第二十二話 少女の檻

 

 夜の学校

 

 時計を見ると午後八時になっていた。その時間になると祐一は、夜の校舎でなにやら物騒な得物を振り回して戦っていた二人の人物を思い出した。

(一体、なにやってたんだ? あの二人は……)

 考えてみれば、今日祐一は舞に会っていない。学年が違うのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、一度気になってしまうとどうにも落ち着かなくなってしまう。そこで祐一は身支度を整えると、夜の校舎に行ってみる事にした。

 一階のリビングにはあゆ、真琴、秋子が集い、みんなでなにやらホームドラマを見ている。そこで祐一は、すぐそばにいたあゆに声をかけた。

「ちょっと出かけてくるから」

「え? 祐一くん、どこいくの?」

 キョトンとした表情であゆは聞き返してくるが、当然と言えば当然の疑問だった。しかし、祐一的に本当の事を言うわけにはいかない。

「コンビニだ」

 それだけを言って、一方的に祐一は家を後にした。

 夜の冷え込みに祐一はフードを頭からすっぽりかぶって防御し、夜の通学路を歩く。多分、彼女達は今日も戦っている。なぜだかそんな気がした。

(もしかして、あの二人に感化されてないか? 俺……)

 どうにも自分らしくないその行動原理にため息をつきつつ、祐一は途中でコンビニに寄って夜食を用意し、夜の校舎へと急ぐ。無人の校舎は相変わらず耳が痛くなりそうなくらいの静けさに包まれ、海の底のような闇が支配していた。

 開いていた職員用の通用口から中に入り、昇降口で自分の上履きに履き替えてから校舎の奥へと進む。そして、たどり着いた新校舎の一階。そこに舞が佇んでいた。

 制服姿に一振りの長剣。昨夜と同じ格好だ。そこにもう一人、片刃の日本刀を持った沢渡先生が現れれば、すぐにでも物語のクライマックスシーンに突入しそうであるが、そこに現れたのがコンビニの袋を手にした祐一では場違いもいいところだった。

「あれ? どうしたのよ、祐君」

 厳しい表情で周囲を警戒していた舞であったが、祐一の姿を見つけると途端に柔和な笑みを浮かべた。

「差し入れ。コンビニのおにぎりで悪いけど」

「ありがとう〜祐君。丁度お腹がすいてたとこだったのよ〜」

 祐一は袋からいくつかおにぎりを取り、舞に差し出す。定番のツナにちょっと変わったところで牛カルビ。ついでに埼玉県産豚の生姜焼き。

「あたしは、これね」

 舞が選んだのはツナだった。しかし、手に取ったところまではいいが、なぜかそれ以上舞は動かない。

「どうした?」

「剥いて……」

 どうやら、剣から手を離せないらしい。

「俺にはよくわからんが、そう言うのって腰に下げる鞘とかあるんじゃないのか?」

 おにぎりのビニールを剥きながら話しかけてみるが、その最中でも舞は周囲の警戒を怠っていないようだ。

「買った時についてるもんじゃ……って、売ってるのか? そういうの」

「さあ……」

 昨夜の立ち回りで、ぶつかり合った刀身が激しく火花を散らしていたところから、これが偽物でない事はわかる。しかし、それならそれでどうやって入手したのかが不明だ。

「あたしはうちにあったのを持ってきただけだから」

 その時からなかったのだとしたら、はじめからなかったのだろう。そうこうしているうちに祐一は、おにぎりのビニールを剥き終わった。

「ほら、舞」

「あ〜ん」

 綺麗に海苔が巻かれたおにぎりを差し出すと、意外にも舞は大きく口をあけてきた。三角形になった先端部分を舞の口にさしこむと、乾いた海苔の音を響かせて舞が咀嚼する。なんとなくだが、先程までえらく幻想的だった世界が、一気に所帯じみたものになってしまう。

 当の本人は特に気にした様子もなく、祐一が差し出したおにぎりを無心に食べている。時折祐一の指に触れる舞の唇の感触が、やけに生々しいものに感じられてきた。

 その時、祐一の耳になにやら怪しい物音が聴こえて来た。それは昨日までの祐一であったなら、聞き逃してしまいそうなくらい小さな音だった。

「舞……?」

 しかし、舞はなんの反応も見せずに、祐一が差し出したままのおにぎりを無心に食べている。その舞の姿に祐一は、思わずこけそうになってしまった。昨夜の敏感な反応からすると、食べるのに夢中で聴こえていないのではないかとも思ってしまう。

 そして、祐一の視界の隅をなにやら白くうごめくものがかすめる。

「おい、舞……?」

 流石にこれに気がつかないはずがない。昨夜のような不意打ちを食らったら、無事では済まないだろう。それなのに本来戦うべきはずの舞は、なぜか祐一の手にあるおにぎりを食べるのに夢中になっているのだった。

(なんなんだ? 一体……)

 一人で逃げるわけにもいかないし、とりあえず祐一は舞が気づくまで待つ事にした。その間にも背後に感じる気配が近づいてくるのがわかる。振り返るわけにもいかず、祐一はただおにぎりを食べ続けている舞を見つめているしかなかった。

 無心におにぎりを食べ続ける舞。そんな舞の姿が少し可愛いかな、と祐一が思った時、謎の気配がすぐ背後にまで迫っていた。

「うぉっ」

 反射的に振り向いた祐一の視界が、白一色に埋め尽くされる。金属同士が激しくぶつかり合う音が響いた時、祐一は床に転がってしまっていたが、顔をあげると視界は元に戻っていた。

 白い布越しに、舞はなにかと鍔迫り合いをしている。力が拮抗しているせいか、お互いに一歩も動けないようだ。よく見ると、その布の下から見慣れた緑色のジャージが出ている。

「ふふ、腕をあげたじゃないの。川澄さん」

「先生こそ。こんな小細工を使うなんて、落ちぶれたものですね」

 ぺらっと布がめくれ、その向こうから見慣れた顔が出てくる。その正体はなんと、女子陸上部の顧問を務め、真琴達の担任となる体育教師、沢渡真琴だった。

「……なにやってるんですか? 先生……」

「なにって……。祐坊と川澄さんがいい雰囲気だったから、ちょっと邪魔したかっただけよ」

 それは当然の疑問だろう。だが、沢渡は舞と鍔迫り合いをしながら、しれっとした様子で答える。

「いいわねぇ……祐坊の手から直接食べさせてもらうなんて」

 その時の沢渡の視線に、祐一は背筋が凍りつくように感じた。

「あ……え〜と……。先生も食べます?」

 残った二つのおにぎりのうち、沢渡が選んだのは意外にも牛カルビだった。

「剥いて」

「はいはい」

 舞の時と同じように、祐一は手際よくおにぎりのビニールを剥いていく。

「食べさせて」

 鍔迫り合いをしている最中だというのに、大きく開けられた沢渡の口におにぎりを差し込むと、嬉しそうに咀嚼しはじめた。

「祐君……」

 ふと気がつくと、反対側で舞も大きく口を開けている。そこで祐一は反対側の手に持った、残りの一かけらを舞の口に押し込んでやる。そうしてお互いにおにぎりを咀嚼する音だけが夜の廊下に響く。舞の持つ西洋剣と沢渡の持つ日本刀が激しい鍔迫り合いをしている最中だというのに、妙に緊張感のない雰囲気になってしまっていた。

 結局、この日はおにぎりを食べ終えた二人が、鍔迫り合いをしながら全く動かなくなってしまったため、祐一は退散する事にした。

 

 水瀬家 夜

 

「しまった、聞きそびれた……」

 すでに昇降口のあたりまで来てしまい、今更引き返すのもなにかと思ったので、このまま帰る事にした祐一であったが、それではなんのためにここに来たのかがわからなかった。

「うー……寒いっ」

 家から学校まで往復するだけでも四〜五十分はかかるので、一日に二度も往復するのはそれだけでも相当な時間の浪費なのではないかと思われる。とはいえ、祐一もそれぐらいの時間を惜しむほど忙しい身分でもないので構わないのであるが。

 玄関に入ったところで、祐一はふと真琴の事を思い出した。引っ込み思案で人見知りの激しい妹。このあたりは子供のころから一つのところに長くいなかった事にも由来しているのだが、それだけに祐一はなんとかしてやりたいと思っていた。

「おかえりなさい、祐一さん」

 部屋の前でドアを開けたまま突っ立っていた祐一に、気配も感じさせずに背後から秋子が声をかけてきた。

「シーツ洗っておきましたから。はい」

 そう言って秋子は真っ白なシーツを差し出してくる。祐一は秋子の手からシーツだけいただくと、自室に入るのだった。

 シーツを取り替えたばかりのベッドに倒れこむと同時に、祐一は深く息をつく。今日は結構いろいろあったのでこのまま眠ってしまいたいところだったが、まだ風呂に入っていない事を思い出した。

 時刻はすでに夜の十時を回っている。そこで祐一は着替えを持って部屋から出た。

 浴室の前まで来るとまだ誰かが入っているようで、ガラス戸が閉められたままだった。仕方なく戻ろうとした祐一であるが、リビングのほうからはあゆと秋子の話し声が聞こえる。この時間であれば名雪はすでに寝ているはずであるから、消去法で風呂に入っているのは真琴という事になる。

 この際だから一緒に入ってやろうかとも思う祐一であったが、流石にまた物を投げられたりするのもあれなので、ここは黙って引き返す事にした。

 

 風呂に入ると、日付も変わろうかという時刻になる。そろそろ寝ようかと祐一が思った時だった。

「祐一ーっ!」

 唐突にドアが開くと、真琴が駆け込んでくる。

「お前なぁ、部屋に入る時はノックしろよ……」

「祐一だってノックしないくせに……」

「そりゃ、お前相手だからだ。お前に見られて困るなにがついてる?」

「あぅーっ! 真琴だって女の子なんだからついてるっ! 真琴が着替えてる最中に、いきなり入ってくるのはどこの誰よっ!」

「お前だって、俺が着替えてるところにいきなり入ってくるだろうがっ!」

「祐一に見られて困るなにがついてるってのよっ!」

「そりゃあ……」

「言わなくっていいわよぅっ!」

 もう結構いい時間だというのに、なぜだか二人して訳のわからない言い合いになってしまう。仲がいいというかなんというか。

「……ところで真琴、なにか俺に用事があったんじゃないのか?」

「あぅー……そうよぅ。大変なのよぅ」

 激しく二人で言い争った後、ぜいぜいと肩で息をしながらやっと本題に入る真琴。

「ぴろが、お腹壊して大変なのよぅ」

「え……?」

 真琴の部屋に入ると、すぐに異臭が鼻を突く。トイレも間に合わないのか、よろよろと歩いてきたぴろが、祐一の目の前で失禁してしまう。よく見ると真琴の部屋のあちこちに派手にやらかしていた。

「どうしよう……祐一ぃ……」

 涙目のまま、真琴は祐一のパジャマの袖をつまむ。そんなとき祐一は、ぴろがこうなってしまった原因らしきものを発見した。

「原因はこれだな」

 祐一が指差したのは、皿に入ったミルクだった。

「真琴、お前ぴろにミルクを飲ませたな?」

「え? だって、ネコにミルクって定番でしょ?」

「そう思われがちだが、実際にはネコにミルクを飲ませるとお腹を壊すんだ。可愛い可愛いってやってるだけじゃ、こいつにも迷惑ってもんだ」

 これはネコに限らず、人間でも同様の事例が起きる。特にアジア系の人間はミルクを飲みなれていないため、ミルクに含まれる乳糖を分解するための酵素が腸内に存在しないのである。そのため、腸内で乳糖を分解できずに腹を下してしまうのだ。

 そして、ネコにもこの乳糖を分解するための酵素が腸内に存在しないため、ミルクを飲むと腹を下してしまうのである。

「あうぅ〜……」

 途端に涙目になってしまう真琴の頭に手を置き、少しなだめるような感じで祐一は頭を撫でてやる。

「とりあえず真琴はぴろのケツを拭いて、タオルで包んでやれ。俺は部屋の片づけのほうをやっておくから」

「うん……」

 その後祐一は真琴の部屋を掃除して、少なくとも見た目は何事もなかったようにする事は出来たが、匂いだけはどうする事も出来なかった。

「ぴろの具合はどうだ?」

「うん、落ち着いたみたい……」

 真琴はタオルを巻いて、箱に入れたぴろの様子をじっと見ている。呼吸も安定しているし、先程の様子からしてもだいぶ落ち着いたようだ。

「じゃあ、俺は寝るからな。おやすみ」

「うん、おやすみ……」

 もしかしたら真琴は、今夜は寝ずの番をするのかもしれないな。とか思いつつ、祐一は退散する事にした。

 

 朝の風景

 

 昨夜いろいろあったせいか、祐一はいつもの目覚ましよりも少しだけ早く目が覚めてしまったので、しばらくの間天井を眺めながら朝のまどろみを楽しんでいた。

「……そろそろ起きるか」

 小さく欠伸をして祐一は、鳴る事のなかった目覚ましをオフにしてベッドから下りる。勢いよくカーテンを開けると、窓の外の風景は今日も相変わらず寒そうだった。

 朝の冷たい床を歩きながら、祐一は名雪の部屋の前まで行く。そう言えば昨夜は夕食を食べた後、名雪の姿を見ていないな、と思いつつ、激しくドアをノックする。

「名雪ーっ! 起きろーっ!」

 ドアを殴打しつつ、名雪の名前を呼ぶ。こうでもしないと名雪が起きないというのは、先刻承知の上だ。

「うにゅ……」

 しばらくすると、まだ目が線になったままの名雪がふらふらと出てくる。おそらくは鳴る事のなかった目覚ましを、全部オフにしていたのだろう。部屋から出てくる前、やけにバタバタしていた。

「起きたか?」

 歩いてドアを開けているのだから、普通なら起きているはずなのだが、名雪は普通ではない。特に朝のこうした時間は、寝ながら歩いていても不思議ではないからだ。

「……にんじん」

「は?」

「わたし、にんじん食べれるよ……」

「……」

「……にんじん、好きだもん」

「お前……寝てるだろ」

「らっきょも、好きだもん……」

 間違いなく、名雪は寝ているようだ。より正確には、寝ぼけているという方が正しいようであるが。

「……くー」

 思わず祐一は、名雪の頭を叩いていた。

「うにゅ……あ、あれ?」

「おはよう、名雪」

「あれ? あれ?」

 状況が飲み込めないのか、名雪はきょろきょろとあたりを見回している。

「今日もさわやかな朝だな」

「なんだか頭が痛いんだけど……」

「二日酔いだな……」

「え? わたし、お酒なんか飲んでないよ……?」

「なに言ってるんだ。お前昨夜、一升瓶ごとがぶがぶ飲んでいただろう」

「えっ?」

「せっかく俺がコップについでやってるのに、こんなもんでちびちびやってられるかー、って言ってたじゃないか」

「ええっ? 嘘だよ」

「しかも、酔った勢いで裸踊りまで披露してくれたじゃないか」

「わっ、そんなことしてないよっ」

「俺もびっくりだ」

「そんなもっともらしく、冷静に言わないでよ〜」

「じゃあな、名雪。俺は先に行ってるからな」

「何事もなかったように、歩いて行かないでよ〜」

 手早く身支度を整えてキッチンに行くと、すでにいつものメンバーがそろっていた。あれからほとんど寝ていなのだろう。真琴はやけにやつれているようにも見えたが。

「おはよう、名雪さん。今日は早いんだね」

「おはよう、あゆちゃん。うん、昨日は早く寝たからね」

 最後に現れた名雪が、あゆとにこやかに挨拶を交わす。

 ちなみに、昨夜名雪が寝たのは七時を少し過ぎたあたりらしい。つまりは祐一が夜の学校に出かけるころにはすでに寝ていたようだ。どうやら名雪の睡眠時間は十二時間がベストのようであり、昨日のあのやり取りからすると少しは改善しようと努力しているようである。

「祐一、さっきの嘘だよね……?」

 すっかり目が覚めたのか、祐一の脇を通りながら名雪が小声で話しかけてくる。

「もう二日酔いは大丈夫なのか?」

「うぐぅ、二日酔い?」

 怪訝そうな顔で、あゆが訊き返してきた。

「わっわっ、なんでもないよあゆちゃん」

「名雪、コーヒーと紅茶、どっちがいい?」

 そんな中でも、秋子はマイペースだった。もしかすると、この祐一の冗談すらすべてお見通しなのかもしれない。あの穏やかな笑顔を見ていると、なぜだか祐一はそんな気がした。

「え? えっと、コーヒー」

 名雪が席に着くと、魔法のようによく焼けたトーストとコーヒーが配膳される。両親共に朝早くから出掛けてしまう祐一からすると、夢のような光景だ。

「祐一、もう変な事言わないでね」

「俺はいつだって真面目だ」

「そうだね。祐一はいつも、真面目に変な事言うもんね」

 実は名雪の方でも、祐一の冗談はお見通しのようだった。このあたりはやはり、母娘だと言える。

 この日は名雪を早く起こす事に成功したので、四人で仲良く歩いて学校に向かうのだった。

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