第二十三話 木々の声と日々のざわめき
通学路
「名雪、時間は?」
「まだ八時をちょっと過ぎたところだよ」
門を出たばかりでかけられた祐一の声に、左手にまいた腕時計で時間を確認しながら答える名雪。
「そうか。どうやら今日は走らなくても大丈夫なようだな」
たまにはこんな日がないと、流石に体が持たない。
「今日はゆっくりとまわりの風景を楽しみながら歩こうね」
先に歩きはじめた祐一の横に並ぶように歩きながら、名雪がにこやかに話しかけてきた。
「通学路の風景なんか見飽きてるだろ?」
二人のすぐ目の前で、とりとめのない話に花を咲かせている様子のあゆと真琴を眺めつつ、そっけない様子で答える祐一。いつもは慌ただしい風景の中に身を置いているせいか、なぜか名雪の存在を身近に感じてしまう。
「わたしじゃないよ。祐一だよ」
「それなら、俺だって見飽きてるぞ」
「嘘だよ」
「本当だ」
いつもと変わらぬ風景の中、祐一と名雪がいて、あゆと真琴がいる。まぎれもない日常の風景だ。
「……もしかして、昔の事思い出したの?」
「いや、全然」
不意に名雪が心配するような口調で話しかけてきたが、祐一の態度はそっけない。
「……そう」
「なんで名雪ががっかりしてるんだ?」
少し落胆したような名雪の態度には、祐一としても少し気になるものがある。
「わたし、がっかりなんてしてないよ」
「そうか?」
名雪はそう言うものの、あゆあたりが見たら本気で心配するような感じだ。
「これは、祐一自身の問題なんだからね」
意味ありげなセリフを残して、名雪はすたすたと歩いていく。
「別に、全部忘れているわけじゃないぞ……」
その背を追いながら、祐一はぽつりと呟く。
この思い出の街に戻ってきてから一週間が過ぎ去り、その間に祐一は色々と昔の事を思い出していた。
しかし、祐一はまだ、あの雪の日の事が思い出せずにいる。
休み時間
「それじゃあ、今日はここまで」
授業終了のチャイムが鳴ると同時に、祐一は自分の席で大きく伸びをした。授業の進み具合が前にいた学校とは違うので最初は難儀していたが、ここ最近は寝ても大丈夫な先生とそうでない先生の区別がつくようになったので、だいぶ楽になっていた。
祐一が寝ていても名雪がしっかりとノートを取っていてくれるし、いざとなれば香里を頼りにすればいいところもプラスに働いていた。
「まずは、一つか……」
机の上に乗っていた教科書を閉じ、授業終了の余韻に浸る祐一。
「祐一、祐一ーっ」
するとそこへ、名雪が慌てたように駆け寄ってきた。と言っても、席が隣同士なのだからその距離は一メートルと離れていないのだが。
「どうしたんだ? 一体」
「今日、わたしが日直さんなんだよ」
「だから?」
「手伝って、お願い」
「どうして俺がお前の日直につき合わないといけないんだ」
名雪のウルンとした瞳に見つめられると、どうしても心が揺らいでしまうのであるが、それでも祐一は努めてそっけない様子を貫く。
「もう一人の日直さんが、インフルエンザでおやすみなんだよ……」
そう言われると、確かに今日は空席が目立つ。学級閉鎖まであともう少しというところだ。
「それは、運が悪かったと思ってあきらめるんだな」
「お礼はするから、ね」
おそらくは無自覚なのだろう。すっと身をよせて来たときに、名雪の髪からほのかにいい香りが漂ってくる。おまけに両手を顔の前で合わせるポーズでお願いしてくるとなると、陥落まであともう少しというところだ。
「そうだな……条件次第では手伝ってもいいぞ」
「本当?」
その途端、名雪の表情が明るく彩られる。
「昼飯一回おごりな」
「うーん、ちょっとわたしの方が条件悪くない?」
「いやならいいんだぞ」
なぜかは知らないが、名雪の困ったような表情を見ていると、もっと困らせたくなってしまう祐一であった。
「祐一、やっぱり冷たくなったね」
「俺は昔のままだって」
「そうかな?」
名雪の祐一を見る目は真剣だ。
「大体、昔の自分なんて覚えてないぞ」
「普通は覚えてるよ。幼稚園の事とか、なにも覚えてない?」
「そんなの……」
途中まで言いかけて、祐一は口をつぐむ。おぼろげながらも、幼稚園時代の事を思い出したからだ。そう言うずっと昔の事は思い出せるのに、どうしてかあの雪の日の出来事が思い出せない。
「わかったよ」
「……え?」
ふと気がつくと、さわやかな笑顔で名雪が見つめていた。それは、母親の秋子の笑顔を想起させる慈母の微笑みだった。
「お昼ごはん一回で手をうつよ」
「あ? ああ……」
「その代わり、しっかり手伝ってもらうよ」
確かに笑顔なのだが、不思議と反論を許さないような迫力がある。
「わかった、約束する……」
「ありがとう、祐一」
その時祐一は、にこやかに頷くいとこの少女に昔の面影を見た。その姿はおぼろげで、やはりはっきりと思い出せはしなかったが。
「それじゃあ、今日のお昼ご飯はわたしがおごってあげるね」
「いや、今日はちょっと用事があるから……」
「そう? じゃあ、また今度だね。はい」
笑顔のまま、黒板消しを差し出す名雪。
「これを教室の入り口にセットすればいいんだな?」
「黒板を消すんだよ」
祐一のボケを、素で打ち消すのは名雪の特技かもしれない。
「それじゃ面白くないな」
「それが日直さんの仕事だもん。面白くないよ」
結局名雪の笑顔に勝つ事が出来ず、しぶしぶという感じで黒板を消しに行く祐一。
「平和ね……」
ドナドナの旋律が良く似合う、哀愁漂う祐一の後ろ姿を眺めつつ、二人の会話に耳を傾けていた香里がぽつりと呟いた。
四時間目 自習時間
静かな授業時間だった。先生の話し声は当然の事ながら、黒板の内容をノートに写す筆記具の音すら聞こえない。クラス全員が一丸となり、全員で授業に集中している。と、いうわけではない。
実際には、ほとんどの生徒が机に突っ伏して寝ていた。それもそのはず。この時間は担当の教師がインフルエンザでお休みのためか、黒板に大きな字で自習と書かれているからだ。
隣の席では名雪が課題のプリントと格闘しており、時折考え事をしつつもなにかを思いついたように辞書をぱらぱらとめくる。意外な事に、結構真面目に取り組んでいるようだ。
「ぐー」
後ろの席では北川が、盛大に寝息を立てている。彼の場合はプリントを終わらせたわけではなく、はじめから放棄しているだけだが。
祐一にとってもう一つ意外だったのが、右斜め後ろの席に座る香里だった。普段真面目そうに見える彼女が課題のプリントに手もつけず、ぼんやりとした感じで頬杖をつき、じっと寝ている北川を見続けている。実際には北川を見ているのではなく、おそらくはその先にある窓の外の風景を見ているのだろう。
香里の見ている窓の先にあるもの。そこで祐一が栞と出会ってから、まだ五日ほどしかたっていない。それなのに、なぜか祐一は栞の事が気になっているのだった。
「どうしたの? 祐君。早く課題のプリント終わらせないと」
突然祐一を現実に引き戻したのは、自習時間の監督に来ている体育教師、沢渡真琴の一言だった。この日欠席となっている祐一のすぐ前の席に座り、後ろを向いて祐一の机に頬杖を突くような感じで、じっと祐一の顔を見つめている。
すでにトレードマークとなっている感のある緑色のジャージ姿で、普段はあまり化粧っ気のない彼女であるが、なぜかこの日はうっすらと化粧しているらしく、ほのかにいい香りが漂ってくる。おまけにジャージの胸元が大きく開けられ、タンクトップ越しに白い谷間が僅かに覗いて見えるせいか、とにかく目のやり場に困ってしまう。
それでも、祐一が課題のプリントに集中しようとした時、沢渡はいたずらっ子のように微笑んだ。
「……昨夜は、楽しかったわね。祐坊」
ビキン
何気ない一言だった。だが、その一言は教室中の空気を凍りつかせるのに十分な威力を持っていた。
(なんだ? あいつ……水瀬さんや美坂さんだけじゃなく、沢渡先生にまで?)
(女教師に男子高校生? シチュとしては有りだが、体育教師というのは初めてな気が……)
(くそっ! うらやましすぎるぞ相沢……)
途端に教室のあちこちからさざ波のようにざわめきが巻き起こる。自習時間であるのであまり大騒ぎになっていないが、小声でひそひそと話されている分、なにを言われているのかわからないという恐怖があった。
「祐坊ったら……あんな黒くて大きなモノを先生の口に押しこもうとするんだもの……」
バキン
再び、教室内で空気が凍りつく。
男子生徒からは羨望の混じった視線。女子生徒からはあからさまな蔑みのこもった視線。その双方の集中砲火を浴び、祐一の心境はまさに針のむしろだった。
それからの時間が、やけに長く感じられる祐一。その祐一の様子を、沢渡はなんとも楽しそうに見つめているのだった。
お昼休み
「え〜い、くそっ!」
沢渡の指示で課題のプリントを集めて職員室に運んで行った祐一は、完全にお昼休みの激戦に乗り遅れていた。今からだと購買も学食も大盛況で、立錐の余地もないくらい混みあっている事だろう。
苦労して人混みをかき分け、もみくちゃにされた挙句に手に入れられるのはなにも変わらないのだから、むしろピークを過ぎた辺りに行くのが正しいようにも思われた。
佐祐理のところにお邪魔するというのも考えたが、流石に今からだと迷惑なのではないかとも思う。そこで祐一はわざと時間をかけて、普段使わないルートで購買を目指す事にした。
「お?」
購買を目指す途中で、祐一は見覚えのある顔とすれ違った。校内に双子とかよく似た感じの生徒がいなければ、昨日の放課後に商店街で真琴に引き合わせた女生徒に間違いがない。
少し気になるのは、昨日も一人きりで今日も一人きりという事だ。もしかすると、彼女も真琴と同じように友達を作れない性格なのかもしれない。だとするなら、似たような境遇の者同士、真琴と仲良くできるのではないかと思うのだった。
少なくとも昨日の素振りでは真琴に悪い印象を持っているような感じではなかったし、この子も友達が欲しいところだったのかもしれなかったからだ。
広い校舎にたくさんの生徒がいる中で、こうして出会えたのもなにかの幸運だろう。そう思って祐一はその女生徒に声をかけてみる事にした。
「よぅ」
「はい?」
その子が立ち止まって振り返るが、その表情には困惑の色が浮かんでいる。なにしろほとんど面識もないような上級生から声をかけられたのだ。警戒しない方がおかしい。
「あ……昨日の……」
しかし彼女は、祐一の顔を見ると安心したように警戒を解いた。
「どうかされましたか?」
「ああ。ちょっと話をする時間あるかな、と思って」
「今……ですか?」
「ああ。出来れば今がいいな。昼飯は?」
「いただきました」
「早いな」
「小食ですから」
小食と食べるのが早いのとどういう関係があるのか祐一にはわからなかったが、とりあえずこれで食事をしながらゆっくりと、という祐一の計画はご破算になった。
「そうだな、それじゃ……学食で話さないか? 俺はこれから昼飯だし」
「人の多いところはちょっと……」
「そうか……じゃあ」
「中庭でどうですか? そこでならお昼ごはんをゆっくりいただいてもいいですよ?」
「そこは、寒くないか?」
ここ最近は栞と一緒にいるせいか、その寒さが骨身にしみている祐一。
「私は構いませんが」
「そうか……それじゃ、俺も構わない」
これも試練だ。そう祐一は覚悟を決めた。改めて話をして見ると、言葉の端々に強く訴えかけてくるような印象を与える子だった。もっとじっくり話してみれば、他にもいいところが色々と発見できそうな好感の持てる子だ。
それなのに、なぜ彼女が一人きりでいるのか。それを祐一は知りたいと思った。
「じゃあ、急いでパンかなにか買ってくるよ。ゆっくり行っててくれていいから」
「はい。そんなに急がなくてもいいですよ」
背中でその返事を聞きながら、祐一はいい手ごたえを感じていた。この子ならきっと真琴のいい友達になってくれる。そういう良い予感がしていた。
お昼休み 踊り場
お昼休みになると、あゆと真琴は屋上前の踊り場へと向かう。一年生の教室がある四階からはすぐだし、学食や購買に行く事を考えたら佐祐理達と一緒にお弁当を食べるほうがかなり経済的であると言えた。
それに、こうする事で祐一や名雪には聞かせられない秘密の話をする事も出来る。そんなわけで、ここ最近は佐祐理達と一緒にお弁当を食べるのがあゆと真琴の日課となっていた。
「あ……あゆ〜……」
踊り場に到着した途端、真琴はあゆの背中に隠れるようにして情けない声を出す。人当たりのいい笑顔を振りまいている佐祐理はいつもの様子だったが、なぜかこの日の舞は機嫌が悪そうに、仏頂面で淡々とお弁当を食べている。
「あはは〜、いらっしゃいませ〜」
いつもの様子で佐祐理は出迎えてくれるのだが、舞は全く目もくれない。
「うぐぅ……舞さんどうしたのかな……?」
「佐祐理にもさっぱりです。今日の舞は、朝からこんな感じでしたよ?」
そこで三人はじっと顔を見合わせる。
「もしかして……アレかな……?」
「いえ。もしかするとナニのほうかもしれません……」
「あう〜、その方が大変なのよぅ」
「違うわよっ!」
口々に好き勝手な事を言いはじめる三人に向かい、顔を真っ赤にした舞が叫ぶ。
「あはは〜、冗談ですよ舞」
なんとなくだが、この佐祐理の笑顔で場が持っているような感じだった。
「それはともかくとして、あゆさんに真琴さん。これ、佐祐理の自信作なんですよ〜」
「うわ〜、美味しそう」
佐祐理の選んでくれたおかずを前に、真琴は瞳をキラキラとさせる。なにしろ佐祐理は毎日たくさんのお弁当を作ってきてくれるのだから、不味いなどとは口が裂けても言えない。それに、祐一の『合格』が出たお弁当は、真琴の大好物でもあるのだ。
「ところで舞さん。昨夜、なにかあったの?」
佐祐理が真琴の世話を焼くのに夢中になっている間に、こそりと舞に訊いてみるあゆ。
昨夜祐一がコンビニに行くと言って出掛けたのは、夜の学校に佇む舞の所に行くための口実だろう。だとするなら、昨夜舞と祐一の間になにかがあったのだとあゆは思った。
「……どうもこうもないわよ」
佐祐理には聞かせられない話であるため、舞はあゆにこそりと囁き返しつつ紙コップに入った香茶を一息で飲み、タン、と小気味よい音をたてて床に置くと、素早く佐祐理が中身を継ぎ足していく。実に息のあったコンビネーションだ。
「せっかく祐君と二人きりでいい雰囲気になれたのに、沢渡先生が邪魔するのよ」
「沢渡先生か……」
そこであゆは、ほふぅ〜、とため息をついた。実は彼女こそが、この世界における歪みの象徴ともいえるものだからだ。
沢渡真琴とは、本来は真琴シナリオの回想シーンに登場する祐一のあこがれの女性の名前である。それを祐一が拾った狐に話した結果、人間に変じた狐がその名前を名乗ったのだ。
ところが、幾度かのロードを経るうちに沢渡真琴という人格そのものが独り歩きをはじめ、ついには一個の存在として定着するに至ったのである。そして、真琴は祐一の妹としての居場所を確保し、沢渡真琴は祐一の幼馴染としての地位を確立したのであった。
この世界においてほぼ完全にイレギュラーな存在となる沢渡真琴は、舞にとっては断たねばならない魔物という事になる。しかし、舞と沢渡の関係はかなり複雑であった。なぜなら、舞の剣術の師匠となるのが沢渡なのだ。
歪みを断つという事は、必然的に師匠に剣を向けるという事である。結果として舞の戦いは、夜の学校で師弟対決という安物のドラマみたいになってしまったのであった。
実のところ舞は、これも師匠を乗り越えるための試練だと考えていた。そこに祐一が加わる事によって、絶対に負ける事が出来ない女の意地をかけた戦いになってしまったのである。
「……とにかく、もうボクからはなにもいえる事はないけど。くれぐれも無茶だけはしないでね?」
「……わかってるわよ」
あゆに釘を刺されて、ますます不機嫌になった様子の舞であったが、今はとにかく体力をつけるために佐祐理の弁当を平らげていくのだった。
来るべき、決戦の日に向けて。
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