かおりんのお弁当大作戦

 

「ただいま〜」

「お帰りなさいお姉ちゃん。今日お父さんとお母さん帰りが遅いんだって、だから……」

 お夕飯は先に食べてて、と続けようとした栞ではあったが、帰宅した姉の持つ大量の食材に思わず目を見張る。

「そう……それはよかったわ……」

 そのときの香里の妖艶な微笑み。妖しく光る瞳に栞は背筋に戦慄が走るのを感じた。

 お夕飯はあたしが作るわ、と言ってキッチンのテーブルの上に乗せられた食材をみて、栞は心の中で、血は争えないものですね、と思った。その量はかつて栞が作っていた重箱弁当の量に相当していたからだ。

「一体、なにがあったんですか?」

 どう考えても普段のクールビューティーを地で行くような姉の姿とかけ離れた今の香里の姿に、栞は至極まっとうな質問を投げかけた。その問いに香里は地の底から響くような底冷えのする声でこう答えるのだった。

「……女の沽券に関る問題だからよ……」

 

 それは授業中の出来事であった。

 この日祐一のクラスの女子は三時間目と四時間目の時間を使って家庭科の調理実習を行っていた。ちなみに男子はこの時間、技術科の木材加工の実習で本箱を作っている。

「はい、皆さん出来ましたか?」

「は〜い」

 家庭科の女教師(二十五歳独身女性)の声に、ケープをはずした制服の上に割烹着を着た女子一同の黄色い声が唱和する。

 この日のメニューはスパゲッティカルボナーラ。これはベーコンと卵、それにバターと生クリームで作るスパゲッティだ。使う材料は単純だが、それだけに上手に作るのは意外と難しい。

「うわぁ……」

 教室の片隅で、ひときわ大きな女子の声が上がる。

「これ、本当に水瀬さんが作ったの?」

「すご〜い……」

「とてもあたし達と同じ材料使って作ったとは思えないわ……」

「そ……そんな事ないよ〜」

 クラスメイト達の賛辞を受け、名雪は少し照れたように微笑んだ。名雪にしてみれば母、秋子に教わったとおりに作ったものなのだが、本職顔負けの出来映えはそのままお店に並べてお金を取れるくらいであり、少なくとも同じクラスの女子の中では群を抜いたものだ。

「なに言ってるのよ、あんた達は」

 するとそこに香里が現れ、いつもの様子で背後から名雪を抱きしめた。

「いい? あんた達。名雪は普段から家の手伝いとかよくしてるのよ? 少なくとも料理に関してはあたし達とはキャリアが違うのよ、キャリアが」

「か……香里〜」

 香里は名雪の背中をバンバン叩きつつ、言葉を続ける。

「それに、最近は相沢君のお弁当も作っているしね……」

「かかかかかか……香里〜」

 名雪は顔を真っ赤にするが、クラスメイト達からはきゃ〜、と黄色い歓声が上がる。

「ああ……あの寝雪の異名を取る名雪が、朝早起きしてお弁当を作る日が来るなんて……恋って女を変えるものなのね……」

「寝雪って……」

「そんな事言ってたかしら?」

「さあ……」

 自分の言葉に酔いしれているような香里とは対照的に、クラスメイト達の反応は冷ややかだ。

「それで、こっちが美坂さんの作ったほうなのね……」

「……すご〜い……」

「……とてもあたし達と同じ材料使って作ったとは思えないわ……」

 見るからに好対照な名雪と香里のスパゲッティの出来映えにクラスメイト達の呆れたような声が響く中、どやどやと数人の男子生徒が家庭科室に入ってくる。まだ授業中よ、と家庭科の女教師は注意するのだが、女子の調理実習のときに男子がお邪魔するのはいつもの事なので、半ばあきらめているのが現状だ。

「腹減った名雪。なにか食わせてくれ」

 そして、その中には名雪のいとこ兼幼馴染兼同居人兼恋人の相沢祐一の姿もあった。

「もう、祐一。もうすぐお昼だよ?」

「そうは言うけどな、名雪。腹が減ったんだからしかたないだろ。それに名雪が作ったのを食べのがすなんて、人として不出来ではないか?」

「……もう、しょうがないな……」

 口ではそう言いつつも、どこかうれしそうにスパゲッティを差し出そうとする名雪。

「……あれ?」

 だが、さっきまで美味しそうな湯気を立てていたスパゲッティは忽然と姿を消していた。

「水瀬さん、ごめんね」

 すると一人の女子、三つ編みメガネのクラスメイトが、申し訳なさそうな顔で空になったお皿を差し出した。

「あんまり美味しかったから、つい……」

「でも、相沢君も幸せよね」

「なにがだ?」

 祐一にとってはほとんど面識もないようなクラスの女子。名前がわからないので右から順番に三つ編みメガネ、ショートヘアの元気、セミロングのおしとやか、といった程度の認識でしかない。

「だって相沢君は、いつも水瀬さんの作った料理を食べているんでしょ?」

「あたし達はこういう機会でもないと、水瀬さんの料理なんて食べられないのよ?」

「それでね、相沢君。その代わりになるかどうかわからないけど……」

「んっんっ」

 少し顔を赤らめて祐一に自分達が作ったスパゲティを差し出そうとしたクラスメイト達を制するように、わざとらしく咳払いをした香里がその前に立ちふさがった。

「名雪の代わりで悪いけど、どうかしら?」

「香里が作ったのか? これ……」

「自信作よ」

 香里はそう言うが、祐一にはどう見てもそうは見えない。だが、普段祐一は秋子に名雪、それに佐祐理といった料理上手な女の子に囲まれているために、そう見えるだけなのかもしれない。

 以前栞が作ってくれたお弁当は、見た目は悪かったが味はまともだった。そして香里はその姉であり、なんと言っても学年で一番の成績を誇る才女である。だからきっと大丈夫だと判断した祐一は、まあ一口くらいは、と思ってスパゲッティをくるくるとフォークで巻き取って口に運んだ次の瞬間。

「ごふぅっ!」

 祐一の意識は闇に落ちた。

 

「天使がうぐぅ、死神がえう〜、ウサギ耳のカチューシャを着けた女の子の抱いていた子狐があう〜と鳴いていた……」

 後に保健室で目を覚ました祐一は、憔悴しきった表情でそう語ったと言う。

 

「……祐一さん……」

 姉から事の次第を聞いた栞は、心の中で祐一の無事を祈った。

 それはともかくとして栞は、普段なにかにつけて完璧な姉が料理一つ満足に作れないと言う事実が意外だった。考えてみると家では母が家事一切を取り仕切っており、栞はよくお手伝いをしているが、香里が手伝っているのを見た記憶がないからだ。

「それはそうよ。だってあたし……」

 悲痛な香里の呟きに、思わず栞は耳を澄ます。

「……中学のころからずっと、家庭科と保健体育だけは名雪に勝ったためしがないのよ……」

 確かに香里は学年で一番の成績を保持しているが、それはあくまでも総合成績においてである。実のところ香里は個々の教科、特に家庭科や保健体育などの実技を伴う科目を苦手としていたのだ。

「でも、お姉ちゃんは学年で一番なんだし、別に料理くらい……」

「栞、わかってる?」

 突然の冷ややかな視線に、栞は小動物のように身を縮こまらせた。

「いくら連立方程式や物理の法則が解けたって……いくら英語で外国人と話ができたところで……お料理とか、お洗濯とか、お部屋のお掃除とかにはなにも関係しないのよ?」

 一言一言かみ締めるような香里の言葉が、栞の耳に重くのしかかるように響く。

「それにちょっとくらい勉強が出来なくったって、どんなにドジで、お間抜けで、寝ぼすけだって、背も小さくて胸とかがぺったんこの幼児体型の持ち主だって、自分のために一生懸命尽くしてくれる女の子に、男はぐっと来るものじゃなくって?」

「えう……」

 悲痛な叫びだった。うつむいたままなのでよくわからないが、今香里はきっと血の涙を流している事だろう。一見完璧に見える姉にも意外なコンプレックスがあるものですね、と、このときの栞はのんきに思っていた。

「……見てなさいよ、相沢君……」

 不気味な笑いと共に香里の口から発せられる、この台詞を聞くまでは。

 

 買ってきた食材をキッチンのテーブルの上に並べた姉の後姿に、と栞はふとこんな事を思った。

(料理勝負で名雪さんに挑もうだなんて、なんて無謀な……)

 それは前に栞が水瀬家にお邪魔していたときの事だった。すっかり遅くなってしまい、夕飯をご馳走になる事になった栞は、自分の料理技術の向上を目的に夕食の支度を手伝う事にしたのだ。

 この日のメニューはおでん。おでんなんてスーパーで種を買ってきて煮こむだけだから楽ですね、と思ったのが間違いだった。まさか秋子と名雪が中に入れるおでん種、はんぺん、ちくわぶ、がんもどき、その他諸々を一から作るとは、流石の栞も思っても見なかったのだ。

 結局二人の手際の良さについていく事が出来ず、あゆと二人でお皿を並べていたのも今では良い思い出となっている。

(道は険しいですよ、お姉ちゃん)

 まな板の上におかれた大根を前にして、慣れない手つきで包丁を握る姉に、栞は心の中でエールを贈った。

「……えっと、野菜は一センチほどの拍子木に……」

「お姉ちゃん、ものさし片手になにやってんですか?」

「こういう事は精確にやらないとダメでしょ?」

「適当でいいんです、そういうのは」

 見ていられなくなった栞は、香里から包丁を取るとてきぱきと材料を切っていく。

「……一グラムの水の温度を一度上げるのに必要なエネルギーが一カロリー。だから、鍋一杯分の水を沸騰させるのに必要な時間は……」

「普通にガス使えばいいんです」

 ストップウォッチを取り出す香里を尻目に、栞は水を入れた鍋をそのまま火にかける。

「塩分濃度が二十パーセントだから、必要な味噌の量は……」

「……って、さっきからなにやってんですか、お姉ちゃんは?」

「なにって、お料理よ?」

「私は理科の実験でもやってるのかと思いました」

 精確に分量を計量するべく、上皿天秤に慎重に分銅を載せている姉の姿に、栞は呆れたような視線を送る。そればかりかテーブルの上には香里が購入した食材もさることながら、三角フラスコにクランプ、試験管にこまごめピペットなどの実験道具がところ狭しと並んでいたりする。

 そんなわけで、なんだが怪しげな薬でも作っているかのような錯覚に陥る栞であった。

「とりあえずこれはこれで良いです。後は少し煮込めば出来上がりです」

「助かるわ、栞」

 このあたりが普段お手伝いをしている栞としていない香里との差だろう。

「ところで、なにを作ればよかったのかしら?」

 突然の言葉に栞は、ドンガラガタン、と派手な音を立ててひっくりこけた。

「そういう事は、決めてから作るものですっ!」

 ああもお、と呟きながら栞は、手近にあった料理本の中から使った材料で作れそうなものを探し出す。

「なるほど、本を見て作ればいいのね……」

 感心したように首を振る香里の姿に、栞は言いようのない不安感に襲われるのだった。

「それじゃ、後はあたしがやっとくから。その間に栞はお風呂に入っちゃいなさい」

 その言葉に素直に従う事にした栞ではあるが、よもやこの行動が後の悲劇の銃爪になろうとは、神ならざる彼女にわかるはずもなかった。

 

 湯上りのホカホカとしたいい気分の栞を、キッチンから漂ってくる優しい良い匂いが包み込む。どうやら上手くいったみたいですね、と栞は上機嫌だったが、キッチンに一歩足を踏み入れた途端にその体は硬直してしまう。

「あら、丁度よかったわ栞。良いタイミングよ」

「……お姉ちゃん……」

 にこやかに出迎えてくれる香里の表情とは対照的に、栞の表情は暗く沈んでいた。

「……これは一体なんですか?」

「なにって……豚の丸焼きよ?」

 テーブルの中央を占めている巨大な物体は、間違いなく豚の丸焼きだろう。しかし、香里の買ってきた食材の中にあの豚はなかったはずだし、ましてやあれを作っているところを栞は見ていなかった。

「ぶつくさ文句言ってないで早く座りなさい。冷めないうちに食べましょ」

 少し釈然としないものを感じるが、目の前で美味しそうな匂いを立てている豚の丸焼きには心惹かれるものがあるのは事実。

「これはね、こうやって皮の部分だけ食べるのよ」

 栞は差し出されたフォークで言われたとおりに皮を刺そうとした次の瞬間。

「えうっ!」

 突然その部分がガボンと陥没し、中から甲殻類を思わせる触手がワシャワシャワシャと飛び出してきた。驚きのあまりバランスを崩した栞は、触手の中心にある空洞に落ちそうになる。

「栞っ!」

 咄嗟に香里がパジャマの襟首を掴んで引き戻したので、寸前のところで栞は無事だった。すかさず香里は家庭用品で簡単に出来る、良い子は絶対に真似をしてはいけない火炎放射器でなおも触手を動かし続ける豚の丸焼きを焼き尽くしていく。

「大丈夫? 栞……」

「は……はい……」

 テーブルの上にはすっかり炭化した豚の丸焼きの残骸がオブジェとなっている。もう害はないと判断した香里の声に上ずった様子で返事をする栞だったが、ぺたんと床に座り込んだ膝頭になにかがこつんと当たる。

「えう?」

 恐る恐る覗き込んでみると、そこにはカニのような足を生やしてテーブルの下をカサコソと這い回る豚の首がいた。

「えう〜っ!」

「……なんて事……」

 そう呟きつつも香里は冷静に火炎放射器で止めを刺した。

「一体どうやったらあんなわけのわからないものが出来るんですかっ!」

「不思議よね……」

 栞の怒鳴り声に臆した様子もなく、香里は涼しい様子で次の鍋を取り出した。

「……今度は大丈夫なんでしょうね……」

「大丈夫よ。こっちは自信作なんだから」

 そう言ったのも束の間、香里が蓋を開けた途端に勢いよく触手がワシャワシャワシャと飛び出してくる。

「な、な、な、なんなんですかそれはっ!」

「……知りたい?」

 あわてて蓋を閉める香里ではあるが、鍋の中にいるナニカは外にでようと激しく内側から蓋を叩いている。必死に蓋を押さえつけている香里の笑顔がかなり恐ろしい。

「あは……あはは……」

 もはや栞は笑うしかない。人間と言うものは恐怖が極限まで精神を支配すると、泣くか笑うかのいずれかしかできなくなるという。今まさに栞はそういう状態だった。

 ここにいてはいけない。そう判断した栞は、そろりそろりとキッチンからの撤退を開始した。いくらなんでも食べ物に美味しく食べられてしまうのはごめんだからだ。

 でも、祐一さんにだったら美味しく食べられちゃってもいいかな、と栞が考えたときだった。

「……どこに行くのかしら? 栞……」

 底冷えのするような香里の声に、栞は思わず身をすくませる。

「え……えっと、その……あの……」

 考えろ、考えるんだ。凄まじいまでの香里のプレッシャーに体を拘束されつつも、栞は必死になって打開策を考えた。ここまで栞が頭脳を使ったのは、おそらく生まれて初めての事なのではないかと思うくらいに。

「ちょ……ちょっとお花畑に花を摘みに……」

「……そう……」

 香里から放たれていたプレッシャーがすっと引いたので、栞は安堵の息を漏らす。

「お行儀が悪いけどいいわ、行ってらっしゃい」

 その声が届くか届かないかのうちに、栞は一目散にキッチンから逃げ出した。

 

「えっくしっ!」

 同じころ、祐一は水瀬家で至福のひとときを過ごしていた。

 なにしろこの日は秋子が仕事でかえってこれず、あゆは定期の検査入院。そして、真琴は美汐のところにお泊り(にいかせた)。つまり、祐一は今水瀬家で名雪と二人きりなのだ。

 キッチンで楽しそうに夕食の準備をしている名雪の後姿に、祐一は思わず心の中で神に感謝した。そう、これは天が我に与えたもうた千載一遇のチャンス、据え膳食わぬは男の恥だ。

(長かった……)

 思わず祐一の頬に一筋の涙が伝う。こうして名雪と二人っきりになるのはひさしぶりだからだ。

 秋子が入院していたときは家で二人っきりというのが普通だったが、そのころは名雪が家事一切を行わなくてはいけなかったために、なんとなくいい雰囲気になるのにめぐまれる事はなかった。秋子が退院してからはあゆと真琴を正式に引き取る事となり、にぎやかになった反面二人の時間を持つ機会も少なくなってしまった。

 そういう生活に不満があるわけではないが、やはり祐一も男である。自分の愛する人がすぐに手を出せるところにいるというのになにも出来ないというのは、砂漠でオアシスの幻影を追いかけているようなものだからだ。

「ふんふ〜ん♪」

 先程からリズミカルに響く鼻歌交じりの包丁の音に合わせるような名雪の動きはとても洗練されたもので、流石は秋子の娘だけの事はある。てきぱきとキッチンを名雪が動き回るたびに白いフリルつきのエプロンと、陸上競技で鍛えられたお尻がロングのタイトスカート越しに揺れ動く。

「……名雪」

 祐一はそっと名雪の体を背後からそっと抱きしめた。名雪の綺麗なストレートロングの髪から香るシャンプーの匂いが祐一の鼻腔をくすぐる。

「わっ、ダメだよ祐一。今包丁使ってるし、それにお鍋も……」

「俺は……名雪を食べたいな……」

「あ……」

 自分の腕の中にすっぽりと納まってしまうくらい小さな名雪の体が、密着度を高めていくたびにどんどん温かくなっていく。祐一はすっと左手で名雪の腰を抱き寄せると、エプロンの隙間から右手を入れ、衣服越しに名雪の胸を揉んだ。

「あ……ダメ……」

 それこそたわわに実ったと言う表現がしっくりくるような名雪の柔らかい感触が、硬さと柔らかさを併せ持ったブラのカップ越しに伝わってくる。しばらく祐一がその感触を楽しんでいると、衣服越しでもはっきりそうとわかるくらいに名雪のデリケートな部分が自己主張をはじめた。

「ふあ……ああ……」

 不意に名雪は祐一の胸に体重を預けると、肩越しに振り向いて恍惚としたような瞳を向けた。

「祐一……」

「名雪……」

 自然に二人の距離が縮まり、祐一が名雪の唇の感触を味わおうとした刹那。

 

 ピロロロロロロロ……ピロロロロロロロ……

 

 リビングにおいてある電話が、けたたましく鳴り響いた。

「あ、電話……」

「いいじゃないか」

「よくないよ、もし大事な電話だったら……」

「……わかったよ」

 断腸の思いだったが、祐一はリビングに電話を取りにいく。実のところ名雪は恥ずかしがりやなところがあるせいか、その気にさせるために雰囲気を盛り上げるのはかなり苦労するのだ。

「……はい、水瀬です。ただいま留守にしております。ご用件のある方はピー、と言う発信音の後にメッセージを。ファックスの方は送信してください……」

『……そんなこという人嫌いです』

「なんだ、栞か。どうした?」

 今いいところだったのに邪魔しやがって、という気持ちを込めつつ、にこやかに応対する祐一。どうも電話の向こうにいる栞はかなりあせっているようだ。

『大変なんです。お姉ちゃんが……お姉ちゃんが……』

「香里がどうした?」

 そこで祐一は、電話の向こうで栞が息を呑む声を聞いた。

『お姉ちゃん? なんですか、それ……。こ……こないで……。いや……いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!』

 

 ガラガラ、ガターン!

 

「栞? 栞ーっ!」

 

 がちゃっ……つー……つー……つー……

 

 なにかが激しくぶつかるような音と、栞の断末魔の叫び声が響いた後、電話からは規則正しい電子音が聞こえるようになった。

「栞ちゃんがどうかしたの? 祐一」

「いや、なんでもない。間違い電話だったみたいだ」

 意外と薄情な祐一であった。

「そんなことより、名雪……」

「あっ、ダメだよ。祐一……」

 名雪はそっと祐一の唇に自分の人差し指を当てた。

「……わたしはデザート、だよ……」

 

 翌朝の学校。祐一は四時間目の授業を夢見心地で聞きながら、いつものように机に突っ伏していた。

 お昼休みを目前に控えた今のこの時間、名雪が眠い目を必死にこすりながらノートを取り、そうした作業を放棄して祐一が眠っているのはいつもの事なのだが、この日はいつもと勝手が違っていた。

 教室内が異様なまでの雰囲気に包まれている。その妖しげな気の発生源は、祐一の右斜め後ろの席に座る少女、美坂香里から発せられているものだ。

 どうやら香里は祐一に熱い視線を送っているようなのだが、右肩越しに感じる視線がちくちくと痛い。祐一は気になって振り返ってみるのだが、視線が合うと香里は照れたようにそっぽを向いてしまい、普段の彼女のイメージからするとかなり不気味だった。

 香里になにかしたかなあ、と祐一は昨日からの出来事を振り返ってみた。

 夕食を食べた後美味しく名雪を食べて、一緒にお風呂に入った後はベッドの上で二人仲良く魚になって、朝は名雪が作った朝食を一緒に食べて、珍しく歩いて学校に来た。出掛けに名雪から、今日のお弁当は自信作だよ、と笑顔で告げられていい気分だったのが、今は嘘のようだ。

 とにかくもうすぐ授業も終わり、お昼休みがやってくる。そのときを一日千秋の思いで待ちわびていた祐一の耳に、チャイムの音が鳴り響いた。

「祐一〜お……」

 

 ゴスッ!

 

 いつものように話しかけてきた名雪の声が鈍い衝撃音と共に途切れ、なにかが崩れるような音が祐一の隣から聞こえてくる。

「お……おい、み……」

 

 ガスッ!

 

 なにかを言いかけた北川の声が途中で途切れ、祐一の後ろでなにかが崩れるような音が響く。

 その様子を祐一は机に突っ伏したまま聞いていたが、あまりの恐怖に身がすくんでしまったようで、指一本動かす事ができなくなっていた。

「相沢く〜ん、お昼よ〜」

 そのとき背後から響いた香里の声は、猫なで声と言うにはあまりにも異質すぎた。普段の香里とはまったく異なる声音に、祐一の背筋になんとも形容しがたい戦慄が走る。

「相沢君……」

 耳元で聞こえる香里のデス声に、祐一はバネ仕掛けの人形のように飛び起きた。

 そのとき、最初に祐一の視界に入ったのが、自分の机に突っ伏して眠る名雪の姿だった。それだけなら割とありふれたいつもの光景であるとも言えるのだが、名雪の後頭部には巨大なたんこぶが乗り、そのうえ白目をむいて突っ伏しているとなると話は別だ。

「……っ!」

 そして、祐一の背後では北川が椅子にもたれかかるようにして、顔面に真っ赤な花を咲かせて意識を失っていた。折られた鼻骨と、苦しげな呼吸と一緒にどくどくとあふれる鼻血がかなり痛々しい。

「おはよう、相沢君……」

 その二人の間で妖艶な微笑を浮かべる香里の手には、小さな包みが大事そうに抱えられていた。

「あたし今日はお弁当なのよ。よかったら相沢君も一緒に食べない?」

「あ? ああ……」

 いつもならそこかしこで女の子達が集まってお弁当を広げる光景が見られる教室も、この日は何故か誰もいなかった。それじゃあ俺も、と席を立ち上がりかけた祐一の隣に香里が自分の椅子を持ってきたため、祐一はその場から動く事が出来なくなってしまった。

「はい、あ〜ん」

 色とりどりのおかずの入ったお弁当箱の中から香里は鳥のから揚げをお箸でつまみ、左手を添えて祐一に差し出した。いつもは名雪が祐一にそうしているのを香里が横から眺め、おあついわね、とからかっているのだが、当の本人にそうされるのは嬉しいよりも先に不気味さが際立ってしまう。

 しばらく祐一が躊躇していると、香里はすっと鳥のから揚げを引っ込め、うつむいたまま震える声で口を開いた。

「……そうよね……」

 それは、今にも消えてしまいそうなか細い声だった。

「相沢君には名雪がいるのに……あたしったら、なにやってるのかしらね……」

「香里……」

 小刻みに震える香里の小さな肩。これは、あの冬の日に祐一に見せた弱い香里の姿だ。

「……馬鹿みたいでしょ?」

 不意に祐一を見上げた香里の瞳に涙が光る。目じりに浮かんだ、おそらくは世界でもっとも美しいであろう真珠の輝きに、祐一は魅了されたように体が動かせなくなった。

 そして、香里の細くしなやかな白い指先に巻かれた絆創膏、スタイリストを自称している香里の目元に浮かんだ黒いくま。そして、ロングのウェーブヘアからほのかに匂う、名雪とはまた違ったシャンプーの香り。

 それに気がついたとき祐一は、香里のしぐさ全てから目が離せなくなっていた。

(こいつが噂のツンデレか……)

 思考は冷静に状況を把握しているのだが、普段とは雰囲気の異なる香里に圧倒されているせいか、祐一に抗う術は無かった。心の中では激しく警鐘が鳴らされているのだが、もはやどうすることも出来ない状況だ。

「……一口だけでもいいの。だから……お願い」

 香里が上目遣いでうるうるとした視線を向けたとき。

(ごめん、名雪。ごめん、秋子さん。ごめん、あゆ。ごめん、佐祐理さん。ごめん、舞。ごめん、真琴。ごめん、栞。ごめん、美汐……)

 ついに祐一は陥落した。

「ああ……」

 そうして祐一が、香里が再び差し出した鳥のから揚げを口に含んだ次の瞬間。

「なんだ……? 光が広がって……」

 

「祐一〜放課後だよ〜」

 鈍く痛む頭をさすりながら、いつものように名雪は祐一に声をかけた。

「……? 祐一?」

 しかし、祐一はうつろな瞳、例えるなら死んだ魚の目をしながら、定まらぬ視線を虚空にさまよわせている。

「……大きな星が、ついたり消えたりしている……」

「え?」

 まるで抑揚のない祐一の声に、思わず名雪は耳を澄ます。

「ああ……大きい……。彗星かなぁ……。いや、彗星はもっとばぁーって動くもんな……」

「あ……あ……あ……」

 祐一の豹変振りに、名雪はその瞳を驚愕に見開いた。

「それにしても……暑っ苦しいなぁ、ここ……」

 制服の胸元をあけ、席から立った祐一はそのまま窓ガラスを叩きはじめる。

「ねぇ、開けてくださいよ。ねぇ、開けてくださいよ。ねえったら……」

「香里、祐一が変だよ……」

「なに言ってるの、名雪。相沢君は元から変じゃないの」

「そうだけど……って違うよっ!」

 それでも、一瞬納得しかけてしまう名雪であった。

 

 まったくの余談だが、あの後病院のベッドで目を覚ました栞は、本当にお花畑にお花を摘みにいくところであったという。

 そして、香里は美坂家の家事用品全てを全滅させ、母親から料理を目的としたキッチンの出入りを正式に禁止された。

 それから祐一は、しばらくの間車椅子での生活を余儀なくされ、一人でトイレにもいけない体になってしまい、その間の名雪の献身的なまでの介護によって、なんとか社会生活が営めるまでのリハビリに成功したそうな。

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