祐理の目の前に飛び出してきた。

「……っ!」

 よく見るとそれはつややかな長い黒髪と、くりくりと良く動く大きな瞳が印象的な、佐祐理と同じくらいの歳の女の子だった。女の子は佐祐理と目が合うと、にっこりと微笑んだ。

「つ〜かま〜えたっ!」

 再び麦の穂が揺れると、女の子が出てきたところから、もう一人女の子が飛び出してきて、最初に飛び出してきた女の子に飛びついた。その女の子はきれいな青色の髪をしており、前髪の髪型が特徴的なかわいらしい女の子だった。

「あれ……」

 ワンテンポずれているのか、青い髪の女の子は状況が把握できずに佐祐理と黒い髪の女の子の顔を交互に見比べている。やがて青い髪の女の子は一弥に目を止めると、見ているほうもつられてしまうくらいのとびっきりの笑顔で微笑みかけた。

「一緒に遊ぼう」

 そう言って青い髪の女の子は一弥に手を差し出した。一弥は少し迷っていた様子だったが、やがて佐祐理の手を振りほどくようにして離すと、まっすぐ女の子達のほうに向かって走り出した。

「一弥が……」

 今まで佐祐理にも見せた事のないような笑顔で女の子達と一緒に走り回る一弥の姿を、佐祐理はしばし呆然と眺めていた。その姿に気がついたのか、黒い髪の女の子が佐祐理に向かって手を差し出した。

「ほ〜ら、あんたも」

 ふと気がつくと、佐祐理も女の子達と一緒になって走り回っていた。時間が立つのも忘れ、それこそ泥んこになるまで遊び続けたのだった。

 そして、その日以来佐祐理と舞と名雪は親友同士なのだ。

 

「あの日あたし達が出会った麦畑も、今じゃ学校。あたし達の思い出のいっぱい詰まった場所は、今はみんなが素敵な思い出を作るところになってる」

 月日のたつのは早いものね、と妙に年寄りめいた事を口にする舞。

「そうですね〜」

 それは佐祐理も実感している。あの日の出会いがなければ、もしかしたらこうしてみんなで笑いあっている事なんてなかったかもしれない。そういう意味では、人と人の出会いは奇跡と言えるのだろう。

 目の前で屈託のない笑顔を浮かべている親友の姿に、佐祐理は今までも、そしてこれからも変わらない友情を心に誓うのだった。

 

 朝の教室 一年生

 

「お……は……よ〜……」

 教室に駆け込むなり、あゆは息も絶え絶えという様子で自分の席に着いた。いくらなんでも、流石に四階まで駆け上がるのは辛い。そんなあゆの姿を見つけて、一人の少女が肩先で揃えられたショートヘアを揺らして近づいてきた。

「おはよう、あゆちゃん」

「おはよう、恵美ちゃん」

 久方ぶりに逢うクラスメイト、新藤恵美とにこやかに挨拶をかわす。

「毎朝大変だね。もしかすると、水瀬先輩のせいかな?」

「うぐぅ、それもあるけど……」

 祐一の事を言うべきか、少しだけ悩むあゆ。でも、とりあえず今は恵美には関係のない話題ではある。

「……落ち着いたら話すよ。それよりも……」

 あゆは朝の喧騒の中で、ぽつんと置かれた誰も座っていない机を見た。

「……栞ちゃん。まだ学校にこれないのかな……」

「あ……」

 その言葉に恵美も沈痛な面持ちで押し黙ってしまう。

 あゆがこの学校に入学して、初めて話しかけたクラスメイト。それが栞だ。誰ひとり知っている人がいないクラスで席が近かった事もあり、似たような境遇だった栞とはすぐに仲良くなった。だが、栞はその後すぐに倒れて病院に運ばれてしまい、それ以来学校に来ていないのだ。もしかしたら重い病気で入院しているのかもしれないと思いもしたが、先生に聞いてもなにも答えてはくれなかった。

 でも、いつかはきっと栞と一緒に勉強が出来ると、あゆは信じているのだ。

 そんな中、一人の少女が教室に入ってくる。

「あ、天野さん。おはよう」

「……おはようございます……」

 あゆの声に小豆色の軽くカールした髪を襟元で切りそろえた少女、天野美汐はまるで感情がこもらない無機質な声で返事をした。そのまま美汐は窓際にある自分の席に着くと、誰も寄せ付けないような雰囲気を背負ったまま静かに窓の外を眺めていた。

 入学以来なんとか美汐と仲良くしようとしているあゆであったが、今のところその成果は現れていない。半分以上無視された格好で『うぐぅ』と呻くあゆの姿を、恵美は苦笑交じりの笑顔で見つめていた。

「だめねぇ」

「うぐぅ、でも……」

 以前は話しかけても返事すらしてもらえなかったのが、今はなんとか返事をしてもらえるようにはなっている。その意味では蝸牛のような歩みなれど、着実に進歩しているのだ。もっとも、今後の進展はあゆ次第であるとはいえるが、もう少し美汐のほうにも取り付く島があっても良いと思う。

 美汐がああなってしまったのには、なにか原因があるのだとあゆは思う。でも、他人の事情に興味本位で首を突っ込むのは慎むべきだという考えもある。結局それを知るには、今以上に美汐と仲良くなる以外に方法はないのだ。

 かなり前途は多難であるが。

「うぐぅ……」

 そんなため息交じりのあゆの口癖を、恵美は微笑みながら見つめていた。実際あゆの年齢は恵美より上なのだが、どう見てもそうは見えないところがあゆの魅力なのだろうと恵美は思っている。ある意味においてあゆの明るさが、クラス全体を支えているといっても過言ではないからだ。

 だから、いつかはきっと美汐も心を開いてくれる。多少能天気な発想ではあるが、それが恵美の偽らざる本音なのだ。

 そして、あゆの持つ優しさの支えとなるのが、水瀬先輩なんだろうなとも思う。何度か家にお邪魔したときに話をした事があるくらいでしかないものの、天性の資質とでも言うべき名雪の優しさは、恵美にとっても憧れの対象だ。実のところ下級生の女の子達の中で、名雪の人気は舞や香里とも比肩しうるものなのだ。

 この名雪の人気に関して同居しているあゆは首を傾けざるをえないところがあるものの、部活にがんばっている名雪の姿は確かに輝いているものなので、苦笑で答えるしか出来ないのが実情だったりする。それに、実はあゆも名雪には憧れに近いものを抱いているという点では、他の女の子達と同意見なのだ。

「そういえばあゆちゃん、昨日のドラマ見た?」

「あ、うん。面白かったよね」

 鳴いたカラスがもう笑う。そんな表現がぴったりくるくらい、あゆはくるくると表情を変える。

 そして、担任の先生が来るまで二人のドラマ談義は続くのであった。

 

 朝の教室 中等部一年

 

「よぉ〜っす」

「おはよう、一弥君」

 教室に入ったばかりの一弥を、一人の少女が出迎えた。彼女の名前は久瀬瞳。長い黒髪を頭の後ろで一本の三つ編みにまとめ、少し大きめのめがねをかけた小柄な女の子だ。

「よっす、瞳」

「だめだよ、一弥君。朝はちゃんと、おはようございます、だよ」

 中等部の制服となるセーラー服の胸を張り、瞳は優しく諭すようなお姉さん口調で語りかけてくる。実のところ瞳は名雪に理想の女性像を見ているので、よく口調とかを真似する事があるのだ。

「……おはよう」

 その姿に根負けしたのか、しぶしぶながらも挨拶を返す一弥。こういうところはなゆ姉ちゃんにそっくりなんだよな、と口には出さずに呟く。

「うん、おはようございます」

 そう言って瞳は満面の笑顔を浮かべるのだった。

「おはよう〜ございます〜」

 やたらとスローモーなテンポで挨拶をしながら、一人の少女がゆっくりと教室に入ってくる。よく見るとその瞳は一本の線のような糸目になっており、おぼつかない足取りで、ふらふらと一弥達のところに近づいてきた。

「おはよう、麻里華」

「おっす、五十嵐」

「はい〜、おはよう〜ございます〜」

 そう言ってその少女、五十嵐麻里華は深々と丁寧なお辞儀をする。比較的長身の麻里華が非常にゆっくりとした動作でお辞儀をするので、背中の中ほどまで届くさらさらロングのストレートヘアと、頭の後ろで結ばれた白いリボンがそれにあわせてゆらゆらとゆれる。

「……相変わらず眠そうな顔してるわね、麻里華は」

「わたくしは〜、いつもこのような顔でございます〜」

 まるでカタツムリが歩くようなテンポで答える麻里華。瞳と麻里華は幼稚園時代からの腐れ縁で、一弥とは小学校に入学して以来の付き合いだ。そのころから変わっていない二人のやり取りに苦笑しながら、一弥は麻里華に起きた直後の名雪の姿を感じるのだった。

「それはそうと〜、一弥君〜」

「な……なんだよ」

 ぐっと麻里華が顔を近づけてきたために、一弥の視界に麻里華の顔が大写しになる。そのときに麻里華の肩口からほのかに香るシャンプーのにおいが、否が応にも一弥の鼓動を高鳴らせていく。

 まだ小さかったときはそれほど感じなかった男女の性差も、思春期真っ只中の今でははっきりと感じ取れるようになっている。もう少し顔を近づければ唇を触れ合わせる事も出来そうな距離に、一弥の心臓は爆発寸前だった。

「ずるいですよ〜」

「へ?」

 予期せぬ麻里華の言葉に、一弥の声が裏返る。

「瞳ちゃんの事は〜お名前で呼ぶのに〜。わたくしが〜そのように呼ばれないのは〜不公平ですわ〜」

 そう言ってぷっくりと頬を膨らませる麻里華の姿に、一弥は昔のまんまの姿を見つけて、不思議と安心した気持ちになれるのだった。

「ああ、すまない。麻里華」

「はい〜」

 糸目のままで、にっこりと微笑む麻里華。そんな二人のやり取りを、瞳は温かいまなざしで見守っていた。

 

 やがてそれぞれのクラスに担任がやってきて必要事項を伝えると、生徒達は一斉に講堂へと向かうのだった。

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