初霜

 

 とどまることを知らずに季節は巡っていく。

 遅い春がすぎ、暑かった夏も静かに終わり、紅葉に囲まれる秋の訪れもすでに過去のものとなりつつある。

「う〜、寒……」

 この間まで暑かったのにな、と思いつつ、祐一は吹き抜ける風に身を震わせた。少し前までは街を囲む山並みが紅葉で綺麗に彩られていたのだが、今はもう見る影もなく葉の落ちきった木立が連なるだけとなっている。枯れ木も山の賑わいとは言うものの、なんとなく物寂しい風景は冬将軍の軍靴の響きを連想させるものだ。

 来たる季節を拒もうと、去り行く季節を惜しもうと、そんな人間の気持ちも関係なく時は無情に過ぎ去っていく。すっかり冬の装いを見せはじめた街の風景に、祐一は少しだけ気分が落ち込んだような気がした。

「そうだね……」

 祐一と同じ山並みを見上げ、名雪も同意を示す。この夏で部活を引退した名雪は部長と言う重圧から解放されたのか、それとも他に要因があるのかわからないが早起きができるようになり、そんなわけで二人はいつもの通学路を並んで歩いていた。これで祐一と一緒にいる時間が多くもてるよ、というのが名雪の談である。

「今朝は霜がおりたからね」

「霜?」

「うん、初霜」

 そう言って名雪は柔らかな微笑を祐一に向けた。見る人を暖かく包み込んでくれるような、そんな優しい笑顔だ。

「今日はまだあったかいほうだから日が差すとすぐに消えちゃうけど、そのうちもっと寒くなって昼間でもとけなくなるんだよ」

 寒いのが苦手な祐一にとっては、聞いただけで気が滅入るような話だ。

「そのうち雪でもふってくるんじゃないか?」

「う〜んとね……」

 名雪はすっと遠くの山を指差した。

「あそこに山が見えるでしょ? 雨でも雪でもあの山の手前まで雲がかかるとふるんだよ」

「よくわかるな、そんなこと」

「ずっとこの街に住んでいるからね……」

 そう言う名雪の表情は嬉しさと悲しさが半々といった、とても複雑なものだった。

 冬が来る。

 祐一が遊びに来る冬。

 祐一が来なくなった冬。

 そして、再び祐一とめぐり合った冬。

 今の名雪の胸中に去来する気持ちは、果たしてどのようなものなのだろうか?

 

「冬か……」

 祐一は寒いのが苦手であるが、冬が嫌いというわけではない。子供のころは雪が珍しくて、この街に遊びに来ていたくらいだからだ。

 だが、今にして思えばそれは口実にすぎなかったのかもしれない。

 それは、この街でしか見られない雪を見るため。

 この街に住む、名雪に会うため……。

「どうしたの? 祐一……」

 ふと気がつくと、名雪が心配そうな表情で祐一の顔をのぞきこんでいた。

「顔、赤いよ?」

「いや、なんでもない。なんでもないんだ、名雪」

 内心の動揺を悟られまいと、祐一は必死に表情を取り繕う。

「よしっ、走るぞ名雪」

「えっ?」

 突然走りはじめた祐一に、やや困惑気味の表情を浮かべる名雪。

「走るとあったかいだろ?」

「うん」

 満面の笑みで名雪は祐一に続いて走り出す。結局これがいつも通りの、二人の朝の風景なのだろう。

 

「ねえ、相沢くん……」

「ん〜……?」

 息も絶え絶えな様子で机に突っ伏していた祐一は、不意にかけられた声にのっそりと身を起こす。振り向いたその先には胸元で両腕を組み、あからさまに不審人物を見るような目の級友、美坂香里がいた。

「予鈴まで後十分はあるのに、どうしてそんなに息を切らしてるのよ?」

「ああ、それはだな香里」

 祐一はふと隣の席でいつもの笑顔の名雪を見る。流石に走っているときの名雪が一番綺麗だからとは言えない祐一であった。

「色々あったんだ……」

「そう……」

 妙に悟りきった表情で、香里はため息交じりに口を開く。

「こう言っちゃなんだけど、名雪は走っているときが一番輝いて見えるものね」

「げふっ!」

 一瞬心を読まれたのかと思い、むせかえる祐一。

「どうしたのよ、いきなり……」

「いや、別に……」

 祐一はふとしげしげと香里を見る。豪奢なウェーブヘアと気の強そうな目つき、そして美人系の顔立ち。香里が名雪と並ぶ学内美少女の双璧というのもうなずけるというものだ。

 もしも祐一が名雪といとこ同士じゃなかったとしたら、こうして友達になることもなかったかもしれない。そう考えると人同士のつながりとは奇なもの、まさに出会いは奇跡といっても過言ではないだろう。

「そうだ、香里。今朝はね、霜が降りたんだよ」

「どうりで寒いわけよね」

 そう言って香里は身を震わせる。

「これからどんどん寒くなるわね……」

「そうだね……」

 そうして微笑みあう二人の笑顔は、妙に和むものだ。すぐそばで見ながら、祐一はそう感じていた。

「そういえば相沢くんは寒いのが苦手なんでしょ?」

「ああ……」

 冬の訪れ。

 前に住んでいた街ではそれほど気にもとめなかったが、丁度山向こうにかかるどんよりとした雲の色に、祐一はこれから冬が来るのだということを強く意識した。

 確かに祐一は寒いのが嫌いだ。本音を言えば、冬という季節も嫌いだった。立ち枯れたような木々はなんとなく寂しく、鉛色をした空の下を吹きぬける木枯らしに、人は土気色の顔で背中を丸めて歩く。とにかく寒いと身も心も凍りつき、暗く沈んだ気分になる。

 冬が嫌いな理由は七年前、もうすぐで八年になるあの日の出来事が関係しているのかもしれない。

 あゆの一件は子供のころから両親の仕事の都合で転校を繰り返してきた祐一に、どうせ別れるのだからと出会いを拒む傾向に拍車をかける結果となってしまったのだ。心に深い傷を負ったものは、自分でも気づかないうちに周囲にたいしてかたくなな態度をとるようになる。あの事件は、祐一の心を冬のままにしていたのだ。

 北の街を拒んでいた間に祐一は名雪から手紙をもらっていたが、それにはただの一度も返事を書いたことがない。別に手紙を書きたくなかったわけではなく、ただ書く理由が見つからなかっただけなのだが、心が冬のままであった祐一はとてもじゃないがそんな気分になれなかったのだろう。

 そして、祐一はこの街に帰ってきた。本当は帰ってくることすら拒んでいたこの街へ。

 もともと転校の多い祐一は、どこに行ってもなにも変わらないだろうと思っていたが、再び名雪と出会い、あるがままの祐一を受け入れてくれる仲間たちに出会い、そして数々の奇跡が起きた。それは春になれば自然に雪がとけてなくなってしまうように、いつもそばにいて微笑みかけてくれていた名雪の優しさが、祐一の冷たく凍った心をとかしてくれたからなのだろう。祐一がそんな名雪を好きになったのは、いわば自然の成り行きとも言えた。

 だが、そんなときに秋子さんが事故に遭い、意識不明の重体となる。

 心を閉ざす名雪。成す術もないまま、待つことしかできない祐一。

 心に深い傷を負ったものの気持ちは、やはり心に深い傷を負ったものでなければわからない。名雪が今の祐一のあるがままを全て受け止めてくれたように、今度は祐一が名雪のあるがまま全てを受け止める番なのだ。名雪の強がりも、わがままも、弱さも、涙も一つ残らず全て。

 この街の冬は重く厳しいもので、一人では到底耐えることはできないだろう。でも、今の祐一は一人ではない。波乱のときを越えて恋人同士になった名雪がいるし、信頼できる大切な仲間たちがいる。そんな人たちの温かい心に満たされていれば、冬の寒さなど取るに足りないものだからだ。

「まあ、今ははそうでもないけどな」

「でしょうね」

 意味ありげに香里は、軽くくすっと笑う。

 その笑顔が気になった祐一ではあるが、丁度石橋が教室に入ってきたのでそれ以上追究することが出来なかった。

 

「お帰りなさい、祐一さん」

「ただいま、秋子さん」

 祐一が帰宅すると、いつもの様子で秋子さんが出迎えてくれる。秋子さんが普段どんな仕事をしているのか不明だが、ただいま、と言ったときに、お帰りなさい、と返事が返ってくるのは実にいいものだと祐一は思う。なにしろ前の街では実の家族だというのに、両親が共稼ぎである都合上こうして挨拶をかわすことすら滅多になかったからだ。

「外は寒かったでしょう?」

「はい、とっても……」

 確かに寒い。身も心も、ついでに懐も……。

 懐の寒さは別に名雪たちにおごっているからではなく、単に祐一が学生で金がないだけなのだが、心の寒さは名雪がそばにいないことに起因していた。

 女の子同士の大事な話よ、とは香里の談だが、そのせいで祐一は妙な疎外感を抱くことになってしまったのだ。このところ名雪とはいつも一緒にいただけに、余計にそう感じるのだろう。

「そうだ、祐一さん。ちょっと両手を上げてくれませんか?」

「こうですか?」

 祐一が腕を上げると、秋子さんがきゅっと抱きついてくる。秋子さんの肩越しにふわりと漂うファンデーションの香り、三つ編みにまとめた髪から漂う名雪とは違うシャンプーの香り、祐一の胸元で囁くような秋子さんの甘い息遣い。名雪とはまた違う大人の女性の色香に、祐一の脳髄は痺れるような感覚に襲われた。

「あ……秋子さ……」

 思わず上げた両腕を下ろし、力強く秋子さんを抱きしめたい衝動にかられる祐一。だが、その身体はあまりのインパクトに指一本動かすことができない。

「はい、いいですよ。今度は後ろを向いてくださいね」

 言われるままに祐一は後ろを向く。すると秋子さんは、祐一の肩を抱きしめるようにして身体を押し付けてきた。秋子さんの柔らかな二つのふくらみが、祐一の背中に絶妙な感覚を与える。そのあまりの心地よさに、祐一の口元はだらしなく開かれた。

「……ひのふの……ひのふの……。はい、いいですよ」

 秋子さんは何事もなかったかのように話しかけるが、祐一はなにが起きたのかまるでわからず、ただ呆然としているばかりだ。

「ただいま〜」

「あう〜、寒かった〜」

 丁度そこにあゆと真琴が帰ってくる。秋子さんに頼まれたのだろう、あゆの持つ買い物袋が重そうだ。

「お帰り、あゆ、真琴」

「お帰りなさい」

「あれ? どうしたの、祐一くん」

 あゆは祐一の顔を見上げ、小首を傾ける。

「どうしたって、なにがだ?」

「鼻の下が伸びてるよ」

 先程の状況を思い出し、赤面する祐一。

「ん〜……」

 突然真琴が鼻をひくつかせ、そのままくんくんと祐一の身体をかぎまわる。

「な……なんだよ」

「……どうして祐一から秋子さんと同じにおいがするの?」

 実に真琴らしい無邪気な質問だ。だが、それだけに周囲の状況を凍りつかせるのに充分だった。

 不意に訪れる静寂の時。不気味なまでの沈黙。誰一人として言葉を発さない、ある意味不自然なまでの状況がその場を支配する。

 その中で秋子さんだけがただ一人、ニコニコといつもの微笑を浮かべていた。

「そうだ、二人とも。ちょっと手を出してくれる?」

「え?」

「こう?」

 きょとんとした様子で出された手に、秋子さんはポンポンと自分の手を合わせていく。

「まだまだ小さいわね。はい、いいわよ」

 秋子さんの不自然な様子に、あゆと真琴はわけもわからずに顔を見合わせた。

「ただいま〜」

 丁度そこに名雪が帰ってくる。

「名雪さんお帰り〜」

「お帰り名雪〜」

「お帰りなさい、名雪。外は寒かったでしょ?」

「お帰り、名雪」

「どうしたの? みんなで玄関に集まって……」

 家に帰るなりみんなが集まっているので、名雪は少々面食らっているようだ。

「名雪、ちょっと腕を上げてくれる?」

「こう?」

 秋子さんに言われるままに腕を上げる名雪。すると秋子さんはそっと名雪の身体を抱きしめた。

「はい、後ろを向いて……」

 次に秋子さんは名雪の方に腕を回し、背中に抱きつく。

「あら? 名雪、また胸が大きくなった?」

「わかる……?」

 名雪の頬がすっと赤くなる。

「幸せな証拠よ……」

 そう言いながら秋子さんは、名雪の腕をひのふのと指で測っていく。それは先程祐一にした不可解な行動そのままだ。

「はい、いいわよ。それじゃみんな、ご飯にしましょうか」

「ボク、お手伝いするよ」

「真琴もお手伝いする〜」

 にこやかにキッチンに向かう秋子さんを、あゆと真琴が追いかけていく。

「あ、そうだお母さん」

「なに? 名雪」

「ちょっとお願いがあるんだけど、いい?」

 秋子さんは軽くふりむき、了承とだけ口を開いた。

 祐一と名雪が着替えておりてくると、テーブルの上にはすっかり支度の整った鍋が置かれ、ほこほこと暖かな湯気を立てている。

「今日はお鍋ですよ」

「祐一くん、ボクがお野菜切ったんだよ」

「真琴もお手伝いしたの〜」

 そしてはじまる夕食の時間。実の家族ですら揃わないこともある昨今、こうしてみんなで食事をするというのはある意味では珍しいのかもしれない。実際祐一も両親が健在であるのに家族揃っての食事はほとんど経験がなく、いつも一人で出来合いのものを食べるか、適当に自分で作った焼きそばを食べるのがせいぜいだったのだ。

 秋子さんと名雪は二人きりの生活であったにもかかわらず、そこにはいつも温かな家庭の雰囲気がある。普段から二人きりであるために余計にそうなってしまうのかもしれないが、なによりも祐一が望んでいたのはこうした当たり前の風景だったのかもしれない。それが今ではあゆに真琴が加わって前以上に楽しい団欒のひと時となっている。この日に祐一が食べた鍋は味もさることながら、大勢でわいわいとにぎやかに食べることで身も心も温めてくれる、実に味わい深いものだった。

 

「寒い……」

 初霜のおりた日から急に冬は足を速め、雪こそまだふらないものの暗くどんよりとした雲が街全体を覆っている。それはまるで、今の祐一の気分を象徴しているかのようだ。

 この日は土曜日。学校が半ドンで終わる日で、いつもなら祐一は名雪と商店街で放課後デートとしゃれ込むところなのだが、このところどうも名雪の様子がおかしい。

 ここ最近は夜更かしでもしているのか朝起きられなくなっているし、授業中も寝ている率が高い。普段ならそうした名雪を注意する香里も、なぜだかなにも言わない。さらにこのところ放課後はいつも……。

「ごめんね、祐一。わたしちょっと香里と用事があるから」

 と、言う具合にすまなそうな顔をされたのでは、祐一はそれ以上なにも言うことができなくなってしまう。

 そんなわけでこの日も祐一はただ一人なにをするでもなく商店街をうろつきまわり、一人身の寒さを味わっていた。

「はぁ……」

 青息吐息とはいうものの、なぜか吐く息は白い。取り立てて身体の調子が悪いというわけでもないのに、なぜだか妙に気持ちが沈む。ため息をつくと幸せが逃げるよ、とはあゆの談だが、今の祐一はまさにその状態だ。

 この街に帰ってくる前までの祐一は、一人のほうが気楽でいいと思っていた。だが、大勢でわいわいとにぎやかに笑いあう楽しさを知ってしまうと、もうあのころには戻れない。なにしろ一人でゲームセンターに行っても沸き立つものがないし、百花屋で一人コーヒーを飲むというのも味気ないものだし。

 こういうときに祐一の隣に名雪がいるのはわりと当たり前の風景であるが、その当たり前が当たり前じゃなくなったときに、祐一は自分にとって名雪がどれほど大切な存在であるかを感じていた。

「あれは……」

 商店街の外れの駅へと向かう道。祐一はそこに見知った顔を見つけた。

「秋子さんじゃないか……」

 一瞬声をかけようとした祐一であるが、なにやら思いつめた様子の秋子さんの姿にためらってしまう。秋子さんは祐一に気がついた様子もなく、力なく下げた手には紙袋を持ち、ただ黙々と駅へ向かって歩いていた。

「……なにがあったんだろうな……」

 秋子さんは電車のシートに腰かけたまま、紙袋を大事そうに抱えて彫像のように身動き一つしない。祐一は隣の車両から、その様子を窺っていた。

 二両編成のこじんまりとした電車の乗客は祐一と秋子さんの二人きり、ほとんど貸し切り気分のローカル線だ。車内に軽快なリズムを響かせつつ、電車は祐一たちを運んでいく。

 やがてとある駅で秋子さんは電車をおり、祐一も静かにその後を追う。

 このあたりは祐一たちの住む街よりも田舎なのだろう、人影もまばらな小道を秋子さんは暗い表情のままで歩いていく。その途中で祐一は何度か声をかけようと思ったのだが、いつもとは違う秋子さんの様子に声をかけることも出来なかった。

 田舎道を歩いていた秋子さんは、横合いの小さな石段を登っていく。祐一がその後を追うと、そこにはお墓が並んでいた。

「ここは……」

 不意にザァァァァァッ、と耳障りな音を立てて吹きぬけた風に、祐一の不安が最大限に膨れ上がる。祐一は必死に秋子さんの姿を探した。

「秋子さんっ!」

「……祐一……さん?」

 あるお墓の前に秋子さんはいた。お墓にはおそらく秋子さんの手編みと思われるセーターと手袋が供えられている。墓前に立つ秋子さんの顔は、祐一が今までに見たことがないものだった。

 秋子さんの瞳が、大粒の涙で濡れている。いつもの秋子さんからすると、信じられない表情だ。

「あ……」

 祐一は思わず秋子さんを抱きしめていた。思ったよりもずっと小さな秋子さんの身体が、祐一の腕の中にすっぽりと納まる。

「ごめんなさい……」

 その腕の中で、秋子さんは震える声で謝りつつ、小刻みに身体を震わせて嗚咽を漏らしていた。

 秋子さんが泣き崩れないように、黙ってその身体を支え続けていた祐一は、そのときにふと思う。いつから秋子さんはこうして素直に泣くのをやめて生きるようになったのか。

 もしかすると秋子さんは、こうして誰かに包まれて心ごと休める場所を求めていたのではないだろうか。

 本当は不謹慎なのかもしれない。だが、祐一は今この腕の中にある温もりを、ずっと抱きしめていてあげたいと思っていた。

 

「ごめんなさいね、祐一さん……。みっともないところを見せてしまって……」

「いえ、いいんですよ。秋子さん」

 帰りの電車も車内には二人きり、軽快なリズムと一緒に揺られていた。

 聞けば秋子さんは毎年この時期になると、亡くなったあの人の墓前に手編みのセーターと手袋を供え続けているのだそうだ。

「……あの人が生きている間には、編んであげることができませんでしたから……」

 それを聞いて祐一は、正直あの人のことをねたましく思う。いまだに秋子さんの心を縛り続けているあの人のことを。

 だが、それと同時にかなわないとも思う。死してなお秋子さんの心に生き続け、そして今なお支え続けているという事実に。

 ふと祐一は思う。もしも、自分と名雪が秋子さんとあの人と同じだとしたら、名雪は自分のことをずっと思い続けていてくれるだろうか。

 それとも別にいい人を見つけて、他の幸せを見つけてくれるだろうか。

「どうかしましたか? 祐一さん」

「いえ、別に……」

 祐一はついしげしげと秋子さんを眺めてしまっていたらしい。

「……やっぱり母娘なんだなって思っただけです」

 言われている意味がよくわからないのか、秋子さんは小首を傾ける。そのしぐさは歳相応には見えず、祐一の目には妙に可愛く見えた。こうしてみると本当に名雪にそっくりで、もう何年かしたら名雪もこうなるんじゃないかと思わせた。

「そっくりですよ、名雪と秋子さんは……」

 返事のこない手紙を書き続けた名雪。もう着てはもらえないセーターを編み続けた秋子さん。本当にそっくりだ。

「……やっぱり俺なんかじゃ秋子さんの支えになれませんか?」

「そんなことはありませんよ。祐一さんには本当に感謝しています」

 そう言って秋子さんはいつもの笑顔を祐一に向ける。

「あの子と二人きりだったところに祐一さんが来て……。今ではあゆちゃんに真琴もいるんですから」

 名雪と二人きりの生活というのは、祐一が考えるよりずっと大変なものだっただろう。二人で暮らすには不自然なくらい大きな家で、それでも秋子さんと名雪はお互いに助け合い、支えあってきたのだ。そんなところに祐一がやってきて、真琴が来て、あゆが来て、そして今みんなで家族になっている。二人きりだったころには考えられないほどのにぎやかさだ。

「それに……」

 突然秋子さんは無邪気に微笑む。

「祐一さんの背格好があの人と同じで、随分と頼もしくなりましたから」

「そうですか……」

 そんな風に言われると、祐一もそれ以上言葉を続けることができなくなってしまう。

 今はまだ頼りないのだと、祐一は自分でも思う。でも、いつの日にか秋子さんにとってのあの人のようになりたいと思った。

「それと祐一さんにはお願いがあるんですけど……」

「なんですか?」

「今日のことは……名雪には内緒にしておいて欲しいんです……」

 秋子さんの真剣な表情に、祐一は思わず息をのむ。よくよく考えてみれば、名雪は父親の顔を知らない。おそらくこれは、娘に余計な心配をかけたくないという親心の現われなのだろう。

「わかりました、秋子さん」

「二人だけの秘密、ですよ?」

 力強くうなずいた祐一に安心したのか、秋子さんは相好を崩し、再びいつもの無邪気な少女のような微笑を浮かべた。

 

 家に帰って夕食をたべ、祐一が部屋でくつろいでいると、不意に扉がノックされた。

「わたしだけど、いいかな?」

「名雪か、入れよ」

 扉の隙間から顔をのぞかせた名雪を、祐一は部屋に招きいれる。

「どうしたんだ? こんな時間に」

「こんなって、まだ九時だよ?」

 普段の名雪ならとっくに寝ている時間だろう。いくら最近は夜更かしができるようになったからといっても、やはり限度というものがある。

「で? なんの用だよ」

「うん……」

 暗い表情でうつむきつつ、パジャマ姿の名雪は手にしていた紙袋を大事そうに抱えたまま祐一のベッドの端に腰掛けた。祐一も机の椅子に逆向きに座って名雪を見る。

「今日あたり行ったのかなって思って……」

「行ったって?」

「お母さん……。お父さんのところ……」

 それを聞いて祐一は愕然とした。秋子さんは内緒だと言っていたが、どうやら名雪は知っていたようだ。

 だが、これは秋子さんとの秘密。祐一はそのことを悟られないように、慎重に口を開いた。

「……お父さん……?」

 名雪は力なくうなずく。

「丁度今頃の季節になるとお母さんこうだから……」

 それきり妙な沈黙が部屋を支配する。

 おそらくこの日は神聖な日。秋子さんが名雪の母親から、一人の女性に戻る日なのだろう。名雪にとっては顔も覚えていない父親だが、秋子さんにとっては愛した男性であり、その証が名雪なのだ。

 名雪とて秋子さんの気持ちがわからないというわけではない。なまじわかってしまうからこそ、やるせない気持ちになるのだろう。

 不意に訪れた重苦しい雰囲気に耐えられなくなった祐一は、話題をかえることにした。

「ところで名雪。なんだ? それ」

 祐一は椅子から立ち上がり、名雪の隣に腰掛けると、大事そうに抱えている紙袋を指差した。

「これは……」

 名雪は手に持っていた紙袋から、マフラーを取り出した。

「名雪、これ……」

「あまりじろじろ見ないでよ。……初めて作ったから……色々失敗しちゃって……」

 そう真っ赤になってうつむく名雪の姿が、妙に愛らしく感じる。きっと毎日ずっとがんばっていたのだろう。出来はともかくとしても、このマフラーにこめられた名雪の真心は既製品にはないものだ。

 名雪は、んしょ、と祐一の首にマフラーを巻く。祐一は名雪と同じくベッドに腰掛けているが、マフラーの端の部分は床についてしまっている。

「ちょっと……長かったかな?」

「そんなこともないさ……」

 祐一はそっと名雪の首にもマフラーの余った部分を巻いてやる。

「こうすればぴったりだろ?」

 まるで磁石が引き合うように、自然に二人の距離が近くなる。腕と腕が触れるくらい距離が近づくと名雪はゆっくりと目を閉じ、祐一の顔を見上げるように上を向いた。そっと閉じられたまぶたに長いまつげがさわさわ震えている。祐一がそっと顔を近づけ、唇と唇が触れ合おうとした刹那。

「祐一〜」

 ノックもせずに真琴が部屋に飛び込んできた。中の様子に真琴は大きく目を見開く。

「二人ともなにしてるの? 首で綱引き?」

「……いや、なんでもない……」

 突然の闖入者にあわてて離れようとした二人だが、首と首がマフラーでつながっているために引っ張り合いになってしまったのだ。

「それより真琴、部屋に入るときはノックぐらいしろっ!」

「そんなことより、見て見て」

 得意満面といった様子で真琴は手袋を見せる。それは手の甲の部分に肉まんの模様が入ったかわいらしいものだ。

「秋子さんが作ってくれたの〜」

 そのあまりのはしゃぎように、さっきまで怒っていた祐一の毒気が抜かれていく。おそらく真琴は嬉しくて嬉しくてどうしようもなくて、それで祐一にも見せに来たのだろう。だが、あまりにも絶妙なタイミングすぎて、これには祐一も唖然とするより他にない。

「あ……だめだよ真琴ちゃん。祐一くんが名雪さんと一緒にいるところを邪魔しちゃ」

 少し遅れて手に紙袋を二つ持ったあゆが部屋にやってくる。

「こういうときは物陰からそっと見守るものだって、秋子さんも言ってたじゃない」

 それは覗きって言うんじゃないのか、と祐一は心の中でつっこみを入れる。

「で? なんの用だ、あゆ」

「秋子さんがね、手袋を作ってくれたんだよ」

 ほら、とあゆは手袋を見せる。手の甲の部分のたい焼き模様が真琴とは違うところだ。流石に真琴ほど手放しに喜んでいるわけではないが、あゆもよほど嬉しいのだろう。思わず見ているほうが嬉しくなるような微笑を浮かべていた。

「それを見せにきたのか?」

「それもあるけど、ボクは二人に秋子さんからの届け物があって……。はい、こっちが祐一くんでこっちが名雪さん」

 あゆは二人に紙袋を手渡した。

「わ、セーターだ」

 紙袋の中には、秋子さんの手編みと思われるセーターが入っている。それを見た真琴が嬉しそうな声をあげた。

「ねぇねぇ、着て見せて着て見せて」

 瞳を爛々と輝かせて懇願する真琴の視線に負け、祐一は着ていたパジャマの上からセーターに袖を通す。そのセーターはまるであつらえたようにぴったりだった。

「ふわ……」

「あう……」

 あゆと真琴の感嘆したような声に祐一が視線を向けると、丁度パジャマの上からセーターを着た名雪が髪を抜くところだった。かきあげるときにふぁさぁと広がる髪が、光を浴びて動くたびに色彩を変えるところが実に綺麗だ。

「名雪さん……綺麗……」

「あう〜、よく似合ってる」

 あゆと真琴は口々に名雪を褒め称える。何故か知らないが、祐一は妙に一人取り残された気分になっていた。

「……俺は……?」

「祐一くんはいいの」

「そうよぅ、祐一はなに着ても一緒なんだから」

 何気に酷い台詞に、祐一は少し落ち込んだ。

「……でも、祐一くんとおそろいなのは、ちょっとうらやましいかな……」

「あう〜……」

 二人の格好を見比べつつ、あゆは口を開く。その隣では、真琴もちょっとうらやましげに二人を見つめていた。

「そうだ、二人とも。ちょっと待っててくれる?」

 

「お待たせ〜」

 手になにやら抱え、名雪が部屋に戻ってきた。

「こっちがあゆちゃんで、こっちが真琴ね」

 名雪は二人にそれぞれセーターを手渡す。

「ね、着て見せてくれる?」

 あゆと真琴は互いに顔を見合わせると、着ていたパジャマの上からセーターを着る。真琴は髪を抜くときに名雪のしぐさを真似てみるが、それに比べるとまだまだぎこちない様子だ。真琴もそうしたしぐさを色々と真似してみたい年頃なのだろう、その隣ではショートヘアのあゆがうらやましそうに見ていた。

「名雪さん、これ……」

「あう〜、名雪と一緒〜」

 おそらくは秋子さんの手編みなのだろう。祐一や名雪と同じデザインのセーターに、あゆと真琴は実に嬉しそうだ。

「わたしのお古だけど、ぴったりでよかった」

 二人の喜びように、名雪は心底嬉しそうに目を細める。

「いいのか? 名雪」

「わたしはもう着られないし、お洋服だって誰にも着てもらえないんじゃかわいそうだよ」

 確かにたんすの肥やしにしておくよりは、こうして誰かに着てもらったほうが洋服も嬉しいだろう。それにあゆと真琴はこれで名雪とおそろいだとおおはしゃぎだ。三人とも血はつながっていないというのに、こうしているとまるで本当の姉妹のようだ。

 祐一は再び一人取り残された気分になっていたが、些細なことで笑いあう三人の姿はなによりも心を熱く満たすものだった。

「あ、見てみんな」

 名雪が窓の外を見て大きな声を上げる。

「雪だよ」

 その声にあゆも真琴も、祐一も窓のそばによる。

「初雪だな」

 暗い空から舞い降りて来る小さな小さな白い結晶。このまま一晩降り積もれば、明日には見知らぬ世界が広がっていることだろう。

「本当だ……」

「あう〜」

 喜ぶあゆと対照的に、真琴の表情は暗く沈んでしまう。

「そうか、真琴は寒いのがいやだったな」

 冬将軍の襲来は、寒いのが苦手な祐一や真琴の気分を暗く沈ませるものだ。だが、予想に反して真琴は屈託のない笑顔を祐一に向ける。

「でも〜、秋子さんが作ってくれた手袋と、名雪のくれたセーターがあればあったかいもん」

 それには祐一も同意見だ。なにしろこうして暖かい家族や仲間たちと共にいられるなら、寒さを感じることも無いだろうからだ。

 降り続く雪に、祐一はふと傍らにいた名雪の身体を抱き寄せる。この腕の中にある温もりがあれば、この先なにがあっても大丈夫。祐一はそんな気がしていた。

 このとき祐一は、いつの日にかまたあの人が眠るあの場所に行ってみようと思った。そのときは名雪も一緒に連れて行き、きちんと挨拶をしなくてはいけない。

 名雪をくださいと……。

 巡り行く季節の風景の中を、これからも二人で一緒に歩んでいくために。

 

「あら?」

 編み物をしていた手を止めて、秋子さんは窓の外を見る。

「雪……」

 雪が降っている。思い出の中を白く埋め尽くすような雪が。

「今年もこの季節が巡ってきましたね」

 静かに雪を降らせる雲の天井を見上げ、不意に秋子さんはかつて愛したあの人が言った言葉を思い出す。

 雪は冷たいが優しい。このあたりの木枯らしは鼻も耳も、指ですらちぎられるくらいに重く厳しいものだ。だが、凍った大地の中では、小さな生命が春を待って眠っている。雪はそんな小さな生命を木枯らしから守ってくれているんだ。

 だから俺は雪が好きだ。あの人はよく秋子さんにそう語ったものだ。

 そんなあの人も今はすでになく、秋子さんには名雪が残されるのみとなった。あの人が好きだといった雪の名を持つ、もっとも大切な愛娘が。

 おそらくあの人は秋子さんが泣き暮らした挙句に後を追ってこないように、名雪を残していってくれたのだろう。名雪との生活の中で、秋子さんはそう思うようになっていた。そう、いつだって秋子さんは一人ではなかったのだ。

 そして、季節は巡り行く。あの人が、名雪が好きだといった季節が再びやってくる。

 降り積もる雪が優しく街を変えていく。そんな幻想的な光景を、きっとあの人もこの空のどこかで見ているのだと秋子さんは思う。

 あの人に出会って、すべてが変わりはじめたこと。幸せと優しさが一つずつ増えていったこと。苦しみも喜びも同じ気持ちで感じたいと思ったこと。そして、あの人がいなくなったとき、なにもできずに悔やんだこと。嬉しいことも悲しいことも、あの人は秋子さんの胸にいっぱい残していってくれた。

 はじめて見たあの人の笑顔は、今でも秋子さんの心に生き続けている。それを思い出せば、どんな辛いことでも乗り越えていけた。そう言う意味で名雪の笑顔は、本当にあの人にそっくりだ。見る人全てを暖かく包み込んでくれるような笑顔は、秋子さんにとって本当に大切な宝物なのだ。

 名雪は父親を知らない。そのせいで娘に寂しい思いをさせてはいけないと、秋子さんは今までずっとその笑顔が続くように守り続けてきた。その意味で言えば、名雪は秋子さんの生きる希望、名雪がいたからこそ今まで生きてこれたといえるのだ。

 そんな秋子さんの役目も、もうすぐ終わる。今の名雪のそばには、これからもずっと支え続けてくれるであろう存在があるからだ。

 その人は、今はまだまだ頼りない。でも頼りないからこそ、これからも二人で力をあわせて歩んでいくのだろう。

 人は一人では生きてゆけない。そして、一人で生きてはいけない。人という字は、人と人が支えあう姿から作られた字というのは、昔のドラマでも知られたとおりだ。

 繰り返す季節、止まらない時間はいつか秋子さんをあの人の元に誘うだろう。そのときに秋子さんは、あの人を力いっぱい抱きしめたいと考えていた。

 いつでもあきらめない強さをくれるあなただから……。

「ずっと愛しています。あなた……」

 初雪がふりしきる中、秋子さんは暗い空を見上げつつ、その誓いを新たにした。

 

 見上げる雪は虫のよう、風に吹かれて舞い踊る。

 降りゆく雪は綿のよう、ふわふわふんわり舞いおりる。

 大地に落ちればやはり雪、全てを優しく包み込む。

 

 人と人との出会いは一瞬、だけど想いは永遠に……。

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