第十五話 中庭の少女
朝の教室
「おはよう〜」
「あ、水瀬さん。おはよっ」
例によって名雪が朝もたもたしていたので遅刻寸前だったが、どうやら今日はなんとか間に合ったようだ。クラスメイトと朝の挨拶をかわす名雪の姿を見て、つい祐一はそんな事を思ってしまう。
「相沢君もおはよう」
その少女、間玲菜は祐一の姿を見ると、にこやかに声をかけてくる。
「ああ、おはよう」
もっとも、未だにクラスメイトの名前すら覚えきれていない祐一には、その子が誰なのかさっぱりわからなかったのであるが。
「そういえば、相沢君。見たわよ?」
「な……なにをだ」
彼女のトレードマークとなっている、二本の短いお下げを揺らしながら微笑みかけてくる玲菜の姿に、少しだけたじろいでしまう祐一。一体彼女はなにを見たというのか。
「昨日商店街を、可愛い女の子と一緒に歩いてたじゃない。誰? もしかして、彼女?」
「いや……それは……」
全身から、興味があります、オーラを発散させている玲菜の様子には、流石の祐一もたじたじだ。この得体の知れない未知のエネルギーには、どう対処すればいいものやら。
「ああ、それならきっとあゆちゃんだよ。だって昨日、祐一とデートしてたから」
「違うわよ。あゆちゃんじゃなかったわ」
のほほんとした名雪の言葉をさえぎる玲菜。
「美坂さんみたいなブラウンの髪をショートのボブにした、色白で小柄な子だったわよ」
「わ、そうなんだ」
「チェック柄のストールはおってたから、少なくともあゆちゃんじゃなかったわね」
二人の視線が祐一に集まる。名雪は相変わらずの笑顔だったが、なぜかその笑顔が祐一には痛く感じられた。
「もしかして、栞の事か? それならあいつはただの友達で、デートかそういうのじゃないぞ。一緒に商店街を歩いてお茶しただけだ」
「あのねえ、相沢君。そういうのを世間一般じゃデートって言うのよ……」
必死に弁解する祐一に、玲菜は呆れた様子で軽く息を吐いた。
「あたし、二股がけはよくないと思うな……」
ジト目で見つめる玲菜の姿に、もはやなにも言えなくなる祐一であった。
二時間目終了
高らかにチャイムが鳴り響き、二時間目の授業が終了した。
「あう〜……」
授業の内容がさっぱりわからず、疲れ果てた様子で真琴は机に突っ伏していた。こんなのが今日は後四時間も続くのだから、考えるだけで気が重くなってしまう。
「今日の国語、宿題多かったね」
「あう〜……」
休み時間になると教室内にはいくつかのグループが出来、それぞれ雑談に興じている。休み時間になるたびに、前の授業の内容を中心とした他愛のない話に花を咲かせていた。
「でも、ちょっとよかったかな」
「なにが? 真琴ちゃん」
ひょっこりと顔をあげた真琴に、あゆが不思議そうに訊きかえした。
「今日の宿題が多いほうだから。いつもこんな感じだったらやだもん」
「そうだね、あはは……」
前向きなんだか後ろ向きなんだかよくわからない真琴に、思わずあゆも微笑んでしまうのだった。
「あ、月宮さん。ちょっといい?」
「うぐぅ、なに?」
ちょうどそこに一人の男子生徒が話しかけてきた。
「今日月宮さん、日直だから」
「あ……」
すっかり忘れていたあゆであった。そのせいでもう一人の日直である男子生徒が迷惑しているようである。
「黒板は僕が消しておくから、月宮さんは日誌をお願い」
そう言うと男子生徒は日誌を置き、黒板を消しに向かった。確かにあゆの身長では、黒板を消すのは辛いだろう。男子生徒が黒板を消し終わるころに、三時間目の始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。
お昼休み
「えー、この部分にはテストに出るので覚えておくように」
同じような事をいう先生はどこにでもいるもんだな、と祐一が感心していると、昼休みの到来を告げるチャイムが鳴り響いた。
「祐一ーっ、お昼休みだよっ」
昼休みに入った途端、名雪が祐一の席に現れる。
「祐一は、お昼ご飯どうするの?」
「今日から午後も授業があるんだよな……」
考えるだけで憂鬱だ。祐一が前にいた学校と比べても授業内容の進みが速いせいか、まったく内容がわからないのがそれに拍車をかけているのだろう。これに関しては三年生になったらがんばろうと考えている祐一であったが。
「名雪はいつもどうしてるんだ?」
「わたしはお弁当を持ってくるときもあるし、学食で済ませるときもあるよ」
「今日は?」
「お兄様〜いらっしゃいますか〜?」
その時、まだ喧騒に包まれていた教室に、妙に間延びした声が響く。声のしたほうを見ると、セーラー服の少女が半開きにした教室の扉から顔を覗かせていた。
「お兄様?」
近くにいた生徒が少女に聞く。
「はい〜、相沢祐一様です〜」
その言葉に教室に残っていた生徒の視線が、一斉に祐一に向く。
「相沢、お前中学生に手を出していたのか?」
「それは誤解だぞ、北川」
とはいうものの、祐一の姿を見つけた少女の顔は実に楽しそうだ。
「あ、麻里華ちゃん」
「あら、どうしたの?」
面識があるのか、香里も麻里華に微笑みかける。
「はい〜、お兄様をお迎えに参りました〜」
「お兄様ね……」
そう言って意味ありげな視線を祐一に送る香里。
「まあ、お迎えも来たみたいだし、行きましょうか」
「そうだね、祐一も行こ」
「な、俺もか?」
「だって、麻里華は相沢くんをご指名なんだし」
当然でしょ、と言わんばかりの香里の笑顔。
「北川はどうするんだ?」
「オレはいつも学食だ」
威張って言う事でもないような気がするが、そう言って教室を出て行く北川の後ろ姿は妙に哀愁が漂っていた。
「は〜、どきどきしました〜」
並んで廊下を歩きながら、麻里華は自分の身体を抱きしめるようなしぐさをする。その胸元には、大切そうに弁当らしき包みが抱えられていた。
「お兄様の分も〜作ってまいりました〜」
「そいつは楽しみだな」
ほとんど糸になったよう目で微笑みかけられると、ついつい祐一も嬉しい気持ちになってくる。そん二人の様子を、すぐ後ろを歩きながら、香里と名雪が微笑ましく見守っていた。
「あまり〜期待されても〜……」
「大丈夫だ。俺は食い物だったら味は気にしないから」
もちろん美味しいに越した事はないが、祐一は別に美食家というわけではない。
「少しは〜期待してください〜……」
そう言って麻里華はちょっぴり頬を膨らませるのだが、糸目のままでは迫力がまったくなかった。
屋上
今の時期屋上は寒いだろうと祐一は思ったが、そこには出ずに手前にある踊り場で食べるのだという。一階にある渡り廊下を通り、部室棟を抜けた先の特別教室棟の四階からさらに階段を登ったその先では、敷き詰められたビニールシートの上で数人の女生徒たちが車座になっていた。ちなみにそのメンバーは、佐祐理と舞にあゆと真琴、それに一弥と瞳だ。
「いらっしゃいませ〜」
ビニールシートの上に重箱のような弁当箱を置き、両腕を広げて佐祐理が出迎えてくれた。慣れているのか、名雪と香里はすでに腰を落ち着けている。招きに応じて祐一も靴を脱ぐと、彼女たちと同じようにその一端に腰を下ろすのだった。
それはまるで遠足の風景のようで、祐一は苦笑してしまう。
「確かに今の時期は、ここには誰も来ないだろうな」
「はえ、ヘンですか?」
「いや、いいんじゃないか? 毎日が遠足みたいだ」
「あはは〜、ですよね〜」
にっこりと微笑む佐祐理。
「やっぱりご飯は机で食べるより、こうして地べたに座って食べた方が美味しいと思うんですよ」
そう言われると、確かに祐一もそう思う。もっとも、それ以前にこうして女の子と、しかもとびっきりの美人に囲まれてする食事が不味いはずもない。
「それにしても……豪勢な弁当だな」
おかずの入った弁当箱が三つ、ご飯だけのものが二つ。その統一感から一人の人物の手によるものは確かだ。とはいえ、これだけの人数の食欲を満たすには、これでも足りないんじゃないかと思えてくる。なにしろ祐一が見ている間にも、すごい勢いでお弁当箱が空になっていくのだから。
「はい、お兄様」
祐一の左隣に陣取った麻里華から、目の前に色とりどりのおかずが盛られた弁当が置かれる。こういう表現もなんであるが、みんなが箸を伸ばしているお弁当と比べると、いかにもがんばって作りましたという感じがするお弁当だった。
「はい、お兄様。あ〜んしてください」
箸を取ろうとした祐一より先に、麻里華はさっと玉子焼きを差し出してくる。いきなり難易度の高い要求に祐一はたじたじであったが、麻里華の目は真剣だった。一同の注目が集まる中、祐一は差し出された玉子焼きを口に運ぶ。
ザクッ!
「いかがですか?」
「……これ、卵の殻が混じってないか……」
味は申し分ないと思うが、歯応えが最悪だ。
「お前、料理とかした事あるのか?」
「え〜っとぉ〜……」
とろとろとした様子でよくはわからないが、麻里華は困ったような表情を見せているようだ。
「すみません〜これが初めてです〜……」
実は、今日がまったく初めてのお弁当である麻里華。普段は佐祐理の作ったお弁当を食べている彼女であったが、いつかは自分でも作ってみたいと思っていた。なのでちゃんと食べられるものが作れるか不安だったのだが、いきなりこれでは自分は料理の才能がないのではないかと思ってしまう。
「そうか」
祐一は麻里華から箸を受け取ると、その目の前でお弁当を平らげて見せた。
「あ……あの……」
「せっかく俺のために作ってくれたんだから、食ってやらないと弁当が可哀そうだろ? それに、食えないってわけでもないんだから」
佐祐理が注いでくれた食後のお茶で喉を潤している祐一を、麻里華はハート型になった瞳でじっと見つめていた。
「あ〜……そういえば〜、デザートがあったのを忘れていました〜」
そう言って麻里華はもう一つの弁当箱を取り出す。それは先程の弁当箱に負けず劣らずの大きさだった。
「食後には〜デザートがつきものです〜」
蓋を開けると、中には色とりどりのフルーツがぎっしりと詰まっている。
「いや……もう無理」
「大丈夫です〜」
「根拠は?」
「甘いところは〜入るところが別ですから〜」
「俺は一緒なんだ」
確かに食べやすい大きさに切られたフルーツは食欲をそそるが、今の祐一には到底そんな気分にはなれない。しかし、麻里華の真剣なまなざしには抗いきれず、楊枝でりんごを一切れ刺した。
「それは〜うさぎさんです〜」
ウサギの耳に見立てて包丁が入れられているが、どう見ても違和感がある。
「片耳ないぞ、これ……」
左右で耳の大きさが違うなら可愛いものだが、このうさぎさんは片耳がすっぱりとそぎ落とされていた。
「まだまだだな……」
「う〜……がんばります〜……」
いつかきっと、祐一を唸らせるようなお弁当を作ってみせる。そう決意を新たにする麻里華であった。
渡り廊下
「おなかいっぱい」
昼食を終えて教室へと帰る途中で、名雪が満足げにつぶやく。その理由が麻里華の用意したデザートのイチゴであるというのには、祐一も苦笑してしまう。
「なあ、名雪。いつもあんな感じなのか?」
「うん、いつもああだよ。みんなで替わりばんこにお弁当を作ってくる時もあるよ」
「ふ〜ん……」
先日食べた名雪の作った弁当の残りは実に美味かった。だとすると、その意味での不安はないのだろう。
「それにしてもお前、よくそんな時間があるな」
少なくとも名雪の普段の生活態度からすると、朝早起きしてお弁当を作るようには思えない。
「下ごしらえは夜のうちにしておくから大丈夫だよ」
「でも、名雪がお弁当作ってくる時って、ほとんど遅刻だったわよね」
「全然大丈夫じゃないじゃないか」
からかうような香里の口調には、祐一も呆れ顔だ。
「今度こそ大丈夫だよ」
そう名雪は決意を固めているようだが、なにがどう大丈夫なのか実に不安だ。
「わかった、じゃあ楽しみにしてるぞ」
「相沢くん、本気?」
「ああ、香里。遅刻したらその日は弁当持参だと思ってくれ」
「わかったわ」
「……ひどい事言ってる」
そのやり取りを聞いていた名雪が、祐一のすぐ横ですねていた。
「とにかく、名雪。弁当は期待してるからな」
「うん、わかったよ」
いまいち釈然としない表情で名雪はうなずいた。
「そうだ、二人とも。あたしはちょっと部室に寄るから、先に教室に戻っていていいわよ」
「わたし、待ってるよ」
「別に待たなくてもいいわよ」
「俺は先に帰ってるぞ」
「ほら、名雪も先に戻ってなさい」
「うん」
「じゃあ、また後でね」
香里とわかれて名雪と二人で教室に戻る祐一。その途中にある渡り廊下で名雪はふと、遠くを見つめた。
「名雪?」
各校舎を結ぶ渡り廊下は一階にあり、外に面しているせいか異常に寒い。しかし、名雪はそこで立ち止まり、なにかをじっと見つめている。
「寝てるのか?」
「起きてるよ」
「どうしたんだよ」
「外、寒いよね」
「そりゃあな」
風こそ吹いていないものの、これだけ雪が積もっていると寒いのは当然だ。
「あの子、なにしてるんだろう」
名雪の視線の先には中庭があり、この季節にはほとんど誰も足を踏み入れないような場所で、一人の少女がぽつんと立っていた。
「あの子、誰かな? あんなところでなにしてるのかな?」
「たぶん、風邪で学校を休んでいるにも関らず、こっそり家を抜け出してきたこの学校の一年生だろう」
「祐一の知ってる人?」
名雪は不思議そうに首を傾げている。
「悪い、名雪。俺ちょっと行ってくる」
「うん、いってらっしゃい。気をつけてね、祐一」
名雪はのんきに手を振って、祐一を見送った。
中庭
昇降口に回って靴を履き替えるのが面倒だったので、祐一は上履きのまま少女の元に駆けつけた。
「祐一さん、こんにちは」
その姿を見つけて栞はわずかに目を細め、少しだけ頭を下げる。
「今日はなにしに来たんだ? 風邪ひいてるんだから、家でゆっくり休んでろ」
「祐一さんに会いにきたんです」
冗談っぽく、というわけでもなく、栞は穏やかな微笑を浮かべながら祐一をまっすぐ見た。
「あの……ご迷惑ですか?」
「いや、別にかまわないけど」
「嬉しいです……」
「でも、なんでわざわざ俺に?」
それは至極当然の疑問だった。
「楽しい人ですから」
それに栞は満面の笑顔を浮かべてそう答えるのだった。質問の答えになっているのかどうかはわからないが、栞はその言葉のとおり楽しそうにうなずいていた。
相変わらずよくわからない女の子だと祐一は思う。
「どうしたんですか? 複雑な顔をしてますけど」
「いや、なんでもない」
最初のおびえたような感じがした栞と、今のこうして元気な笑顔を見せてくれる栞。一体どっちが本当の彼女なのだろうか。
「あの、祐一さん?」
「なんだ?」
「雪、好きですか?」
「冷たいから嫌いだ」
栞の唐突な質問にそう答える祐一であるが、雪が嫌いな理由はそれだけではなかった。
「生温かい雪のほうがもっと嫌ですよ」
「それはそうだけど……」
「私は好きですよ、雪。だって、綺麗ですから」
そう言うと栞はしゃがみこみ、足元に振り積もった雪を手の平で撫でるようにして集めた。雪に負けないくらい白い手が、小さな雪だまを作る。すくい上げた雪を手の中に納めたまま、栞はそっと立ち上がった。さらさらとした粉雪が小さな指の隙間から砂のように零れ落ちていく光景は、都会では決して見られない光景だろう。
「そうだ、祐一さん。雪だるま作りませんか?」
「この地方に住んでいるなら、雪だるまなんか作り飽きてるんじゃないか?」
実際祐一もこの街に住んでいたころは、雪を使った遊びは一通り経験している。
「小さい雪だるまじゃないです。大きな雪だるまを作るんです」
確かに栞一人で作れる雪だるまの大きさには限界がありそうだ。
「どれぐらい大きいのだ?」
「全長十メートルぐらいがいいです」
「それを今からか?」
「はいっ!」
「作れるかっ!」
「材料ならたくさんありますよ?」
ほら、と栞は中庭全体を指し示すが、いくら材料がたくさんあっても無理なものは無理だった。
「まあ、お前の病気が治ったら、俺が雪だるま作るの手伝ってやるから」
「本当ですか?」
「ああ、全長十メートルは保障しないけどな」
「わかりました、我慢します」
「だから、今日はもう帰るんだ」
「昼休みが終れば帰りますよ」
時計がないのでよくわからないが、時間的にはもう後数分で予鈴がなるはずだ。急がないと五時間目に遅刻してしまう。
「さて、そろそろ戻らないとな」
「そうですね、残念ですけど」
ふと、栞は寂しげな視線を校舎に向ける。だが、すぐにもとの笑顔に戻ると、くるりと祐一に背を向けた。
「約束ですよ、祐一さん。私の病気が治ったら、一緒に雪だるま作ってくれるって」
「ああ、約束だ」
「ありがとうございます」
ペコリとお辞儀をして、そのまま栞は雪の地面を歩いていく。やがて栞の姿は、雪の中に溶けるように消えていった。その姿を見送ってから、祐一も校舎へと戻るのだった。
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