第九話 冬のある日

 

 朝の風景 水瀬家編

 

「おはようございます」

「おはよう、祐一くん」

 キッチンではエプロンをつけたあゆが、秋子と一緒に朝食の支度をしていた。

「真琴ちゃんは起きた?」

「一応な」

 といっても、名雪の声が入った目覚ましを置いてきただけだが。

「おはよ〜……」

 そんななか、まだ眠そうな真琴の声がキッチンに響き、朝食がはじまった。

「いただきます」

 キツネ色のトーストに、たっぷりマーマレードと塗りつけるあゆと、それを真似してトーストにたっぷりイチゴジャムを塗る真琴。どちらも秋子さんお手製のジャムに、嬉しそうに舌鼓を打っている。その満面の笑顔は、見ている祐一まで嬉しくなってしまうくらいだ。

「祐一くんは、ジャムつけないの?」

「俺は甘いものは苦手なんだ」

 あゆがよく食べるたい焼きは、甘さも控えめで祐一好みの味付けなのだが、どうにも普通に甘いジャムとかは苦手だ。そんなわけで祐一はトーストにはバターを塗っているのだ。

「甘くないジャムもありますよ?」

 そう言って秋子がにこやかに差し出したのは、オレンジ色のジャムだった。

「ボク、ご馳走様」

 その途端にあゆが席を立つ。

「どうしたんだ? あゆ。まだ半分以上残ってるぞ?」

 お皿の上には原形を留めたトーストが残されている。

「ボ……ボク、お腹いっぱいなんだよ」

 明らかに動揺した様子で、あゆはそそくさとキッチンから出て行った。

「どうしたんだ? あゆが残すなんて……」

 わからない、と言うように真琴も首を傾けている。

「こんなジャムなんてどうでしょうか?」

 しかし、それに動じた様子もなく、ジャムを勧めてくる秋子。そのにこやかな笑顔は、まさに女神のようだ。

 そのジャムは、透明な瓶の中にたっぷりと入っていた。オレンジのジャムのように見えるが、甘くないというのだから、もしかするとレモンなのかもしれない。

「まあ、甘くないんでしたら……」

「たくさんありますから、遠慮しないで全部食べてくださいね」

 そうは言うものの、流石に全部は無理なので、祐一はひとすくいほどトーストに塗ってみる。それを見た真琴も、恐る恐ると言う感じでトーストに塗ってみた。

 そして、二人が同時に口に運んだ次の瞬間。

「…………っ!」

「…………っ!」

「どうですか?」

 得体の知れない食感が口の中に走る。

「……秋子さん?」

「はい」

「これ、なんですか……?」

「ジャムですけど」

「……なんのジャムですか?」

「秘密です」

「すごく、独創的な味なんですけど」

 真琴も涙目になったまま、こくこくとうなずいている。

「特製ですから」

 確かにそうだろうけども、そういう問題ではないような気がする祐一。

「……念のために聞きますけど」

「はい?」

「食べられるものですよね?」

「ええ、もちろんですよ」

 秋子は嬉しそうに顔をほころばせている。確かに秋子の性格からして、わざとと言うことはなさそうだ。

 しかし、かなり複雑な味がすることは確かで、少なくとも一般的なジャムとはかけ離れた存在のようだった。

「……ごちそうさまでした」

「真琴も、ごちそうさま」

 祐一が席を立つのと同時に、真琴も席を立つ。

「まだたくさん残っていますよ?」

「もうお腹いっぱいなんですよ」

「真琴も」

「そうですか……残念です」

 本当に残念そうに、ジャムの瓶を片付ける秋子。

「秋子さん」

 その背中に、声をかける祐一。

「そのジャムの材料、いったいなんなんですか?」

「それは企業秘密です」

 ものすごく気になる祐一であったが、それ以上追及することが怖くなったので、先に家を出たあゆを追ってキッチンを後にするのだった。

 

 朝の風景 川澄家編

 

「おふぁよう……」

「あ、おはよ〜」

 寝ぼけ眼でキッチンに現れた舞は、そこに立つ人物を見て愕然とした。

「もう少しで出来るから、その間に顔洗ってきてね」

 その人物はにこやかに声をかけてくれるが、舞は目を驚愕に見開いたまま言葉を失ってしまっている。

「なんでなゆが起きてんのよ〜っ!」

「うにゅ?」

 名雪は首を傾げるが、普段の彼女を知る者なら当然の反応だろう。

「なゆが早起きして……その上朝ごはんまで作ってくれるなんて……」

 呆然としたまま、舞は絞り出すような声を出す。

「信じられない……。あたしは夢でも見ているの……」

「ひどいよ〜、わたしだってたまには早起きするよ」

 名雪は口を尖らせるが、舞の脳裏にはなにかが閃く。

「ねえ、なゆ。あんた昨夜なに食べた?」

「舞さんと同じものだよ」

 それは確かにその通りだ。

 だが、名雪の表情は次第に暗くなっていく。

「いつもどおりでも文句言われるし、早く起きても文句言われる……。どうしたらいいの?」

「ああ〜っ! ごめん、なゆ。ほんの冗談だったのよっ!」

 すっかり機嫌を損ねてしまった名雪を、舞は宥めるのに必死だった。

「舞〜朝ですよ〜」

「起きろ〜舞ねえ」

 そんな中、混乱に拍車をかけるように玄関の扉が開き、いつものように佐祐理と一弥がやってきた。

 しかし、キッチンの光景を見て、二人とも硬直してしまう。

「な……なんで名雪さんがいるんですかぁ〜っ!」

「な……なんでなゆ姉が起きているんだぁ〜っ!」

「……みんな、ひどいよ……」

 息のあった二人の声に、ますます拗ねてしまう名雪であった。

 

 玄関先

 

「あ、早かったね。祐一くん」

 逃げるように外に出ると、玄関先であゆが待っていた。

「逃げたわねっ! あゆっ!」

「う〜んと、なんのこと?」

 ほとんど掴みかからん勢いであゆに詰め寄っていく真琴。あゆはとぼけているようだが、どうもあのジャムの正体を知っていたようだ。

「あのジャム、凄く美味かったな」

「え? うそっ!」

 祐一の声にあゆが目を丸くする。

「やっぱりな」

「うぐぅ……」

 しまった、と言わんばかりにあゆが口を押さえる。

「あれは一体、なんのジャムなんだ?」

「……ボクもよくわからないんだよ」

 怖くて訊けなかったよ、と言うあゆの呟きに、祐一と真琴はよくわかる気がした。

「でもね、あのジャムは秋子さんの一番のお気に入りなんだよ。ボクもよく勧められるんだけど……」

 そのたびに逃げてきたあゆの気持ちがわかるような気がして、三人はそろって白いため息をつくのだった。

 

 通学路

 

 まぶしいくらいの日差しが降り注ぐ通学路。わずかにとけ残った雪に日の光が反射して、少なくとも見た目だけは綺麗な風景だった。

 テレビや写真でしか見る事の出来ないような風景。そんな中を三人そろって歩く。

「どうしたのよ?」

 いつからいたのか、香里が不思議そうに祐一たちの顔を見比べていた。

「あ、香里さん。おはよう」

「おはよう、みんな」

 そして、にこやかに挨拶を交し合う、おなじみの光景。

「朝から不景気な顔なんてするもんじゃないわよ」

 不意にジト目で祐一を見る香里。

「うるさいな……」

 その視線を跳ね返すように、重い口を開く祐一。

「香里だってあのジャムを食べればこうもなるさ」

「じゃむ?」

 その言葉を聞いた途端、香里の表情がひきつる。

「ねえ、あゆちゃん。あのジャムって、まだあったの?」

 それには答えずに、あゆは暗い表情でうなずいた。

「知ってるのか? 香里」

「前、名雪の家に遊びに行ったとき……」

「そうか……」

「あう〜……」

 今度は四人でため息をつくのだった。

 

 しばらく歩いていると目の前の曲がり角から、学校に向かういくつかのグループに中に見知った後ろ姿がある。

「あっ! 名雪さ〜ん」

「あっ、あゆちゃん。おはよう」

 名雪の胸に飛び込んでいくような勢いで、あゆはたっと駆け寄った。

「あゆちゃんも今から学校?」

「うん」

 制服を着ているのだから当たり前なのだが、相変わらず名雪はどこかずれているようだ。

「よぉっ! 皆の衆」

「あぁーっ! 祐一さんだぁ」

 遅れて追いついた祐一の声に、佐祐理がにこやかに返す。

「どうしたんですか?」

「俺だって学校に行くんだが……」

「じゃあ、おはようございます、ですね」

 そう言ってペコリと頭を下げる佐祐理。こっちも名雪と負けず劣らずのポケポケさんのようだ。

「おはよう、祐君」

「舞もおはよう」

 そのまま四人は合流し、学校への道を行く。流石に八人のグループともなると壮観で、道行く人たちの注目を集めているようだ。

 もっともそれは、佐祐理に舞、名雪に香里と言った綺麗どころがそろっているからなのかもしれないが。

「しかし、早起きは三文の得とはよく言ったもんだな。こうして佐祐理さんと登校できるんだから」

「じゃあ、佐祐理たちのためにも、これからも早起きしてこの時間に来てください」

 別に他意はないのだろうが、祐一はちらりと名雪を見る。

「努力しよう」

 

「それにしても、こんな朝早くから名雪に会えるなんてね」

「えっと、そうかな」

 祐一の後ろでは名雪と香里が話していた。

「そういえば香里も俺たちと同じ通学路なのか?」

「ええ、そうよ。途中からだけどね」

「昔は一緒に通ってたんだよ」

「一週間で挫折したけどね」

 なにか思い当たる事があるのか、その後ろであゆがうんうんとうなずいている。

「もしかして二人とも、ひどいこと言ってる?」

「そんなことないわ」

「そんなことないよ」

 息もぴったりだった。

 

 校門前

 

「ついたよ」

「名雪、時間は?」

 一同が校門をくぐったあたりで、祐一が名雪に声をかける。

「わ、すごい。まだ後十分もあるよ」

 腕時計で時間を確認した名雪が、驚きの声を上げた。

「奇跡だね」

 すかさずあゆが口を開く。

「そうだね」

 と、名雪も微笑んだ。

「あんたたちの会話を聞いてると、奇跡が安っぽいもののように思えてくるわ……」

 そこに香里の呆れたような声。

「でも、ボクたちがこんなに早く学校に来るなんて、奇跡だと思わない?」

「そうですね。なにしろ今日はなゆ姉の作った朝ごはんを食べましたから」

 それにあわせるように一弥が口を出す。

「あのね……」

 呆れたように白い息をはく香里。

「奇跡なんて、そう簡単に起きるもんじゃないのよ……」

 そのまま香里は振り返ることもなく、足早に去っていった。

「なあ、名雪」

 その後ろ姿を眺めつつ、祐一はそっと名雪に耳打ちした。

「今日の香里、機嫌悪いか?」

 名雪は少しの間考えていたが、やがてわからないというようにジェスチャーを返した。香里と付き合いの長い名雪にわからないのだから、付き合いの短い祐一にわかるはずもなかった。

 

 朝の教室

 

 新学期早々に転校してきた祐一にとっては、同じ制服を着ていても知らない顔ばかりだ。中には知っている顔もあるのだが、祐一にとっては割りとどうでもいいことだった。

(あいつ、ちゃんとやってるかな)

 ふと祐一は、人見知りの激しい妹のことを考えていた。朝のときもあまりしゃべる様子もなかったので、余計に心配だった。まあ、真琴にはあゆがついているし、意外とあゆもしっかりしているみたいなので、そういう意味では不安はないだろう。

 やはりこういうマイペースな姉を持つと、妹の方がしっかりしてくるのかと思ってしまう。隣を歩くいとこの少女を見ながら、祐一はそんなことを考えていた。

「おはよう〜」

「あ、水瀬さんおはよっ」

 教室に入るなり名雪は、にこやかに女子生徒と挨拶をかわす。

「相沢くんもおはよう」

 そして、名雪の横にいる祐一にも、女子生徒は当然のように声をかけてくる。

「……え、あ」

 咄嗟に言葉が出てこない祐一。どう返していいのか、つい戸惑ってしまう。

「ダメだよ、祐一。ちゃんと挨拶しないと」

 すると名雪が、おせっかいにも余計なことを言うのだった。そんなやり取りを、数人の生徒がにこやかに見守っている。どれも見た事のある顔ばかりだが、クラスメイトなのだから当たり前だ。

「……どうも名雪のせいで変な先入観を持って見られている気がするんだが」

「わたし、なにもしてないよ」

 だが、祐一と同居していることをみんなにしゃべったのは名雪だ。

「そうよ、相沢くん」

 そこへ香里が口を挟んでくる。しかも香里は、名雪の背後から抱きついていた。

「あんまり名雪を困らせたらダメよ、相沢くん」

 とがめるような口調ではあるが、香里の視線は温かく二人を見守るかのようだった。

「名雪のおかげでクラスになじんでいるんだから、もっと感謝しないと」

 確かに、香里の言う事にも一理ある。実際祐一は、名雪や香里のおかげで転校生としては異例のスピードでクラスになじめそうだったからだ。

「……別になじめないのなら、一人でいるからいいんだけど」

「一人は寂しいよ?」

 何気ない祐一の一言に、寂しげに呟く名雪。それに香里も、同意するようにうなずくのだった。

 それを見て祐一も、余計なお世話だ、とのどまででかかった言葉をかろうじて飲み込んだ。

「あ、もう石橋きたわよ」

 廊下の向こうを見た香里が声を上げる。

「誰だ? 石橋って」

「担任の名前くらい覚えなさいよ」

 ジト目で祐一を見る香里。

 あわてて教室に駆け込むと同時にチャイムがなり、それに合わせて生徒がばたばたと自分の席に着く。それに混じって祐一たちも自分の席を目指すのだが、こういうときに窓際組みは不利だった。

「あー、全員席に着け」

 担任の石橋が教室に入り、朝のHRがはじまった。

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