第十二話 休日の風景

 

 水瀬家 早朝

 

『あさ〜あさだよ〜。朝ご飯食べて〜学校いくよ〜』

 

「朝か……」

 鳴り続けている目覚し時計を止め、カーテンの隙間から差し込む陽光を眺めながら、祐一は思わず呟いてしまう。今日は日曜日でお休み、休日は笑点の時間まで寝ることにしている祐一ではあるが、どうしてこんな誘眠効果抜群の声で目を覚ましてしまうのかが謎である。

 いつもは名雪を起こしたりして色々と騒がしいので、本当にこういう穏やかな朝は久方ぶりだなと、思わず清々しさまで感じてしまう祐一であった。

「起きるか……」

 流石に寝なおす気にもなれなかったので、祐一は手早く着替えると明るい部屋を後にした。

 この日は廊下も静かだった。こんな時間だし、おそらく名雪は夢の中だろう。当然、真琴も起きているはずがない。

 せっかくの休みなのだから、ゆっくり寝かせてやろう。そう思って祐一はそのままキッチンへと向かう。

「おはようございます、祐一さん」

 まるで祐一がこの時間に起きる事がわかっていたかのように、秋子さんが出迎えてくれる。

「おはようございます、秋子さん。いつも早いですね」

「祐一さんも早いですよ」

「おはよう、祐一くん」

「ああ、おはよう」

 あゆと朝の挨拶をかわしつつ、祐一は自分の席に着く。

「名雪はまだ寝てるんですか?」

「名雪なら部活で、今日は朝早くから出かけましたよ」

「そうですか」

 休日まで部活とは、名雪も大変だな。と祐一は思いつつ、その一方で自分には絶対無理だと思うのだった。

(俺だったら五秒でやめてるところだ……)

「真琴はどうしました?」

「まだ寝てるんじゃないでしょうか」

 せっかくの休みだし、無理に起こす必要もないだろう。と、思う祐一。

「後でころあいを見て、俺が起こしておきますよ」

「お願いしますね」

 微笑んで秋子はキッチンの奥に姿を消す。

 やがて祐一の前にも朝食が運ばれてくる。この日のメニューはご飯に塩ジャケ。それに玉子焼きと鳥のから揚げ、たこさんウインナーだった。

「いただきます」

 昨日は間違いなくトーストにゆで卵という典型的な洋食のメニューだった。とはいえ、和風の朝食であっても秋子の料理が絶品であることには変わりがない。

「この玉子焼き、美味しいですね」

「そうですか?」

 祐一の賛辞に、にこやかに応える秋子。

「これなら合格ですよ」

「なににですか?」

「俺の嫁に」

「あらあら」

 その言葉に、秋子は嬉しそうに微笑んだ。

「名雪が聞いたら喜びますね」

「そうだね」

 二人の笑顔に、思わず絶句する祐一。

「これ……名雪が作ったんですか……?」

「はい」

 なんでも今朝名雪は早起きして、自分でお弁当を作ったのだそうだ。祐一が食べているのはそのときの残りらしい。

「名雪さん、昨夜の内に下ごしらえしてたしね」

 と、自分のことのように胸をはるあゆ。

「やっぱり、お料理上手な人って憧れちゃうよね」

「あゆはどうなんだ? 料理できるのか?」

「ボクも料理くらいは余裕でできるよ」

 やけに自信たっぷりな様子のあゆだが、祐一の目にはどう見てもあゆが料理上手であるようには見えなかった。とはいえ、見た目に反して実はすごい料理の達人という可能性もまったくゼロというわけではない。

「……また、碁石クッキーじゃないだろうな……」

 不意に蘇るあのころの記憶。あゆの手作りクッキーを食べて、ひどい目にあったことを思い出す祐一であった。

「うぐぅ……。あれは……作り方を知らなかっただけだもん。今はちゃんと作れるんだからね?」

 秋子は料理上手だし、この玉子焼きを食べた限りでは名雪の腕前も大したものだ。あゆもその二人の影響を少なからず受けているだろうから、かつてのようなことはないだろう。

「そのうち、祐一くんがびっくりするような料理を作るよ」

 確かに、この先あゆの作った料理を食べる機会にも恵まれるかもしれないし。

「そうだな、そのときは俺が食って判断してやる」

「きっと、馬鹿にしたことを後悔すると思うよ」

 自信たっぷりに言いはなって、不敵に笑うあゆであった。

 

 あゆのお誘い

 

「ごちそうさま」

「ボクも、ごちそうさまでした」

「それじゃあ、俺は部屋に戻ってますんで」

 席を立った祐一が、そのままキッチンから出ようとした時、小さな手が引き止めた。

「祐一くん、今日はこれからどうするの?」

 なにか期待に満ちた瞳で見つめるあゆの姿を見ていると、祐一の心にむらむらと悪戯心がわきあがってくる。

「今日は一日中盆栽いじりに精を出すつもりだ」

「そんなのもったいないよっ。せっかくの日曜日なのに」

 どうやらあゆは祐一の言葉を真に受けているようだ。

「だったら、ヒヤシンスの栽培記録をつける」

「そうなの?」

 あまりにも真剣な様子で訊き返してくるあゆ。その穢れなき純朴な瞳に見つめられた瞬間に祐一は、なぜか心の中で敗北を悟るのだった。

「とにかく、今日は一日中のんびりと過ごすんだ」

「そっか……残念……」

 あゆはため息混じりにそう呟くと、がっくりと肩を落とした。

「どうしてあゆが残念がるんだ?」

「祐一くんが暇だったら、一緒に遊ぼうと思ったんだけど……」

 本当に残念そうな様子のあゆに、不思議と罪悪感がこみ上げてくる祐一。よくよく考えてみれば、こうして七年ぶりに再会したというのに、あゆと一緒に遊ぶということはなかったように思う。

「日曜日だもん。遊ばないと」

「そうだな」

 本当は遊んでばかりもいられないのだろうが、せっかくのお誘いなのでうなずいておく祐一。それを見たあゆは、嬉しそうに目を細めるのだった。

「で? なにして遊ぶんだ?」

「映画を見ようよ」

「ビデオでも借りてくるのか?」

「違うよ。映画館の大きなスクリーンで見るんだよ」

「映画館か……」

 そういえばここのところ行ってないな、と祐一は思った。

「丁度チケットも二枚あるし」

「ずいぶんと手回しがいいじゃないか」

「私が、知り合いの方からもらったんですよ」

 洗い物を終えた秋子さんが奥から出てきてフォローしてくれる。

「確か今日まで使えるはずなんですけど、私も名雪も都合が悪くて……それであゆちゃんにあげたんですよ」

「それで、どうかな?」

「俺はさっきも言ったとおり、かまわないぞ」

「うんっ、決まり」

 そう言って心底嬉しそうに微笑むあゆを見ていると、つられて祐一も嬉しくなってしまう。

「それで、映画は何時からなんだ?」

「えっと……」

 あゆはしげしげとチケットを見つめた。

「今日の五時からだよ」

「ずいぶん時間があるな……場所は?」

「駅前の映画館だよ。だから、四時半に駅前で待ち合わせしようよ」

「一緒に出るんじゃないのか?」

「うぐぅ……待ち合わせ……」

 途端に涙目になるあゆ。どうもあゆなりのこだわりがあるようだ。

「わかった、俺はそれでかまわないぞ」

「うんっ、決まりだねっ」

 それだけ言うとあゆはパタパタとキッチンを出て行く。おそらくは自分の部屋に戻ったのだと思われるが、階段の途中あたりですごい音が響き、続いて『うぐぅ、痛いよ〜』と情けない声が聞こえてきた。

「あゆと映画か……」

 相変わらずドジな様子のあゆに呆れつつ、祐一はポツリと呟いた。

「デートですね」

「変なこと言わないでください」

 妙に嬉しそうな様子の秋子に、少しだけ頭痛を感じる祐一。そのとき祐一は秋子が手に持っているものを見た。

「秋子さん、それは……?」

 ピンク色のナプキンに包まれた箱状の物体。祐一の見解が正しいのだとすれば、それは紛れもなく弁当箱だろう。

「名雪ったらせっかく作ったのに、慌てていて忘れていってしまったんですよ」

 秋子の口調からすると、いつものことなのだろう。聞けば、今からそれを届けに行くところなのだそうだ。

「それなら俺が行ってきますよ」

 

 学校 体育館

 

 名雪のお弁当を届けてあげようと思い立った祐一であるが、早くもそのことを後悔しはじめていた。

「……やっぱり寒いよな」

 とはいえ、家にいてもすることがあるわけでもなし、真琴をからかって遊ぼうにもたたき起こすわけにもいかない。あゆはあゆで部屋に引きこもってしまったしで、なにもしないでいるよりかははるかにましに思えたからだ。

 生活するぶんには慣れてきていたものの、この気候だけはどうしてもなじまない。コートの前をあわせても、隙間から寒さがしみこんでくるようだった。

 水たまりが凍りついていそうだが、そんなものは雪に隠れて見ることも出来ない。毎朝走って通う通学路を、今日はのんびりと歩きながらまわりの風景に目を向けてみる。

 相変わらずの風に、寒さ。これで猛吹雪だったら最悪であるが、日ごろの行いがいいせいか、天気自体は間違いなく晴天だった。

 やがて、何事もなく体育館へと辿り着く。中では女子陸上部が猛練習の最中だった。

 体育館の床に四つのコーンを置き、大体一周400メートルほどのコースを作っているようで、そんな中を名雪が大勢の部員たちの先頭に立って走っていた。

 普段は下ろしているストレートロングの髪を赤いリボンでポニーにまとめ、ポケポケとした笑顔とは違って真剣に前を見据えて走っている名雪の横顔は別人のようで、思わず祐一は見ほれてしまっていた。

(綺麗だ……)

 陸上競技に関して祐一は完璧なる素人であるが、それでも名雪の走るフォームが他の部員たちと見比べても洗練されたものであることがわかる。名雪のもつ、陸上部の部長さんという肩書きは伊達ではないんだな、と思う祐一であった。

 

 ピィィィィィッ!

 

 突然鳴り響いたホイッスルの音に、我にかえる祐一。見ると名雪をはじめとした陸上部員たちが一斉にクールダウンをはじめたところだった。中には走り終えるなり、べったりと床に座り込んで荒い息を吐いている部員の姿もある。そんな部員たちを笑顔で労ってまわる名雪の姿を、誰もが憧憬の念で見ているように感じる祐一であった。

「あ、祐一〜」

 祐一の姿を見つけたのか、笑顔で名雪が走り寄ってきた。

「届けてくれたんだ。ありがとう、祐一」

「ああ、どうせ暇だったからな」

 屈託のない笑顔を浮かべる名雪から、なぜか目をそらしてしまう祐一。流石に体操着にブルマーという、今の名雪の格好は刺激が強すぎた。おまけに走り終えた直後で息が荒く、頬も紅潮しているのでは、意識するなというのが無理だった。

(ずいぶんと成長したよな……)

 少しはだけられた胸元からは、白い谷間が覗けそうだ。

 祐一がそんなことを考えていると、再び体育館にホイッスルの音が鳴り響く。

「あ、行かなきゃ。それじゃ、ありがとね。祐一」

「ああ、名雪」

 戻りかけた名雪を呼び止める祐一。

「ちょっと見学していってもいいか?」

「ん〜……邪魔にならなければいいよ」

 そういい残して名雪は戻っていった。

 

 ホイッスルが鳴り響くと同時に走り出し、再び名雪を先頭にして部員たちが走りだす。この日は女子陸上部だけで体育館を使用しているらしく、他の部活の姿は見えなかった。

 とはいえ、転校してきたばかりの祐一には、どれがどの部活かの区別はつかなかったのであるが。

 以前ちらりと名雪から聞いた話だと、この学校は部活動に力を入れているらしい。そのせいで休日まで部活なのだから、ご苦労様である。生来の怠け者気質を持つ祐一にとっては、いい迷惑以外のなにものでもない。

 しかし、こうして一つの物事に対して、真剣に向き合っている名雪の姿が輝いて見えるのも事実である。

 がんばっている名雪の姿を瞳に焼き付け、その場を去る祐一であった。

 

 校門前

 

「相沢くん?」

 その声に振り向くと、美坂香里が立っていた。

「なんだ、香里か」

「なんだ、とは御挨拶ね……」

 そのまま香里は小走りに祐一に近づいてきた。

「この学校で相沢くんに話しかける人なんて、まだ限られていると思うけど?」

「まぁ、な」

 確かに転校したてで、声をかけられまくるというのもなんであるが。

「どう? そろそろ新しい学校になれた?」

「ああ」

「具体的には?」

「授業中に寝ていい先生と、そうでない先生の区別がつくようになった」

 隣の名雪を見ていると、それが良くわかる。

「なるほどね」

 そう言って香里は屈託のない微笑を浮かべた。

「それより、相沢くん今日はどうしたのよ?」

 休みの日に学校に来ているのだから、当然の質問である。

「名雪が部活で、弁当忘れたから届けに来ただけだ」

「ふーん」

「そういう香里こそどうした? 部活か?」

「まぁ、そんなとこ……」

 しかし、香里は曖昧に言葉を濁してしまう。

「そうか。名雪もそうだけど、香里もがんばるよな」

 俺には到底真似できない、と祐一はおどけた様子だが、香里はなぜかうかない様子だ。

「じゃね、相沢くん」

「ああ」

 校舎へと消える香里の後ろ姿を見た後、祐一はふと気になることが頭をよぎった。

 

 中庭

 

 今日は日曜日だが、平日だとしたら。

「さすがにそれはないよな」

 そうは思うのだが、なぜか祐一の足はその場所に向かって歩いていく。言葉では否定できても、どこか否定できない部分があった。

 真っ白な風景が広がる世界。その中でたたずむ一人の少女。

「……いいことを教えてやろうか?」

 吐いた息が白い煙となって消えていく。

「今日は日曜日だ」

「知ってます」

 うつむいたままなので、表情はよくわからない。

「なにやってるんだ? こんなところで……」

「私にもよくわからないです」

 その少女、栞はゆっくりと祐一のほうに歩いてくる。

「祐一さんはどうしたんですか?」

「俺は、忘れ物を届けに来ただけだ。ここに来たのはそのついで」

「ついで、ですか?」

「明日に備えて、落とし穴でも作ろうと思ってな」

「わ、そんなことする人嫌いです」

 照れたように笑う栞の表情は、祐一にはどこか悲しげであるように見えた。

「本当はおかしいんだってこと、私にもわかってます。それなのに、気がつくとここにきていました」

 誰もいないってわかっているのに、と寂しげに呟く栞。

「ばかですよね、私」

「本当にばかだな」

「そんなこという人嫌いです」

 ひどいです、と唇を尖らせるその表情は、僅かに笑っているようだった。

「でも、良かったです。祐一さんに、会えましたから……」

「……栞、一つだけ正直に答えてくれ」

「わかりました」

 祐一の真剣な様子に、真剣に答える栞。

「体重以外なら答えます」

 そう言って、栞は祐一の目をまじっと見つめる。

「あ……後、スリーサイズもダメです。……自信ないですから」

 確かに起伏に乏しいスレンダーなボディラインでは、それも仕方のないことだろう。しかし、祐一が聞きたいのはそういうことではない。

「どうして、学校にくるんだ?」

「そうですね……」

 少し考えて、栞は言葉を紡ぐ。

「見つからない答えを探しに来ている。というのはどうでしょう?」

 栞は穏やかに微笑んでいる。それは祐一がいつも見ている栞の笑顔だった。

「今の、ドラマみたいで格好いいですよね?」

「それで、答えは見つかったのか?」

「わかりません……」

 それっきり、栞は黙ってしまった。その沈痛そうな表情を見ていると、不思議と祐一の心には罪悪感にも似た気持ちがわきあがってくる。

「ところで、栞は今日これからどうするんだ?」

「今日、ですか?」

 まだ日は高いし、なんと言っても今日は休みだ。

「栞がよければ、これからどこかに遊びに行こうと思ったんだが」

「デートのお誘いですか?」

 栞の表情が、ぱあぁぁっ、と明るく輝く。

「……そうは言ってないが」

「デートですね?」

「だから……そうは言ってないんだけど……」

「どこに行きましょうか、祐一さん」

 真剣に悩んでいるらしい栞の横顔は意外と可愛い。そういう女の子らしい笑顔を見ていると、先程までの表情がウソのようだった。

「どこに、と言っても連れて行けるのは俺が知ってる場所に限られるけどな」

「祐一さんの知ってる場所ってどこですか?」

 

1 商店街

2 学校

3 居候先のいとこの家

 

「さあ、栞はどこに行きたい?」

「……商店街でいいです……」

 ある意味、選択の余地がない。とはいえ、引っ越してきたばかりの祐一が知っているのは、そんなところぐらいだ。

「だったら、移動するぞ」

「はい」

 とてとて、と走ってきた栞が、祐一のすぐ横に並ぶ。

「行きましょう、祐一さん」

 そして、祐一の手を引っ張るようにして、栞は嬉しそうに歩き出した。

「……言っておくが、これはデートじゃないからな」

「早く行きましょう、祐一さん」

 栞はもう一度同じ言葉を繰り返して歩く。二人分の足跡を雪の上に残して、祐一たちは誰もいない中庭を後にするのだった。

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