裏しおりん・完全版

 

「遅いわ……」

「いきなり呼び出しておいてそれか」

　ここは夜の校門前。街灯の光が照らし出す輪の中に、制服姿の香里がぽつんと一人佇んでいた。静かに降りはじめた雪が香里を覆いつくそうとしているが、それを払う様子も無く、うつむき加減でじっと動かずにいた。

「なんの話だ？」

　香里がなにを話したいのか、祐一はある程度予想はついていた。そして、香里は祐一に視線を合わせようともせず、静かに重い口を開いた。

「妹の話よ……」

　それまで『あたしに妹なんていないわ』と言い続けていた香里の口から初めて妹のことが語られた。それはずっと病気に苦しんでいた妹のことを見守り続けてきた、香里の精一杯の想いだった。

「教えてよ、相沢くん……」

　目じりに真珠を輝かせ、香里は祐一に向かって一歩足を踏み出す。

「あの子一体、なんのために生まれてきた……の？」

　そのまま胸にすがりつこうとした香里を、祐一はついいつもの癖でよけてしまった。

「えっ？」

　そして、香里は勢いよく雪の上に倒れた。ふりつもったばかりの新雪に身体が半分埋まったようなその姿は、つぶれたかえるの様であったと後に祐一は語る。

「あ……え〜と。大丈夫か、香里？」

　雪の上で動かない香里に、祐一は恐る恐る声をかけた。

「悪気があったわけじゃないんだ……。だから、その……つまり……」

　祐一はなんとか弁解を続けるが、それでも香里の返事はない。

「もしかして、全然痛くなかったとか？」

「よけた……わね？」

　祐一の必死の弁解も許さないようなオーラを放ち、香里はゆっくりと立ち上がった。

「それは、香里が襲いかかってくるから……」

　ゆら〜り、という表現がよく似合うようなゆっくりとした動作で祐一に笑顔を向ける香里。だが、その笑顔はなによりも恐ろしいものだ。

「感動のシーンだったのに……」

　おもいっきりひっくりこけたために、香里の鼻の頭は真っ赤になっている。そのため、鼻を押さえた香里の声はものすごく変だった。

「こういうシーンで相手に身をかわされたって言うの……。世界中探しても多分あたしくらいでしょうね……」

「よかったな、世界初だ」

「あまり嬉しくないわね……」

　そう言って香里は、深くため息をついた。

「前々からそうじゃないかな、とは思っていたけど……。やっぱり相沢くんはそうだったのね……」

「やっぱりって……なにがだ？」

「言葉どおりよ」

「そうだよ」

　そこへ突然現れる名雪。この唐突なエンカウントには流石の祐一も少々びっくりだ。

「名雪？　いつからそこに？」

「ついさっきから……」

　走ってきたのか、白い息を大きく吐いて名雪は言葉を続けた。

「だって……香里から電話があって……。祐一を呼び出すから愛の告白かと思って心配で……」

　名雪の目に涙があふれる。

「香里の方が美人だし……頭もいいし……。わたしに、勝ち目なんてないし……」

「心配いらないわ、名雪。あたしにそんな気はないし、それに相沢くんはアレだし」

「アレ？」

　名雪はきょとんとした表情で香里を見た。

「川澄先輩達のお弁当を断って、寒い中庭に行ってたときから、そうじゃないかな、って思ってたのよ……」

「そういえば祐一、お引越しの荷物を片付けるときもあゆちゃんに頼んでたし、真琴のお風呂も覗いていたよね……」

「やっぱり……。相沢くんは、ああいう小さい女の子が趣味だったんだ……」

　名雪の言葉にうんうんとうなずいていた香里は、突然祐一を睨みつけた。

「このロリータ男っ！」

「祐一の変態っ！」

　香里の叫びに呼応するように、名雪も祐一を睨みつけた。

「相沢くんの……」

「祐一の……」

「「馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿〜っ！」」

　乙女二人の怒りと、祐一の断末魔の叫びが雪振る街に響き渡った。

 

　…雪…。

　…赤く染まる雪…。

　…痛くて、苦しくて…。

　…とにかく、情けなくて…。

　…弁解も、できなくて…。

　…何発も、何発も…。

　…繰り返される苦痛の中で…。

　…来るはずのない安らぎを望んでいた…。

 

　翌日祐一は、校門の前に変わり果てた姿で棄てられていたのを登校してきた生徒に発見された。赤く染まった雪の中に倒れていた祐一は、顔が見分けもつかないほどに腫れ上がっていたという。『ロリータ男天誅』と書かれたプラカードを首から下げた祐一の姿に生徒達は疑問に思ったが、後日最後の一週間を過ごすために登校した栞と一緒にいるところを目撃され、生徒達はそんな二人の姿にあのプラカードの意味を知るのだった。

 

　そんなある日、祐一は栞と一緒に百花屋に訪れていた。

「なんでも好きなもの頼んでいいぞ、栞。今日は俺のおごりだからな」

「ありがとうございます、祐一さん。でも……」

　栞はとなりの祐一の顔を見上げた。包帯や絆創膏だらけになった祐一の顔は、見るからに痛々しい。

「……どうしたんですか？　その傷……」

「こ…これは……」

　流石に香里と名雪にやられた、とは言えない祐一。しかも、ここ最近はこうした生傷が絶えない

「……いいか、栞」

「はい」

「世の中には知らなくてもいいことがあるんだ。わかるな？」

「……よくわからないけどわかりました」

「ご注文はお決まりですか？」

「俺はコーヒー。ホットで」

　注文をとりにきたウェイトレスに、祐一はにこやかにいつものやつを注文した。

「それでは、私はこの……」

　メニューとにらめっこしていた栞が、ある一点を指差して口を開く。

「ジャンボミックスパフェデラックスをお願いします」

　それを聞いて言葉を失う祐一。その期待に満ち満ちた視線は、この機会を逃しては食べるチャンスがありません。と、なによりも雄弁に物語っていた。なんとなく祐一は、栞には悪魔の尻尾でもついているんじゃないかと思ってしまう。

（おごりだと聞いて迷わず一番高いものを選んだ。流石にあの女の妹だけのことはある……）

「どうかしましたか？　祐一さん」

　つい祐一は、栞をまじまじと見つめてしまった。

「いや、なんでもない。気にするな」

　ちょうどそのときドアベルがなり、新しい客が入ってきた。ふと入り口に目を向けた祐一は、その二人の姿を見て愕然とする。それは、香里と名雪の二人だったからだ。

「祐一さん？」

「しー」

　祐一は必死に隠れようと身を縮こませる。だが、その動きははたから見ていると珍妙でしかない。

「祐一……？」

　なんとか隠れようとしていた祐一の背中に、名雪の冷ややかな声がかけられる。その声音には抵抗する意欲すら奪いかねないほどの凄みが加わっていた。

「相席、いいかな？」

　恐る恐る見上げる名雪はいつものように笑顔を絶やさない。しかし、底冷えにするような殺気を纏ったその笑顔は、祐一にとってなによりも恐ろしいものであった。

「いいよね……」

　その笑顔は名雪の見栄えがいいだけに妙に迫力がある。それだけに祐一はただうなずくことだけしかできなかった。

「えっと……はじめまして、かな？」

「は……はい、はじめまして」

　すっと栞の対面に座った名雪に突然声をかけられた瞬間、栞は背筋が凍りつくような感覚に襲われた。

（この人……目が笑ってません……）

「わたしは、水瀬名雪。祐一のいとこだよ……」

　名雪は特に『いとこ』の部分を強調するように自己紹介した。

「こっちは美坂香里。わたしの親友だよ」

「……私は、栞です」

　そうして自己紹介する最中も香里は沈黙を守り続けていたが、その目は微妙に笑っている。それはまるで祐一のあせり具合を楽しんでいるかのようだ。

　ウェイトレスが注文を取りに来て、名雪はイチゴサンデー、香里はオレンジジュースをそれぞれ注文した。

「栞ちゃんはなにを頼んだの？」

「は……はい、祐一さんのおごりでジャンボミックスパフェデラックスを……」

「ふうん……」

　名雪は冷ややかな視線を祐一に向ける。まるでレーザーのような眼光が、ちりちりと痛い。

「……随分お金持ちだね、祐一」

　名雪の視線から逃れるように顔を背ける祐一。あいもかわらず無表情、無関心を装ってはいたが、その目はしっかりこの状況を楽しんでいる香里。

　店内が妖しげな空間に支配されそうになった丁度そのとき、ウェイトレスが震える手で注文の品を持ってきた。それはできることならこの空間に近づきたくないようにも見える。それでもスマイルを絶やさなかったのは特筆に価するだろう。

「大きいですね……」

　イチゴサンデーやコーヒーなどの比較的シンプルな品の中で、ジャンボミックスパフェデラックスは、その名に恥じない堂々たる巨体を誇示していた。

　いただきます、といってから栞は食べはじめた。途中から名雪も協力するが、パフェはなかなかなくならなかった。

「えう〜限界です〜」

「わたしもだよ〜」

　二人は結構がんばったようだが、パフェはまだ大量に残っていた。

「残すの……もったいないわね……」

　それまで沈黙を守っていた香里が、不意に祐一に声をかける。

「せっかく注文したのに、残すのはもったいないと思わない？」

　香里の冷たい視線は、まっすぐ祐一を見ていた。

「よし、後は俺が全部片付けてやる」

「祐一さん……」

「隠れ甘味王と呼ばれたこの俺の実力、たっぷりと見せてやる」

　そう言ってチャレンジを開始する祐一。アイスを一さじ口に含むが、名雪と香里の冷たい視線にさらされていてはまるで味がしない。しかもその視線は、アイスよりも冷たいものだ。それでも祐一は必死になって食べ続け、ついにジャンボミックスパフェデラックスを完食した。

「やったよ、祐一」

　名雪は喜びの声を上げる。

「お祝いに今晩はご馳走だよ。わたしもがんばって作るから、残さないでね？」

　冷えて苦しい腹もそうだが、なによりも名雪の冷たい視線の方が怖い祐一であった。

 

　百花屋を出たときの祐一の懐は、表の気温よりも寒くなっていた。

「祐一さん、今日はご馳走様でした」

「……ああ」

「それにしても知らなかったな、祐一にこんな可愛い彼女がいたなんて……」

　本来ならほほえましい光景なのだが、名雪の放つ冷たい殺気が栞を直撃していた。

「本当、見る目がないわよねえ……」

　同様にして、香里の冷たい殺気が祐一を直撃していた。

「栞は、あたしの妹なんだから……」

「お姉ちゃん……」

　本来なら喜ぶところなのであるが、こうも殺気が充満していると素直に喜べない栞であった。

「それじゃ、あたしはここで。名雪、ちょっとあたしの用事に付き合ってくれる？」

「あ、うん。それじゃあね栞ちゃん。祐一はまた家でね……」

　栞には明るめだった名雪の声音が、祐一を見た途端急に冷たいものにかわる。二人の姿が雑踏の中へ消えたのを確認した後、祐一と栞はそろって大きく息を吐いた。

「えう……怖かったです……」

「言うな、俺も怖かった……」

　このあと祐一は家に戻って名雪と顔をあわせなくてはいけないことでかなり気が重かったが、それは栞も姉と顔を合わせなくてはいけないために同じことだった。

「それじゃ祐一さん、私はこれで」

　そう言って栞は頭を下げ、祐一と別れて家に帰った。

 

「……祐一くん……」

　家路を急いでいた祐一は、不意に背後から声をかけられた。

「あゆ、久しぶりじゃないか……」

　普段なら唐突に現れては勢いよく背中に飛びついてくるのだが、なぜか今回はそういう行動をとることは無く、なにか思いつめているようにも見えた。

　祐一が栞と関わるようになってからは疎遠になっていたこともあり、こうして久々に出会えたのは祐一にとってなかなかに嬉しいことでもある。

「そうだね……」

　しかし、真っ赤な夕日に包まれたあゆの笑顔は、なにかにおびえたように引きつっていた。

「あのね、ボク……探し物、見つかったんだよ……」

「そうか、よかったな」

　ずっと探していたものが見つかった、という割には、あゆはせわしなく辺りを見回している。まるで小動物のようなあゆの姿を祐一は少し変なように思った。

「だ……だからね、ボクもうこのあたりには来れないと思うんだ……」

　ボクも生命は惜しいからね、とあゆは小さく呟いた。

「なにか言ったか？」

「ううん！　なんでもない、なんでもないよ」

　あゆはあわてて手を振り回した。

「そうか、それじゃ俺のほうから会いにいくっていうのはどうだ？」

「だめ、だめ、だめっ！　それは絶対にだめっ！」

　小さなその身体を目いっぱい使って、全身で祐一を拒絶するあゆ。そのあゆの態度に、祐一は少しさびしいものを感じた。

「それじゃあね、祐一くん。ばいばい」

「ああ」

　赤い夕日の中に消えてゆくあゆの後姿を、雑踏に隠れて見えなくなるまで祐一は目で追っていた。まるでその姿を瞳に焼き付けるように。

　そして、これ以後祐一はあゆに会うことはなかった。

 

　雪が降りしきる深夜の公園で、祐一は栞と最後の時を迎えようとしていた。二人が並んで腰掛けているベンチの後ろでは、カクテルライトに照らされた噴水がきらびやかに輝いている。そんな中で、栞はおもむろに口を開いた。

「祐一さんは、私の命の恩人なんですよ」

「そんな、大げさな」

　そう言って祐一は軽く笑うが、栞は不意に席を立って背を向けた。

「祐一さんは……私と初めて出会った時のことを憶えていますか？」

「中庭でのことか？」

「違います。その前のことです」

　その栞の言葉に祐一は思いを巡らせる。それは二人が運命の出会いをしたとき、あの遊歩道での出来事だ

「思い出したぞ、確かあゆの食い逃げに巻きこまれて遊歩道に逃げ込んで、それで栞に会ったんだ」

「はい、あの時の祐一さん、とても面白かったですから……」

「俺が……面白い……？」

　栞はそう言うが、祐一にはなにも思い当たることがない。あの時の祐一には、ただ普通にあゆをからかっていただけの感覚しかないからだ。そのせいなのかどうかはわからないが、祐一には今の栞の台詞とあのときの状況がうまくかみ合わなかった。

「だって……あの時の祐一さん……」

　不意に栞はうつむき、なにか言いにくそうにもごもごと小さな声を出す。

「ズボンのチャック……全開だったんですよ……」

「……え？」

　その言葉に目が点になる祐一。確かに走り回った後だから、そうなっていても不思議はない。

「あゆさんもそれに気がついた様子が無くて『感動の再会シーンだよ』って言ってましたけど……」

　あの日を懐かしむ様に話を続ける栞。その反対に祐一は穴があったら入りたい心境だった。

「あの後私、家に戻って……。誰もいない暗い部屋で……買ってきた買い物袋の中から黄色いカッターナイフを取り出して……。銀色の刃を押し出して左の手首に当てたんです……。そしたら、不意にその時の光景が浮かんできて……」

　そのとき振り向いた栞の笑顔が、真っ直ぐに祐一を見る。

「笑いました、思いっきり。心の底から、涙を流して」

「ぐあぁぁぁぁぁ」

　あまりの恥ずかしさに祐一は頭を抱えてもだえ苦しむ。

「笑って……笑って……笑い終えたときにはもう、死のうなんて気はおきなくなっていました。だから祐一さんは、私の命の恩人なんです」

　そう言ってくれるのは嬉しいのだが、あまり嬉しくない祐一であった。

 

　そして、季節は巡り、街は春を迎えた。

「動かないでください！」

　暖かな空気に包まれた公園では、奇跡的に病気を克服した栞が、祐一をモデルにスケッチをしていた。

「そうだよ、祐一はモデルさんなんだから、動いちゃだめだよ」

「栞がちゃんと描けるようになるまでは、そのままだからね」

　栞を囲むように並んだ名雪と香里の冷たい殺気に包まれた上に、まるで凍てつくような鋭い眼光のために祐一は、彫像のように指一本動かせない。

「それは無理だろ？」

「そんなこと言う人嫌いですっ！」

　新しい季節が巡り、日差しが暖かくなっても、祐一を取り巻く環境は寒いままだった。

 

　こうして祐一は、ロリータ男のレッテルを貼られたまま、この街で生きていくこととなったのである。