第十八話 夢のはじまった日
はじまりの朝
「ふあぁ……」
昨日はなにかいろいろとあった一日だったな、と祐一はいつもの名雪の声が入った目覚ましに起こされてカーテンを開けた。窓の外には、相変わらず一面の銀世界が広がっており、見ているだけで寒そうな気分になってくる。白い光の眩しさに、今日も天気だけは良さそうだと思う祐一であった。
服を着替えて寒い廊下に出ると、祐一はいつものように名雪の部屋をノックする。名雪が一応起きたらしい事を確認して、祐一は一階に下りた。
「おはよう、真琴」
珍しく早起きの妹に気軽に声をかける祐一であるが、それに対する真琴の反応は冷ややかだった。まあ、昨夜の出来事を思い返せば、にこやかに対応されるとは思いがたいのであるが。
「あぅ〜」
「あぅ〜、じゃないだろ? 朝の挨拶は」
「祐一みたいな常識はずれにする挨拶なんてないわよぅ」
祐一を睨みつけるように下から見上げてくる真琴。
「今度やったら、次の日の朝日は拝めないものと思いなさいよぅ」
それで自爆するのはお前のほうだろ、と思いつつ、祐一はキッチンへと向かう。そこには既に秋子さんと制服に着替えたあゆの姿があった。
名雪の姿はまだないが、制服に着替えた真琴が揃うと朝食がはじまる。
「……」
いつもは明るく元気なあゆが、今日は珍しく黙々とジャムを塗ったパンをかじっている。その間にもちらりちらりと祐一の方を見るのだが、視線が合うとなぜかそっぽを向いてしまう。
(まあ、食事中だしな……)
下手に昨夜の出来事を蒸し返されて秋子さんに追及されてしまうのもあれだが、流石にこれだと祐一も針のむしろだ。よくよく考えて見れば、自分の母親と秋子さん。子供のころの名雪と真琴以外の女の子の裸を見た事なんてなかったし、なによりあゆは祐一と同じ年齢なのだから、そう考えるとついつい意識してしまう。
(意外とふくよかだったような……)
子供っぽい容姿とは裏腹に、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいたような気もする。流石に秋子さんや名雪のスタイルの良さにはかなわないものと思われるが、小柄な割にはなかなかのボディだったようにも思える。
「おはようございます……」
祐一がそんな事を考えていると、いつものように名雪の眠そうな声がキッチンに響く。
「遅いぞ、名雪。早く食べないと……って、なんだそりゃ?」
「うにゅ?」
眠そうに眼をこすりながら、パジャマ姿の名雪は巨大なカエルのぬいぐるみを抱えていた。
「けろぴー」
「そうじゃなくて、なんでそんなものを持ってきてるんだ」
「けろぴー」
名雪が完全に寝ぼけているせいか、まるで会話になっていなかった。
「けろぴーは、ここ」
真琴の隣の空いている席にけろぴーを座らせると、満足したのか名雪も自分の席に座って再び眠りはじめた。考えて見ると昨夜は学校に忘れものを取りに行ったり、その後は遅くまで勉強をしていたりしたのだろうから、朝に弱い名雪がこうなってしまうのも無理はないと思われた。
「相変わらず、変なやつだ……」
祐一に言われたくない台詞ではある。名雪は普段からどこか浮世離れした雰囲気があるが、特に朝はそれに拍車がかかっているようだった。
「あう?」
案の定。真琴は訳がわからないという表情で名雪とけろぴーを見比べている。
「名雪さん、またけろぴー持ってきたんだ」
「家族が増えて嬉しいわ」
そんななかでもいつもと変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべている秋子さんとあゆの姿に、祐一はこれがいつも名雪の姿なんだという事を実感した。
「名雪、早く食べてしまわないと時間無くなるわよ?」
「う……ん……」
間違いなく半分以上寝ているといった感じのゆっくりとした動作で、名雪はトーストにジャムを塗っている。そして、水瀬家一同とカエル一匹という、不思議な食卓風景が展開されるのだった。
祐一と真琴にとってはかなり異常な状態といえるが、普段からあまり家族が揃うような事のない相沢家の食事風景と比べればかなりにぎやかな方だろう。
「ごちそうさまでした」
いつものように、名雪が最後に食べ終わる。そして、勝負はここからだった。
朝の喧騒
「よぉーし、行くぞ名雪」
「あ……。ちょっと待って」
すでにあゆと真琴は学校に向かい、残るは祐一と名雪だけになっていた水瀬家の廊下。学校に行くぞと急かす祐一を名雪は呼びとめた。
「どうした? 名雪」
「わたし、まだパジャマだよ」
「気にするな」
「すっごく気にするよ」
このあたりは名雪も女の子だけの事はある。祐一のような男と違って、着るものにはこだわりがあるものと思われた。
「じゃあ、五秒だけ待ってやるから着替えて来い」
「短いよ〜、部屋にも戻れないよ〜」
「だったら七秒」
「おんなじだよ〜」
「じゃあ、八時間」
「学校、終わっちゃうよ」
そんな事を言っている間にも着替えてくればいいのだが、なぜか名雪は祐一とのこういうやり取りを楽しんでしまっているようだ。
「普通に待っててやるから、出来るだけ急げ」
「うんっ」
にこやかに微笑んで、名雪は軽やかに階段を駆け上がっていく。
「お待たせ」
部屋の扉が閉まる音が響いてからしばらくして、制服に着替えた名雪が階段を下りてくる。
「今度こそ行くぞ」
「ちょっと待って」
「今度はなんだ?」
時計を持っていないのでよくわからないが、結構やばい時間なのではないかと思う祐一。
「わたしのぬいぐるみがなくなっているんだけど……」
「けろぴーなら食卓で食事中だ」
「え?」
それを聞いた名雪は愕然とした表情を浮かべる。
「どうしてどのぬいぐるみがなくなったか知ってるの? それにけろぴーって名前まで……」
「今度説明してやるから、今はとにかく急ぐぞ」
どうやら名雪は寝ぼけていた間の事は覚えていないらしい。もしかしたら、寝ている間にキスとかされても気がつかないんじゃないだろうかと祐一は思う。
「けろぴー……」
名残惜しそうに後ろを振り返りつつ、祐一の後に続く名雪。この後狭い玄間で並んで靴を履こうとしたせいか、さらに時間がかかってしまう二人だった。
登校 あゆ&真琴編
「うぐぅ……」
真琴と並んで歩くいつもの道。あゆはあたりが真っ白になるくらいの大きなため息をついた。
「もう、あゆ。昨夜の事まだ気にしてるの?」
「気にするよ〜」
その意味では、気にするなという方が無理だ。
「でも、どうしてあんな事になったんだろう……。あのイベントって、確か真琴ちゃんのだよね?」
「あう〜……うん」
真琴としては思い出したくもないし、忘れてしまいたい出来事であるが、イベントである以上通過しなくてはいけない儀式のようなものだ。当然、事前の選択によっては出現しない場合もあるが、今回のような事例ははじめてだ。
なにかが起きている。
そう二人が思うのに、それほど長い時間はかからなかった。
「……どうしたの? 二人とも」
いつからいたのか、香里が不思議そうにあゆ達の顔を見比べていた。
「あ、おはよう。香里さん」
「おはよう、二人とも」
にこやかにあいさつを交わす三人。祐一と名雪がいないのはいつもの事よね、と香里は特に気にした様子もない。
「そんな事よりもどうしたのよ? 朝から不景気な顔をするもんじゃないわよ?」
「うぐぅ、実は……」
かくかくしかじか、とあゆは昨夜からの出来事を、自分が知りうる範囲で香里に伝えた。
「……と、いうわけなんだよ」
「そう……」
それを聞いた香里は形の良い眉を寄せ、真剣な表情で何事かを考えている。
「あう〜、なにがなんなのか、真琴にはちんぷんかんぷんよぅ」
「真琴ちゃんだけじゃないよ。ボクだってわかんないんだから」
そこで、この計画の協力者である香里に訊いてみたのだ。自分達では分からない事でも、香里ならきっとわかるんじゃないかと思ったのだ。
「……多分だけどね」
やがて香里はおもむろに口を開く。
「あたし達の想像以上に歪みが大きくなってしまっているんじゃないかしら」
「歪み?」
「ええ」
あゆの声に、香里は小さく頷く。
「舞さんに佐祐理さんに真琴ちゃん、ここまでは順調にきたわ。でも、二人とも前回のロードの事は覚えてる?」
「あ……」
あゆと真琴は同時に声をあげる。それは今思い出しても最悪の結末を迎えてしまったからだ。前回のロードで祐一は栞救済を頑張っていた。しかし、まだ祐一の心が成長しきっていなかったせいか、途中の選択肢で最悪への結末を選んでしまったのだ。
そして、祐一がそれを選んでしまった以上、もはやあゆ達にはどうする事も出来なかった。
「祐一、あゆの本当を知っちゃったのよね……」
「それで祐一くん。名雪さんの事……」
「あたしの予想以上に最悪だったわね……」
そうして、三人はそろって大きなため息をつく。確かにあゆが祐一の苦しみを取り除くためにこの方法を選択した時点で、こうした結末を迎えてしまうという事は十分に予測できた。おそらくは舞、佐祐理、真琴が予想以上に上手くいったので、油断していたのかもしれない。
だが、そのせいで栞の救済に失敗してしまったばかりか、祐一だけでなく名雪まで苦しめてしまう結果となってしまったのだ。
「とにかく、今回のロードに失敗は許されないのよ」
「うぐぅ、わかってるよ」
実際、この世界を作り出しているあゆ本体の体力も限界に近い。今は真琴や舞の力もあわせる事であゆへの負担は減っているが、それでもこうしていられる時間はほとんど残されていないだろう。
それまでに祐一の心が強くなるように鍛えないといけない。
「それじゃ、ここまでの状況を整理してみましょうか。とりあえず栞は第三段階に入ったみたいだけど、あゆちゃん達の方はどう?」
「一応、ボクと名雪さんは第二段階に入ったよ。舞さんの方が第一段階に入ったくらいかな?」
「真琴も第二段階に入ったくらい」
「それなら、なるべくそれ以上進めない方がいわね。これ以上深入りすると歪みが大きくなる恐れがあるわ」
「あう〜、そうなるとどうなるの?」
あまり難しい事がわからない真琴には、なんの事やらさっぱりだろう。
「その歪みを修正するための矯正力が働いてしまうのよ。あたし達で対処できるうちはいいけど、手に負えなくなったらこの世界そのものが崩壊するわ」
それを聞いて、真琴はやっと事の深刻さを理解できた。そうなってしまえば状況そのものがリセットされてしまい、また最初からやり直しとなってしまうのである。それはあゆに相当な負担を強いる事となるため、最悪の場合あゆが完全に死に至ってしまう。そうなってしまえば、この世界を構成している全てが消滅してしまうのだ。
「とにかく、あたし達にはもうほとんど時間が残されていないと思うわ。ゲームオーバーにならないように、気をつけていきましょ」
「うぐぅ、わかってるよ」
「あう、わかった」
「それと、これは絶対に名雪と相沢くんに知られちゃダメよ。もしそうなったら、プランの大幅な修正が必要になるわ」
香里達は三人でそう誓い合うと、一緒に校門をくぐるのだった。
登校 祐一&名雪編
「名雪、時間は?」
外に飛び出してから祐一は、即座に残り時間を確認する。
「走らないとダメだね」
腕時計を見た名雪が、ぽつりと呟く。しかし、その表情には焦りの色が微塵も感じられない。よほど自信があるのか、それとも単にあきらめているだけなのか。
「それも、一生懸命走らないとダメかも」
「……やっぱりか」
「多分……」
一瞬お互いの顔を見合せた後、二人揃って走りだす。いつもの通学路の風景が、吐き出された白い息と一緒に後方へと過ぎ去っていく。
「名雪、もう少し早く起きられないか?」
「ずっと、努力はしてるんだけど……。なにかいい方法ないかな?」
「寝ないってのはどうだ?」
「それは嫌だよ。だって授業中に眠くなるし」
そうした勉強の遅れを取り戻すために家庭学習をし、夜遅くまで起きていた結果、朝起きられなくなる。確かにこれでは本末転倒もいいところだ。
「だったら、教室に泊るって言うのはどうだ?」
「嫌だよ、お腹すいちゃうもん」
「遅刻しないためなんだから、それくらい我慢しろ」
「嫌だよ」
確かに教室に寝泊まりするというのは、女の子の名雪には嫌なものがあるだろう。お腹がすくだけでなく、お風呂にも入れなければ着替えもないのだから。
「祐一と一緒に学校に行けなくなるから、嫌だよ」
「……………………」
流石にこれは祐一もクリティカルヒットだ。
「祐一が一緒に泊ってくれるんだったら、考えてもいいけど?」
その名雪のにっこりとした笑顔を、祐一は直視できない。
「……大体だな、カエルのぬいぐるみなんか持って寝てる段階でダメだな」
「けろぴーは関係ないと思うけど」
「今度俺が見つけたら、まくら代わりにしてやる」
名雪と一緒に寝られるけろぴーがうらやましいというわけでは無いが。
「わっ、そんな事したらダメだよ」
「きっと、朝起きたら程よい薄さになっているだろうな」
「絶対にダメだよ〜」
「とにかく、もう少し早く起きられるように努力だけはしろよ」
「うん……頑張ってみるよ……」
こういう表現もあれだが、こう見えて名雪も結構な努力家なのだから、今までにもいろいろな方法を試してみたのだろう。しかし、そのどれもが効果を発揮しなかったものと思われた。
「……目覚まし……増やした方がいいかな……」
名雪の部屋を埋め尽くさんばかりの目覚まし時計を想像し、一瞬だが目眩のようなものを感じる祐一。ただでさえ個人が所有するには多すぎるというのに、あれ以上に増えるかもしれないのだ。
「馬鹿な事言ってないで、さっさと行くぞっ!」
「わっ、待ってよ祐一」
その後も走り続けて校門付近に到達すると、無情にも予鈴のチャイムが鳴り響く。
「あ、予鈴だよ祐一」
「あきらめるな、まだ予鈴だ。とにかく走れっ!」
「うん、走るのは好きだよ」
校門付近にはもう生徒の姿はなく、一気に駆け抜けた祐一達は昇降口になだれ込む。
「ま……間に合った……」
そのまま教室に駆け込み、自分の席に着いたところで祐一はぐったりと机に突っ伏してしまう。幸いにしてまだ教室に担任の姿はなく、まだ朝の喧騒の只中にあった。
「よかった〜」
そう名雪は安堵の息を漏らす。息も絶え絶えな祐一と違い、名雪はまだ余裕を残しているようだった。
「……相変わらず心臓に悪い登校のしかたをしてるわね」
ゆっくり休憩をとる間もなく現れた担任によって朝のHRがはじまり、あっさりと終わった後で香里が話しかけてきた。
「念のために言っておくが……好きでやってるわけじゃないぞ……」
ついさっきまで走っていたためか、まるで呼吸が整っていない祐一。
「それじゃあ、相沢くんにはいい事を教えてあげましょうか?」
「なんだ?」
香里の笑顔になにか引っかかるものを感じるが、一応訊いてみる祐一。
「今日の一時間目は体育よ」
「は?」
この世には神も仏もいないのだという事を、祐一は実感した。
「ちなみに、更衣室があるから着替えはそこでね」
「……こうなったら、倒れるまで走ってやる」
この日一時間目の体育の授業内容は、マラソンだった。そのため、祐一は二時間目の古典と三時間目の数学を昏倒するようにして過ごしたのであった。
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