第十七話 夜の学校

 

 夜の通学路

 

「ごめんね、祐一」

「いや、迷惑かけてるのは俺のほうだからな。だから、これは自業自得ってわけだ」

 真冬の外という場所は、強烈に冷たい風が衣服の隙間を縫って地肌にまで吹きこんでくるようだ。そんな中で名雪は白い息を吐きつつ、先程から何度も祐一に謝っていた。

 別に名雪も祐一に付き合う必要もないのだが、この寒い中を一人で行かせる事に抵抗があるのだろう。

「……しかし、寒いな」

 祐一は鼻の下までコートで覆うと、両手で体を抱えて身震いする。すると後ろからふわりとした温かいものが首筋にまかれた。

「もう、ちゃんと支度しないとダメだよ?」

「名雪?」

 名雪は自分のマフラーを外して、祐一の首に巻きつけてくれたのだ。

「ありがたいけど、お前は大丈夫なのか?」

「うん」

 この寒さだというのに、名雪の笑顔を見ているうちに祐一は、不思議と温かくなるように感じた。

「それに、走ると温かいよ?」

「そうするか……」

 結局、夜になってもいつもの通りか。そう呟きつつ、祐一は先を走る名雪を追いかけていくのだった。

「そら、名雪」

「よいしょ」

 名雪に手を貸して校門を乗り越え、学校の敷地内へと入る。このあたりは名雪も流石は運動部と言うべきか、普段とろそうに見える割には身軽だった。雲が月の光を遮ってしまっているせいか、ただでさえ広い校門前のグラウンドには常夜灯だけが寂しげに灯り、その光に照らされた巨大な校舎のうつろな影だけが浮かんでいるように見える。

 祐一は名雪の手を握ったまま、その影に向かって歩を進めた。

「やっぱ、開いてないか……」

 昇降口の入り口を一つ一つ調べていくが、どれもきちんと鍵がかけられていて開く気配はない。やはり無駄足だったな、と祐一が思った時だった。

「祐一、こっち」

 別の場所を調べていた名雪が、小さく祐一を呼ぶ。

「名雪、ここは?」

「職員用の昇降口だよ。ほら」

 名雪が扉を押すと、小さくきしみをあげて開く。

「ここから入れるよ」

 来客用のスリッパをパタパタと鳴らしながら自分達の教室へ行き、あまり音をたてないようにして扉を開く。どこまで管理がずさんなのか、多少めまいのするような気分を感じつつ、誰もいない教室に足を踏み入れた祐一は自分の机から名雪のノートを探し出す。

 あまりにも異質な夜の学校の雰囲気に取り囲まれているように感じる中で、表紙に猫のシールが貼られた名雪のノートを見つけた時に祐一は、なんとなくだが現実との接点を見つけたように安心した。

 首尾よくノートを見つけだした祐一は、戸口で待っている名雪のところに素早く戻る。

「ほら、これだろ?」

「ありがとう、祐一」

 名雪は大事そうにノートを抱きかかえて微笑んだ。その笑顔が見られたなら、来たかいがあったな。と祐一は思った。

 

 夜の廊下

 

 帰りの廊下では、二人のスリッパの音がやけに大きく響いているように感じる。昼間のうちは多くの生徒でにぎわう校内も、こうして二人きりになると妙にさびしくなってしまったようだ。

 名雪がそばにいるせいであまりそうでもないようだが、祐一が一人だったとしたら、違う世界に足を踏み入れてしまったかのように思うだろう。来るときは確かにここを通ってここまで来たはずであり、今は同じ道を通って帰るところなのに、不思議ともう祐一が知っている場所では無いような錯覚にとらわれてしまう。

「あ……」

 そんなとき、名雪が不意に小さく声を上げた。つられてその視線の先を見た祐一には、なぜか幻想的な風景があるように見える。と、言うよりも、それは非現実的と言う表現のほうが正しいだろうか。少なくとも今の祐一にとっては、今二人の目の前に存在する少女の不自然さが、この雰囲気の中で違和感のないものとして映っていた。

 夜の校舎に佇む少女。日常的と言う表現は適切ではないが、幻想的と言う形容の方がよく似合っているようだ。

「……なあ、名雪。なんで舞がここにいるんだ?」

「舞さんも忘れものかな?」

 なんとなく、お間抜けなやり取りであるように祐一は思うが、少なくともそれはないだろうと思う。なぜなら、舞は片手に剣を携えていたからだ。

「よぉ」

 二人は舞の正面に立っているのだから、視界には入っているはずだ。だが、舞は祐一達の背中の先を凝視したまま動かない。その視線が気になって祐一は振り返ってみるのだが、暗い廊下が広がっているばかりでなにもない。

「なにやってるんだ? こんな時間に」

 それは当然の疑問だろう。まだ夜の八時を回った程度ではあるものの、女の子が一人で出歩くような時間では無い。

「演劇部の稽古か?」

 今度はおどけたような口調で聞いてみるものの、やはり舞の返事はない。その時、今まで光源となっていた月が雲に隠れたのか、あたりが暗闇に閉ざされる。

「……来る」

 突然そう呟いた舞は、二人の脇をものすごい勢いで駆け抜けていく。

「おい、どうしたんだよ……」

 ガキィィィン。という金属どうしが激しくぶつかり合うような音が鳴り響き、祐一の言葉は途中で途切れてしまう。

 切る、受ける、払う、突く、そして薙ぐ。舞が激しく剣をふるうたびに、打ち合わさった鋼から火花が飛ぶ。

「こりゃすげぇ……」

 舞の体に不似合いな大柄の剣を縦横に操り、祐一のいる位置からだと黒い影にしか見えない相手と一歩も引かない戦いを繰り広げている。祐一はしばらくの間、その光景に見とれてしまっていた。

「くっ」

 突然剣を跳ね上げられ、舞は体勢を崩す。その隙を見逃さず、間髪入れずに黒い影の攻撃が迫る。あたりが真っ暗なのでよくわからないが、黒い影が持つ黒い棒状のものが、舞の頭上に振り降ろされそうになったその刹那。

「二人とも、そこまでだよ」

 凛とした名雪の声が響くと同時に廊下の明かりがつき、舞と戦っていた黒い影の正体を晒す。すべての物音がやんだ廊下に立つその人物は、上下がジャージ姿で、明るいキツネ色をした長い髪の女性だった。

 

 沢渡真琴

 

「もう、なゆ。あと少しのところだったのに、邪魔しないでよ」

「あら? 水瀬さんの助けがなかったら、危なかったんじゃないの? 川澄さん」

 祐一が二人の戦いに夢中になっている間、名雪は少し離れた所にあるスイッチを入れ、廊下の明かりをつけたのだった。

「一体なんだったんだ、今のは……」

 舞は名雪に向かって唇を尖らせ、もう一方の女性は軽く嘲るように舞を見ている。そして、わけのわからない祐一は、ただ呆然とするばかりだ。

 二人が手にしているのは、舞が両刃の西洋剣で、女性の方が反り身も美しい日本刀である。まさか真剣だとは思わないが、二人は先程までこの物騒な得物を振り回して戦っていたのだ。

 こんな夜に学校で、そんなもの振り回して大丈夫なのか。と言う祐一の疑問はもっともであるが、舞も名雪も、この女性も特に気にした様子もなくにこやかに談笑している。話題についていけない祐一だけが取り残されてしまっているかのようだ。

「あ、そういえば気になってたんだけど」

 不意に女性の視線が祐一に向く。

「そいつ誰? 水瀬さんの彼氏?」

「違いますよ。わたしのいとこの祐一です」

「相沢祐一です」

 妙にいとこ同士である事を強調している名雪の態度が気になりながらも、祐一はぺこりと頭を下げる。しかし、その名前を聞いた女性の方は、しばしの間まじまじと祐一を見つめている。

「で、こちらが沢渡真琴先生。女子陸上部の顧問の先生なんだよ」

 ちなみに、あゆと真琴の担任教師でもあるのだが、それは割とどうでもいい事だった。

「沢渡……?」

 名雪からその名前を聞いた時、祐一の脳裏にある記憶が恐怖と共に呼び起こされる。

「……まこ姉?」

「祐坊?」

 踵を返して走り去ろうとした祐一の肩を、沢渡は素早くつかんで引きとめる。

「どこ行こうってのかしら? 祐坊は」

「あ、いや。ちょっとそこまで……」

 あたりはくそ寒いというのに、祐一の背筋には嫌な汗がだらだらと流れおちる。

 沢渡真琴。

 祐一にとっては恐怖の代名詞ともいえる相手を前にして、逃亡を図るがあっさり捕まってしまうのだった。

「……せっかくこうして久方ぶりに会えたってのに、それはないんじゃない?」

 できれば祐一は会いたくなかった。知らずに学校生活を送りたかったが、こうなってしまってはすべてが手遅れであると言えた。

「あの、先生と祐君は知り合いなんですか?」

 恐る恐る、という感じで舞は口を開く。実のところ、それは名雪も知りたい事だ。

「う〜ん、そうねぇ……」

 祐一の体を背後からしっかりと抱きしめながら、沢渡がなにか含みのある微笑みを二人に向ける。

「四つくらいの祐坊と遊んであげた事もあるし、後はしいて言うなら結婚相手かな?」

 

 ピシリ

 

 その時、わずかだが空気のきしむ音を祐一は聞いた。

「祐君?」

 その発生源は、舞のようである。祐一を見つめるその表情は笑顔なのだが、目はまったく笑っていない。しかもまだ舞が剣を手にしているせいか、返答次第ではそのままズバリとされそうだった。

「思い出すわね、二人の結婚式」

 

 ビキン

 

 沢渡が口を開くたびに、あたりの温度が一度ずつ下がっているように感じる。実のところ、これは祐一自身もできれば思い出したくない記憶だった。

 その昔、玩具の指輪を手に入れた祐一。男の祐一がこんなもの持っていても仕方がないし、名雪か妹の真琴にでもあげようかと思っていたところ、運悪く沢渡に見つかってしまったのだ。

 祐一が指輪を持っているのはちょうどいい。と、言う事で沢渡は強引にものみの丘まで祐一を連れていくと、強制的に結婚式を挙げてしまう。ある意味祐一は、わずか四歳にして将来が決められてしまったのも同然だった。

「その時の結婚誓約書、まだあたし持ってるのよ?」

「ふうん、そうなの……」

 そこで舞はやっと、勝ち誇ったかのような微笑みを浮かべる。

「でも、そんな約束はもう時効なんじゃないですか?」

「なに言ってるの? 男の約束に時効なんてないわ」

 沢渡は女だが、この際それは関係ないらしい。だが、法律上男子の結婚年齢は十八であるので、いずれにしてもこの結婚は無効だ。

「先生。いくら同年代の男に相手にされないからって、高校生に手を出さなくても……」

「なんですって……?」

 

 ピキン

 

 今度は沢渡の笑顔がひきつる番だった。

「小娘風情が、言ってくれるじゃないの……」

「先生も、ご自分の年齢をお考えになったらいかがですか? それに、あたしと祐君は全校公認の彼氏彼女の関係なんですからね」

 今度は舞がせせら笑う番だった。とはいえ、祐一としては次第に不穏になっていくあたりの空気の変化が気になる。

「ね? そうよね、なゆ」

「え、え〜と……」

 突然話題を振られて、うろたえてしまう名雪。とはいえ、元々は祐一の冗談なのだから、否定も肯定も出来ないというのが現状なのであるが。

 そんな二人の少女の、内心の動揺を感じ取ったのだろう。今度は沢渡が不敵な微笑みを浮かべる番だった。沢渡は祐一から体を離すと、ゆっくりと刀を構えなおした。

「……やっぱり、あなたとは決着をつけておく必要がありそうね」

「受けて立ちますよ、先生」

 そして、再びバトルがはじまった。

 

 家路

 

「なあ、名雪。あの二人、放っておいていいのか?」

「わたしは、二人の対決に水を差すほど無粋じゃないつもりだよ」

 それじゃあさっき明かりをつけたのはなんなんだ。と祐一はつっこみたいのをこらえる。確かにあの時は訳がわからず、パニックに陥りそうな祐一であったが、名雪のおかげで状況が把握できた事で醜態をさらさないで済んだ。もっとも、すべてを理解した後では、放っておくのが一番だと思ったのも事実であるが。

「あの二人に付き合ってたら、夜が明けちゃうよ」

 名雪の口調は呆れたようではあるが、その表情はどこか楽しそうだった。

「でも、二人とも仲がいいよね」

「おいおい」

 あまりにも能天気な名雪のセリフに、思わず祐一は天を仰いでしまう。

「どこをどうしたら、そう言う能天気な発想になるんだ?」

「ケンカするほど仲がいい、って言うよ?」

 しかし、名雪はキョトンとしたような感じで祐一の顔を下から見上げてくる。

「祐一だって、真琴とはケンカしたりもするでしょ?」

「そりゃ、まあな……」

 真琴が着替えてる所に乱入して、祐一のバカって言われたり。真琴の肉まんを勝手に食べて、祐一のいやしんぼって言われたり。真琴がお風呂に入っている時に乱入して、祐一の変態って言われたり……。

 こうして考えてみると、ろくな事をしていない祐一であったが。

「わたし、一人っ子だから。そう言うのってちょっと憧れちゃうんだよ」

「そうか……」

 勉強は一人でもできるけど、ケンカは二人じゃないとできない。まだ小さかった頃に名雪とケンカした時、祐一はそう母親に言われた事がある。当時は意味がよくわからなかったが、今になってみるとなんとなくその意味がわかるような気がした。

 好きになるのも嫌いになるのも、相手の存在があってはじめてできる事だからだ。

「そう言えば、お前。あゆとケンカとかした事無いのか?」

「あゆちゃんと? う〜ん……どうだろう……」

 月明かりが辺りを優しく照らし出す中、そう言って真剣に考え込む名雪の姿は、とても美しいものであるように祐一には見えた。もしかすると、これが月光の持つ魔力なのかもしれない。

 

月がとっても青いから、遠回りして帰ろう……

 

 不意に、祐一の頭の中にそんな旋律が浮かび上がる。祐一自身は気がついていなかったが、この時祐一の精神は月の魔力に支配されていた。

 狂気という名の魔力に。

「なあ、名雪……」

「なに? 祐一。もう着いたよ?」

 ふと気がつくと、祐一の目の前には見なれた門柱が立っている。そののほほんとした名雪の声を聞いているうちに、祐一は不思議と今まで自分の精神を支配しようとしていた感情が霧散していくのを感じるのだった。

 

 玄関先

 

「おかえりなさい、二人とも。寒かったでしょ? お風呂が沸いているわよ」

 帰宅した祐一達を秋子が出迎えてくれた。こうしていると、まるで新妻のようだと祐一は思う。

「風呂か、名雪はどうする?」

「わたしは後でいいよ。祐一、先入っちゃってよ」

「いや、一緒に入れば一度で済むぞ?」

「いやだよ」

 ちょっぴり頬を膨らませ、ジト目で祐一を見る名雪。

「昔は一緒にはいっていたっていうのに」

「昔はそうでも、今は嫌だよ」

 そう言って名雪は着替えるために階段を駆け上がっていった。

「あの、祐一さん。ちょっといいですか?」

 そんな名雪の後ろ姿を眺めていると、不意に秋子は怪訝そうな表情で祐一に訊く。

「ほっぺた、どうしたんですか?」

「はい?」

「口紅がついていますよ?」

「え?」

 祐一は玄関先にある姿見で確認してみると、確かに左の頬に淡いピンクがついている。そう言えばさっき沢渡が祐一から体を離すときに、ほっぺたになにか柔らかいものが触れたような触れてないような感じが、したようなしなかったような。

「名雪のではありませんし……。祐一さん?」

「な……なんでもありませんよ。それより俺ちょっと着替えとってきますんで」

 そう言って祐一も慌てて階段を駆け上がっていくのだった。

 

 お風呂場

 

 部屋に戻った祐一は、休む間もなく着替えを持って風呂場に向かう。手早く服を脱ぎ捨てて浴室に入ると、そこには先客がいた。

「よぅ、お兄さんも仲間に入れてくれ」

 前も隠さないまま入室してきた祐一に、中にいた真琴とあゆは言葉を失っている様子だ。真琴は浴槽に入ろうと片足を突っ込んでいるところで、あゆは浴槽から出ようと立ち上がったところのようだ。

「………………………」

「………………………」

「………………………」

 あまりに突然の出来事であるせいか、三人ともこの状況に頭がついていかず、不思議な沈黙が浴室に満たされていた。

「いぃぃぃぃぃぃやぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 真琴の叫びと同時に祐一にお湯がかけられ、シャンプーやらリンスやらの容器が投げつけられる。

「うぉっ! 待てっ!」

「ばかぁっ! 前ぐらい隠せっ!」

 石鹸に桶、しまいには金だらいまで投げつけて、真琴はやっと祐一を浴室から追い出すのに成功した。

「まったく、なに考えてんのよ。あの常識はずれは……」

 ふとあゆを見ると、両手でしっかり胸を隠して湯船に座り込んでいる。

「み……見られちゃった……」

 咄嗟にしゃがみ込んだので、全部を見られてしまったというわけでもないと思うが、予想外の出来事にあゆの頭はパニック寸前だった。

「大丈夫? あゆ。あんなの、犬にかまれたと思えば……」

「見ちゃった……」

「は?」

 真琴の見ている前で、のぼせてしまったわけでもないのに真っ赤な顔をしたままのあゆが湯船に沈んでいく。

「しっかりして、あゆ〜っ!」

 自分の裸を見られてしまった事よりも、しっかり祐一の裸を見てしまった事の方がショックのあゆであった。

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