第十九話 夢を見る少女
お昼休み 二年生教室
「祐一〜、お昼休みだよ〜」
「おお……」
二時間目、三時間目と昏倒するように過ごしていた祐一は、四時間目の後半になってやっと体力が回復したような気がした。隣の席に座るいとこ兼幼馴染み兼陸上部の部長さんの朗らかな声で、祐一はゆっくりと身を起こす。
「祐一は今日お昼どうするの?」
「昼か……」
このままの状態なら、また昨日みたいに屋上に出る手前で佐祐理さん達とお弁当だろう。それもいいかもしれないが、それ以上に祐一には気になる事があった。
それは四時間目の授業の途中で見た、一人の少女の事だ。
美坂栞。
ほんの数日前に出会ったばかりの少女だが、祐一にはどうにも気になって仕方がない。なんのために学校に来ているのか。斜め後ろの席に座る美坂香里とはどういう関係なのか。祐一はどうしてもそれを確かめたかったのだ。
「悪い、俺は外」
「え?」
「じゃあな、名雪」
これ以上教室にいると、名雪に余計な詮索をされかねないし、他に邪魔も入ってしまうかもしれない。
「え? え?」
いつもの様子でスローモーな反応を示す名雪を残し、祐一は一目散に栞のいる中庭へと向かうのだった。
お昼休み 中庭
真冬の時期にある校舎裏は、当然のようにお昼休みの喧騒の渦中にある校舎内とは隔離された場所だ。あたりに立ち並ぶ冬枯れの木立には雪で作られた白い花が咲き、あたり一面は真っ白な雪で覆われてしまっているが、温かくなればきっとそこかしこでお弁当の包みを広げる光景が見られる格好の場所であると思われた。
「よぉ」
「こんにちは」
そんなどこか寒い風景の中で祐一は、あたりの風景に負けないくらい白い肌をした少女と軽く挨拶をかわす。台詞だけ聞いているとなんでもないやり取りのようであるが、場所が場所だけになんとも不思議な情景が展開されていた。
「寒くないか?」
「もちろん、寒いですよ?」
そう言う栞はチェック柄のストールをはおっているが、短いスカートが特に寒そうだ。とはいえ、この学校の制服のスカートも似たような丈なので、根が寒がりの祐一には寒くないのか不思議でしょうがない。流石にこういう事を名雪に訊いてみるわけにもいかないし。
「でも、暑いよりかはいいんじゃないですか?」
「そうか? 俺はどっちも嫌だけどな」
祐一の場合は、単なるわがままであるが。
「だって、服をたくさん着る事は出来ますけど、脱ぐ事ができる服の枚数には限りがありますから」
いつもと変わらぬ様子で、栞はにっこりとほほ笑む。確かに、寒い時には服を重ねて着る事が出来るが、暑いからと言って脱げる枚数には限度がある。いざとなれば祐一はパンツ一枚でも平気だが、栞は女の子だけあってそういう格好は出来ないのだろう。
「それに、暑いとアイスが融けてしまいます」
それは悲しいです。と、真顔で呟く栞の様子に、思わず苦笑してしまう祐一であった。
「本当に好きなんだな、アイス」
「はい」
満面の笑顔で頷いたところで、栞のお腹が可愛らしく鳴る。
「あはは……お腹すきました」
ちょっぴり頬を赤らめて、照れたように笑いながら栞は言う。とはいえ、あたり一面雪しかないこの場所に食べるものがあるはずもない。かき氷のシロップでもかければ雪も食べられるかもしれないが、そんなもの食べた日にはお腹を壊してしまうのは確実だ。
「しょうがないな、俺がなにか買ってきてやるよ」
学食の購買に行けば、サンドイッチでもカレーパンでも売っているだろう。
「それでは、アイスクリームのバニラをお願いします」
「……他のにしないか?」
考えただけでも寒くなる。
「じゃあ、アイスクリームのチョコレート」
「……栞?」
「あ、バニラとチョコが半々になっているのでもいいですよ?」
どうやらアイスだけは譲れないらしい」
「わかった。アイスクリームのバニラな?」
「はい。あの……今日はお腹がすいているので、二つお願いしてもいいですか?」
「わかった、わかった」
栞の可愛らしいお願いに苦笑しつつ、祐一は学食へ向かうのだった。
お昼休み 踊り場
「はえ〜、そんな事があったんですか」
紅茶の入ったコップを優雅に傾けつつ、佐祐理はどこかおっとりとした様子で息を吐いた。いつもはみんなでお弁当を食べているこの場所であるが、今ここに集っているのは佐祐理、舞、あゆ、真琴の四人のみだった。
「それで、祐君はどうしてるの?」
「今は栞ちゃんの所に行っているみたい。香里さんは名雪さん達と一緒に学食みたいだよ」
「一弥も麻理華ちゃん達と一緒みたいですからね〜」
みんなバラバラというのも寂しい気もするが、秘密の話をするにはちょうどいい。
「香里さんが言うには、ボク達の想像以上に歪みがひどくなっているんじゃないか、って事なんだけど……」
佐祐理の作ったお弁当に舌鼓を打ちつつ、渋い顔をするあゆ。お弁当が美味しくないわけではないが、今抱えている問題が深刻なのだ。
「でも、それを言っちゃったらあたし達だって歪みなんじゃないの?」
あゆと同じく佐祐理のお弁当に舌鼓を打っていた舞が、紅茶でのどを潤してから口を開く。
「うぐぅ、そうなんだけど……」
そこであゆは、曖昧に言葉を濁してしまう。確かに舞達の存在もこの世界を構築する上では歪みであると言えるのだが、それはある意味では必要な歪みでもあるからだ。わかりやすく説明すれば、ドラム缶についているくびれはその形状を維持するために必要な歪みなのだから。
「なんだか、今回のロードはおかしな気がするんだよ」
そこがあゆには気になるところなのだ。この世界はいわばあゆが生み出した世界であると言えるのだが、創造主であるあゆ自身にも制御しきれない部分が存在しているのだ。実際に、祐一が派手にケンカしていたのもそうだ。こんな事はあゆ自身も予測していなかった事だからだ。
「そういえば……みんなには黙っていたけど、なゆもレイプされかかった事があるのよね」
あのときは舞によって事なきを得たが、そんな事はあゆだって望んではいない。それなのにそうした事が起きてしまうというのは、あゆ達が思っている以上にこの世界のほころびが大きくなってしまっているという事なのだろう。
「とりあえず、話を総合すると……」
そこで舞は、あゆ達一同を見渡した。
「あたしはそういう歪みを、魔物として討伐すればいいのね?」
「うん、お願い。舞さん」
完全なる対処療法であるが、現状ではそうする以外に方法がない。
「あう〜そんな面倒な事しないで、この世界ならあゆは奇跡が使えるんだから、それで栞を治してあげればいいんじゃないの?」
実に真琴らしい率直な意見と言えるが、それにあゆは黙って首を横に振った。
「できればボクもそうしたいけど、そうもいかないんだよ」
「どうしてよぅ」
「栞ちゃんがそれを望んでいないから、かな? ボクの奇跡の力は、それを望まない人にはなんの効果もないから。仮にボクが奇跡を起こして栞ちゃんの病気を治してあげたとしても、なんらかの形で矯正力が働いて元通りになっちゃうんだよ」
あゆの説明は真琴にはちんぷんかんぷんだったが、なんとなく言いたい事はわかる。真琴がここにいられるのは、真琴自身がそれを望んだからだ。
「まあ、佐祐理が自分の事を名前で呼んでいるのは、どういう事なのかって事なのよ」
「あう?」
本来の道筋であるなら、一弥を失ってしまった自責の念から佐祐理は自分の事を客観的に見る事しかできなくなってしまい、その事をきっかけとして自分の事を名前で呼ぶようになってしまったのである。
しかし、一弥が生存している現状では、佐祐理が自分の事を名前で呼ぶ必要はないはずなのだ。
「一弥はあたしの事を舞姉、なゆの事をなゆ姉って呼ぶでしょ? 佐祐理も一弥に名前で呼んでほしくて、自分の名前を連呼しているうちに口癖になっちゃったのよ」
舞は笑ってそう言うが、これも矯正力が働いた結果と言える。ある意味、もう戦う必要のない舞が、歪みを魔物として戦わなくてはいけなくなってしまったように。
「それはともかくとして……」
食後の紅茶をずずっと飲んでから、舞は口を開く。
「とりあえず、ここでの事はなゆ達には秘密ね。祐君に知られるわけにはいかないから。後の事は後で考えればいいわよ」
どうせ難しい事はわかんないし。という舞の姿は頼もしいのかそうでないのかわからないが、その自信たっぷりの様子だけは大したものであった。
「そうだね。秋子さんはともかくとしても、祐一くんと名雪さんには秘密にしておかないと」
「あう〜、でも……」
そこで真琴はおずおずという感じで口を開いた。
「なゆ姉ちゃん、気がついてるかもしれない……」
「はえ? どうしてですか?」
「だってなゆ姉ちゃん。真琴が祐一とベンチで待ってた時、遠くの方でずっと見てたから」
祐一は気がついていなかったようだが、真琴は名雪が遠くのほうからずっと様子をうかがっていた事に気がついていた。その時の名雪はこっちの方に行こうかどうしようか悩んでいる感じだった。
祐一と名雪の間にある詳しい事情は真琴も知らなかったが、きっと二人の間には他の人が入り込む余地のない事情があるのだろう。それが名雪の遅刻してきた理由なのだと真琴は思った。だから真琴は名雪の遅刻を許せたのである。
「いずれにしても、今のままでは現状維持が精一杯ですね〜」
そう言って微笑む佐祐理の笑顔に、なんとなく救われた気持ちになるあゆ。その意味でいえば自分のわがままに付き合ってくれているのだから、いくら感謝してもし足りない気分だ。
とりあえず今は、栞の救済に奔走する祐一を陰ながら見守っていこうと決意するあゆであった。
お昼休み 中庭2
祐一が学食に行ったのは昼休みに入ってから少したったくらいだったので、カウンター前の人混みはそれほどでもなく、この冬の寒い時期にどうして動いているのかもわからないクーラーボックスの中から、バニラアイスのカップを二つ取り出した。
代金を払っている最中に、まわりから奇異な目で見られたような気もしたが、とりあえず無視して祐一は中庭に戻る。
中庭に続く重い鉄の扉をこじ開け、祐一が一歩外に踏み出したとき。
「………………………」
雪が降り始めていた。
「……見なかった事にするか」
「何事もなかったかのように戻らないでくださいっ!」
扉を閉めて校舎に引き返したとき、冷たい扉の向こう側から、栞の非難の声が聞こえる。
「冗談だ、冗談」
「……本当に冗談ですか?」
再び姿を現した祐一を、栞は怪訝そうな瞳で見る。
「もちろんだとも。ほら、こうして昼飯も買ってきてやったじゃないか」
「……ごまかしてませんか?」
「全然、そんな事はないぞ?」
「それなら、いいですけど……」
笑顔をのぞかせながら、栞はアイスクリームを二つ受け取った。
「ところで、祐一さんはお昼どうするんですか?」
そこで祐一は気がついた。栞の分は用意したが、自分の分はすっかり忘れていた事に。
「ひとつあげますよ。私は一つで十分ですから」
そう言って栞は、アイスのカップを差し出してくる。確かになにか食べないとお腹がすいてしまうと思われるが、流石にこんなものを食べた日には後でお腹を壊してしまう事は確実だ。
栞の背後にちらほらと舞い降りる白い結晶を見ながら、祐一はそう思った。
「食べないんですか?」
「仕方ない。食べよう」
このままなにも食べずに午後の授業に臨むのは、確かに心許ない。なにがそんなに嬉しいのか笑顔で頷く栞から、祐一は断腸の思いでアイスのカップを受け取るのだった。
ちょっと早まってしまったかのような気もするが、もうすでに背に腹は代えられない。
中庭は既に雪で覆い尽くされてしまっているので、ドアに寄りかかるようにして庇の下で食べる。先程よりも風が弱まったので頭から雪をかぶるというような事はなくなっていたが、少なくともこの冬一番の冷え込みであるように祐一には感じられた。
「おいしいですね」
そんな中で栞は、笑顔でアイスを食べている。
「ああ、そうだな……」
一応祐一も食べてはいるが、味など全くわからない。しかも食べるそばから雪が積もっていくので、まるで減ったような気がしない。それでもなんとか最後まで食べきる祐一であった。
「……なんだか、少し腹が痛いような気がする」
「お腹の薬なら持っていますよ?」
「ここにあるのか?」
「常備薬ですから」
ちょっと待ってくださいね、と言い置いてから栞はスカートのポケットを探りはじめる。風邪薬に解熱剤、胃薬に頭痛薬にうがい薬。このポケットの中にどうやって入れているのかわからないくらいに大量の薬が並べられる。
「あ……ありました。はい、どうぞ」
一応、食後に服用する薬なのだが、その食事を取ったために腹を壊してしまったのだから、本末転倒もいいところだった。祐一は栞が差し出した白い三粒の薬を飲んで一息つく。
「ふう、楽になった」
「そんなに早くは効きませんよ」
それでも少しはましになったような気がするのだから、祐一も結構単純である。
「ご馳走様でした」
祐一が薬を飲んでいる間に、栞は食べ終えたアイスのカップにふたをする。だが、その幸せそうな笑顔の向こう側に、ほんの些細だが違和感があった。
それは祐一の脳裏に、香里の言葉が引っかかっていたからだ。
あたしに妹なんていない。確かに香里はそう言った。それなら、香里と同じ名字をもつこの少女は、一体彼女とどういう関係なのか。
「なあ、栞」
「はい?」
そこで祐一は、思いきって香里の話をしてみる事にした。
「美坂香里って名前に聞き覚えはないか?」
「それなら、私のお姉ちゃんですよ」
極上の笑顔で栞は答えた。
「年も私と一つしか違わないのに大人で、優しくて美人でスタイルも頭もよくって、自慢の姉なんですよ」
「だけど香里は、自分に妹はいないって言ってたぞ」
「え?」
「昨日香里に聞いたら、自分は一人っ子だって言ってたんだ」
その途端に、栞から笑顔が消える。そして、なにかに耐えるように、ぎゅっと口を閉ざした。
「それなら、私の思い違いですね……」
やがて、重苦しい沈黙を破るように栞は言葉を紡ぐ。
「祐一さんのクラスに、私のお姉ちゃんと同じ名前の人がいたんですね」
栞の表情は、いつもの穏やかな笑顔に戻っていた。
「こう見えても私、意外とそそっかしいんですよ」
名前はともかくとしても、名字まで同じ同姓同名の人物が同じ学年にいるとは思いがたい。しかし、その言葉を最後に栞が沈黙してしまったため、祐一はそれ以上問いただす事が出来なかった。
「私、そろそろ戻りますね」
そう言い残して、栞は降りしきる雪の中に踏み出していく。その、まるで雪の中に溶けてしまうかのような後ろ姿を見たとき、思わず祐一は栞を呼び止めていた。
「栞」
「はい?」
「また、明日な」
その言葉が意外だったのか、小さく開いた口からはそれ以上の言葉が出てこない。
「はい、また明日です」
今までで一番の笑顔を見せて、栞は白い世界の中を歩いていく。時折振り返りながら去っていく栞の姿を見送った後、祐一は校舎に戻るのだった。
お昼休み 中等部一年教室
「はぁ〜……」
この日のお昼休みの時間。五十嵐麻理華は物憂げな溜息をついていた。せっかく祐一のために一生懸命お弁当を作ったというのに、当の本人は不在。名雪達も学食に行ってしまったらしく、流石に中学生だけで高等部の校舎をうろつくわけにもいかなかったので、教室に引き返す羽目になってしまったのだ。
「お兄様のために、お弁当を用意しましたのに……」
「残念だったわね、麻理華」
そのお弁当は、一弥と瞳のお腹におさまる事になったので無駄になってしまったというわけではないのだが、どうにも割り切れない思いがある。乙女心というものは意外と複雑なのだった。
「しかし、相沢祐一も残念だな。こんなにうまいお弁当を食べ逃すなんてな」
麻理華のお弁当に舌鼓を打ちつつ、一弥は率直な感想を述べる。それを聞いた麻理華は、いつものように糸になった眼を一弥に向けた。
「一弥君、本当ですか〜?」
「ああ」
大きく頷く一弥。確かに佐祐理や名雪のお弁当に比べると精進が足りないようにも思えるが、これなら十分に合格点だろう。それを聞いた麻理華は、うっとりとしたような視線で一弥を見る。
「それでしたら〜、明日はわたくし、一弥君のためにお弁当を作ってまいります〜」
なぜ、そうなる? そう一弥は問いただしたいが、あまりの突然な出来事に対応しきれなかった。
「ダメよ、麻理華」
それを制したのは、瞳だった。
「明日は……私がお弁当を作るんだから……」
ちょっと俯きがちになり、真っ赤な顔をして瞳はそう言った。
「それなら〜その次はわたくしで。かわりばんこに作りましょう〜」
「あ、それいいわね」
(なぜ、そうなる?)
突然はじまった女の子二人の会話についていく事が出来ず、固まったままお昼休みの時間を過ごす一弥であった。
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