体育館に設けられた特設ステージの上で、倉田先輩の奏でるピアノの調べが高く低く鳴り響く。わかってはいたけど、多芸多才な人なのよね、あの人は……。

「『グラディウス・オン・ピアノ』か……。佐祐理さんもなかなか渋いチョイスをするもんだ」

「ああ、このストーンヘンジはくるものがあるぜ」

 あたしのすぐ脇では馬鹿二人、相沢くんと北川くんがなにやら言ってるんだけど、なんだかさっぱりわからないわ。聞くところによると、グラディウスって言うのは昔のゲームみたいなんだけど……。

「うわ〜凄いよ、倉田先輩」

 あたしのすぐ後ろでは親友が瞳を輝かせているし……。

 一体、なんでこんな事になってしまったのかしら……。

 

一瞬

 

 事の起こりは夏休みも終わり、あたし達も受験戦争一色に染まった生活を送りはじめた、そんなある日の事だった。

 その日、あたしと名雪、そして相沢くんと北川くんの四人。まあ、要するにいつもの美坂チームのメンバーみんなで音楽室の掃除をする事になったんだけど。

「たんたーたたたーんた たんたーたたーんた たんたーたたたーんたた〜ん♪」

 と、いうメロディを口ずさみながら、階段状になった音楽室の丁度真ん中あたりで投球フォームを取る相沢くんと。

「たーたたんたんたん、おーっ! たーたたんたんたん、おーっ! た〜たたん た〜たたん た〜た〜たん♪」

 同じく音楽室の一番低いところでバット代わりのほうきを構えた北川くんの姿があった。なんでも今二人は音楽室野球の最中なんだそうだけど。

「ちょっと二人とも、まじめに掃除しなさいよ」

「ああ、わかってるってば」

 と、最上段にいるあたし達を見もしないでうなずくのは相沢くん。

「美坂〜もう半分、もう半分だけだ」

 と、わけのわからない事を言うのは北川くんだ。

「まあまあ、香里。落ち着いて」

 あたしの隣でのほほんとした笑顔を向けるのは名雪。まったくこの子は、止める気いっさいないわね。それどころか一緒になって楽しんでいるみたいだし。

「後一球で終わるみたいだし、ね? 香里」

 どうやら名雪は、それが終わればまじめに掃除をするという相沢くんの約束を取り付けているらしい。それはいいけど、あの二人がそんな約束を守るなんて、あたしにはとても信じられないわ。

「いくぞ、北川っ! この魔球、打てるものなら打ってみろっ!」

「よし来いっ! 相沢ぁっ!」

 そうこうしてるうちに、男二人は妙な盛り上がりを見せている。それはいいいけど名雪、祈るように真剣な瞳で二人を見るのはやめて、馬鹿がうつるから……。

「ふぬぅっ! 鉄の左腕が折れるまで、熱い血潮が燃え尽きるまで!」

 奇妙な気合と同時に、相沢くんは右手に持ったボールを握りつぶす。まあ、あれは元々軟式テニスのボールなんだから、できるのも当然なんだけど。

「せいあぁっ!」

 やたら仰々しい投球フォームのあと、相沢くんの手から離れたボールは途中であっちこっちにぶつかりながら北川くんに向かう。なんでもこの音楽室野球のルールでは、途中で何度バウンドしようとも最終的にストライクゾーンの一角でもよぎればストライクなのだそうだ。ただでさえ二人の間には結構な落差があるというのに。

「魔球、敗れたりっ!」

「なにぃっ!」

 フルスイングした北川くんのほうきがボールをジャストミート。打球はまっすぐあたし達のほうへ……って、ちょっと待ってよっ!

「ふみゃあぁっ!」

 奇妙な叫び声をあげて名雪が倒れる。幸いにしてボールが当たってはいないみたいだけど、ぺたんと尻餅ついちゃってるから、雪のように真っ白なのが丸見えだわ。

「名雪っ!」

「大丈夫か? 水瀬っ!」

 男二人があわてて駆け寄ってくる。特に相沢くんは名雪の身を案じてか、血相を変えて走りよってくるわ。

「怪我はないか? 名雪」

「う……うん、大丈夫……だけど……」

「こうしちゃいられないな……」

 そう言って相沢くんは名雪の身体を抱え上げる。お姫様抱っこと言う例のあれで……。いや、うらやましいわけじゃないのよ。本当よ、本当なんだってば。

「いくぞっ! 北川っ!」

「よしっ!」

「ちょっと待ちなさいよ、あんた達……」

 どうも二人の様子が変だわ。そう思って声をかけてみたら案の定、肩がびくびく震えてるわ。

「名雪を連れて、どこへ行こうってのかしら?」

「ほ……ほら、名雪が怪我してるかもしれないし、保健室へ……」

「そうそう、別にやましい事はなにもないって……」

 じゃあ、どうして声がそんなにどもってるのかしらね。それにあたしはやましい事なんて聞いてないんだけど。

「別にボールは当たってないんだし、大した事ないと思うけど?」

「いやぁ、わからんぞ香里。もしかしたら、見えないところに異常があるかもしれないじゃないか」

「それで名雪を保健室に連れ込んで、見えないところを重点的に検査するわけね?」

 どうやら図星のようね。二の句が告げなくなって目を白黒させている相沢くんを見て、あたしはそう思った。

 今は養護の先生もいないし、あそこにはベッドもあるし、好都合ってわけだわ。二人の仲がいいっていうのは認めるけど、学校をホテル代わりに使うのはちょっとね。

 それに北川くんも、これに乗じて掃除をさぼろうとしてるのが見え見えだわ。

「とにかく、二人とも。掃除はまじめにやんなさいよ?」

「そうだよ。祐一も、北川くんも一緒にお掃除しようよ。ね?」

「ん〜、名雪がそう言うなら」

「まあ、水瀬がそう言うなら」

 そう言って男二人は掃除をはじめる。なんで名雪の言う事は素直に聞くのかしらね……。

 

「あれ?」

「どうしたの? 名雪」

 あたし達が音楽準備室を掃除しているときに、不意に名雪が奇妙な声を上げた。どうやら部屋の片隅においてある、白い布をかぶせられているものに興味があるみたいだわ。

「これは……」

「楽器ね」

 普段音楽室は吹奏楽部が練習でつかっていたりするところなのだけれども、ここにおいてある楽器はそれには似合わないものだ。ドラムにギターにキーボード、それはどう見てもロックとかポップスとかに使うものだからだ。

 でも、うちに軽音楽部があるなんて聞いた事がないけど……。

「なんだ? なんだ?」

「どうした? どうした?」

 あたし達が楽器を見ていると、男二人がどやどやと準備室に入ってくる。それはいいけど、掃除は終わったのかしら? 後でチェックしないといけないわね。

「あ、祐一、北川くん。これなんだけど……」

「おお、懐かしいな」

「なにぃっ! 知っているのか? 北川」

 名雪の指し示した楽器を前に、懐かしそうに目を細める北川くんと、大げさに声を上げる相沢くんの姿がある。それはいいけど、なんなのかしら? このノリは……。

「軽音楽部の備品だ。こんなところにあったんだな……」

「軽音楽部?」

「そんなの、あったかな?」

 転校生の相沢くんが知らないのは当たり前だとしても、名雪が知らないって言うのもおかしな話だわ。

「知らないのも無理はないさ。オレ達が入学してすぐ軽音楽部は廃部になったからな」

「どうして廃部になったのよ?」

「部員が集まらなかったらしいからな」

 あの日を懐かしむような遠い目をして、北川くんはため息混じりに口を開いた。普段からこういう表情をしていれば美形で通るんでしょうけど、それが出来ないから北川くんなのよね。

「練習場所もなかったし、顧問の先生も転任しちまったみたいだからな……」

 そう言って北川くんは、いとおしそうに楽器を撫でた。うっすらと積もったホコリが、時の流れを感じさせるわね。

「そうなんだ……」

「もったいないな……。まだつかえるぜ、これ」

 そう言って相沢くんはギターを手にすると、軽く鳴らして調弦をはじめた。

「相沢くん、ギター弾けるの?」

「まあな」

 そう軽く笑って相沢くんはピックを片手にギターをかき鳴らした。

 

「キャンドル! ハンドル! サドルにペダルに自転車こいどる〜」

 

 なにそれ……。

「なにかと思えば、コミックソングかよ……」

 そうよ、もっと言ってやって北川くん。

「わかってるね〜、相沢ちゃん」

「わかってくれるか、同志よ」

 固い握手をかわす馬鹿二人。それを見ながらあたしは思わず頭を抱えていた。

「あのね、あんた達。こういう時ってロックとかポップスとかが定番じゃないの?」

「わかってないなぁ、美坂」

 ちっちっち、と北川くんは人差し指を左右に振る。

「あのな、香里。音楽って、そもそもなんだ?」

「え……?」

 相沢くんの問いかけに、言葉に詰まるあたし。その隣では名雪が、あたしがどんな答えを出すのか期待に満ち満ちた瞳で見つめている。

「いいか? 美坂。音楽とは、音を楽しむと書く。つまり……」

「「楽しくなければ、音楽ではないっ!」」

「そうだよ。どんな事でも、楽しまないと損だよ」

 拳を握り締めて力説する馬鹿二人と、それに同意するように瞳を輝かせる親友。なに? なんなの? この疎外感は……。

「それにしても、ちょっと懐かしいかな……」

 そう言って名雪はキーボードに近寄ると、軽くほこりを払ってスイッチを入れた。まあ、弾いているのが『猫踏んじゃった』って言うのがちょっとあれだけど。

「へえ、水瀬ってキーボード出来たんだ……」

「わたし、小学校のころまではピアノ習ってたから」

「なんでやめちゃったのよ?」

 あたしの問いに、名雪は少し寂しげな瞳で相沢くんのほうを見た。

「別に……。ただなんとなく……かな?」

 その答えに相沢くんは、少し辛そうに眉をしかめた。きっと二人の間には、あたしの知らない複雑な事情があるんでしょうね。

「北川くんは、なにか楽器が出来るの?」

「オレか? オレは……」

 北川くんはドラムセットに座ると、カッカッカ、とスティックを鳴らし、おもむろにドラムを叩きはじめた。

 

「オイラはドラマー、やくざなドラマー、オイラが叩けば、嵐を呼ぶぜ〜……」

 

 あたしにはよくわからないけど、北川くんのドラムは見事らしく、相沢くんも名雪も目を丸くしているわ。

「まあ、ざっとこんなもんだ」

「凄いよ〜、北川くん」

「ああ、やるもんだね。北川ちゃん」

 二人の最大限の賛辞に、北川くんも照れているみたい。かく言うあたしも、少し北川くんの事を見直したわ。

「やれやれ、随分騒がしいと思ってきてみれば……」

「懐かしいものを引っ張り出してるじゃないか」

「久瀬、それに斉藤じゃないか」

 相沢くんの声に振り向いてみると、音楽準備室の入り口に二人の姿がある。

「軽音楽部の備品が、こんなところにあったとはね……」

「知ってるのか? 久瀬」

「知ってるもなにも……」

 そう言って寂しげな微笑を浮かべる久瀬くん。普段は傍若無人に振舞っている彼だけに、こういう表情が出来るって言うのは正直意外だわ。

「僕と斉藤君は、軽音楽部の部員だったんだ」

 衝撃の事実にその場にいる一同が凍りついた。そんなあたし達を横目で眺めつつ、久瀬くんはケースにしまわれていたサックスを取り出した。

 高く低く、それでいてどこかもの悲しいサックスの調べが、音楽準備室に響き渡る。純粋に感動しているときってこうなんでしょうね、なにも言葉が出てこないわ。

「ふわ〜」

「やるもんだね〜」

 名雪と北川くんは、あまりにも見事な久瀬くんのサックスに感動しているようね。

「それにしても久瀬。お前そこまで出来るのに、なんで軽音やめたんだ?」

 至極当然の疑問を相沢くんが口にする。確かにそれはあたしも聞きたいわ。

「この学校に入って、生徒会に入る事が決まったとき、親父が言ったんだ『遊びの時間は終わりだぞ』って……」

「そのころは軽音も部員が入らなくてね、廃部も同然だったし」

 あのころを懐かしむように斉藤くんがポツリと口を開く。

「親父は僕の部屋にあった音楽関連のものを残らず叩き壊してくれた。でも、そのときにこれだけはと思って軽音楽部の部室に隠しておいたんだよ。まさか、こんな形で再び会う事になるとは、この僕も思っても見なかったけどね……」

「お前も苦労してるんだな、久瀬」

「高貴な家に生まれ育ってしまったがゆえの、いらぬ苦労さ……」

 そう自嘲気味に笑う久瀬くんと、屈託のない笑顔の相沢くんが、お互いの健闘を称えあうかのように見つめあう。これも男同士の友情って言うのかしらね、あたしにはよくわかんないわ。

「斉藤くんは、なにが出来るの?」

「一応一通りできるけど……」

 そう言って斉藤くんはギターを持った相沢くんを見る。

「相沢がギターなら、おれはベースをやろう」

 斉藤くんはベースを片手にメンバーに加わった。こうしてみんなが並ぶと、即席だけどバンドって感じがするわね。

「そうだ。みんな、あれ出来るかな?」

 名雪の声にみんなが集まり、なにやら相談をしている。ここからだと遠くて話がよく聞こえないわ。

 やがて北川くんのスティックを合図に演奏がはじまった。今日はじめて組んだ即席のメンバーなのに、とてもそうとは思えないように感じるわ。

 ただ、演奏している曲が『笑天のテーマ』なのはあれだけど……。

「凄いよ〜、みんな〜」

 名雪の手放しの賛辞があたりに響き、それに合わせて相沢くん達も口々に互いの健闘を称えあう。それはいいのだけれども、なんなのかしら? この疎外感は……。

「そうだ!」

 名案、とばかりに名雪が手を叩く。

「みんなでやろうよ。今度の学園祭」

「学園祭か」

「いいな、それ」

 名雪の提案に、みんなが賛同する。

「香里も一緒にやろうよ、ね?」

「あたしも?」

 名雪が懇願するような瞳をあたしに向けてくる。やめて名雪、あたしその目に弱いのよ……。

「やってもいいけど……あたし楽器なんて出来ないわよ?」

 縦笛鳴らすのが精一杯だわ。

「大丈夫だよ。香里でも出来るから」

「カスタネットでもやれって?」

 

かっち、かっち、かっち、かっち……

 

「ううん、トライアングル……」

 

ちーん♪

 

「あのねえ……名雪……」

「そういうのじゃなくって、香里にはヴォーカルをやって欲しいんだよ」

「ヴォーカル?」

 よりにもよって、一番目立つところを……。

「香里がヴォーカルか」

「いいな、それ」

 早速男二人が同意を示す。

「なるほど、美坂さんが」

「美坂さんならルックスもいいし、問題ないな」

 それにつられるように、久瀬くんと斉藤くんもうなずきあっている。

「最後の思い出作りだよ、香里」

「しかたないわね……」

 まったく名雪ったら。あんなにうるうるとさせた瞳で見つめられたら、断るに断れないじゃないの。

「今回だけよ?」

「ありがとう、香里〜」

「よぉ〜し、美坂チーム結成だぜ」

 どうやらバンド名も決定したみたいね。それはいいけど、なんであたしの名前なのかしら? ねえ、北川くん。

 

「ただいま〜」

「お姉ちゃん、お帰りなさ〜い」

 先に戻っていた栞がにこやかに出迎えてくれる。それはいいんだけど、バニラアイスを片手にお出迎えっていうのはちょっと……。前にも一度言った事があるんだけど、そのときに栞は、

「バニラアイスは健康食品です。ダイエットにも効果があるんですよ?」

 なんて言ってくれました。それ以来あたしもご相伴に預かる事にしてるんだけど、それは秘密よ?

「あ、そうだ、お姉ちゃん」

「なに? 栞」

 階段を上がりかけたあたしに、栞が下から声をかけてきた。

「学園祭でバンドをやるって本当ですか?」

 ガラガラドン、とけたたましい音を立てて階段を駆け下りたあたしは、そのまま栞の胸倉を掴みあげる。

「なんでその事知ってるのよっ!」

「い……今さっき祐一さんが電話で……」

 全殺し確定。

「それで天野さんにも教えてあげたんですぅ〜……」

 栞はしばらくアイス没収ね。正直に話してくれたから、今回はそれで許してあげるわ。

「でも、バンドやるって言っても、お姉ちゃんなにか楽器出来ましたっけ?」

 けほけほと軽く咳き込みながら、栞が涙目で口を開いた。

「見くびらないで、栞。あたしだって縦笛鳴らすくらい出来るわ」

 小学校で習ったし。

「縦笛よりもお姉ちゃんには似合いの楽器があるじゃないですか」

「なに? それ」

「トライアングル」

 栞、あんたまで……。

「祐一さんを巡って繰り広げられる、恋と友情のトライアングル……。ドラマみたいで格好いいじゃないですか……」

 夢見る瞳の栞を前に、あたしは海よりも深くため息を吐いた。

「それとも、お姉ちゃんの事だから、名雪さんを巡って繰り広げられるトライアングルでしょうか?」

 栞……あんたお姉ちゃんをどういう目で見てるのよ。まあ、確かに名雪の事は嫌いじゃないけど。

「そう言うんじゃなくて、あたしはヴォーカルをやるのよ」

「ヴォーカル……?」

 栞は目を丸くしてびっくりしているわ。なんでそんなにびっくりする事があるのか不思議だけど。

「縦笛鳴らしながらヴォーカルですか?」

「そこから離れなさいっ!」

「でも、南米の奥地には鼻で笛を鳴らす部族がいるそうですから……」

「だから?」

 あたしはにこやかに聞き返したのに、何故か栞は小動物のようにおびえているわ。

「鼻で鳴らして腹話術で……」

 一瞬その姿を想像しかけたあたしは、とりあえず栞の頭を一つ殴っておく事にした。

「えう〜、暴力反対です」

 涙目で抗議する妹を置いて、とりあえずあたしは部屋に上がった。

「お姉ちゃん」

「なによ?」

「お姉ちゃんはヴォーカルをやるんでしたよね?」

「そうよ?」

 いつもの部屋着に着替えたあたしに、リビングで待っていた栞が嬉々とした表情で話しかけてきた。こういうときの栞は、なにかたくらんでいると見て間違いないわね。

「ヴォーカルと言えば声、声と言えば発声練習……」

 我が妹ながら、瞳に星を浮かべて恍惚としたような表情で口を開くのはどうかと思うわ。

「そして、発声練習といえば、早口言葉です」

「どうしてそうなるのよ」

「問答無用です、お姉ちゃん。『生麦、生米、生卵』はい」

「『生麦、生米、生卵』」

 あまり抑揚をつけないように、淡々とした様子でこなして見せると、何故か栞はえぅっと押し黙ってしまう。

「それじゃ次は栞ね。『山東省出身新人シャンソン歌手、新春山村シャンソンショー』って言えるかしら?」

「えっ? 『さんしょんしょうしゅっしんしんじんさんしょんさしゅ、しんすんしゃんしょんしゃんしょんしょう』」

 言えないみたいね。

「もう一度です。『さんしょんしょうすっしんしんしんしゃんしょんしゃしゅ、しんすんしゃんしょ』……。舌噛んじゃいました……」

 うるうるとした涙目で恨めしそうにあたしを見る栞……。いいわ、萌えよ。

 そしてこの夜。二人でたっぷり発声練習をしたのは、内緒よ。

 

 あの音楽室での一件から何日か経った後、軽音楽部は石橋先生を顧問に復活を果たしており、何故か部員として登録されているあたし達は二ヵ月後に控えた学園祭を目指して活動する事となった。そして、いつの間にか軽音部の部室になっている音楽準備室で、あたしは意外な人物と会う事となったのよね。

「あはは〜、お久しぶりです。香里さん」

「倉田先輩? それに川澄先輩も。どうしたんですか? 一体……」

「佐祐理達は祐一さんに呼ばれたんですよ」

 あの馬鹿、なに考えてんのよ。

 それはともかくとして、こうしてお膳立てを整えてくれる久瀬くんの手腕には驚かされるわ。よくよく考えてみれば、かつて川澄先輩を退学に追い込んだのも久瀬くんなら、復学させたのも久瀬くんなのよね。

「今度の学園祭で祐一さん達がバンドを組むと伺いましたので、それで佐祐理達もお手伝いできればと思ったんですよ」

「お手伝い?」

「はい、佐祐理も学園祭のイベントに参加する事になったんですよ〜」

「倉田先輩もですか?」

 何故かこのイベントには、あたしの知り合い全員が参加する事になっているみたいだわ。栞も天野さんと一緒になにかするみたいだし、名雪の話ではあゆちゃんも真琴ちゃんと一緒になにかをするらしい。相沢くんはこの事を『カノンだよ! 全員集合』なんて言ってたけど、どういう意味かしら?

「あ〜、香里さん佐祐理の事疑っていますね? こう見えても佐祐理、ピアノくらいは弾けるんですよ〜」

 そんな事を考えていると、それを自分への疑問と受け取ったのか、いつもの笑顔で倉田先輩はあたしと川澄先輩を隣の音楽室に案内した。

 ここには結構本格的なグランドピアノが置かれているのだけど、使う人があまりいないせいなのか、ほぼ完全に部屋のオブジェになってしまっているのが悲しいわね。

「それでは、いきますよ〜」

 高らかに宣言してから、倉田先輩の指が軽やかに鍵盤の上を舞うように動くと、高く響く旋律がつむぎだされていく。それはいいんだけどこの曲、どこかで聞いた事があるような気が……。

「おお、『ドラゴンクエスト』か」

「しかもW以降のオープニングだな」

 いつからいたのか、あたしの後ろでは相沢くんと北川くんの馬鹿二人と久瀬くんが倉田先輩のピアノに聞き惚れているわ。それに気を好くしたのか、心なしか倉田先輩のピアノも少し弾んでいるように感じるわね。

 でも、なにか様子が変。さっきから倉田先輩は、妙に左手を気にしているように見えるわ。

「まあ、ざっとこんなもんですよ〜」

「素敵でしたよ、佐祐理さん」

「あはは〜、ありがとうございます」

 相沢くんの賛辞に倉田先輩はいつもの様子で答えているように見えるけど、あたしにはその笑顔が無理をしているように感じられた。

「どう思う? 北川君」

「ああ、確かにちょっと狂いがあるな」

 ふと気がつくと、北川くんが真剣な様子で久瀬くんと話しているわ。

「そうか……。ではすまないが北川君。君には後でピアノを講堂に運び込んだ際に調律のほうをお願いしたい」

「ああ、わかった」

 後で聞いた話なんだけど、北川くんの調律の腕前は大したものなのだそうだ。下手に業者に頼むよりは、この方が早いみたい。そんな北川くんの意外な一面を見る事が出来て、あたしはちょっとだけ得した気分になれたわ。

 ちなみになぜ川澄先輩がここにいるかというと、あたし達のバンドの新メンバーとして入るためなんだそうよ。

 なんの楽器をやるかと言うと。

「……タンバリン」

 

 来るべき学園祭の当日に向けて、あたし達の練習は熾烈を極めた。なにしろメンバーのほとんどが個性の強い人ばかりなのでまとめるのは苦労したわよ、本当に。名雪がいてくれなかったら、多分このまま空中分解していたでしょうね。

 まあ、名雪が、

「陸上競技はみんなが支えてくれるけど、がんばるのはわたし一人だから。だけどこうやってみんなで一つの事をやるって素晴らしい事だよね」

 って、いつもの様子の優しい雰囲気で言うもんだから、みんな、特に相沢くんが張り切っちゃって。

 そして、今。こうしてあたし達は本番を迎える事になった。

 一番初めに舞台の上でみんなが司会の秋子さんを中心に横一列になって、エンヤーコーラヤ、って踊ったんだけど、なんなのかしら? これ。振り付けが簡単で覚えるのが楽だったけど、どういう意味があるのかしら?

 それが終わると、舞台の上では我が愛する妹の栞と、その親友である天野さんのハンドベルによる『エーデルワイス』の演奏がはじまった。大勢の人の前に立つ事で、二人ともはじめは緊張していたみたいだけど、演奏がはじまるとそういった事もなくなったみたいで、テーブルの上のハンドベルを次々に鳴らしていく。

 終始にこやかな笑顔を振りまく栞と、あまり微笑む事もなく淡々と作業をこなしていると言う風情の天野さんの対比が素晴らしい効果を発揮していたわ。

 二人ともこの日のために毎日遅くまで特訓していたらしく、手には血豆まで作ってがんばっていたのだそうだ。

 それはいいんだけど、年始にテレビでやっている新春スターかくし芸大会みたいなノリはなんなのかしら……。でも、客席からの拍手喝采を浴びて照れたように微笑む二人の姿は、あたしの心に深く残るものとなった。

 それが終わると次は倉田先輩のピアノソロ。そしてこの次があたし達の出番だ。

「よし、逆火山ステージだ」

「さっきのモアイステージもなかなかだったが、これもいいもんだな」

 グラディウスって言うのがなんなのかあたしにはよくわからないけど、相沢くんと北川くんがここまで感動しているのだから、きっと倉田先輩の演奏にはあたしにはよくわからないなにかがあるんでしょうね。

 そんな事を考えつつも、あたしの目は倉田先輩の左の手首でゆれる、川澄先輩の薄紫色のリボンを見ていた。

 それは栞と天野さんの演奏が終わろうとするときだった。出番を次に控え、緊張した面持ちで左手をさすっていた倉田先輩に、川澄先輩がそっと近づいていったのだ。

「……佐祐理」

 川澄先輩は自分の髪をまとめていたリボンを解くと、それをそっと倉田先輩に左手に巻きつけた。

「……おまじない」

「舞……」

「……私の想いが、佐祐理と共にありますように……」

 そう言って川澄先輩は、倉田先輩に左手の甲にそっと口づけた。なんとなくそれは神聖な儀式のようにも見えて、あたしにはこの二人の深い友情が手に取るようにわかったわ。

「触手ステージを越えたな……」

「ああ、後は細胞ステージと要塞ステージ、ビックコアとネームエントリーを残すのみだ」

 やっぱりわからないわ。でも、話の内容からするともうすぐ倉田先輩の演奏も終わるみたいね。

 いけない……。なんだか緊張してきちゃった……。

「香里っ!」

 聞きなれたいつもの親友の声に振り向くと、やはりそこにいるのはいつもの親友の笑顔。

「ふぁいと、だよ♪」

 そして、得意の小さなガッツポーズをする、いつもの親友の激励。名雪のそれを聞いていると力が抜けてくるのだけど、不思議と今はそんな感じがしなかった。あえて言うなら、そう……。余計な力が抜けていって、いつもの調子に戻る感じ。このときあたしは、名雪があの人の娘だって言うのを、改めて実感したわ。

 そんな事を考えているうちに倉田先輩は最後のパート、ネームエントリーだっけ? を弾き終えて、客席から割れんばかりの拍手をもらっている。それに対して深々とお辞儀をする倉田先輩の姿は、ちょっと格好よかったかな。

「……佐祐理、素敵だった」

「ありがとう、舞」

 舞台に幕が下り、袖にある控え室に戻ってきた倉田先輩を川澄先輩が最大限の賛辞で迎え、それに倉田先輩もとびっきりの笑顔で応える。美しい友情だわ。

「さあ、今度は舞の番ですよ」

 そう言って倉田先輩は、自分の左手に巻きつけられたリボンで川澄先輩の髪をまとめ上げる。

「佐祐理の想いが、舞と共にありますように」

 そして、おまじない。やっぱりいいわね、こういう友情も。

「香里〜」

 そして、あたしも歩を進める。この世で一番、誰よりも大切な親友のいる舞台に。

 

 秋子さんの声が場内に響き、次の演目を知らせる。それと同時にするすると上がる幕の向こうでは、大勢の観客があたし達に注目していた。

 会場から伝わる熱気に、あたしは一瞬負けそうになる。でも、今日このときを迎えるために苦楽を共にしてきた仲間達の事を思えば、どうという事は無いわ。

 カッカッカ、と北川くんがリズムを刻む。そして、あたしはこの一瞬に全てをかける。

 

「You suffer but why」(一秒)

 

 次の瞬間、会場内は水を打ったように静まり返った。

 さざなみ一つ立たない湖水のような静寂があたりを包み込む。それも耳が痛くなるくらいの……。

 でも、それはやがて津波のような怒涛の喚声にとってかわる。会場にいる誰もが立ち上がり、惜しみない賞賛の拍手をあたし達に送っていた。

「あ……」

 思わずあたしの目から涙がこぼれる。このときあたしは悲しいときだけでなく、嬉しいときにも涙って出るんだって思ったわ。

 そして、会場から響くアンコールの声に、あたし達は再び演奏をはじめるのだった。

 

 あの後三十回ばかりアンコールに応えてから、あたし達の出番は終わった。高校生活を最後にして、これほど充実したときをすごせるとは、当のあたしも思っても見なかったわ。

 今舞台の上ではこの日最後の演目が行われている。相沢くん達が軽快に曲を演奏する中、口元に黒い髭をつけたあゆちゃんと真琴ちゃんがそろいの燕尾服を着て、ヒゲダンスを披露しているところだ。なんでも二人は、この日のために秋子さんから徹底的に演技指導を受けているのだそうよ。

 それはともかくとして、白と黒の衣装に身を包み、両手を身体の脇のほうで上下させて踊る二人は、ペンギンみたいでとても可愛いわ。

 ちなみに演目はあゆちゃんがフラフープを回すだけといういたって単純なものだ。真琴ちゃんが会場に向かって「イエイッ!」って言うたびに、会場からも「イエ〜イッ」って返ってくるところがいいわね。

 まあ、実際にフラフープを回しているあゆちゃんにくらべると、真琴ちゃんがかなり楽そうに見えるのは確かね。こういうのを肉体労働専門と頭脳労働専門の分業で、お客様からいただく拍手の数はおんなじ、って言うんだったかしら?

「イエイッ!」

「イエ〜イッ!」

 舞台に目をやると、真琴ちゃんがあゆちゃんの背丈の三倍はあろうかと言う巨大なフラフープを会場にアピールしているところだ。さっきから次第に輪が大きくなっていっているようには思ってたけど、流石にこれはやりすぎじゃないの?

 でも、あゆちゃんはそれを両手でしっかり持つと、小さな身体を精一杯使って回しはじめたわ。

 一回……。二回……。

 三回目の途中であゆちゃんは力尽きちゃったけど、それでも会場から送られる拍手は、まるで勇者の健闘を称えるみたいに鳴り響いていたわ。

 そして、全ての演目を終えたあたし達はカーテンコールを迎える。まさかまたみんなで秋子さんを中心に横一列に並んで、ババンババンバンバン、って踊るとは思っても見なかったけど……。

 

 こうしてあたしの青春の一ページに、かけがえのない瞬間が刻まれたのだった。

 

「こんな時代もあったのね……」

 部屋の片づけをしていたときに見つけたアルバムに、ついつい見入っちゃったわね。でも、あたしにもこんなに輝いていた時代があったなんて信じられないわ。

 日々の生活に追われ、なんとなく自分って言うのを見失いがちになっていた今日この頃。でも、これを見たら明日からまたがんばれそうな気にもなるから不思議なものよね。

「ただいま〜」

 そんな事を考えていると、玄関から明るい声が響いてくる。

「ただいま、お母さん」

「お帰りなさい」

「あれ? なに見てるの?」

 あの日のあたしと同じ制服を着て、パタパタとリビングに駆け込んできた娘は、テーブルの上に広げられたアルバムに釘付けになっているようだ。

「わ〜、お母さん若〜い。それにこっちは名雪さんね、このころから綺麗だったんだ……」

「お父さんもいるわよ?」

 あたしが指差した人を見て、娘は驚いているようね。まあ、無理もないけど……。

「あ、そうだお母さん。あたしね、バンドのヴォーカルやってくれって頼まれちゃった」

「そうなの?」

 屈託なく微笑む娘の笑顔に、なんだか昔のあたしを見てるみたいな気がしたわ。こうして歴史は繰り返されていくものなのかしら?

 

 繰り返す四季の螺旋階段を、人は誰も歩いていく。

 いつもと変わらぬ日常、だけど昨日とは違う今日、そして明日の世界を。

 そう、それはKanonの旋律のように、繰り返す日々の営みの物語。

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