相沢君ちの家庭の事情…

 

 春が来た。

 英語で言うところのスプリングハズカムだ。

 スプリングとはバネを意味する言葉でもあるが、実のところ春が来るとみんな浮かれて跳ね回るところから来ている言葉なのだそうだ。

 他に泉という意味もあるし、とにかく季節は春真っ盛りであった。

 

 奇跡が起きた。

 それはもうありがたみもなにもなく、あたかもバーゲンセールであるかのごとく。

 この奇跡の影には、一人の少女の存在があった。

「あゆちゃんがかわいそうだよ。なんとかしてあげようよ」

「よっしゃあっ!」

「栞ちゃんがかわいそうだよ。なんとかしてあげようよ」

「よっしゃあっ!」

「真琴がかわいそうだよ。なんとかしてあげようよ」

「よっしゃあっ!」

「川澄先輩がかわいそうだよ。なんとかしてあげようよ」

「よっしゃあっ!」

「倉田先輩がかわいそうだよ。なんとかしてあげようよ」

「よっしゃあっ!」

「美汐ちゃんがかわいそうだよ。なんとかしてあげようよ」

「よっしゃあっ!」

「お願い、香里の力になってあげて」

「よっしゃあっ!」

 そうして自分の事よりも他人の事を優先していた少女に、突如として悲劇が襲いかかる。

「わたし……もう笑えないよ……」

 このとき少年は気がついた。自分にとって、誰が一番大切な存在なのかを。だから祈った、この少女の笑顔が戻りますようにと。

 そのころ少女達も祈っていた。

「祐一くんと、もう一度たい焼きを食べるんだ」

「祐一さんと、もう一度バニラアイスを食べるんです」

「あう〜、肉まん」

「牛丼」

「名雪……」

 奇跡を呼び起こしたのは、そんな少女達の純粋な強い想いだったのだろう。

 七年眠り続けた少女は目を覚まし。

 長く病気に苦しんだ少女は見事に回復し。

 消えたと思った少女はひょっこり帰ってきて。

 長年自分を受け入れられなかった少女は、自らを閉じ込めていた檻から脱し。

 悲しみのあまり自分を偽っていた少女は、自身を受け入れ。

 新たな出会いを拒む少女の心を癒し。

 つながりを拒んだ少女に絆を取り戻させ。

 ある女性は瀕死の重傷から生還を果たし。

 かつての傷を乗り越えるため、少年は全てを受け入れ。

 誰よりも心優しき少女は、そんな少年の想いに応えた。

 

 そして、季節は巡る……。

 

「春だなぁ……」

 部屋から見える窓の外の風景を眺めつつ、祐一はふとそんな事を口に出した。

 少し前までは冷たい灰色の世界だったのに、今は不思議と世界全体が明るく色づいて見える。吹きぬける風はいまだ冷たいものの、なんとなく心が浮き立ってしまうのは、このところぽかぽかと暖かい陽気のせいだろうか。

「名雪……」

 祐一は可愛いいとこで、頼りになる同居人で、ちょっぴり寝ぼすけな愛する少女の名を呼ぶ。

「どうして、お前は……」

 そっと瞳を閉じた祐一のまぶたの裏には、名雪とすごした日々がありありと思い描かれた。人一倍不器用で、要領が悪くて、人の七倍は時間がかかって、それでいて優しくて、気立てがよくて……。不思議と修飾詞が多くなるのは、やはりほれた弱みか。

「今日、部活なんだよ……」

 祐一はため息混じりにそんな事を呟いた。

 長く感じた冬も終わりを告げ、学校も春休みに入った。そこまでは良い。

 あの冬に奇跡が起き、少女達に笑顔が戻った。それもまた良い事だろう。

 しかし、祐一にしてみればせっかく名雪と恋人同士になったというのに、なかなか二人きりになるチャンスがないのだ。学校では香里、栞に美汐が一緒で、商店街では佐祐理に舞。家でも秋子があゆと真琴を養女にしたためそうなれない。しかも名雪はほぼ毎日が部活動。

 実のところ二人でデートとか、恋人同士なら誰でもやる事はほとんどないのが現状だったりする。よくよく考えてみれば、恋人っぽかったのはあの冬のアレぐらいだよなあ、と祐一はそのときの事を思い出した。あのときの名雪はかわいかったなあ、と……。

「と、いかんいかん……」

 口元からジュルリとこぼれたよだれを、祐一はあわてて手でぬぐう。頭の中が邪なピンク色の妄想に浸りかけたのを少し冷まそうと思い、祐一はキッチンに向かった。

「あれ?」

 一階に降りた祐一は秋子が玄関先で硬直しているのを見た。よく見ると手には手紙が握られており、そればかりかその手が小刻みに震えているようにも見える。

「どうかしたんですか? 秋子さん」

「ゆ……祐一さん……」

 これを、と差し出された手紙を、祐一はずずずいっと隅から隅まで目を通す。

「そんな……」

 そうしているうちに祐一の顔面がどんどん蒼白になっていく。

「母さんが……来る……?」

 

 ここで話は少し前にさかのぼる。それは、祐一が水瀬家に来る前の事だ。

「実は父さん、今度海外に転勤する事になってな」

「えらく唐突だな」

 久々の一家団欒の風景。そんな中、久しぶりに顔を見たような感じもする父親の、開口一番の言葉がそれだった。

「それで? 俺も一緒に行けば良いのか?」

「馬鹿を言うな。英語も満足にしゃべれないお前が来たところで、なんの役にも立たんだろう。まあ、母さんには一緒に来てもらうけどな」

 それが狙いかクソ親父、と口に出さずに呟く祐一。おそらく万年新婚夫婦を地で行く二人なだけに、今回の転勤はある意味計画的な部分があるのだろう。

「じゃあ、俺はこっちで一人暮らしをすればいいのか?」

「それこそ馬鹿を言うな。家事も満足に出来ないお前に、そんな事させるわけにいかないだろう。ましてやお前には朝起こしにきてくれたりする、料理が上手で家事万能な面倒見のいい幼馴染はいないんだぞ?」

「う……」

 確かに、それを言われると辛い。

「それに、見ず知らずのお前をなにも聞かずに居候させてくれるような、そんな底抜けなお人よしがいるとでも思ってるのか?」

「う……」

 確かにそういう母親と二人暮しをしていますという少女とか、底抜けに明るい奇特な人が経営するパン屋さんがあるとは思えない。

「そこでだ、お前には秋子のところへ行ってもらう事にした」

「え……?」

 秋子は祐一の母親の妹で、ここから遠くはなれた北の街に住んでいる。祐一が小さかったころはよく遊びに行った事もあり、同い年のいとこの女の子と仲良くしていたものだ。

 だが、ある年を境に祐一はそこに行かなくなった。なぜ行かなくなってしまったのかは、実のところ祐一にもわからない。なぜなら、祐一の思い出からもそのときの事が部分的な記憶喪失のように抜け落ちてしまっていたからだ。

 ただ、その街に対する拒否感のようなものだけがあり、祐一も今まで極力思い出さないようにしていた。

「一体いつの間に……」

「いや、さっき秋子に電話をかけたんだ。『なにも聞かずに祐一を預かってくれ』って言ったら、秋子は『了承』って……」

 あまりの展開の速さに、思わず祐一は頭を抱えた。状況説明すらしておらず、そのうえ会話すら成立していないのだから。

「まあ、とりあえず祐一。年明けには向こうに行ってくれ」

「俺に拒否権は?」

「ない」

 こうして、祐一の引越しが決まった。

 

「こうしてはいられませんね」

「そうですね。それでは、祐一さんは姉さんを迎えに行ってください」

 手紙には今日の一時に、駅前にある時計搭の下のベンチで待ち合わせと書いてある。手紙で今日の、というところに問題があるが、そのあたりがなんとも姉らしいところだと秋子は思っていた。

 だが、問題はそこではない。実は祐一の母親、つまり秋子の姉は相当な方向音痴なのだ。

 秋子がまだ小さかったころ姉に連れられて外出したときには、家から十メートルほど離れたところで迷子になったというエピソードすら残っている。それだけに秋子の心配もうかがい知れるというところだ。

「ただいま〜」

 丁度そんな時、部活を終えた名雪が帰ってきた。

「あれ? お母さんも祐一もどうしたの?」

 玄関先で手紙を握り締め、秋子と見つめあっている恋人兼いとこの祐一に、名雪はいつもののほほんとした様子で声をかけた。

「いいところに帰ってきてくれた、名雪」

「うにゅ?」

「今から母さんを迎えにいくんだ。だから名雪も一緒に来てくれ」

「あ、ちょっと祐一」

 有無を言わせず名雪を連れて駆け出す祐一。多少強引なようだが、これもしかたのない事だ。

 

 なぜなら、祐一も相当な方向音痴だからだ。

 

 駅前のロータリーに面した時計塔のそばにあるベンチ。あの冬に多くの出会いと別れを見続けてきたであろうベンチは、祐一と名雪にとっても特別な思い入れのある場所だ。

 ここに来る前は嫌でしかたのなかった場所なのに、今では祐一にとってかけがえのない大切な場所になっている。今思うとほんの二ヶ月くらい前の事なのだが、そう考えると不思議な運命めいたものすら感じてしまう。七年ぶりの名雪との再会、やはりあれが全てのはじまりなのだろうか。

「名雪、時間は?」

「丁度一時、時間ぴったりだよ」

 少し背伸びをするような感じで時計塔を見上げた名雪は、いつもと変わらぬ穏やかな口調で時間を告げる。しかし、目の前のベンチには誰かが来た様子もなく、そればかりか誰かが待っていたようにも見えなかった。

「しまった、遅れたか?」

「え? でも時間は……」

「指定された時間から前後二時間の幅を取るのは、相沢家の常識だ」

「なんだか変な常識だね」

 でも、その常識のおかげで祐一が待っていてくれたのだから、名雪にとっては感謝するべきところだ。

 そうした相沢家の常識はともかくとして、駅に電車が到着する時刻は今の時間帯だと二時間から三時間に一本の割合であり、このあたりが都会とは違うところだ。以前名雪が祐一の住んでいた街では、朝のラッシュ時には一分に一本の割合で電車が来る事を聞いて驚いていた事からも、この街が相当な田舎である事がうかがえる。なにしろこのあたりでは、定刻通りに電車が到着する事自体が珍しいのだ

 そこで駅に向かった祐一は駅員に母親の外見的な特徴を伝え、それらしき人物が通らなかったかを聞いてみると、ほんのつい今しがた駅から出て行ったと言う。

「くっ……遅かったか……」

「祐一……」

 関節が白く浮き出るくらいに強く握り締められた拳が僅かに震えている。よほど母親の事が心配なのだろう、そう思った名雪はそっと祐一の手を握ってあげるのだった。

「こうしちゃいられない。無事でいてくれよ、母さん」

 そう言って駆け出す祐一の背中を、名雪は必死になって追いかけた。

 

 なぜならその方向は、駅員が示した方向とは反対だったからだ……。

 

「あら?」

 この日天野美汐はうららかな春の陽気に誘われて、商店街でウインドゥショッピングを楽しんでいた。

 ひざ下まで隠れるラベンダー色のロングスカートに、鮮やかなエメラルドグリーンのリボンを胸元につけたブラウスと、淡いイエローの丈の短いジャケットという組み合わせは少し少女趣味がはいっているという感も否めなくはないが、どこか気品のある優雅な着こなしは彼女が言うところの物腰の上品さをかもし出していた。

 少なくとも今の美汐を見れば、いくら祐一の口が悪くてもおばさんくさいなどとはいえないだろう。

 そんな彼女の目の前には、一人の少女がいた。彼女の隣に置かれたスーツケースとほぼ同じ寸法の小柄な少女で、それはいわゆる『ゴスロリ』というものだろう。まるでアンティークドールが着るような、白と黒を基調とした着るのも脱ぐのも大変そうなフリフリのレースとリボンをふんだんにあしらったワンピースを着て、美しい青色の髪を二本の三つ編みにまとめた十歳くらいの女の子だ。

 なにより美汐の目にとまったのは少女の前髪で構成されるエアーインテークで、その髪形は彼女の知る誰かに良く似ていた。

「あの……」

 先程から少女は途方にくれたように、大きな瞳に今にもあふれそうな涙を湛えている。おそらく彼女は迷子なのに違いない、そう思う美汐ではあるが、いざとなると上手く言葉が出てこなかった。元々こうしたコミュニケーションをとるのが不得手な彼女だけに、なんとかしてあげたいという気持ちばかりが先走ってしまい、気ばかりが焦ってしまう。

 丁度そんなときだった。

「あれ? 美汐さんじゃないですか」

「栞さん、それに香里さんじゃないですか」

 背後からかかった声に振り向くと、そこには美坂姉妹がいた。一時期は険悪な仲になっていたと聞き及んでいた美汐ではあるが、こうして仲良く商店街を歩いているところを見ると、姉妹の間にわだかまっていたしこりも解消されたのだろうと思う。

「どうしたんですか? こんなところで。それにその子は?」

 白い素肌に華奢な身体を優しく包み込むようにストールを巻き、白いセーターにダブルのキャミソールワンピと黒のオーバーニーソックスをはいたいつもの格好の栞が、にこやかに話しかけてきた。実のところ栞が入学式の日に倒れてからは学校に来ていないため、栞とはあまり面識のない美汐ではあるが、祐一に紹介されてからはほとんど親友のようになっている。もっとも、この春に進級が決まった美汐と留年が決まった栞とでは、その待遇にかなりの差があるのだが。

「この子、どうやら迷子らしいんですよ」

「迷子?」

 そう聞き返したのは香里だ。普段は下ろしている長いウェーブヘアを今はアップにまとめ、バックの中央付近でお団子状にまとめたところに黄色いリボンでアクセントをつけ、まとめ切れなかった髪はナチュラルに散らしている。一見こうしたおしゃれには無頓着そうに見える香里ではあるが、髪をいじる事自体は好きなようで、学外では結構ヘアアレンジに凝っていたりする。このあたりは病院生活での投薬治療の影響で髪がパサパサになってしまってショートボブにせざるをえなかった栞や、癖の多い髪質のせいで自分には似合わないからという理由でショートヘアにしている美汐にしてみれば、うらやましいところであった。

 白い長袖のブラウスに、胸元のアクセントになっている紺色のリボン。流麗なラインを描く足を大胆に露出したデニムのミニスカートに赤いバックルのベルト。広めの襟がついた淡いグレーのベストがカジュアルな色彩を描き、香里のナイスバディを包み込んでいた。

 その格好は同性である美汐をも魅了するもので、同じ女として嫉妬すら感じるときもあるが、やはり素材の時点で勝ち組なのだろうと思うとあまり気にもならなくなる。

 でも、いつの日かはきっと、と、栞と視線があった美汐は、お互いひそかに闘志を燃やすのだった。

「お名前は?」

 二人がそうして不思議な連帯感で結ばれているうちに、香里はひざまずくような感じで少女と視線を合わせ、コミュニケーションをとろうと試みたが、少女は唇を真一文字に引き結んで口を開こうとしない。

「お歳は?」

「………………」

「お父さんかお母さんのお名前とかわかる?」

「………………」

「どこから来たの?」

「………………」

 先程から香里は優しく少女に問いかけるが、なぜかなにも話そうとしない。もはや万策尽きたかと思われた、丁度そのときだった。

「見つけたっ!」

 突如として響いた声に少女の目が大きく見開かれ、暗く沈んでいた表情が明るく輝く。その視線の先には、香里達の良く知る人物がいた。

「相沢くん?」

「祐一さん?」

「相沢さん?」

 聞き覚えのある声に三人がそろって顔を向けたとき、少女は祐一を目指して勢いよく駆け出していた。

 その少女を抱きとめようと身をかがめ、大きく両手を広げる祐一。

「なゆちゃんだ〜」

「わっわっ」

 少女は祐一のわきを素通りして、その後ろにいた名雪の胸に飛び込んでいった。

「なゆちゃんだ、なゆちゃ〜ん」

「わっわっ」

 ぽよぽよとした名雪の胸の感触を楽しむように、少女はグリグリと小さな顔をこすりつける。その横で祐一は、ただ呆然と両手を広げたまま立ち尽くしていた。

「あのねあのね、ゆうなね、とってもこわかったの」

「そうなの?」

「でもねでもね、ゆうなね、泣かなかったんだよ? えらいでしょ」

「そっかぁ、えらいえらい」

 満足げに胸をはる少女の頭を、名雪は優しくなでであげる。すると少女は、なんとも気持ちよさそうに目を細めるのだった。

「ねえ……相沢くん……」

 しばらく二人の仲がいいところを見ていた祐一であるが、それだけで人が殺せそうな香里のデス声に恐る恐る振り向いた。

「あの子、誰……?」

「随分仲が良さそうですけど……」

「まさか……相沢さん……」

 香里、栞、美汐の三人から放たれる、暗くどよどよとした殺気に一瞬気おされる祐一。

「いやぁ、紹介するよ」

 そのプレッシャーに抗いつつ、祐一はなんとか搾り出すように声を出した。

「彼女は俺の……母さんだ……」

 

「ぎゃらっくてぃかまぐなぁむっ!」

「しおりんくらっしゅっ!」

「なにがなんでもくらっしゅっ!」

 

 乙女三人の攻撃を受け、天空高く舞い上がる祐一。

 

 どがしゃぁぁぁぁっ!

 

 そして、あたかも車田正美の漫画のような派手な効果音と共に、祐一は激しく大地に叩きつけられ大の字になって横たわった。

「どうせ嘘つくんなら、もっとましな嘘つきなさいよ」

 そのまま香里は真っ赤なハイヒールの踵で祐一をグ〜リグリと踏みつける。そのときの喜悦に震える香里の表情は恐ろしく、少しはなれたところで栞は美汐と手を握り合って身を震わせていた。

「嘘じゃなくて……本当に……」

 こうして香里に踏まれていると、なぜか祐一は妙な快楽に目覚めてしまいそうだった。見上げたその先には青空のような香里の淡いブルーが目に入ってしまうので、次第に祐一の表情が恍惚としたものになっていく。

「やめてやめて〜」

 祐一が快楽に浸りかけた丁度そのとき、横合いから伸びた小さな手が香里を突き飛ばした。

「祐ちゃんをいじめるな〜っ! えいっ! えいっ!」

 

 ポクゥッ! ポクゥッ!

 

 ゆうなは果敢にも香里に殴りかかるのだが、その小さな手では大したダメージは与えられず、香里のナイスなバディがぽよぽよと揺れるだけだった。

「えいっ! えいっ!」

 気合は充分なのだが、いかんせんもみじのような小さな手ではどうしようもない。

「なんなのよ……一体……」

 あまりにもひ弱なゆうなの攻撃の前に、香里の呟きだけがむなしく風に消えていった。

 

「相沢ゆうな、祐ちゃんのお母さんで秋ちゃんのお姉さん。ゆうなの『ゆう』は祐ちゃんの『ゆう』で、ゆうなの『な』はなゆちゃんの『な』なのよ」

「俺の母さんだ。一応……」

 ここは水瀬家。祐一の母親であるゆうなを紹介するため、香里、栞、美汐の三人がリビングに集っていた。

「あたしは美坂香里。名雪の親友で相沢くんのクラスメイトです」

「私は美坂栞です。こちらの香里は私のお姉ちゃんなんです」

「天野美汐です。相沢さんの後輩に当たります」

「うん、かおちゃんに、しおちゃんに、みーちゃんだね」

 そう言ってゆうなは順番に三人を指差していく。

「かおちゃん……?」

「しおちゃん……?」

「みーちゃん……?」

「ちゃん付けなのは母さんのクセなんだ」

 ごめん、と顔の前に手をあげる祐一を前にして、三人は困惑したように顔を見合わせるばかりだった。

「ボクは月宮あゆ」

 デニムのオーバーオールに白いセーターを着て、切りすぎた髪を気にしているのか、家の中でも帽子をかぶったまま自己紹介するあゆ。

「……沢渡真琴」

 初対面のゆうなに緊張しているのか、あゆの小さな背中に隠れながら、おずおずと言った感じで自己紹介する真琴。こちらは家の中なので、いつも着ているデニムのジャケットを脱いだいつもの格好だ。

「二人とも身寄りがないので、私が養女にする事にしたんですよ」

「う〜っ!」

 秋子からそれを聞いた途端、ゆうなの口から不快の声がほとばしった。

「う〜っ! う〜っ! う〜っ! 秋ちゃんずるいっ!」

 まるでサイレンのような声を上げつつ、ゆうなは秋子に抗議した。

「ゆうなが女の子がほしかったのを知ってるくせにっ! 秋ちゃんばっかりずるいっ!」

 そのまま手足をばたつかせてゆうなは駄々をこねる。そんなゆうなの姿に香里は、あたし将来この人の事を『お義母さん』と呼べるかしらと、妙な不安に襲われた。

「ずるいっ! ずるいっ! ず〜る〜いっ!」

 ふと香里は駄々をこね続けているゆうなを見る。彼女の外見はどう見ても十歳程度でしかなく、その意味では秋子より年上であるようには見えない。

 このとき香里の脳裏では、祐一の隣でウェディングドレスに身を包み、微笑んでいる自分の姿が想像されていた。幸せな結婚生活、そして二人仲良く歳をとって……。

 

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 突如として叫び声をあげた香里に、一同の視線が集まる。

「お姉ちゃん、どうしたんですか?」

「一人で年老いていくのはいやぁっ!」

 ほとんど十歳くらいにしか見えないゆうな。高校生の娘がいるとは思えない若さを保つ秋子。そして、確実にその血を受け継いでいるであろう祐一と名雪。

 どうやら香里は怖い想像になってしまったらしい。いきなりの姉の豹変振りについていけず、栞はただ困惑したように目を丸くするばかりだった。

「じゃあさ、じゃあさ」

 香里がパニックに陥っている間に落ち着いたのか、ゆうなはとてとてと名雪に向かって歩いていく。

「なゆちゃんちょ〜だい」

 そのままゆうなは名雪の胸にぽふんと飛び込んでいった。

「え? あ……」

 最初は意味がわからなかった名雪だったが、すぐにその意味を察して頬を朱に染める。胸にゆうなを抱きかかえながら名雪は期待に満ちた瞳で祐一を見るが、照れているのか祐一は真っ赤な顔をしたまま名雪と視線を合わせようとはしなかった。

「了承」

 いつもと変わらぬ笑顔でそう宣言する秋子の声に、二人は真っ赤な顔でうつむいてしまう。

「意義ありですっ!」

 それに真っ向から反対したのは栞だった。

「どうして名雪さんなんですか?」

「う〜、しおちゃんの意地悪……」

「意地悪って……」

 相手が自分よりはるかに年上である事は栞も頭では理解しているのだが、ゆうなの容姿を前にしては不思議と自分がいじめっ子であるかのような錯覚に陥ってくる。

「だってなゆちゃんだったら一緒におねんねしてくれるし、一緒におしゃれも出来るし、一緒にお買い物にも行けるし……」

 そこまで言ってゆうなは再び名雪の胸に顔を埋めた。

「それに、とっても柔らかいし」

 その言葉に栞は、ハンマーで頭を殴られたようなくらいの衝撃を受けた。それを言われてしまっては、確かに勝ち目がない。その隣では美汐が同じく真っ青な顔でうつむいており、あゆと真琴も自分の胸に手を当てて、大きなため息をついていた。

「ねえ、ちょっといいかしら?」

 ようやっと立ち直ったのか、香里が力のない声を出す。

「本当に、相沢くんのお母さんなの? 義理のお母さんとかそういうのじゃなくて……」

「一応、実の母だぞ」

 信じられないだろうが、と小さく付け加えるものの、香里の耳には届いていないようだ。

「ああ、かおちゃん信じてない」

 ゆうなは名雪の胸から離れると、つかつかと香里の正面に歩いていく。

「証拠の写真だってあるんだからね」

 そう言ってゆうながスカートのポケットから出した写真に、香里の目が点となる。その写真を見ようとそのまわりに集った一同も、同様に目が点になっていた。

「それは祐ちゃんが五歳のときの写真よ」

 誇らしげに胸をはるゆうなの前で、香里の口からほぅ、とため息が漏れる。

「可愛いわね……」

「本当、可愛いですね。祐一さん……」

「このころの相沢さんは可愛かったんですね……」

「本当だ、祐一くん可愛い……」

「あう〜……」

 香里、栞、美汐、あゆがそれぞれ感嘆のため息を漏らす中、ただ一人真琴だけが首を傾けていた。

「ねえ、祐一……」

「ん? どうした真琴」

「なんで祐一は女の子の服を着てるの?」

 それを聞いて祐一は香里の手から写真をひったくる。

「こ……これは……」

 その写真には母ゆうなとおそろいの服を着て微笑んでいる、幼き日の祐一の姿が写っていた。

「それでね、この写真は……」

「わーっ! わーっ!」

 あわててゆうなの手から写真を奪い取る祐一。その写真にもしっかり女の子の服を着て微笑んでいる祐一の姿がある。

「……なんでこんな写真を……」

「だってゆうなは祐ちゃんのお母さんだもん。持ってるのはあたりまえじゃない」

 確かにこうした息子との愛のメモリーを持っているのは、母親の特権というものだろう。

「パパだって言ってたじゃない。男の子はすぐに大きくなって生意気になるから、今のうちにこういう写真を撮っておくんだって。それに祐ちゃんだってゆうなと一緒だって喜んでたじゃないの」

「それは子供のころの話だろう。今になって息子の恥ずかしい写真を披露してどうするっ!」

 祐一の強い剣幕に、ゆうなの瞳にじわりと涙が広がる。

「祐ちゃんが怒った〜っ!」

 突然大きな声で泣きはじめたゆうなを前に、祐一はやれやれまたかと思ったが、次第に立ち込めてくる冷たい視線に背筋が凍りついた。

「最低ね、相沢くん」

「こんな小さい子を泣かすなんて」

「ひどいです、相沢さん」

「祐一くん、ひどいよ」

「あう〜、祐一許せない」

 香里、栞、美汐、あゆ、真琴の非難の視線が注がれる中、祐一は孤立無援の状態に置かれてしまう。一方ゆうなはといえば、名雪の胸に顔を埋めてさらに激しく大声で泣いており、それを宥めるように優しく頭を撫でている名雪の視線も、しっかり祐一を非難していた。

「祐ちゃん、もうゆうなの事嫌いになったんだ〜っ!」

「俺か? 俺が悪いのか?」

「祐一さん」

 優しくたしなめるような秋子の口調に、祐一は自分の味方はいないのだと悟った。古来泣く子と地頭には勝てぬとは言うが、まさしく彼女こそがその両者を兼ね備える存在なのだ。

「俺が悪かった、母さん……」

 奥歯を噛み締めつつ、祐一は血を吐くような声を出す。

「母さんの事は好きだよ。これこの通り謝るから、だから泣き止んでくれ」

「ぐずっ……じゃあさ……」

 名雪の胸から顔もあげないまま、ゆうなは途切れ途切れに言葉をつむぐ。

「ゆうなのお願い……聞いてくれる……?」

「ああ、どんなお願いだって聞いてやる」

「かなえてくれないとダメだよ?」

 その言葉に祐一はぐっと唇をかみ締めるが、ここでゆうなの機嫌を損ねるわけにもいかない。なにしろゆうなは、いったんへそを曲げてしまうと宥めるのに相当な苦労をするからだ。

「祐一さん」

 再び響いた優しく諭すような秋子の声に、祐一は覚悟を決めた。

「わかった。だけど俺に出来る事だけだぞ」

「うん、じゃあね。ゆうな、祐ちゃんの作った焼きそばが食べたい」

 さっきまで泣いていたのが嘘のような笑顔で、ゆうなは祐一に向き直った。しかも泣いていたわりには涙の跡が見えない。しまったはめられたかと祐一は思うが、時すでに遅しだ。

 もしかしたら、一生この母親に勝てないじゃないだろうかと思いつつ、祐一は焼きそばを作る準備に入るのだった。

 

 ごま油を引いた中華なべに適当な大きさにざくざくと切ったキャベツを放り込んで軽く炒め、そこに秋子お手製の中華麺を入れて焦がさないように箸で手早くかき混ぜる。そうしている間にも空いているほうの手で軽く塩コショウして味を調え、仕上げにこれまた秋子特製のソースをからめて焼き上げる。

 そして、まんべんなくかき混ぜたところで、祐一特製焼きそばの出来上がりだ。

「ほら、出来たぞ」

「わ〜い、焼きそば〜」

 目の前の大皿に盛られた焼きそばを前に、ゆうなは瞳を輝かせながら青海苔をぱっぱっとかける。

「美味しいっ!」

 一口食べて、満面の笑みを浮かべるゆうな。軽く火を通したキャベツの自然な甘味と、少し辛めのソースが引き立てあい、自然な味を引き出していた。あまり料理の得意でない祐一の腕でこれなのだから、おそらくはよほど素材がよいものなのだろう。

 その証拠にその場に集った一同にも概ね好評だった。

「ゆうなね、祐ちゃんの焼きそばがあれば、ご飯三杯は食べられるよ」

「わたしも、お母さんのイチゴジャムがあれば、ご飯三杯は食べられるよ」

「ボクも、たい焼きなら」

「真琴は肉まん」

「……牛丼」

「あはは〜、舞ってば冒険家ですね〜」

「……ってなんで佐祐理さん達までここにいるんですかっ!」

 突然現れた川澄舞と倉田佐祐理の両名に、声を荒げる祐一。そんな祐一を気にした様子もなく、淡いグリーンのワンピースに身を包み、見るからにお嬢様然とした風情をかもしだしている佐祐理と、やや大きめのTシャツにスリムなジーンズというラフな着こなしではあるが、メリハリの利いたボディラインを強調したスタイルの舞が、二人仲良く焼きそばを食べていた。

「私が招待したんですよ。大勢のほうがにぎやかで楽しいですから」

「秋子さん……」

 いつもの様子で微笑む秋子の姿に、祐一は思わず頭を抱えてしまう。とはいえ、焼きそばをしっかり人数分用意しているところがご都合主義だ。

「ほら、姉さん。口のまわりにソースがついてますよ」

「ん〜」

 母ネコが子ネコを慈しむように、秋子はゆうなの口のまわりについたソースをぬぐってあげる。するとゆうなはなんとも気持ちよさそうに目を細めるのだった。

「あゆちゃん、口のまわりにソースがついてるよ」

「うぐぅ」

 それを見た名雪も、生来の世話好きなところを発揮してあゆの口のまわりについたソースをぬぐう。

「ほら、真琴も」

「あう〜」

 それを見た美汐も真琴の口のまわりのソースをぬぐい。

「ソースがついてるわよ、栞」

「お姉ちゃん、子供扱いしないでください」

 対抗意識を燃やした香里が栞の口のまわりのソースをぬぐおうとし。

「舞〜、ほっぺたにソースがついてますよ〜」

「佐祐理もついてる」

 このような感じで概ね平和裏に食事も終わり、そのついでに舞と佐祐理の紹介も終わったのだった。

 

「おっ買い物〜っ♪ おっ買い物〜っ♪」

 祐一と名雪を左右に従え、なにが嬉しいのか先程からゆうなは鼻歌を歌いながら商店街を歩いていく。

 そんなゆうなの姿に名雪はいつもと変わらぬ穏やかな微笑を浮かべているが、祐一の背中には先程から感じる道行く人達の視線が痛い。続柄で言うなら親子に姪といった組み合わせなのだが、今の祐一達はどう見ても子連れという感じだ。

 とはいえ、もう後十年もすればこういう光景も自然になるのかな、と考えると祐一も少しだけ幸せな気分になれた。

 祐一達が商店街にいるのは、ゆうなの歓迎会を開くための材料を買出しに来たからだ。いま水瀬家では秋子と佐祐理が中心となって栞とあゆが料理を担当しており、リビングでは香里と美汐が中心になって舞と真琴が飾り付けを担当している。

 歓迎会の準備が整うまでの間ゆうなに席をはずしておいてもらうため、祐一と名雪に買い物に行ってもらう事にしたのだ。

「あ……相沢……」

「よぉ、北川」

 春休みに入って久方ぶりに会う親友の姿に、祐一は気軽に声をかけた。だが、北川の顔は見る見るうちに真っ青になっていく。

「そ……そんな……」

 このとき祐一は、北川がなにかとんでもない勘違いをしている事に気がついた。そこで誤解を解こうと一歩足を踏み出したとき。

「うそだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 叫ぶなり北川は後ろも見ずに駆け出していった。

「だれ〜? 祐ちゃんのお友達?」

「あ? ああ……」

 後で誤解を解くが大変そうだな、と思いつつ、祐一は走り去る北川の背中を見送っていた。

「み……水瀬さん……」

「あ、斉藤君。こんにちわ」

 春休みに入って久方ぶりに会うクラスメイトに、名雪は軽く微笑んで会釈をする。しかし、斉藤の顔は気の毒なくらい真っ青になっていた。

「そ……そんな……」

 やはり斉藤も北川と同じくとんでもない勘違いをしているのだろう。

「うそだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 走り去る斉藤の後姿を眺めつつ、祐一は何故か勝ち誇ったような笑みを浮かべるのだった。

「だれ〜?」

「斉藤君。同じクラスのお友達だよ」

「ふ〜ん」

 このとき祐一は走り去る斉藤の背中を眺めつつ、あいつは誤解させておこうと心に誓った。

「相沢君? それに、水瀬さん?」

「よぉ、久瀬」

「こんにちは、久瀬さん」

 今日はやけに知り合いに会うな、とか思いつつ、祐一は気軽に片手を上げて挨拶し、そのとなりで名雪は丁寧にお辞儀をしていた。

 一方の久瀬はかけていた銀縁のメガネがずり落ちかけているのを直そうともせず、信じられないものを見ているかのように驚愕の表情を浮かべている。

「……ふっ」

 やがて久瀬は軽く鼻先でクールに笑うとずり落ちていたメガネをかけなおし。

「これで勝ったと思うなよぉっ!」

 と、わけのわからない捨て台詞をはいて走り去ってしまった。そのときに久瀬の顔の辺りから銀のしずくがこぼれたような気がしたが、取りあえず祐一は気にしないでおいた。

 

「祐ちゃん、お友達がいっぱい出来たんだね」

 名雪が買い物をしているのを二人で待っている途中で、不意にゆうなはそんな事を口にした。

「祐ちゃんはお友達作るの下手だから、ゆうな、ちょっぴり心配してたんだよ?」

 そう言って上目遣いで祐一を見るゆうなの瞳には、母親の輝きが見て取れた。夫婦が共稼ぎであるため、普段から満足に祐一の相手をしてあげられなかった負い目があるせいか、こういうときにゆうなは少しでも母親らしい事をしてあげようとがんばってくれる。

 そんな母親の心遣いは祐一にも痛いほどよくわかるのだが、元々社交性があまり高くなく、あゆの事故以来祐一は人との出会いを拒むようになってしまっていた。失ってしまうという事に対する恐怖が、祐一の心に深い傷を残してしまったのだ。

 しかし、名雪との再会がその後の運命を変えたと言っても過言ではない。いつも祐一のそばで名雪が飾らない太陽のような笑顔を向ける事で、祐一は自分でも気がつかないうちに固く凍てついた心が融かされていき、やがて癒されていった。そんな祐一が名雪の事を好きになるのは、ある意味自然な流れでもあるともいえる。

 そして気がついてみると、いつの間にか祐一は複数の女の子から好意を寄せられるようになっていた。もっとも、この背景には複雑な乙女心が働いているのだが、そんな事は祐一のあずかり知らぬところである。

「俺の事よりも母さん、親父はどうしたんだ?」

「パパなんて知らないっ!」

 父親の話題が出た途端、ゆうなはぷいっとそっぽを向き、む〜、とほっぺたを膨らませた。いつも父親にべったりとくっついているゆうなが、一人で祐一に会いに来ているので不思議に思ったのだが、どうやらこれが地雷だったようだ。

 実のところ共稼ぎといっても、父親が自分の仕事にゆうなを連れて行っているだけなのであり、どちらかと言えばゆうなの存在はマスコットのそれに近いものなのだ。

「パパったらひどいんだよ? いっつも仕事仕事で、ゆうなの事ちっともかまってくれないんだから」

 なにかと思えば犬も食わない夫婦喧嘩が原因なので、祐一は、まあ、いつもの事だな、と軽く聞き流していた。しかし、どう見ても夫婦喧嘩というよりは親子喧嘩のそれに近いような気がしてくる。そういえば昔っからゆうなが親父と喧嘩すると秋子さんのお世話になっていたなぁ、と祐一はそのときの事をしみじみと思い出した。

 元々ゆうなはこの街の出身であるし、祐一も自分では覚えていないくらい昔にはこの街に住んでいたらしい。他に頼れる人のいないゆうなが秋子のところに来るのは、ある意味必然ともいえるのだろう。

 そんな事を考えつつも、祐一がしっかりゆうなの手を握って名雪の帰りを待っていた、丁度そんなときだった。

「……探したぞ、ゆうな」

 野太い声と同時に大きな影が二人の前に立ちふさがる。

「パパ……」

「親父……」

 そう、その人物は祐一がひさしぶりに会う父親だった。

「まったく心配かけおって。帰るぞ、ゆうな」

 祐一の父親は、有無を言わせずゆうなの小さな手を引っ張る。

「いやーっ!」

 ゆうなはそれに抵抗するように、祐一の手を強く握った。

「わがままを言うんじゃないっ! ほらっ」

「いやったらいやーっ!」

 祐一としてはできる限り、犬も食わないような夫婦喧嘩に巻き込まれるのは避けたかったのだが、こんな細い腕のどこにそんな力が、と思うくらいの強さでゆうなが手を握っているため、不本意ながらも関らざるをえない状況である。

「やめて離して変態誘拐魔っ! いやーっ! 助けてっ! 犯されるーっ!」

「人聞きの悪い事を言うなっ!」

 言うなり祐一の父親はゆうなの小さな体を左手で小脇に抱きかかえ、右手でその口を塞ぐ。

「むーっ! むーっ!むーっ!」

 小さな手足をばたつかせ、ゆうなはなおも激しく抵抗を続ける。

「往生際が悪いぞ、観念しておとなしくするんだな」

 祐一の父親から勝利を確信した笑みがこぼれたとき、彼は自分を取り巻くあたりの雰囲気が急速に変わっていく事を感じた。

「あ……」

 道行く人達が足を止め、遠巻きにして眺めている。そのときに祐一の父親は刺すような蔑むような視線が、周囲に立ち込めていくのをひしひしと感じていた。

「いや……違うんです……。これはですね……」

 しどろもどろになって弁解をはじめようとする祐一の父親であったが、どうやらあたりの雰囲気はそれを許さないようだ。

「お待たせ〜」

 丁度そこに、買い物を終えて帰ってきた名雪ののほほんとした声が響く。そして、大柄な男性の小脇に抱えられたゆうなを見て、大きく目を見開いた。

「わわっ、人さらいさんだよ」

 まるで緊迫感のない名雪の声に祐一は、人さらいにさんをつけるなよ、とか、驚いているならもうちょっとそれらしい声を出せ、とか、色々と突っ込みたいところではあったが、その声をきっかけとしてあたりの温度がさらに冷えこんだ。

「なゆちゃんっ!」

 自分を捕まえる手の力が弱まった隙にゆうなは体をよじって脱出すると、そのまま名雪の胸に飛び込んでいく。そして、その瞬間に悪が決定した。

「……悪いがちょっと事情を聞かせてもらえるかな?」

 その声に祐一の父親が振り向くと、そこには白い歯を光らせる感じのスマイルを浮かべた警察官が立っていた。

「いや、あのですね……。これは……」

「言い訳は署で聞こうか?」

 警察官に連れられて署に向かう父親の背中には、ドナドナの旋律が良く似合う哀愁が漂っている。後には事情がわからず首を傾ける名雪と、ただ呆然と立ち尽くす祐一と、名雪の胸に顔を埋めながら口元に妖しい微笑を浮かべるゆうなの姿が残されるのみだった。

 

「まあ、そんな事が……」

 家に帰った祐一から事の顛末を聞いた秋子は、キッチンで祐一にお茶を淹れながら形の良い眉を少しひそめた。

「義兄さんにも困ったものですね」

「まったくもってその通りです」

 いくらゆうなの事が心配だったとはいえ、人前で人さらいじみた行動をするとは常識を疑ってしまう。祐一にも世間体というものがあるのだ。

「まあ、警察に連れて行かれましたから。しばらくは出てこれないんじゃないですか?」

「そうだといいんですけど……」

 警察程度の組織力であの義兄を拘束しておく事が出来るのだろうか。それだけが秋子の気になるところである。

 秋子はリビングのほうで舞のひざの上で遊んでいるゆうなの姿を眺めつつ、いつもの様子で左手を頬に当てたままため息をついた。実のところあのゆうながなついているくらいだから、義兄も悪い人ではないのだと秋子は思っているのだが、ほとんど過保護とも取れる深すぎる愛情が悩みの種なのだ。

 このあたりは祐一も似たような部分があるので、やはり親子なんだと秋子はつくづくそう思う。娘の幸せそうな笑顔を見るのはいいのだが、少しは時と場所を考えて欲しいというのが本音なのだ。

(あゆちゃんと真琴の教育上よろしくありませんから、せめて夜くらいは静かにしてくれると嬉しいんですけど……)

「どうかしましたか? 秋子さん」

「いえ、なんでもありません」

 妙にその場を取り繕うような秋子の笑顔に、祐一は少しだけ釈然としないものを感じるが、あえて追求する事はしなかった。

 

 ピンポ〜ン♪

 

「はぁ〜い」

 不意の来客に返事をして、秋子はいそいそと玄関に出迎えに行く。その後姿を見送りながら祐一は、なんとか父親とゆうなが仲直りできないものかと考えていた。両親の不仲というのは、子供心にも辛いところである。

 とはいえ、先程のように無理矢理にでも連れ帰ろうとするのは得策であるとは思えない。やはりこういう事は夫婦できちんと話し合うべきなのだ。

 しかし、今のゆうなが素直に父親の言う事を聞くとは思えない。ああ見えてゆうなも結構頑固なところがあるからだ。その意味で言うと、父親が警察に連れて行かれたのは好都合である。拘留されている間にゆうなの機嫌も良くなるかもしれないし。

 さて、どうやって二人を話し合いの席上につかせるかを、祐一が考えはじめたそのときだった。

「に……義兄さん?」

「ひさしぶりだな、我が義妹秋子よ。ゆうなはここにいるんだろう?」

「あっ、ちょっと義兄さんっ!」

 玄関先でなにやら声が響き、どすどすどすと足音が近づいてくる。

「ゆうなはここかぁっ!」

 勢いよく開かれたリビングの扉に、ゆうなの歓迎会を開いていた一同の視線が集中する。突然の闖入者が誰なのかを聞こうとしたとき、のほほんとした感じの声が響いた。

「あ、さっきの人さらいさん」

「うぐぅ、人さらいって?」

「さっきこの人、商店街でゆうなちゃんをさらおうとしたんだよ」

「じゃあ、悪ね……」

 そう言って香里は妖しげな微笑を口元に浮かべ、ナックルを握ってゆらりと立ち上がった。

「……遅かったか……」

 突如としてリビングから鳴り響いた轟雷のような衝撃音に、祐一は片手で顔面を覆って低く呻いた。

「実に言いにくい事なんだが……香里」

「なによ」

 足元で微動だにしない男を汚らわしいものでも見るように、蔑むような視線で眺めている香里。

「紹介するのが遅れたが……そいつは俺の親父なんだ」

 それを聞いた香里の表情が、見る見るうちに蒼ざめていく。なにしろ知らなかった事とはいえ、将来『お義父さん』と呼ぶかもしれない人をどついてしまったのだから。

「ええっ! それじゃこの人が祐一のお父さんなの?」

 普段あまり驚いた様子を見せない名雪の素っ頓狂な声がリビングに響く。その声に反応した祐一の父親の身体がピクリと動き、僅か一挙動で立ち上がって名雪の前まで移動すると、そのまま名雪の両手を握り締めた。

「名雪ちゃん、今の台詞もう一度言ってくれるかい?」

「え? 祐一のお父さん?」

「『祐一の』は外して」

「お父さん?」

「もっと大きな声でっ!」

「お父さん」

 名雪の両手を強く握り締めたまま、祐一の父親は随喜の涙を流す。

「名雪ちゃ〜んっ!」

 そのまま祐一の父親は、名雪を抱きしめようと大きく両腕を広げた。

「なにしやがるこのクソ親父っ!」

 その刹那に祐一が二人の間に割って入り、父親の顔面に蹴りを叩き込むと、しっかり名雪を抱きしめた。

「俺の名雪に手を出すんじゃねぇっ!」

 その言葉に、しんと静まり返るリビング。そのとき祐一は、自らの発言の重大さを知った。

「わっ、祐一恥ずかしい事言ってるよ〜」

 祐一の腕の中で頬を赤く染め、恥ずかしそうに身をくねらせる名雪。そして、祐一はあたりに立ち込める嫉妬と羨望の混じった視線の集中砲火を浴びる事となるのだった。

「俺の名雪かぁ……良かったじゃない、名雪」

「本当です。私も祐一さんにそう言われてみたいです」

「そうですね、ちょっとうらやましいかもしれませんね」

「名雪さん、良かったね」

「あ〜、祐一まっかになってる〜」

「祐一さんってば大胆ですね〜。ねえ、舞」

「はちみつくまさん」

「うふふ、了承」

「なゆちゃん、おめでとう」

 香里、栞、美汐、あゆ、真琴、佐祐理、舞、秋子、ゆうなが口々にはやし立てる中、くぐもった呻き声を上げて祐一の父親はゆらりと立ち上がった。

「なかなか良い蹴りだな、祐一」

「親父……」

 顔面にくっきりと足形のあざをつけた父親の姿はかなり滑稽であったが、その全身から放たれる得体の知れない気に祐一は一瞬気おされてしまい、思わず背後に名雪をかばう。

「お前はいいよな、祐一……」

 不意に遠い目をして、祐一の父親は静かに口を開いた。

「名雪ちゃんと一緒にお風呂に入れて……」

「なっ……!」

 予期せぬ父親の言葉に絶句する祐一。いや、それだけでなくその場に集った一同も言葉を失っていた。

「父さんが名雪ちゃんとお風呂に入ろうとすると、ゆうなも秋子も全力で阻止しようとするからな……」

 当然です、と言わんばかりに親父を睨みつけている秋子の姿に、なんとなく祐一はその気持ちが痛いほどよくわかる気がした。なにしろ相手はゆうなを妻にした男なのだ。娘を守ろうとする母親の気持ちもわからないでもない。

「大体叔母×甥がよくて、なぜ伯父×姪が駄目なんだ? 理不尽じゃないかっ!」

「いきなり訳のわかんねぇ事言ってんじゃねぇっ!このクソ親父っ!」

「なんだと? 祐一。お前今まで育ててもらった恩を忘れて……」

「あんたに育ててもらった覚えはないね」

 実際父親が仕事仕事で家に寄り付かなかったため、祐一が一家の団欒の中に身を置けたのは水瀬家ぐらいのものだったのだ。

「まったく、ああ言えばこう言う……。一体誰に似たんだか……」

「あんただよ、あんた」

「いいか? 祐一。父さんはな、娘が欲しかったんだぞ」

「悪かったね、息子で」

「娘と一緒にお風呂に入るのが父さんの夢だったんだっ!」

 そして、二人の不毛な言い争いはこの後一時間ほど続き、その間中名雪はなんとか二人を宥めようとしていたのだが、会話のテンポが速すぎたためか話にはいれず、ただ二人の間でおろおろするばかりであった。

 

「それでは改めて自己紹介しよう、私が祐一の父親だ。訳あって本名は明かせないので、気軽に祐一パパと呼んでくれ」

「祐一パパ?」

 見た目は祐一をそのまま中年にした感じで、リビングのソファーに偉そうにふんぞり返っている祐一パパの姿に、誰かがポツリと呟いた声だけが響く。

「なんだか、イギリス名物のピンク色のお化けみたいですね……」

「どこかの谷に住んでる妖怪の一家、という見方も出来るわね……」

 そう言って栞は香里と顔を見合わせる。

「どこかの大学を卒業した、植木職人という言い方も出来ますね……」

 こうポツリと呟いたのは美汐だ。

「ところで、お嬢さん方は息子とどういう関係なのかな?」

「あ、はい。倉田佐祐理です。ほ〜ら、舞も」

「……川澄舞」

 祐一パパの問いかけに、真っ先に口を開いたのは佐祐理だった。

「祐一さんが学校を卒業したら、ここにいる舞と一緒に三人で暮らす事になってます。ねえ、舞」

「はちみつくまさん」

 佐祐理の問いかけに小さく首肯し、簡潔に答える舞。

「ほぉ……」

 父親の鋭い視線が、容赦なく祐一に突き刺さる。

「美坂香里です。相沢くんとは悩み事を打ち明け、そして解決してもらった仲です」

「美坂栞です。祐一さんとは公園にある噴水の前で、口付けを交わした仲です」

「天野美汐です。相沢さんとは約束をして、それを守っていただいています」

「あう……沢渡真琴。真琴は祐一と結婚したのよぅっ!」

 とりあえず言うだけ言って、真琴は祐一の背中に姿を隠す。

「月宮あゆです。ボクと祐一くんは……なんだろ?」

 色々ありすぎて、説明に困るあゆ。祐一に出来る事ならなんでも三つだけ願い事がかなえてもらえる天使の人形をもらったし、夕暮れの迫る商店街で一緒にたい焼きを食べた事もある。探し物を手伝ってもらった事もあるし、幼馴染の腐れ縁と言い方も出来るかもしれない。あゆは困ったように祐一を見るのだが、口々に自己PRをはじめた少女達の発言内容のせいか、その顔はかわいそうなくらいに真っ青になっていた。

「なゆちゃんはなにも言わなくていいの?」

「ん〜……」

 ゆうなの無邪気な質問に、名雪は唇に人差し指を当てて考え込む。

「祐一の事は信じてるし、それに……」

「それに?」

「ちゃんと証拠は残ってるから」

 人はここまで幸せそうな笑顔で微笑む事が出来るのだろうか。そんな事を思わせる名雪の笑顔に祐一は救われたような気持ちでいっぱいになる。突如としてリビングに形成されたあまあまな雰囲気に、その場に集った少女達は心の中で『ご馳走様』と呟くのだった。

「……おい、祐一……」

 そんな雰囲気を打ち破るかのような、祐一パパの重い声が低く響く。

「貴様なんとうらやましい……じゃなくて、名雪ちゃんに悪いと思わないのか? この浮気者めっ!」

 確かに御説ごもっともであるが、実のところ祐一と名雪の関係はみんな認めているのである。こういう表現もなんであるが、彼女達が祐一の事を好きなのはまったく別の問題なのだ。しかし、祐一パパの意見にも一理ある。今の祐一の状態は、誰がどう見てもハーレムそのものなのだから。

 もっとも、祐一自身は名雪一筋なのである。みんなが好意を寄せてくれるのはありがたいのだが、その想いに応えてあげる事が出来ないのは辛い。結局、今の状態を維持するしか方法はないのだ。

「名雪ちゃんはこんなにも健気でいい子なのにな……」

 そんな祐一の想いを知ってか知らずか、祐一パパの言葉は続く。

「一体名雪ちゃんのどこに不満があるというんだ? こんなにも秋子にそっくりな名雪ちゃんの」

「秋子さんに?」

「そうだ。明るくて素直で、若かったあのころの秋子に……」

 その次の瞬間。リビングの空気が一瞬にして凍りついた。

「……義兄さん……?」

 まるで地の底から響いてくるような秋子の冷たい声が、静かにリビングに満ちる。そのときの秋子の笑顔は普段とあまり変わらないようにも見えたが、得体の知れない妙な迫力のせいか、誰も言葉を発せないばかりか指一本動かす事が出来なくなっていた。

「それは一体……どういう意味でしょうか?」

「パパ、浮気?」

 そのときのゆうなの笑顔も、得体の知れない妙な迫力を発していた。そんな二人の笑顔に左右から挟みこまれた祐一パパの表情が、見る見るうちに真っ青になっていく。

「ちょっと、こちらに来ていただけますか? 義兄さん……」

「そうよ、パパ。ちょっとこっち来て……」

 そして、有無を言わせずに秋子とゆうなは祐一パパを左右から挟みこみ、リビングから引きずるようにして連れ出していく。やがて水瀬家に響き渡った轟雷のような衝撃音に、あゆと真琴はしっかりと抱き合ったまま身を震わせるのだった。

 

「それで?」

 顔面に大きく真っ赤な手形を貼り付けた親父の姿に、祐一は呆れたような声を出した。

「一体親父はなにしにここに来たんだ?」

 少なくとも、秋子の逆鱗に触れに来たわけではないだろう。とりあえず祐一は言外にそういうニュアンスをこめて聞いてみた。

「無論ゆうなを連れ帰るためだ」

 しかし、当のゆうなは聞く耳持ちません、といった風情で、ぷい、とそっぽを向いている。もうこうなってしまうと、機嫌を直して貰うのも一苦労なのだ。

「秋子さん、なんとかなりませんか?」

 両親共に頑固な性格のためか、一度こじれるとよりを戻すのに相当な時間がかかる。そこで祐一は助け舟を求めるように秋子を見た。

「そうですね……」

 秋子はいつもの左手を頬に当てる仕草をしながら、静かに口を開いた。

「それでは、こういうのはどうでしょうか?」

 秋子が提案したのは、ゆうなと祐一パパを二人きりで話をさせるというものだった。険悪な様子のまま秋子の部屋に入っていった二人の姿に、祐一は大丈夫なのかと心配していたが、秋子はいつもの穏やかな微笑を浮かべながらこう諭した。

「いいですか、祐一さん。夫婦の間には、たとえ息子であっても立ち入れないものがあるのですよ」

 そう言われても、祐一は気が気ではない。夫婦といっても、元をただせば所詮は赤の他人同士の結びつき。子供と違って血のつながりがあるというものではない。別れてしまえば、他人同士に戻ってしまうのだ。

 しかし、祐一は二時間ほどたってから秋子の部屋から出てきた二人の姿を見たときに、自分の懸念が杞憂に終わった事を知る。

「パパ、大好き〜」

「パパもゆうなが大好きだぞ」

 お姫様のように抱きかかえられ、祐一パパの腕の中で微笑むゆうなの姿からは、先程までの険悪な様子が微塵も感じられない。ただ、ゆうなの肌の色艶が妙に良く、祐一パパが少しやつれているようにも感じられたが、とりあえず当面の危機は回避できたようなので祐一はほっと一息ついた。

 だが、そう思ったのも束の間。祐一パパの懐から軽やかな電子音が鳴り響いた。

「悪い、ゆうな。秋子、ちょっと電話を借りるぞ」

 祐一パパはゆうなを下ろすと背広の内ポケットからポケベルを取り出し、玄関に向かうとどこかへ電話をかけはじめた。

「ああ、私だ。一体なにがあった?」

 どうやら仕事先からの連絡らしい。真剣な表情をしているときの祐一パパが意外と整った顔立ちをしていたので、ついつい香里は見惚れてしまった。あれなら『お義父さん』と呼べるかしら、と妄想をたくましくさせる。

「いや、それは困るな。なんとか抑える事は出来ないか?」

 不意に祐一パパの声が大きくなる。どうやら電話の向こうの状況はかなり切羽詰っているようだ。

「わかっている。こちらの用事が済み次第、私もそっちに向かう」

 こちらでの用事というのは、おそらくはゆうなの事だろう。忙しい仕事の合間を縫って、わざわざ祐一パパは駆けつけてきたのだ。

「なんとか抑えておけ、今アメリカを刺激するわけにはいかんのだ。下手に刺激してみろ、あの大統領の事だ、なんだかんだと言いがかりをつけて中東に攻め込むのは目に見えている」

 かなり不穏な内容に、祐一は自分の耳を塞ぎたくなった。

「そうなったら中東の石油資源は、下手をすればアメリカの言いなりだ。最悪の場合、石油ショックにもなりかねんのだぞ。そういう事態はできる限り避けねばならん」

「一体、俺の親父は外でなにをやってるんだ?」

「祐一さん」

 呆れ果てた様子の祐一に向かい、秋子は唇にチャックをする動作をして。

「企業秘密です」

 と、いつもの笑顔を見せる。

 そんな祐一パパの背中を見つつ、ゆうなはその小さな身体を小刻みに震わせていた。

「パパの馬鹿ぁっ!」

 リビングに戻ってきた祐一パパを見るなり、そう叫んで走り出すゆうな。

「待て、ゆうな。パパはお前の事が大好きなんだぞ〜っ!」

 その後を追う祐一パパ。

 突然リビングではじまった二人の追いかけっこに、その場に集った一同は呆れた様子で呆然とみているだけだったが。

「あらあら」

 ただ一人秋子だけは見慣れた光景であるためか、いつもの様子で穏やかな微笑を浮かべていた。

 

「それじゃあね、祐ちゃん」

 あれから様々な紆余曲折を経て、ようやっと両親は和解へと達した。ここまでの長く苦しい道のりを思い出し、思わず祐一の目から涙がこぼれる。ゆうなの明るい笑顔と、憔悴しきった様子の祐一パパの姿だけが、妙に祐一の印象に残っていた。

「なゆちゃんもまたね」

 この日祐一の両親は、再び仕事先へと帰る事になる。あまり大勢で行くのもなんなので、駅まで見送りに来たのは祐一と名雪の二人きりであるが、最後にゆうなは名雪の胸にぎゅっと顔を埋め、名残惜しそうにその感触を楽しんでいた。

 やがて二人を乗せた電車は、交流電動機特有の甲高い駆動音を響かせてゆっくりとホームから離れていく。祐一は赤いテールランプが遠く地平の彼方に消えるまで、ずっと見送っていた。

「行っちゃったね……」

「ああ……」

 祐一は名雪の声に短く答える。考えてみれば、祐一がこの街に来てから久々に家族と過ごした日々であった。名残惜しく思ってしまうのも無理の無い事だろう。

「また、会えるよ。すぐにね」

 まるで全てを見透かしているかのような名雪の微笑が、祐一の心に不思議な暖かさを与える。思えば名雪は、いつでもこうやって祐一を支えてきてくれたのではないだろうか。

「そうだな」

 そして、祐一も名雪の優しさに笑顔で返す。

「じゃあ、帰るか」

「うん♪」

 家に向かって歩き出しや祐一の手を、名雪はしっかりと握る。祐一がこの街で一度は失ってしまったもの。そして、再び取り戻した大切なもの。

 奇跡というものは、もしかしたらこんな日常の中にこそあるのかもしれない。なぜなら、祐一には奇跡なんて起こせないからだ。

 今、隣で心からの笑顔を向ける名雪の姿に、祐一はふとそんな事を思った。

 

 こうして、春の日に起きた騒動は終わりを告げ、なんの変哲もないような平和な日常が戻ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 はずだった……。

 

「ねえ、ちょっと聞いてるの? 祐ちゃん」

「聞いてる。聞いてるってば、母さん」

「パパったらひどいのよ? ゆうなの事ちっともかまってくれないんだから」

 リビングのソファーに腰掛けた祐一のひざの上にちょこんと座りながら、ゆうなは小さな唇を尖らせている。また、親父と喧嘩して飛び出してきたのだ。

「ゆうな〜っ!」

「あら、義兄さん。いらっしゃい」

 玄関でどたどたと騒がしい音が響いた次の瞬間、祐一パパがリビングに飛び込んでくる。

「ゆうな、パパが悪かった。謝るから一緒に帰ろう、な?」

「ぷ〜んだっ! パパなんか嫌いだもんっ!」

「ゆうな〜っ!」

 祐一の胸に顔を埋め、ゆうなは全身で聞く耳持ちませんという態度を取り、それを宥めようと祐一パパはリビングの床に額をこすりつけて哀願する。

「……悪夢だ……」

 思わず頭を抱える祐一。

「にぎやかだね」

 そして、のほほんと響く名雪の声。

 

 世界は今日も、平和であった。

 

 まったくの余談であるが、新学期の教室でクラスメイトから『相沢夫人』と呼ばれる名雪の姿があったという。

 しかし、それはまた別のお話である。

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