第二十一話 the fox and the grepes.

 

 通学路

 

「はぁはぁ……」

 商店街から遠く離れた通学路で、真琴は荒くなった息を整えた。真琴としても祐一の言いたい事はわからないでもないが、流石にまだ心の準備ができていなかった。

「おーい、真琴」

 意外な真琴の足の速さに驚きつつも、なんとか祐一は足を止めた真琴に追いつく事が出来た。

「うー……」

「そう警戒するな。俺一人だよ」

 祐一が両腕を開いて見せると、安心したのか真琴は肩の力を抜いた。

「あぅー……」

 重いため息の混じった吐息が漏れる。真琴はなにか困った事があった時は、なぜか『あぅー』という癖があるのだ。

「ごめんな、真琴」

 やはり、いきなり見知らぬ女の子と引き合わせたのはまずかったようだ。それはいたずらに真琴を傷つけるばかりで、祐一は自分の思慮の浅さから、素直に謝るのだった。

 重苦しい雰囲気が二人の間にわだかまったまま、ゆっくりと家路につく。真琴の歩調にあわせて歩いているせいか、祐一はいつもよりゆっくりと時間が流れているように感じる。

「あ、雪……」

 ふと気がつくと、真琴が空を眺めていた。その前髪に、ふわりと白い精が舞い降りる。そいつが真琴に幸せを運んできてくれる使者ならどんなに良いかと、祐一は本気で思っていた。

 上手に友達を作る事が出来ない、引っ込み思案で不器用な妹の境遇を、祐一は本気で心配しているのだ。今はまだ、こうして祐一がそばにいてやる事が出来る。しかし、いずれ祐一は祐一の道を進む事になり、真琴は真琴の道を進む事になる。知らない人達に囲まれて、真琴がきちんと自分の居場所と人間関係を築く事が出来るのかが不安だった。

「冷たい」

 そんな祐一の心配をよそに、真琴はプルプルと顔を振って雪を振り払う。そんな真琴の仕草は、祐一から見るとせっかく運んできてくれた幸せを振り払っているようにも見えてしまうので、なんだか心許なかった。

(こいつも、こうやっておとなしくしてれば可愛いもんなのにな……)

 実際、真琴の体は祐一の予想以上に小柄であるし、見た目もそれほど悪くない。前の学校では結構陰では人気がある方だった。そんな事を馬鹿らしいと思いつつも、ついつい考えてしまうのは兄としての感情だろうか。

 そんなとき、真琴の足元でなにやらおかしな音が響く。

「あれ? なんか踏んだ」

「ん?」

 その足元を見ると、一匹の子猫がいた。

「よくそんなもの気づかずに踏めるな、お前……」

「こんなところで寝ている方が悪いのよぅ」

 真琴があてつけがましく言い放つ。だが、子猫は何事もなかったのように、体を伸ばして大きく欠伸をした。

「どうやら大丈夫のようだ」

 通りの真ん中で呑気に眠っていたとは、なかなか豪胆な子猫である。これが真琴でなくて車とかであれば、間違いなく子猫は即死していただろう。

「ほら、祐一。猫の心配なんかしてないで、雪が降ってきたんだから早く帰ろうよ」

 真琴が祐一の手をぐいぐいと引っ張り、再び祐一達は歩きはじめる。しかし、その後ろから、うにゃあ、という声が近づいてきた。

「わぁ、ついてきてるっ」

 そればかりか、この子猫は真琴の足元にまとわりついている。

「どうしよ……。こいつ真琴が踏んだ事、根に持ってるのかなぁ……」

「そうか? 普通に見ると、こいつ真琴になついているように見えるぞ」

 子猫は鼻先を真琴のブーツにこすりつけるようにして親愛の情を示している。

「うー……。そう見えない事はないけど……なんかうっとうしい」

 ついついぽろりと本音が出てきてしまう真琴。

「しょうがない奴だな。ほれ」

 祐一は子猫を抱きかかえると、真琴の顔面に押し付けてやる。こうして人間に触られているというのに嫌がるそぶりを見せないので、もしかするとこの子猫はもともと人間に飼われていたものではないかと思われた。

「ちょっと抱いてみろよ」

「や」

 即座に否定する真琴。確かに、学校の制服に猫の毛がついてしまうのは嫌なものだろう。

「いいから」

「あぅー……じゃあ、ちょっとだけ……」

 口ではそう言う割には、真琴は嬉しそうな表情を浮かべながら子猫を胸に抱いた。真琴はどうにも人間不信気味であるが、動物に対してはそうした警戒心を抱かない。もっとも、情を移し過ぎてしまうせいか、お別れの時には大泣きしてしまうのであるが。

「わぁ……」

 と、真琴が喜んだのも束の間。子猫は真琴の手からするろと抜け出すと、肩へ飛んでそこから真琴の頭の上まで登ってしまった。不思議と子猫はそこで手足を伸ばしきってしまい、自分の居場所はここだと言わんばかりに居座ってしまっている。

 まるでその部分が凹凸であるかの様に、ぴったりと馴染んでいるのだから不思議だ。

「まぁ、いいか……」

 ある意味、かなり異様な光景であるようにも思うが、真琴が嬉しそうなためか、このままでもいいかと思う祐一であった。

「でも、どうするの? この子」

 真琴の頭の上で、すっかり落ち着いてしまった様子の子猫を見ながら真琴が呟く。確かに、今祐一達が住んでいる家は居候なので連れて帰るわけにもいかないし、かといってここに置き去りにするのもかわいそうだ。

 さて、どうするかと祐一が思いを巡らせた時。

「あれ? 祐一くんに真琴ちゃん。なにしてるの?」

 通りの角からあゆが姿を現した。聞くとあゆは病院からの帰り道だという。そこで祐一はあゆにかくかくしかじかと事情を説明するのだった。

「それなら、とりあえずその子を家に連れて帰って、秋子さんに聞いてみようよ」

「秋子さんの事だから、案外一秒で了承するかもしれないな」

 そう笑いながら、三人は家路についた。

 

 水瀬家

 

「了承」

「わ、本当に一秒で出た」

「よかったね、真琴ちゃん」

 猫を飼ってもいいという秋子の了承が出たためか、あゆと真琴は二人で手を握り合って喜んだ。

「新しい家族がまた増えて、にぎやかになってきたわねぇ」

 仮にホームレスを拾ってきたとしても、歓迎しそうなくらいに秋子は呑気なものだが、その中で祐一はただ一人浮かない様子だった。

「どうしたんですか? 祐一さん」

「どうもこうも、名雪の事ですよ」

「そうですね。名雪には当分の間は内緒にしておきましょう。あの子が猫を見つけると、大変な騒ぎになってしまいますから」

「大変な騒ぎ?」

 それを聞きつけた真琴が、可愛らしき小首を傾げる。

「うん。名雪さんは、ネコさんのアレルギーなんだよ」

 名雪は重度の猫好きなのであるが、アレルギーという体質のためか触れる事はおろか、近づく事すらできないのだ。涙と鼻水をぼろぼろと流しながら、どちらが人間でどちらが動物かわからなくなるような事態に陥ってしまう。名雪の体の事を第一に考えるなら、水瀬家で猫を飼うわけにはいかないのだ。

 とはいえ、同じ屋根の下に住んでいるのだから、いつかはばれてしまうだろう。

「まあ、その時はその時だな……」

 その昔名雪は捨てられていた子猫を拾い、家に連れて帰ってきた事があった。しかし、その時に名雪の猫アレルギーが判明してしまったのだ。発熱に湿疹、涙に鼻水と言うかなり重篤な症状を引き起こしてしまったので、家で猫は飼えないと判断されたのである。

 ただ、名雪が面倒見のいい性格であるせいか、野良猫を見つけたときにもエサをあげようと近づいて行ってしまうのが問題なのだ。

「それで、真琴ちゃん。この子の名前はどうするの?」

「え? 名前?」

 あゆの声に、真琴はキョトンとした様子で小首をかしげた。

「そっか、まだないんだよね」

 当然といえば、当然である。今さっき拾ったばかりの猫に、名前なんてあるはずがない。

「よし、じゃあ俺がつけてやろう」

「あ、うん」

「祐一くん。可愛い名前をつけてあげてね」

 祐一の申し出に、真琴は素直に頷いた。そのそばではあゆも一緒になって瞳を輝かせているので、ここは一つ真剣に考えてやらねばならない。

「よーし、任せておけ。こう見えて俺は女の子受けするツボは心得ているつもりだ」

「うん。祐一に任せる」

 真琴とあゆは期待に瞳を輝かせて、祐一の発表を待つ。

「そうだなぁ……『キャット伊東』はどうだ?」

「誰?」

 あゆと真琴が同時に小首をかしげて聞き返す。その仕草は、たとえ双子といえども真似できないほどシンクロしていた。

「その猫の名前だ」

「なんでー?」

「それじゃ人みたいで気持ち悪いよ」

 二人から一斉にブーイングが飛ぶ。

「だめか……それなら『伊東ネコ人』とか……」

「なんで『伊東』ってつくのよぅっ!」

「祐一くん、真面目に考える気ある?」

 なんとなくの思い付きで出た名前なのだが、どうにも不評のようだ。

「もっと可愛いのにしてよ」

「そうだよ」

「そうか。そうだな……『猫塚ネコ夫』はどうだ?」

「誰よそれ?」

「その猫の名前だ」

「なんでよぉー!」

「それも人みたいでなにか変だよ」

 これも二人には不評のようだ。

「それじゃあ『シャム塚シャム夫』とか……」

「どうして『塚』と『夫』がつくのよ?」

「祐一くん、真面目に考える気あるの?」

 やはり、なんとなくの思い付きで出た名前ではよくないようだ。

「じゃあ『安田のネコ』でどうだ?」

「真琴のネコよぅ」

「いやいや『安田のネコ』って言う名前のネコ」

「なんだか、それじゃ別の人の猫みたいだね」

 疲れとも呆れともとれる、ため息まじりの声であゆが呟く。

「だとすると……『お前のネコ』ならいいわけだ」

「え?」

「『お前のネコ』って言う名前のネコ」

「真琴がそう呼んだら、真琴の猫じゃなくなっちゃうじゃないの」

「祐一くん。本当に真面目に考える気あるの?」

「それもそうだな……。じゃあ、お前が好きなところで『肉まん』とか」

「いくら好きでも、食べ物の名前なんていやよぅ」

 こうなってくると、もうあゆは呆れてものが言えない。

「それなら『ピロシキ』ならどうだ?」

「え? なにそれ」

 きょとん、とした様子で真琴は聞き返してきた。

「ピロシキ……それは俺の内なる乙女小宇宙より導き出されたワード……」

 完全に陶酔したようにポーズを決める祐一を、真琴は瞳をキラキラさせて見入っているのだが、逆にあゆは胡散臭そうな視線を投げかけるのみだった。

「可愛いだろ? ぴろちゃん、なんて呼ぶととってもキュートで、超お勧めだぞ」

「なんだかよくわからないけど、可愛いからそれでいいや」

 そう言うと真琴は猫を抱きあげ、顔と顔をつき合せるようにした。

「今日から君はぴろだよ。いいね?」

「うな〜」

 きちんと返事をしているのだから、おそらくはこの猫も気にいっているのだろう。祐一としては冗談のつもりだったのだが、これに決定してしまったようだ。

「ねえ、祐一くん……」

 喜んでいる様子の真琴を眺めつつ、あゆが小声で話しかけてくる。

「ピロシキって、確かロシアの揚げ饅頭の事だよね?」

「ああ」

 いうなれば肉まんとピロシキは親戚のようなものなのだが。

「真琴には言うなよ? これが知られると、また機嫌を損ねるだろうからな」

「うぐぅ……」

 

 水瀬家、夕刻

 

「ただいま〜」

 リビングであゆと真琴がぴろと戯れていると、部活を終えた名雪が帰ってきた。

「クシュン!」

 しかし、名雪は帰ってくるなり、いきなりくしゃみをしてしまう。

「おいおい、どうした? 名雪」

 出迎えに行くついでに、祐一は名雪の様子を見に行く。流石にアレルギーと言う体質のせいか、反応が早い。

「な……なんでもな……クシュン!」

 よく見ると名雪の鼻の頭はすでに赤くなっており、両目にはうっすらと涙を浮かべている。まだ猫に会ってもいないというのにこの反応は、感度がよすぎるのではないだろうか。

 一応、こうして祐一が名雪の相手をしている間に真琴はぴろを部屋に連れて行っているのだが、まだしばらくはこうして引き止めておかないといけないようだ。

「大丈夫か? お前」

 祐一が名雪の額に手を当ててみると、僅かにだが発熱もしているらしい。誰よりも猫が好きだというのに、触れ合う事も近づく事も出来ないとは、よくよく考えてみれば名雪も不憫な娘だ。

「うん、大丈夫」

 祐一が触れあえそうなくらい近くにいるせいか、名雪の頬が少しだけ赤くなっている。どうも発熱しているのは、猫アレルギーのせいだけではないらしい。

「名雪さーん、お帰りなさい」

 そうこうしている間に、あゆがパタパタと足音を鳴らして二階から下りてくる。どうやら猫の毛がついた衣服を着替えてきたようで、先程とは着ている服が違う。おそらくは真琴も着替えている最中なのだろう。

「あれ? どうしたの名雪さん。顔、赤いよ?」

「な……なんでもないよ」

 額に当てられた祐一の手を振り払うようにして、名雪は首をふるふると振った。

「わたし、着替えてくるね」

 名雪はまたくしゃみをしながらも、足取り軽く階段を上っていく。その後ろ姿はなんとなくであるが、みんなに心配をかけないように無理をしているように思われた。

「……やっぱり、お家でネコさん飼うのは無理なのかな……」

 名雪が部屋に入るときの悲痛な後ろ姿を見たせいか、少し涙目になったあゆが呟く。

「まあ、当面はぴろを真琴の部屋から出さないようにしないとな」

 猫アレルギーは、猫の体毛やフケなどに反応して引き起こされるらしい。それを防ぐには小まめに掃除をして、猫をお風呂に入れるしかないのだ。面倒だが、これからは祐一も名雪のために、服にブラシをかけて常に清潔であるように保つ必要があった。

 名雪の猫アレルギーにも困ったものだな、と思う一方で、祐一はそんな名雪の姿に尊敬に近い気持ちを感じていた。もしも、祐一が名雪と同じ立場であったとしたなら、好きなのに触れあう事が出来ない猫に対して、憎しみの感情すら抱いていたかもしれない。しかし、名雪は自分がそうした体質であるにもかかわらず、自分が好きなものに対してまっすぐな気持ちをぶつけるのだ。

 そう言う名雪の姿を見るたび、祐一は自分にそんな真似は出来ないと思ってしまう。その時、祐一はなぜだか名雪が遠い存在であるように感じてしまうのだった。

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