第二十四話 pure snows
中庭の少女1
「こちらですよ」
購買でパンを買い、中庭に辿り着いた祐一は、先程の少女が手を振って呼びかけてくれているのを見た。
「寒いけど、本当にここでいいのか?」
少女に近づいて、祐一は改めて聞いてみる。中庭は相変わらず寒風が吹きすさび、全てがモノトーンに染まった寂しい風景が広がっていた。
その問いかけに、少女は小さく頷く。そのためらいのない様子に、祐一もこれ以上気を使わない事にした。
あたりを見回すと、まだ栞は来ていないようだ。普段ならこの時間には来ているので心配であったが、今こうして別の女の子と会っている時には好都合でもある。
「じゃ、座ろうか」
いつもは栞と並んで腰かけている石段の縁に、今は別の女の子と並んで座っている。今の祐一の姿をなにも知らない人間が見たら、手当たり次第に女の子に声をかけるナンパ野郎に思われる事だろう。
「で、とりあえず名前を教えてくれると呼びやすいんだけど」
「はい。天野です。天野美汐」
「天野美汐ね……。みっしーと呼んでいいか?」
「ダメです」
「じゃあ、親しみを込めてみしおん」
「いやです」
「みしおっち」
「やめてください」
流石にこれ以上続けると怒られそうだったので、仕方なく祐一は名字で呼ぶ事にした。リボンの色から下級生である事がわかるので、そうするのが一番だ。
「俺は、相沢祐一。俺の事は『相沢』でも『祐一』でも『祐ちゃん』でも好きに呼んでくれ」
「はい。それでは相沢さんで」
初対面の先輩を名前で呼ぶわけにもいかず、祐ちゃんは抵抗があるのだろう。その意味でこの美汐という少女は、かなり常識的な存在であると思われた。
お互いに自己紹介も終わったので、祐一は腰の隣にウーロン茶の缶を置き、買ってきた手巻き寿司の封を解く。マグロにネギトロ、ツナサラダ。イクラに納豆、どれから食べようか悩むのと同時に、祐一はどう話を切り出せばいいか考えていた。
いきなり本題に入るのは唐突すぎるだろうし。
「ところでさ、天野は友達とかいないのか?」
言ってしまってから祐一は、失言だったかな、と少し後悔した。祐一を見る美汐の目が、驚きで大きく見開かれているのがわかる。真琴の話を出すまでの伏線として思いついただけだったが、いきなりそれを言葉にしてしまっただから、思慮に欠けていると言わざるを得ない。
「はい。そうかもしれませんね」
しかし、祐一が訂正するよりも早く、落ち着きを取り戻した美汐はしれっと答えていた。
「え……? そうなのか?」
美汐のこの態度には、逆に祐一のほうがビックリしてしまう。
「もしかして、気難しく見られているとか? 話してみると、こんなに穏やかに話せるのに」
苦しいフォローを入れつつ、祐一は話を続ける事にした。
「私が悪いのですから、別にかまいません」
実のところ、クラス内で美汐の存在は浮いたものではない。むしろ同じクラスのあゆは、積極的に話しかけて仲良くなろうとしているくらいだ。しかし、なぜか美汐はそうした誘いに応える事もなく、自ら進んで孤独の中に身を置いているのだ。
「それなら、積極性が足りないとか?」
「ええ。知らない人は苦手です」
「そりゃ、誰だってはじめは知らない人同士なんだからさ、まずは話してみる事から始めなくちゃな」
「そうですね」
そこで祐一は、ある事実に気がつく。
「まてよ? 俺は今日話しかけるまで知らない人だったはずだ。それとも、昔に会ったことあったっけ?」
その前に商店街で見かけたが、その時は話をしていない。昼休みに話しかけたのが最初だ。もしかするとこれは、昔の記憶があやふやな祐一が忘れているだけなのかもしれない。
「いえ、ないですよ。ついさっきまでは知らない人でしたから」
「それなら、やればできるって事じゃないのか?」
「いえ、それは……」
このとき美汐は、あゆのリロードに対して少なからず嫌悪感を抱いていた。自分でも気がつかないまま、同じ時間を繰り返し体験する祐一。祐一には以前の記憶がないため、美汐にとっては顔なじみであっても祐一にとっては初対面なのだ。
一体、今までに何度この出会いを繰り返しただろうか。そして、そのたびに何度同じ会話を繰り返しただろうか。
「ところで、相沢さんは……」
「ん? ああ、俺は最近この学校に転校してきたんだよ」
「そうなんですか」
なんとか話題をそらせたので、内心胸をなでおろす美汐。
「この街に来てからまだ二週間も経ってないな」
「そうすると、随分と変わってますでしょう」
「あれ? 俺が昔こっちに住んでいたって言ったっけ?」
「いえ」
「だったら、どうしてわかったんだ? 俺が昔、この街に住んでいたって」
「それは……」
こうして出会いを繰り返すたびに、やり取りが少なからず変わってしまうのが、美汐には苦労するところだった。そこでやむを得ず、美汐はある人物の名を口にした。
「……月宮さんが、そう話しているのを聞きましたから」
「あゆを知っているのか?」
「同じクラスですから」
「え?」
意外と言えば意外な事実に祐一の目が丸くなる。不思議な子だとは思っていたが、意外なところにつながりがあった。しかし、美汐があゆと同じクラスだという事は、真琴と同じクラスという事である。これは考えようによっては好都合だ。
「そうか。それなら話は早い。実は、俺の妹の真琴の事なんだが」
ようやく祐一は、話の要点に入る事ができた。
「あいつも俺と一緒でこっちに転校してきたばかりで友達が少なくてさ、こんなふうに気軽に話せる相手もそういないんだ」
「はい」
「特に初対面ともなると大変でさ、なかなか心を開こうとしないんだよな」
一応、名雪やあゆとは話をしているが、それ以外の人とは親睦を深めるには至っていない。その意味では一向に友達が作れない真琴であった。
「ああいう年頃の女の子に、友達って大切なものだと思うんだよ。悩み事とか気軽に話しあえるような友達がさ。一人で抱え込んでいたって大変だろうからな」
祐一も相談されたら力になってやりたいとは思うが、女の子ならではの悩みごとでは力になれるとは思えないからだ。
「そこで……なんだが……」
「私にあの子の友達になれというのですか?」
その時、美汐の声が急にこわばった。あまりにも唐突な変化に、祐一は一瞬気おされてしまう。それはそれまで美汐が持っていた物静かな印象を一変させるような、怒気をはらんだものだったからだ。
「……そんな酷な事はないでしょう」
同じ様相で、美汐はそう続けた。なにか後ろめたいものでも見るような瞳が、じっと地面の底にでもうまっているものを見つめている。祐一にはよくわからないが、それは美汐をひどく苛立たせるようだ。
だから祐一には、あまりにも変わってしまった美汐にかけてやる言葉が見つからない。
「私は、あの子と友達にはなりません」
「天野、君は……」
なんとか祐一は口を開けるが、それ以上言葉を続ける事が出来ない。あまりにも強い拒絶は、彼女がなにかを知っているのではないかと思わせたからだ。
「なにか……知っているのか……?」
「知りません。それは嘘ではないです」
「じゃあ、どうしてそんなものの言い方をするんだ? さっきから、まるでなにかを確信しているみたいに……」
「はい。確信しています」
「なにを?」
躊躇というものを知らない美汐の言葉に、いつしか祐一は引き込まれていた。次第に体の温度が下がっていく。中庭が寒かったからという見方も出来るが、それ以上に血の気が引いていくという感覚のほうが正しいようだ。
なにやら、とてつもなく不吉な予感がする。
「それは……」
「待てっ!」
祐一は美汐の言葉を制するように、彼女の顔の先に手のひらを突きつけていた。そこで美汐は言葉を止める。
「それ以上は言わないでくれ……」
「わかりました」
異常なまでに冷静な様子の美汐とは対照的に、祐一はかなり憔悴してしまったようだった。おそらく美汐が言おうとした内容は、少なからず祐一を混乱させるに足る内容のはずだ。美汐の口からであれば、身内の不幸ですら他人事のように語られるに違いない。
祐一が続ける言葉に迷っていると、美汐はなにも言わずに立ちあがった。素っ気ないと言えば、あまりにも素っ気無い別れであった。
中庭の少女2
天野美汐と会ったのは、失敗だったのではないだろうか。美汐が中庭から去り、ただ一人取り残された祐一は、ふとそんな事を考えていた。
しばらくの間祐一は、ただ空を見上げていた。白く連なる校舎と銀色の窓。時間と風だけが通り過ぎていく。
すると、中庭いっぱいに敷き詰められた白銀の絨毯を踏みしめる、シャリシャリという足音が近づいてくる。
「……すみません、遅れました」
遅れてきた少女、美坂栞は胸元に小さな手をあてて、真っ白な息を何度も吐きだした。まるで深呼吸でもするかのように、小さな肩が上下に動く。
「祐一さん……?」
反応が薄いせいか、栞は石段に腰かけた祐一の顔を覗き込むようにして見ている。
「もう、あんまり時間ないぞ?」
とりあえずそう言って、祐一は栞に買っておいたアイスクリームを差し出す。
「それでもいいですよ」
嬉しそうにアイスクリームのカップを受け取り、栞は祐一の隣に腰をおろした。
「ちょっと冷たいですけど」
そう言いながらもアイスクリームの蓋を開けると、途端に満面の笑顔が顔中に広がる。
「ところで、祐一さんは大丈夫ですか?」
平然とした様子でアイスクリームを食べながら、栞は心配そうに祐一の顔を覗きこんだ。先程美汐と話した影響だろうか、祐一の顔色は悪い。
「そういえば、時間は後どれぐらいなんですか?」
「昼休みか? 時計がないからわからないけど、もうそんなにはないと思う」
美汐と話していた段階で結構時間がたっていたのだから、チャイムまでそれほど時間はないだろう。
「だったら、早く食べてしまわないとダメですね」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ。お薬ならたくさんありますから」
そういう問題でもないだろうと祐一は思う。
「飲み薬の他にも、貼り薬、塗り薬、各種取り揃えていますから」
「……どこに?」
まっとうな質問だったが、栞は黙ってポケットを指さした。
「四次元……?」
「なんですか?」
「いや、なんでも……」
そんな他愛もない会話に花を咲かせていると、屋上に取り付けられたスピーカーからチャイムが鳴り響いた。
「休み時間も終わりか」
「そうですね」
どうやら栞は、タイミングよくアイスクリームを食べ終えたようだ。
「ごちそうさまでした」
改まって栞がぺこりと頭を下げる。
「今日はありがとうございました」
「なんの事だ?」
「私が来るまで待っていてくれた事です」
「いや、帰ろうとしたらちょうど栞が来たんだ」
実際には、美汐の話に衝撃を受けているうちに栞が来ただけだが。
「もう待たないからな?」
「そんなこと言う人嫌いです」
そう言って踵を返す栞だったが、しばらく歩いたところで振り返った。
「あの……祐一さん」
「なんだ?」
「……明日も、また来ていいですか?」
「来るなって言っても、栞は来るだろ?」
「祐一さんに来るなって言われたら、私は来ません」
期待と不安が入り混じるかのような瞳を祐一に向け、栞は言葉を続ける。
「そのかわり、来てもいいって言われたら、どんな事があっても来ます」
「……わかった、来てもいい」
まるで根負けしたかのように、祐一は口を開く。
「そのかわり、無茶はするなよ? 今日みたいに息を切らしてきても迷惑なだけだからな」
「はいっ」
今までで一番と思える笑顔を浮かべ、栞ははっきりと大きな返事をした。
「じゃあ、今日はこれで解散だな」
「そうですね、それとあの……さっきのは冗談ですから」
「なにがだ?」
「嫌いって言ったの、冗談です。だって私、祐一さんのこと好きですから」
そして、栞は雪の上に走るような足音を残して遠ざかっていく。祐一はただ呆然と、栞の姿が見えなくなるまで同じ場所で見送っていた。
祐一が我に返ったのは、本鈴を告げるチャイムが鳴り響いた後の事だった。
放課後
午後の授業も上の空のまま、祐一はただくるくるとシャーペンを回していた。美汐は祐一の動揺を誘うような事を的確に口にしている。それが彼女の空想癖からくるものであるなら、この上なく厄介なものであるように思われた。
それで美汐に友達がいないのだとすれば、ある意味納得のいく事実でもあるのだが。
このまま祐一の生活に深入りされ、その人間関係を彼女の妄想から生まれる言葉によってかきまわされる。それは絶対に避けなくてはいけない事だった。
この日は担任の都合でHRがなく、六時間目が終わるとそのまま放課後となった。そこで祐一は教科書をかばんに詰め込むと、そのままそそくさと教室を後にした。名雪や香里はその態度を不審に思っていたようだったが、祐一にしてみれば、どこで美汐に出会うかわからないという恐怖がある。
下駄箱で靴を履き替えて、肩からずり落ちてきたかばんを背負いなおす。薄暗い昇降口から身を乗り出して空のご機嫌をうかがってみると、今の祐一の心を象徴するかのような真っ黒い雲が広がっていた。
これなら帰れるかと思ったとたん、黒い雲から真っ白な結晶が落ちてくる。やがてそれは数メートル先さえも見えないような雪となった。追い打ちをかけるように凍えるような北風が吹き荒れる。
「……この中を帰るのは無謀か?」
ご機嫌が最悪な冬の空に、祐一は思わずそう呟いてしまう。お昼休みのあたりまでは晴れていたのだから、当然傘なんて持ってきてはいない。おまけにこの雪は、しばらく待っていてもやみそうにない。
また、他のクラスはまだHRが続いているのか、誰も知り合いが通りかからない。そこで祐一は考えた末、少しでも早く家に帰りつく方法を選択した。
この絶え間なく降り注ぐ雪の中に飛び出すのはかなり無謀であると言えなくもないが、帰った時には雪だるまになる事を祐一は覚悟していた。とはいえ、この選択を五分もしないうちに後悔する祐一ではあったが。
「しまった……やばいくらいに寒い……」
校門を出たあたりから、祐一の歯の音が合わなくなってきている。しかし、この状態から引き返す事も出来す、ただひたすら祐一は走り続けた。そうして家に辿り着いた時には、靴はどろどろで体中には雪がまとわりついているという、かなり悲惨な状況になっていた。
家に入る前に雪を払っておきたかったが、落とすそばから降り積もってくるので、祐一は途中であきらめて玄関に飛び込んだ。
「おかえりなさい、ご苦労様でした」
この雪の中を突っ切って帰って来たであろう祐一の悲惨な様子に労いの言葉をかけつつ、まるで若奥様のような出迎えをする秋子であった。
「……そういえば、秋子さんっていくつなんだ?」
タオルを取りに行った後ろ姿を眺めつつ、ふと祐一はそんな事を考えたが、どうもそれは永遠の謎のような気がしてきた。
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