雨降りもよう

 

「はぁ……」

 灰色の曇った低い天井から、銀色のしずくが降りてくる。少女は軽く息を吐くと、襟元で切りそろえられた小豆色の髪を揺らして鬱陶しげに空を見上げた。

 冬場の乾燥した空気と違い、夏も近づいた今の時期特有のじめじめとした湿気が不快感を募らせる。いくら短いとはいっても、髪が湿り気を帯びてしまうのはあまりいい気分ではないし。

 今の季節、こうして雨が降るのは仕方のないことではあるが、それだけに傘を忘れてしまうという彼女らしからぬ失態に、少女はうつむくと大きく息を吐いた。

 雨だれの奏でる音色が、しとしとぴっちゃんしとぴっちゃん、と鳴り響く。

(三番の歌詞はぱきぱきぴきんこぱきぴんこ ぱきぴんこでしたね……)

 などと無意味なトリビアを考えつつ、少女は再び空を見る。しばらく雨はやみそうもないし、このまま突っ切って帰ろうかと思った、丁度そのときだった。

「天野じゃないか、なにしてるんだ?」

「相沢さん……」

 物憂げに空を眺めていた少女、天野美汐はこのとき、運命という言葉を強く感じた。

 

「なるほどな、まさか天野がな……」

「笑わないでください。私も急いでたんです」

 休日を翌日に控えた土曜の昼下がり。この日美汐は珍しく朝寝坊をしてしまい、あわてて学校に来てしまったために傘を家に忘れてきてしまったのだ。普段ならこんな失態を演じる事のない彼女ではあるが、それをよりにもよって一番見られたくない人に見られてしまうなんて、顔から火が出るような思いだった。

「しかし、困ったな……しばらくやみそうにないぞ、この雨」

 口ではそう言うものの、当の祐一にそれほど困った様子はない。なにか秘策があるというのだろうか。

 そう美汐が考えていると、祐一はおもむろに傘立てに向かった。

「名雪の傘は、と……。これだな」

 祐一は傘立ての中から一本の傘を取り出した。ちなみにこれは名雪が万一のために備えておいてあるものだったりする。

「ご一緒にどうかな? お嬢さん」

「お気持ちは嬉しいのですが、水瀬先輩はどうするんですか?」

 二人の関係は美汐も知っているし、公認の仲だ。その名雪を放っておいて、祐一と一緒に帰る事が美汐には少々ためらわれた。

「その心配は無用だ。なにしろあいつは今日も部活だからな」

 本日陸上部の活動予定は体育館の隅っこを借りての柔軟運動である。走る事が大好きなのに今の時期はなかなか走る事が出来なくて、名雪はいつもの元気さが三割ほど落ち込んだような笑顔で教室を出て行った。

「まあ、こうして会ったのもなにかの縁だ。家まで送ってってやるよ」

「わかりました。ではお言葉に甘えて」

 口ではしぶしぶと言うような風情ではあるが、美汐は少しだけ足取りも軽く祐一のとなりに立つ。

(やっぱなぁ、女物の傘を差して一人で歩くってのもあれだしな……)

(相沢さんが……相沢さんが……。きゃっ♪)

 一つの傘を差して仲睦まじく、寄り添って歩いている二人なれど、その胸中に流れる思いはほとんど正反対といってもよかった。

 

「あ……あのさ、天野……」

「はい、なんですか? 相沢さん」

 瞳をちょっと潤ませて、上目遣いで見る美汐。比較的長身の名雪だとそうでもないのだが、小柄な美汐が相手では少々勝手が違う。水も滴る、とまではいかないものの、美汐も平均的な水準を超える美少女だ。いつもとは少し雰囲気の異なる美汐に、祐一も困惑気味だった。

「もう少し、離れてくれると……その……」

「えっ……?」

 美汐は祐一の二の腕に自分の腕を絡めると、その身を摺り寄せるように寄り添ってきた。名雪に比べるとささやかではあるものの、それでもはっきりと自己主張した女性の感触が腕に心地よい。

「ダメですよ、これ以上離れたら……。雨に濡れてしまいます……」

「それは……そうなんだが……」

 傘が小さいせいか二人で入るには窮屈なので、こうなってしまうのはしかたのない事だろう。実際祐一の肩も雨に濡れてしまっているし。それよりも気になるのは、衣替えも終わって夏服となったブラウス越しに見える、淡いグリーンのストライプだ。

 名雪が相手ならまだ見慣れてはいるが、美汐が相手だとどうにも目のやり場に困ってしまう。こういうときに名雪なら、祐一目がエッチだよ〜、とか言ってまんざらでもない微笑を浮かべるのだが、表情の変化に乏しい美汐ではなにを考えているのかまったく見当がつかなかった。

 祐一としては相手が美汐なら変な気分にならないだろうと思っていたのだが、このままの状態が続くとどうにも理性が持ちそうにない。これで相手が名雪ならマクシマイズと叫んでビーストモードにミューテーションするところなのだが。

「そうだ、天野。ちょっと、寄り道していかないか?」

「寄り道……ですか?」

「ああ、美味しいお茶をご馳走するぜ」

 

 二人が連れ立ってやってきたのは、水瀬家だった。

「……ここですか?」

「悪い、ちょっと金欠で……」

 確かにここならそこらのお店で飲むよりもはるかに美味しいお茶が楽しめるだろう。それよりもいきなり家に招待する祐一に、美汐も困惑を隠せなかった。

「……誰もいないな……」

「……そうみたいですね……」

 いつもは誰かがいてにぎやかな家なのだが、この日は何故か誰もいなかった。この広い家の中に二人っきりということで、否が応にも二人の鼓動は高鳴っていく。

「あ……あのさ、天野……」

 それには答えず、美汐はそっと祐一の背中に抱きついた。

「天野?」

「天野、なんていやです。美汐って呼んでください」

 美汐は今までずっと気にしていた。祐一を取り巻く女の子達の中で、自分だけが名前で呼ばれていない事に。

「美汐」

「相沢さん」

 不意に正面から抱きしめられ、美汐は祐一の顔を見上げる形となる。

「違うだろ? 美汐。俺はお前を名前で呼んだんだ。だからお前も、俺の事を名前で呼んでくれなくちゃ」

「あ……」

 夢にまで見た祐一の優しい笑顔にそう言われて、美汐は練習に練習を重ねた言葉を口に出す。

「祐一……さん……」

「美汐……」

「祐一さんっ!」

「美汐っ!」

 そして二人は限りなく熱い抱擁を交わし、そのまま……。

 

(……なんて事になるはずありませんよね……)

「お帰りなさい、祐一くん。いらっしゃい、天野さん」

「おう、ただいま。あゆあゆ」

「うぐぅ、あゆあゆじゃないよ」

 いつもの二人のやり取りを横目で眺めつつ、小さく息を吐く美汐であった。そんな美汐の姿にあゆは、きっと雨に濡れて気持ちが悪いのだろうと思い、にこやかによく乾いたタオルを差し出すのだった。

「あう、美汐〜」

 普段は人見知りが激しく、こうした来客を苦手としている真琴ではあるが、相手が美汐なら話は別。奥のリビングからとてとてと駆け寄ってきた。

「いらっしゃいませ」

 そのままぴしっとと三つ指をつき、丁寧にお出迎えをする。

「なあ、真琴。ちょっといいか?」

「なによ、祐一。真琴はちゃんと美汐に教わったとおりにしてるのよぅ?」

「確かに三つ指をついてお出迎えしてくれるのはいいんだが……」

 そこで祐一は軽く息を吐いた。

「お前のその手、三つ指じゃなくて影絵の狐だ……」

「あう?」

 

「粗茶ですが」

 そう言って真琴が差し出した湯飲みから、お茶を一口すする美汐。立ち上る香気と馥郁とした芳醇な味わいがなんとも心地よい。充分に茶葉が開く事によってえられる優しい渋みとほのかな甘みがすがすがしく、飲み込むと軽い後味が喉の奥から口いっぱいに広がってくる。

 それに、お茶の表面に浮いた細かな毛が、このお茶が最高級の玉露である事を示している。茶葉の新芽の表面には、赤ちゃんの産毛よりも細かい毛が生えており、葉が育ちすぎてしまうとこの毛は落ちてしまう。一見ホコリのようにも見えてしまうが、これは安物の茶葉には浮かばないものであるため、このお茶が上質のものである証拠となっているのだ。

 このようなよいお茶も、淹れ方を間違えてしまうとおしまいとなってしまう。玉露の場合は熱湯を使うのではなく、六十度以下のお湯を使うのが常識だ。なぜなら、そうしないと玉露の持つまろやかな味わいが失われてしまうからだ。そして、お茶を注ぐときには最後の一滴まで徹底的に絞りつくす。これは紅茶と同じで、最後の一滴が一番美味しいからだ。

「美味しいです」

「よかったぁ……」

 美汐の最大限の賛辞に、真琴は安堵のため息を漏らす。

「よかったね、真琴ちゃん。練習した甲斐があったね」

「うん」

 美汐に美味しいお茶を飲んで欲しい。前に美汐の家に遊びに言ったときに飲んだお茶が美味しかったので、真琴も自分でそう言うお茶を入れてみたくなり、そこで真琴は秋子に教わる事でお茶の淹れ方を完璧にマスターしたのだ。

「それにしても、お茶受けがたい焼きですか?」

「うん、今日はたい焼きの日なんだよ」

 ボクが焼いたんだよ、と胸をはるあゆ。

「昨日は肉まんの日だったのよ」

 と、胸をはる真琴。もっとも彼女の場合はレンジで暖めただけだが。

「明日はイチゴショートの日だよね、真琴ちゃん」

「うん」

 どうやら水瀬家では日替わりでその日のおやつが決まるらしい。このあたりの感覚は一人っ子の美汐にはよくわからない事だ。とはいえ普段仕事が忙しい秋子にとって毎日のおやつを用意するのは並大抵の事ではない。特に名雪がまだ小さかったころには相応の苦労をした事だろう。

 それが今ではこうしてにぎやかな空間となっている。その一員になるなんて、少し前までの美汐にも考えられなかった事だ。

 やがて着替え終わった祐一がリビングに下りてきたとき、その中の光景に愕然とした。

「あ……天野が……」

 そこはあまりにも和やかな空間だった。だからこそ祐一は安心し、いつもの様子で足を踏み入れたのだ。

「どうかしましたか? 相沢さん」

 こくん、と小首を優雅に傾け、美汐は不思議そうな瞳で祐一を見る。少なくともそのしぐさには、おばさんくさい要素は微塵も感じられない。と、言うか、むしろ萌え。

「いや、どうもうこうも……なんでそんな格好を? それに俺のワイシャツじゃないか」

 今美汐が着ているのは男物のワイシャツ、それも祐一のワイシャツだ。美汐はすっとソファーから立ち上がると、そのままくるりと一回転してみせる。そのときにふわりと裾が持ち上がるのだが、不思議とその中にある禁断の領域を見る事は出来ない。いや、そればかりかこの上にケープを羽織れば、学校の制服のようにも見えてしまう。

「おかしいですか?」

「おかしいとかそれ以前の問題として……」

「では似合わないと……。そんな酷な事はないでしょう」

「いや、そうじゃなくて……」

 妙にうろたえまくる祐一を気の毒に思ったのか、そこにあゆが助け舟を出す。

「天野さんの制服が濡れちゃってたから、乾くまでの間ちょっと着ててもらってるんだよ」

「そうよぅ、女の子の制服が濡れちゃって、男の子の家に来たときはこういう格好するんでしょ?」

 ちゃんと漫画に載ってたわよ、とは真琴の言い分だ。

 確かに二人の言い分は間違っていない。間違ってはいないが、なにかが激しく間違っているような気がする祐一。そもそも女の子にこういう格好させるのは、家に二人っきりの場合だ。

「まさか……祐一くん……」

 その瞳を驚愕に大きく見開くあゆ。

「美汐に裸でいろって言うの?」

 こちらも負けず劣らずに驚愕の視線で祐一を見る真琴。

「いいんですよ……私は……」

 そう言って軽く微笑み、ワイシャツのボタンに手をかける美汐。

(落ち着け、冷静になれ相沢祐一。ビークール。そう、ビークールだ……)

 突如として脳裏に浮かび上がるピンク色の光景を、祐一は必死に深呼吸して追い払おうとする。しかし、頬を紅くして上目遣いで祐一を見る美汐の潤んだ瞳を前にしては、無条件降伏してしまうのも時間の問題であるともいえた。

 結局この三人にからかわれていただけだという事に祐一が気づいたのは、一時間ほど後の事だったという。

 

「さて、そろそろ時間だな」

「そうだね」

 時計を見た後に出かける支度をはじめた祐一を、美汐は訝しげに見た。

「そろそろ名雪の部活が終わるころだからな、迎えにいってやらんと」

 口ではそういうものの、祐一は足取りも軽く玄関に向かい、お見送りするためにあゆもその後についていく。

 そろそろお暇しようかと美汐は思ったが、未だに雨はやむ気配がない。どうしようかと思ったそのときだった。

「美汐〜」

 そこへ真琴がとてとてとかけてくる。見ると手にはなにかを持っているようだ。

「漫画、読んでくれる?」

 瞳をきらきらさせた真琴のお願いに、美汐は抗う術を持たなかった。

 

「ただ〜いま〜」

「お帰りなさい、祐一くん、名雪さん」

「ただいま、あゆ。ところで、なんの音だ?」

 リビングのほうからなにやら怪音が鳴り響いてくる。

「『ブオォォォォォッ!』『ホガァァァァァッ!』」

「今ね、天野さんが真琴ちゃんに漫画を読んであげてるんだよ」

「漫画?」

「『いにしゃるでぃ』だったかな?」

「……俺の漫画じゃないか」

 実は祐一の愛読書なのだが、何故か真琴も好きだったりする。

「『ゴヒャァァァァァァァッ!』『ゴギャァァァァァァァッ!』『せぇのっ!』『グイッ』『ドギャァァァァァァァッ!』」

「今『だうんひるばとる』って言うのが白熱してるところらしいんだけど……」

「……絵がないと訳がわからんな……」

「美汐ちゃんが来てるんだ」

 祐一があゆと玄関で顔を見合わせていると、そこへ着替え終わった名雪がのほほんと言う様子で姿を現した。

「それじゃあ、お夕飯の支度をしちゃうから。あゆちゃん、お手伝いしてくれる?」

「うん、名雪さん」

「相変わらず動じないやつだな……」

 毎度の事ながらマイペースな名雪に呆れつつも、祐一は二人の後についてキッチンに向かう。無論、お皿を並べるためであるが。

「『ゴアァァァァァァッ!』『ゴアギャァァァァッ!』『ドッ!』『ドシィッ!』『ゴアヒャァァァァァッ!』『プッシャァァッ!』『パン パァン!』」

 その後も夕食が出来るまでの間中、美汐の気合の入った朗読が続いたという。

 

「すっかり長居してしまいまして」

「いいんだよ美汐ちゃん、気にしないで。また、いつでも遊びに来てね」

 水瀬家で夕食をご馳走になり、ふと気がつくと雨はすでに上がっていた。もう遅い時間なんだから泊まっていけばいいのに、とは真琴の談であるが、流石になにも準備していない状態でのお泊りは、美汐としても気の引けるものだ。

 そんなわけで祐一は名雪と一緒に美汐のお見送りをしているのだった。

「相沢さん……」

「はい」

 玄関先でにこやかに会話を交わす中、不意に美汐は上目遣いで潤んだ瞳を祐一に向けた。

「今日は……とても楽しかったです」

「はあ……」

 突如として変わる場の雰囲気に、ついていけなくなった祐一はなんとも気のぬけた返事をしてしまう。

「相沢さんの……大きくて、とても暖かかったですから……」

 その次の瞬間、なにかがぴしっと音を立てたように祐一は感じた。祐一はその原因がなんであるかを理解してはいたが、あまりの恐怖に身体を動かす事ができなくなっていた。

「そして相沢さんは、私に濃くって熱いのをたくさん注いでくれました……」

「をい」

「苦くて……少し飲みにくかったですけど、美味しかったですよ」

 夢見心地でうっとりと目を細める美汐と、ぴきぴきと音を立てて変わるまわりの状況の板ばさみにあい、祐一は生きた心地がしなかった。

「それでは、相沢さん。また……」

 極上の微笑を浮かべつつも、美汐は即座に退散する。蛇に睨まれたかえる、その場に取り残された祐一の状態を端的に表すのなら、そう言う表現がぴったりであろう。

「……ねえ、祐一……」

 背後から底冷えのするような殺気と共に、静かな名雪の声が響いてくる。あまりの恐怖に祐一の全身から嫌な感じの汗がダラダラと流れ出し、それを集めて煮詰めたら万病の特効薬が作れそうだった。

「わたしがいない間に一体なにがあったのか……。説明して……くれるよね……?」

 恐る恐る振り向いたその先にある名雪の表情は、とても素敵な笑顔だった。もっとも祐一は、その笑顔を見たときにウォーズマンスマイルを連想していたが。

 

 この日水瀬家には血の雨が降った。突如として巻き起こったこの嵐の前にあゆと真琴はなすすべもなく、ただ二人で身を寄せ合って過ぎ去るのを待つしかなかったという。

 本来ならその惨状を克明に描写するのが作家としての本分なのであるが、コンペ規定に抵触してしまうのと、作者の技量不足により、それらを行う事が出来ません。

 なお、翌朝からりと晴れ上がった空に輝く太陽が、祐一の目にはかなり黄色く見えたのは、また別の話である。

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