第三十三話 月夜の晩の星降る夜に

 

「どうしたの? 相沢くん」

「香里か……」

「香里かじゃないわよ、なにかあったの?」

 夕食を終えた後、妙にうかない顔の祐一を、香里は心配そうに覗き込んだ。

「ああ……実はな……」

 祐一は今日月城邸で、アリスが両親を失っていいるという事を香里に話した。よくよく考えてみると、祐一の周りにはそうした身内の不幸を背負っている人間が多い。名雪は父親の顔を知らないし、あゆは母親と死に別れている。真琴は天涯孤独の身の上で、佐祐理は弟を失っている。祐姫も母親の死を経験しているし、北川も独り暮らしをしていると言う。口には出さないが、舞も父親がいないのだ。

「そうね……」

 その話を聞いた香里は、小さくため息をはく。祐一の知り合いの中ではただ一人、香里だけが両親が健在で家族が欠けていないのだ。

「そうして考えると……。あたしなんて幸せなほうよね」

 栞は死の危険にさらされたとはいえ、今はすっかり回復している。それも祐一や名雪達のおかげだ。

「それ言ったら、俺だって一緒さ……」

 今は離れて暮らしているとはいえ、祐一の両親は健在である。それこそ殺したって死にはしないだろう。

「だからって言うわけじゃないけどさ……」

 不意に祐一は真剣な表情で香里を見る。その祐一の真剣なまなざしに、香里は胸が高鳴るのを感じた。

「……俺のできる限り、あいつらの事を守ってやりたいと思ってな」

 名雪達は大切な人を失う悲しみを知っている。それだけに、他の人達にも優しくなれるのだ。祐一はそんな名雪達の優しさを守りたいと思っている。

 無論祐一に出来る事なんて限られている。どんなに祐一が強い力を得たとしても、祐一の腕は二本しかないのだ。だからこそ祐一が望む力は、目の前で困っている人を助けてやれる力だった。祐一にとって大切な人を守れるだけの力があれば、それでよかった。

「それと、俺は香里の事も……。守ってやりたいと思ってる……」

「……ありがと」

 祐一にそう言われて、香里は頬が熱くなるのを感じていた。

 

「やっべぇ……」

 純一が目を覚ましたとき、あたりはすでに真っ暗だった。この日は月が綺麗に輝く晩であるが、厚い雲に覆われてその姿を見る事は出来ない。

 月城邸を出た後美春に誘われ、桜公園でチョコバナナを食べたところまではいい。だが、その後ポカポカとした陽気に誘われて、芝生に眠り込んでしまったのが失敗だった。

 純一の脳裏には、音夢の怒った顔が浮かぶ。そんなわけで純一は一刻も早く家に帰らなければいけなかった。

「あら? 朝倉様……」

「環?」

 公園の出口付近で、純一は巫女装束の環に出会った。いくら初音島には危険な魔物があまり生息していないとはいえ、女の子が一人で出歩くような時間ではない。

「なにしてるんだ? こんなところで」

「……不穏な空気を感じます……」

 そう言うと環は、桜の林の中に足を踏み入れていく。あわてて純一もその後を追った。

 この日は三日月が綺麗な晩だった。舞い落ちる桜の花びらが淡い月明かりに照らされ、幻想的な光景となっている。環の真剣な表情さえなければ夜桜見物としゃれ込むところだが、環はなにかに導かれるように桜の林の奥へ奥へと足を踏み入れていくのだ。

「ここは……」

 やがて二人が辿り着いたのは一本の桜の巨木、枯れない桜だった。子供のころから純一はよくここに訪れており、この桜は純一達の『秘密基地』になっていたのだ。

 先程から環は、真剣な表情で桜の木を見つめている。

「おい、環?」

 純一が環の肩をつかんだそのときだった。

「そこですっ!」

 環はすばやく弓を引き絞って矢を放つ。放たれた矢は一直線に桜の木に向かって突き進むが、桜の木に命中する寸前に小さな手がそれを掴んで止める。

 不意に差し込んだ月明かりの中に現われる小さな影。金色の髪をツインテイルにした小柄な少女の姿に純一は見覚えがある。

「……さくら?」

 純一達の目の前に現われた少女は、確かに幼馴染の少女芳野さくらなのだが、直感的に純一は違うと思った。なぜなら、さくらなら瞳の色は綺麗な青色なのに、目の前の少女の瞳は禍々しいまでの紅い色をしていたからだ。

 

「くっ……」

 純一は環を守るべく、剣を抜き放って前に躍り出た。だが、さくらに良く似た少女は禍々しい気配を放ち、瞬時に純一の内懐まで飛び込んできた。

(疾い!)

 次の瞬間純一の意識が真っ白に染まり、みぞおちの部分を中心に凄まじい衝撃が駆け抜けた。

「がっ……」

 そのまま純一は弾き飛ばされ、近くの桜の幹に叩きつけられた。ぶつかったあたりからじわりじわりと全身に痛みが広がっていく。

「朝倉様っ! あっ……」

 咄嗟に純一に駆け寄ろうとした環だったが、その身体は何故か凍りついたように動かない。

「あ……」

 少女の紅の瞳の見つめられた瞬間、環の全身から力が抜けていく。環は崩れるようにその場に座り込んでしまった。吸血鬼の視線には相手の自由を奪う効果があるという。その環の様子に、さくらに良く似た少女は歓喜の表情を浮かべると大きく口をあけた。その口中には肉食動物と思わせる長い犬歯がある。

(吸血鬼?)

 そう純一は確信するが、先程の一撃で身体を動かす事ができない。吸血鬼の長く伸びた犬歯が、白く美しい環の首筋に突き刺さろうとしたその刹那だった。

「せいっ!」

 純一の視界の隅を、銀色の光が駆け抜けていく。よく見るとそれは長い黒髪の少女の剣閃であった。その一撃で吸血鬼は環から大きく飛びのき、黒髪の少女から間合いを取る。日本刀を構えて黒髪の少女は、剣のような三日月の下で吸血鬼と対峙する。不思議な緊張感があたりを支配した。

「大丈夫か? 環……」

 純一は痛む身体を引きずり、なんとか環の元に辿り着いた。

「はい、わたくしのほうは……。それより、朝倉様のほうは?」

「俺のほうはかすり傷だ」

 純一は環の心配を取り除こうと、無理に笑って見せる。

「そんな事よりも、あいつは確か……」

 あの黒髪の少女に純一は見覚えがある。確か屋上で萌達と鍋を囲んでいたメンバーで、川澄舞と言う名前の少女だ。

 先程から両者の間には緊張感が高まっていく。純一と環は呼吸をするのも忘れたように二人の対決に魅入っていた。

 やがて舞は月明かりに照らされて銀色に光り輝く刀を鞘に収めると、大きく腰を落として気を高めた。

「抜刀術……?」

 純一の声がかすれる。どうやら舞と吸血鬼の双方から放たれる強い気配に純一は気圧されているようだ。

(これが本当の戦闘……)

 ハンターランクがA+であるとはいえ、実のところ純一はほとんど実戦経験が無い。一応校外の実習で魔物等の討伐は経験しているが、吸血鬼のような高レベルの魔物と相対したのはこれが初めての事だ。どうする事もできない焦燥感だけが純一の心に広がっていく。それでも純一は背後に環をかばい続けていた。

 不意にあたりに強い風が巻き起こり、桜の花びらを大きく空中に漂わせた。そのとき、どこからともなく湧き上がった群雲が月を隠し、辺りを闇に染め上げる。むせ返るような桜の匂いの中で、なにかが激しくぶつかる衝撃音が鳴り響く。そして、再び月があたりを明るく照らし出したとき、そこに立っていたのは舞だけだった。

 舞は虚空を睨みすえたまま動かない。あまりの緊張感に純一も環も動けなかった。

「……大丈夫、もういない……」

 舞の言葉が戒めを解く呪文であるかのように、純一と環は忘れかけていた呼吸をした。その様子を舞は一瞥すると、なにも言わずに背を向けた。

「おいっ! 待てよ」

 純一は声をかけるが、舞は振り向きもせずに遠ざかっていく。

「なんだったんだ? 今のは……。どうして俺達はいきなり殺されかけたんだ?」

 すると舞の足が止まり、背中越しに純一を見た。

「……私は魔物を討つものだから……」

 さらりと長い髪を揺らして舞は、それきり純一達を振り返る事無く暗闇の中に姿を消した。

 

「せいっ!」

 一夜明けた早朝、純一は庭で剣の素振りをしていた。純一も決して弱い部類ではなく、風見学園の内部では剣の腕と魔法力の高さからもトップクラスの実力者なのだが、昨夜遭遇した敵、さくらに酷似した吸血鬼にはなす術もなくやられてしまった。実際純一と吸血鬼では実力にかなりの差があるが、それでも一矢すら報いる事が出来なかったのが純一の心をしめていた。

 純一のハンターランクはA+である。純一と同年代のハンター候補生の中で、このランクのものはそれほど多くない。普段純一は『かったるい』と称してこうした努力を怠る傾向があるのだが、吸血鬼の毒牙が音夢をはじめとした純一の大切な人達に及ぶ可能性を考えると、とてもそういう事をいっていられる状況ではない。だから、というわけでもないが、純一は少しでも強くなっておく必要を感じていた。大切な人を守りきれるように。

「はにゃ? お兄ちゃんが早起きしてる……」

「さくらか……」

 隣の家から幼馴染の少女が驚いたような目で純一を見ている。まあ、普段の純一の生活を見ていれば、それも無理の無い事だ。

「そういえばお前、昨夜はなにしてた?」

「昨夜? 昨夜はボクぐっすりだったよ? どうして?」

 言われている意味が良くわからない、と言う表情で、さくらは純一の顔を覗き込んだ。

「いや、なんでもないんだ」

 やはりあいつはさくらとは無関係だ。純一はさくらの表情からその事を確信した。

 一通りの鍛錬を終えた後純一は、せっかく早起きしたのだからたまには音夢の事を起こしてやろうと思い、部屋に向かう。

「音夢、起きてるか?」

 軽くノックして純一は部屋の扉を開けた。

「えっ……」

 すると中では、音夢が着替えの真っ最中だった。しばらくの間無言で見つめあう二人。共同生活を営んでいる関係上こうしたトラブルは良くある事で、以前にも浴室の脱衣所内で同様のトラブルがあった事を純一は思い出した。

 もっとも、そのときには一週間近く音夢に口を聞いてもらえなかった純一ではあるが……。

「起きてたんだな。おはよう、音夢」

 純一はあくまでも日常の風景として振る舞い、フランクに話しかけた。

「おはよう、兄さん。今日は早いですね」

 それに音夢も家族ゆえの落ち着いた様子で反応を返す。これももはや慣れの領域と言うべきなのか、にこやかな音夢の口調が純一の耳に届いた。

「ところで兄さん。どちらを向いてお話ですか?」

 知らず知らずのうちに、純一の視線は音夢の太ももに注がれていた。純一が顔を上げると、そこには怒りゲージがリミットブレイクを向かえた音夢の顔がある。

「恥ずかしいんだからっ! さっさと出ていきなさ〜いっ!」

 

「はにゃっ!」

 突如として隣の家から鳴り響いてきた天地をつんざくような衝撃音に、さくらは驚きの声を上げた。

 まったくの余談だが、この日以降純一は音夢に口を聞いてもらえなくなってしまった。

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