第八話 転校初日5
旧校舎 空教室
「痛ててて……」
祐一達の通う学校は中高一貫教育を実施しており、大学も併設されているためにかなり広い校舎を有している。校舎は新校舎と旧校舎に分かれており、一般的に生徒が使っている教室や特別進学クラスなどがあるのは新校舎のほうで、講堂を含めた旧校舎のほうは空き教室が多く、部活で使用する以外にはほとんど人が立ち入らない場所となっている。
そんな旧校舎の、ある教室内からくぐもった男の呻き声のようなものが聞こえてきた。
「おい、大丈夫か?」
「ああ、なんとかな」
それは、先程中庭で祐一にやられた男子生徒の一団だった。
「で? これからどうするんだ、斉藤」
「どうするっていわれてもな……」
祐一に一方的にやられたのだから、その事をぶちまければ相手を窮地に追い込む事が出来るだろう。しかし、斉藤をはじめとして、全員が特に大した怪我をしていないのでは説得力に欠けてしまう。
「このままアイツに、水瀬さんを渡してもいいのか?」
誰かの声に、斉藤は奥歯をかみ締める。確かに、このまま転校生に盗られてしまうのは面白くない。メンバーが水瀬名雪を好きな男達で構成されているせいか、このあたりの結束力は強い。
しかも、お互いに抜け駆け禁止などの協定を課しているためか、転校したてで名雪と仲が良い祐一の存在には神経を尖らせていたのだ。
「あの野郎、美坂さんとも親しげに話してたぜ」
たらしかよ、と誰かの声が響く。もっとも、クラス委員の香里が転校生である祐一の世話を焼くのは、ある意味至極当然の事なのであるが。
「それにアイツ、水瀬さんと同じ家に住んでるそうじゃないか」
誰かの声に、その場にいた全員が凍りつく。
「なんだよ。それじゃ水瀬さんの貞操は、風前の灯火ってやつじゃないか……」
その声に、途端に全員が騒ぎ出す。それまで静かだった教室内が蜂の巣をつついたような騒ぎになり、すでに隠れている意味がなくなっていた。
「静かにしろっ! お前らっ!」
斉藤の大声に、教室内はしん、と静まり返る。
「水瀬さんの貞操の危機だと……?」
その得体の知れない迫力を前に、その場にいた全員は思わず息を呑み込んだ。
「……そんなものは奪われる前に奪っちまえばいいんだ……」
男達は互いに顔を見合わせると、にんまりといやらしい笑みを浮かべた。それを見ている斉藤の顔は、これ異常ないくらい醜く歪んでいた。
放課後 家路
「お疲れ〜」
「お疲れ様で〜す」
女子陸上部の部室から、女の子達が帰宅の途につく。時刻はもう夕暮れ、赤く染まる空に影が長く伸びている。そんな中で名雪はただ一人部室に残り、部員達が散らかした部室を片付けていた。
「遅くまでがんばってるわね」
「はい、わたし部長さんですから」
呆れ顔で部室に足を踏み入れたのは、体育教師で女子陸上部の顧問を務める沢渡真琴。それに笑顔で応じるのは女子陸上部部長の水瀬名雪であるが、まるで答えになっていなかった。
「部室の片付けぐらい、部員達にやらせたらどう?」
「でも、わたし部長さんですから」
3メートルほど横にずれているような会話に、言うだけ無駄かしら、と沢渡は思うのだが、名雪はその目の前で黙々と部室の整理整頓を行っている。こうなると部長さんというよりは、雑用係のようだ。
名雪が部長をしているのは、前部長である川澄舞の強い推薦によるものである。普段からポケポケのほほんとしている名雪を部長にする、と舞から聞いたときは、正直沢渡は、この部もおしまいね、と思ったものだ。ところが、名雪には不思議なカリスマがあるせいか部内の結束は固く、沢渡の懸念も杞憂に終わったのだった。
また、こうして名雪が率先して雑用を行っている事で部員達も練習に集中できるためか、ここ最近は大会でも好成績を残している。基本的に生徒の自主性を重んじる校風のせいか、そのあたりに関して沢渡も強くはいえないのだ。
「とにかく、適当なところで終わらせて早く帰りなさいよ? 暗くなると、なにかと物騒だからね。それと、鍵は返しに着なさいね」
「はい」
結局、名雪が片づけを終えたのは、これから一時間ほど過ぎたあたりだった。
「すっかり遅くなっちゃったな……」
もうすでに日は地平の彼方に没し、赤い名残の中で一番星が輝くころ。名雪は夕闇が迫る通学路を、小走りするように家路を急いでいた。
一応沢渡は、送っていってあげるわよ、と愛車の鍵を見せてくれたのだが、名雪はそれを丁重に断った。なにしろそうしないと沢渡の愛車、橙色のFD3Sによるスリルドライブがはじまるからだ。
沢渡先生も普段はいい人なのにな、と名雪はのんきに思う。まあ、ハンドルを握ると人格が変わるというのはよくある事だし。
そんな事を考えながら、名雪が街灯に照らされているだけの薄暗い小道を足早に通り過ぎようとしていると、不意に目の前に一人の男性が姿を現した。
「……?」
比較的長身の痩せ型の男が丁度目の前に立っているので、名雪はよけようとするのだが、男はまるで通せんぼをするかのように行く手を遮っている。よく見るとまわりには他にも何人かいるらしく、名雪は壁際に追い詰められてしまった。
「やぁっ……むぐっ」
悲鳴を上げようとした口を大きな手が塞ぐ。男は覆面で隠した顔を名雪の耳に近づけると、ドスの聞いた声で、静かにしろ、と告げた。
その途端、名雪の体に震えが走り、ひざががくがくと震えだす。次から次へと伸びてくる男達の腕が、名雪を壁に押し付けるようにして動きを封じる。男達は覆面をかぶっているせいか正体がわからず、くぐもったような声が恐怖に拍車をかける。
そして、男達の手が名雪の服に侵入しようとしたそのとき。
「あんた達、なにしてんのよっ!」
凛、とした少女の声が通りに響き渡った。
街灯が逆光になっているので顔まではわからないが、長い黒髪をリボンで束ねた少女のようだ。買い物帰りなのか、手には食材の入ったビニール袋を提げている。
相手が女の子一人だとわかったのか、名雪を取り囲んでいた男の何人かがその少女に向かう。その瞳には欲望の色を湛え、舌なめずりをしているかのようだ。
「ふんっ!」
少女は男達を一瞥すると、容赦なくブーツのつま先をこめかみに叩き込んだ。そして、間髪入れずに別の男の鼻先にブーツのかかとを叩き込み、続いてその隣の男の股間にひざを叩き込む。瞬く間に三人の男が地面に転がった。
「このぉっ!」
また一人、男が少女に立ち向かうが、少女が振り回したビニール袋の直撃を受けて地面に倒れる。そのときに、ぱぐしゃぁっ! となかなか元気な音がしたが、少女は気に留めた様子もなかった。
「ちぃっ!」
残った男達は少女の意外な強さに恐れをなしたのか、名雪をおいて闇の中に姿を消す。あたりを見回すと、少女に蹴り倒された男達も逃げ出してしまったようだ。
少女は逃げた男達を追いかけようかと迷った様子を見せていたが、やがてゆっくりと名雪のいる光の輪の中に入ってきた。
「舞さん?」
「なゆ?」
舞の姿に安心したのか、名雪はへなへなと座り込んでしまう。
「よかった無事で……」
舞も名雪の前にひざまずくような感じで腰を下ろすと、優しくその体を抱きしめた。その腕の温もりに触れているうちに、名雪の体から震えが消えていく。
「でも、こっちは大変」
「え……?」
「どうしよう、なゆ……」
舞は不安げな瞳で名雪を見る。確かに、男の人に暴力を振るったのは舞だ。でも、この場合は正当防衛なんじゃないかと名雪は思う。だから、大丈夫なんだと名雪が口を開きかけたとき、意外な言葉が舞の口から出た。
「……卵が割れちゃった……」
水瀬家 夕刻
「名雪のやつ遅いな……」
「うん、そうだね」
時計を見ると、もうじき七時になろうと言う時間だ。冬の日の入りは随分と早いらしく、もうすでに外は真っ暗だ。
今夜のメニューは鍋。先程からテーブルの上ではいい感じでふつふつと湯気を立てている。それを見ながら真琴は、あう〜、と名雪の帰りを待ちわびていた。
ちなみに、テーブルの席順は上座の席が秋子、その右隣が名雪で、その隣が真琴。左隣が祐一で、その隣があゆとなっている。これは左利きであるあゆに配慮したもので、この家における序列を示したものではない。
「なあ、あゆ。いつも名雪はこんな感じなのか?」
祐一の問いに、あゆは、う〜ん、と考え込んでしまう。
「名雪さんもなにかに熱中してるときは、時間を忘れちゃう事があるけど……。でも、こんなに遅くなるんなら連絡ぐらいいれると思うんだけど……」
そのとき祐一は、部活って大変なんだな、とのんきに思っていた。だが、よくよく考えてみれば、名雪は冬休みの最中も部活だったのだ。だとするなら、自分に部活は無理だと祐一は思う。とてもじゃないが、名雪の真似はできない。
「そういえば、あゆ。さっき帰るときに会った女の子なんだが」
「栞ちゃんの事?」
「ああ、知り合いなのか?」
「ボクのクラスメイトだよ」
そう言ってあゆはにっこり微笑むが、その表情はすぐに暗く沈んでしまう。
「入学式の日に仲良くなったんだけど、そのあと学校に来なくなっちゃって……」
あゆの口からそれを聞いたとき、祐一の胸が少し痛んだ。両親の仕事の都合で転校が多かった祐一は、新しいクラスの雰囲気になじめず、孤立する事が多かった。そのせいか、祐一はその栞と言う少女の事が他人事のように思えなかった。
「どうして、来なくなったんだ?」
「わからないよ、先生に聞いても教えてくれないし……」
あゆの表情は悲痛そのものだ。
「もしかしたら、なにかの病気なのかもしれないと思ったんだけど」
そう言って、あゆは少しだけ明るい笑顔を祐一に向けた。
「でも、今日元気そうな姿を見れて、ちょっとだけ安心したよ」
また、教室で会えるといいな。そう言って微笑むあゆの姿に、まったくだ、と祐一も思った。
二人がそんな他愛のない話で盛り上がっていると、不意にリビングの電話が鳴る。出ようかと立ち上がりかけた祐一を制し、秋子はにこやかな調子で電話に出た。
「それじゃ、みんな。ご飯にしましょうか」
電話を終えた秋子がにこやかに宣言する。
「名雪を待たなくていいんですか?」
祐一の声に秋子は軽くうなずく。
「名雪ったら舞ちゃんのところに遊びに行ったのはいいんですけど、そのまま寝ちゃったそうです」
今晩はお泊りですね、と微笑む秋子。
そして、水瀬家では少し遅めの夕食がはじまるのだった。
川澄家 浴室
「ふぅ……」
若草色の入浴剤に満たされた浴槽につかりながら、名雪はふとため息をつく。
男の人が女の人にああいう事をすると言うのは、名雪も知識では知っていた。いずれ男の子とお付き合いをするようになれば、そういう事をするようになるという事も。
(でも……)
名雪はお湯の中で、自分の体を抱きしめる。
(あんな事になるなんて……)
見知らぬ人達に無理矢理、と言うのは流石に遠慮したい。無論、知ってる人なら誰でもいいと言うわけでないが。
そこまで考えて、ふと名雪はある事を思いつく。
(もし、あれが祐一だったら……)
その途端に名雪の顔が真っ赤に染まる。心臓は狂ったように早鐘を打つし、頭の中もわやくちゃになってしまったみたいで、まともに考える事が出来なくなってしまう。
そんなとき、浴室の扉が軽くノックされた。
「なゆ〜、湯加減はどう〜?」
「わにゃぁぁっ!」
突然響く舞の明るい声に、思わず奇声を上げてしまう名雪。
「なゆ〜?」
「な……なんでもないよ。ちょっとびっくりしただけだから」
「そう?」
よく見ると扉の向こうには、ガラス越しに舞がいるのがわかる。シルエットでなにをしているのかわからないが、なにやらごそごそ動いている。
「それじゃ、一緒に入りましょうか。なゆ」
ガチャリ、と扉を開けて、舞が浴室に入ってきた。長い黒髪は名雪と同様に頭の上でアップにまとめ、少し長めのタオルで体の前を覆っただけの姿だ。その均整の取れた見事なボディラインは、同性である名雪をも魅了するものだった。
流石に二人が入ると浴槽もかなり狭いものになってしまうが、とりあえず舞は名雪と向かい合わせになるように座る。
「こうするのも久しぶりよね」
「うん、そうだね」
前にこうして一緒にお風呂に入ったのは、いつのころだろうか。もう何年も昔の事であるが、なんとなく懐かしさがこみ上げてくるようだ。
あのころはまだお互いに子供だったから、今みたいに窮屈になる事はなかったのだが。
「あの……」
「ん?」
「ありがとう、助けてくれて」
「ああ、気にする事ないわよ」
名雪の不安げな表情を吹き飛ばすかのように舞は微笑んだ。
「だってあたし、なゆにはすっごい感謝してるんだから」
「舞さん……」
「憶えてる? 十年前の事……」
それは十年前の事。いつものように名雪が、自分の家に帰る祐一を玄関で見送ったすぐ後の出来事だ。
「助けて欲しいの。魔物が来るの」
突然鳴り響いた電話に出ると、女の子がなにやら早口でまくし立てている。
「魔物?」
「そうなの。いつもの遊び場所にっ!」
「遊び場所って?」
女の子の言う場所に、名雪は心当たりがある。今の時期は麦の穂が日を照り返して、風が吹くとそれがさざ波のように動いて綺麗な場所だ。
「早く来てっ! 一緒に守ろうよ」
「うん、わかった。すぐに行くね」
女の子の切実な声に、名雪は決心した。
「あのときのなゆ。すっごいおかしかったわよ」
「それは言わないでよ……」
真っ赤になった名雪は、顔の下半分をお湯につけてぶくぶくと泡を出す。
舞にしてみれば一人になりたくなかったのでついた嘘だったのだが、それを本気にした名雪は戦うのだからと台所にあったお鍋をヘルメット代わりにかぶり、物置にあった木刀を持って麦畑に現れたのだ。
当然、舞は大笑い。それを見た名雪は、ぷっくり頬を膨らませる。
そして、これが十年続く友情の、最初の出来事であった。
川澄家 食卓
お風呂上りに舞は台所に立ち、鼻歌交じりになにやら作っている。リズミカルにステップを踏むたびに、頭の後ろで束ねられた日本人形を思わせる舞の黒髪が、子犬の尻尾のようにふるふると揺れている。
「ねえ、舞さん……」
壁にかけられた時計をちらちらと眺めつつ、名雪は遠慮がちに口を開いた。
「わたし、そろそろ……」
「それなら心配なしよ。さっきなゆんところに電話して、今日はこっちに泊まるって言っておいたから」
料理の手を止めずに、にこやかな声で答える舞。
「それに……」
振り向いた舞の瞳が真剣なものだったので、思わず息を呑む名雪。
「……あんな事があった後よ。悪いけど、このままなゆを家になんて帰せない……」
それを言われてしまうと、名雪もこれ以上なにも言えなかった。確かに、またああいう事が起きないと言う保証はない。
「後ね、今日お母さんが帰ってこれないみたいで……」
そこまで言って、舞は顔を赤らめた。
「だから……なゆが泊まっていってくれると嬉しいな……」
大人びた雰囲気のある舞が、そうした子供じみた表情で見ているため、ついつい名雪もお泊りを了承してしまう。
「でも、それならうちに来てくれればいいのに」
お母さんなら大歓迎だよ、と名雪は微笑むが、舞の表情は渋い。
「あたしも最初はそれも考えたんだけど……」
料理の最後の仕上げに取り掛かりながら、舞は重く口を開いた。
「それって……祐君の前でパジャマになるって事でしょ?」
普段は物事をはっきりいう舞が、このときばかりは少し消え入りそうな声だったので、名雪には意外に思えた。名雪のほうに背中をむけているのでその表情まではわからないが、おそらく舞の顔は真っ赤になっている事だろう。
「わたしは、気にしないけどな……」
「あたしは気にするの」
「そういうもんかな?」
「そういうもんなの」
相変わらずなゆはどこかずれてるわね、と思いつつ、舞は料理を終えた。
「はい、できたわよ。舞ちゃん特製卵どんぶり〜」
てけてけん、と某ネコ型ロボットがポケットからアイテムを取り出すときの効果音と口調を真似しながら、舞はテーブルの上にホカホカと湯気の立つ卵どんぶりを置いた。
「それでは、いただきます」
「いただきます」
きちんと手を合わせてから、さっそく二人は卵どんぶりの攻略に取り掛かる。
鼻腔をくすぐるいい匂いに、口の中に広がる幸せの味。その会心の出来栄えに、思わず舞も目を細める。
名雪を助けるために犠牲になった卵達も、こんなにも美味しく食べてくれるのならさぞかし本望であろう。
かくして、三学期の初め、祐一達の転校初日の一日は過ぎ去っていくのだった。
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