体重計。

 普通の家庭であれば一家に一台レベルで存在し、大抵は脱衣所の隅に置かれているこの物体は、言うなれば開けてはいけない禁断のパンドラボックス。

 なによりも一番恐ろしいのは、いつでも乗ってくれといわんばかりに誘惑の魔の手を伸ばしている事だ。

 

だいえっと

 

「〜♪」

 この日美坂栞は軽く鼻歌交じりで入浴を終えた。

 ほこほことした湯気を上げ、ほんのり桜色に染まった身体をやや大きめのバスタオルで優しく包み込む。濡れた髪を多少乱暴にわしわしと拭いているとき、栞は視界の隅に体重計があるのを見つけた。

 これは以前栞が商店街の福引で引き当てたものである。身長を入力して体重計に乗れば、自動的に体脂肪率まで計算してくれるという優れものではあるが、実のところ栞は今までずっと使ったことがなかった。

 元々病弱でやせ衰えていたこの身体。その意味で栞にとっては体重計など無用の長物でもあったのだ。

 しかし、現在の栞は忌まわしき病魔から回復しており、完全体とまではいかないまでも以前に比べれば健康的な肉体を手に入れていた。

 そうなってくると今度はまわりにいる女の子達と比較して、多少気になる部分があるのもまた事実。栞は震える指先で身長を入力すると、おそるおそる体重計に乗った。

 

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 

「どうしたの? 栞っ!」

「お姉ちゃん……」

 突如として美坂家に鳴り響いた悲鳴に、あわてて脱衣所に飛びこんだ香里が見たものは、バスタオル一枚を身体に巻きつけて床に座り込んでいる妹の姿だった。

 まったくの余談であるが香里はそのときの栞の格好に、少し前の節分の日に食べた恵方巻きを連想してしまっていた。

 涙目になりながら震える指先で体重計を指す栞の姿に、香里はなにが起こったのか察しがついた。

「まったく栞ったらしょうがないわね。日ごろの不摂生がたたってるからそういうことになるのよ」

 アイスの食べすぎなのよ、といいつつ香里もやはり気になるお年頃。お手本を見せてあげるわといわんばかりに身長を入力すると、おもむろに体重計に乗る。

 

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 再びの悲鳴が鳴り響き、床にへたり込む香里。

「お姉ちゃん……」

 目の前に突きつけられた現実を前に、茫然自失となる香里に栞は優しく声をかけた。

「壊れてるんですよね。この体重計、壊れているんですよね?」

「そうよ、栞。壊れているのよ、この体重計」

 手に入れたばかりの新品でそんな事はあるはずがないのだが、流石に姉妹だけあって似たような現実逃避のしかたをしている。

(どうしましょう。まさか毎日のアイスがいけなかったんでしょうか? でも、バニラアイスは美味しいし……)

(なんてこと、まさか放課後の百花屋がいけなかったとか……。そういえば相沢くんに言われたわね、最近香里も丸くなったなって……)

 思い当たる節だらけの二人であった。

「うにゅ? どうしたの、二人とも……」

「名雪……」

「名雪さん……」

 そこに現れたのは、この日美坂家にお邪魔している水瀬名雪であった。

 せっかく栞も退院したことだし、名雪には栞との和解を手伝ってもらったこともあるので、香里がパジャマパーティーに呼んだのだ。すでに名雪の目は細い線のようになっているが、こうした騒ぎに身を置くことが好きなため、悲鳴を聞きつけてやってきたのだった。

「丁度よかったわ、名雪。ちょっとこれに乗ってみてくれる?」

「うにゅ?」

 こうなったら一蓮托生よ、といわんばかりの香里であったが、名雪は特に気にした様子も無く体重計に乗る。そして、そこに表れた数字を見て愕然とする二人。

「……体重は……平均より少し軽いくらい……?」

「体脂肪率は……平均を大幅に下回っています……」

 真っ青な顔でうちひしがれるようにうつむく二人をまえに、ただ一人事情がわからずに取り残される名雪だけが首を傾けていた。

 

 翌朝の学校。昼休みの学食。四人がけの席には祐一と名雪、香里と栞が座っている。ちなみに、この席決めに関しては、

「名雪と相沢くんはセットね。あたしは名雪と一緒でいいわ」

「私もお姉ちゃんと一緒がいいです」

 と、言うやり取りがあったことは言うまでもない。

「ダイエット?」

「はい」

 そう言って栞は決意に満ちた瞳で祐一を見た。

「栞が?」

 頭のうえに疑問符を浮かべつつ、祐一はまじまじと栞を見る。

「それはいかんぞ。考え直せ、栞」

「祐一さん……」

 真剣な様子の祐一の姿に、心配してくれているんですね、と栞はちょっぴり潤んだ瞳で微笑んだ。

「お前の場合、それ以上どこを削ろうって……イタイイタイ名雪、わきをつねるな……」

「祐一、失礼だよ」

「そうよ、相沢くん」

 穏やかな微笑を浮かべている香里ではあるが、テーブルの下ではしっかり祐一の足を踏みつけていた。

「とにかく、私は決めたんです。絶対にダイエットに成功して見せます!」

 そうまできっぱりと言われてしまっては、祐一も、がんばれよ、としかいえなくなってしまう。

「それで、栞。具体的にどういうダイエットをするんだ?」

「それは……その……」

 栞は期待に満ちた瞳で名雪を見た。

「とりあえず一ヶ月くらい、わたしの作ったダイエットメニューをやってみようってことになったんだよ」

「名雪の?」

 途端に胡散臭げな目で名雪を見る祐一。隣でいつもと同じくのほほんとした笑顔を浮かべている名雪に、そういう器用な芸当が出来るとは思えなかったからだ。

「疑っているわね、相沢くん」

 香里の瞳からはなにやら確信めいた輝きを見て取れたが、ある意味誰よりも名雪という少女について知っている祐一にしてみれば、どうにも不信感がぬぐえない。

「相沢くんがそう思うのも無理ないことだと思うけれど、こういうことに関して名雪はすっごい頼りになるのよ」

 香里もまた、祐一と同様に名雪という少女のことを良く知る人物である。しかも同性であるという点で言えば、祐一以上に知り尽くしているといっても過言ではない。その香里がこれだけ言うのだから、やはり名雪は頼りになるんだろうなと、少しだけ優越感に浸れる祐一であった。

 なにしろ今の名雪とは、いろいろあって恋人同士になっている。その恋人が評価されているのだから、嬉しくないはずがない。

「がんばろうね、栞ちゃん」

「はい! がんばります」

 二人の微笑ましい光景には、つい祐一も口元を緩めてしまう。それは香里も同じらしく、普通の女の子と同様の悩みを見せる栞の姿に喜びを隠しきれないようだ。

「話はまとまったみたいね。それじゃあ、名雪。はい、イチゴのムースをあげるわ」

「え? いいの? 香里」

 口ではそういうものの、名雪の目はすでにイチゴのムースに釘付けだった。

「いいのよ、あたしの気持ちだから。遠慮なく受け取ってね」

「うん、ありがとう香里」

 にこぉ、と微笑む名雪の笑顔は、花が咲くという表現が良く似合うくらいに明るく輝くものだった。それは見るものの心を和ませ、心の底から幸せを表現するものだったからだ。

「名雪さん、私のイチゴのムースもあげます」

「え? 栞ちゃんも?」

 流石の名雪も、これには少し困惑の色を隠せなかった。

「はい、私の気持ちです。受け取ってください」

「うん、栞ちゃんもありがとうね」

 再び極上の笑顔を浮かべる名雪の姿に、祐一は二人が名雪と同じAランチを食べている理由がわかったような気がした。

 祐一が食べているのは学食の定番カツカレー。カツもカレーも本格的で、彩りに添えられた福神漬けもすばらしいテイストを醸し出しているが、いかんせん名雪にアピールできるような品物ではない。

 流石にこの場で名雪に、あ〜ん、とカツカレーを食べさせるわけにもいかないし。

 明日は俺もAランチにしようと、祐一は固く心に決めるのだった。

 その一方で祐一は、すでに女の戦いははじまっているのかと思いはしたが、

「いっちご、いちご〜♪」

 当の名雪は特に気にした様子もなく、イチゴのムースの攻略に取り掛かっていた。

 

 三人のダイエットは、さっそくその日の放課後からはじまった。かつて陸上部の部長であった名雪のコネを利用しての活動なので、体育館の隅っこを借りての柔軟運動をメインに行われる事となった。

 そんなわけで陸上部の活動場所では女子陸上部のメンバーに混じり、名雪、香里、栞の三人が仲良く体操服姿で並んでいた。

「それはいいんだけど……」

 名雪はジト目で祐一を見た。

「なんで祐一がいるのかな?」

「俺も最近ダイエットしようかなって思ってたところなんだ。ついでだよ、ついで」

 受験シーズンも終わり、一応の進路が決まった今のこの時期はなにかと暇である。最近は名雪の寝ぼすけも改善傾向にあり、その意味で祐一が運動する機会は体育の授業ぐらいになっていたのだ。

「それにしては……なんだか目つきがいやらしいよ?」

「気のせいだ」

「気のせいじゃないよ〜」

「じゃあ、目の錯覚だ」

「錯覚でもないよ〜」

 別に名雪でなくとも、伸びきった祐一の鼻の下を見れば一目瞭然であった。

 なにしろかつては女性解放の象徴とされ、日本全国津々浦々で極々普通に見られた光景が、現在では絶滅を危惧される希少種と成り果てている。その貴重な光景を瞳に焼き付けておきたいという祐一の気持ちもわからないでもない。

 それに、名雪も香里ももうすぐ卒業を迎える身体だ。そうなってしまえば、それがどんなに良く似合っていたとしてもたんなるコスプレ。現役の女子高生が着用してこそ意味がある。祐一はそう固く信じていた。

「まあ、どうでもいいんだけど……」

 軽く咳払いをして、二人の間に割って入る香里。

「それで、名雪。具体的にあたしたちはなにをすればいいのかしら?」

「あ、うん。まずね……」

 

 名雪の作成したダイエットメニューは、至ってシンプルなものであった。

 まず、体育館の外側を軽く二周走り、その後十分のインターバルをはさんで柔軟体操を十分。これを1セットとして、合計3セット行うのである。また、ダイエットにつきものの食事制限であるが、これも糖質や脂質の摂取にさえ気をつければほぼ無制限となっていた。

「……本当にこれでダイエットできるんですか?」

 という栞の疑問ももっともなものといえるが、

「いくらダイエットだからって身体を壊しちゃ元も子もないよ。まずは健康な肉体作りからはじめないとね」

 という名雪の笑顔には、言葉以上の説得力があった。

 ダイエットといえば、辛く厳しいイメージがある。そう考えている栞にとっては、なんだかだまされているような気分だ。しかし、一口にダイエットといっても、むやみに食事制限をすればいいというものではない。要は摂取するカロリー以上に消費するカロリーが多ければ、やせる道理なのだ。

 それにある程度成長の止まった大人ならともかく、いまだ成長期の身体ではあまり無茶な食事制限も出来ない。名雪はそういう部分もきちんと考慮したうえで、このダイエットメニューを作成したのだ。

「みんな〜、ふぁいと♪ だよ」

 いつもの名雪の、気の抜けるようなかけ声で栞のダイエットははじまった。

 

「ではいくぞ、栞」

「はい、祐一さん」

「せぇの」

「んっ……」

「せぇの」

「んっ……」

 栞は祐一を補助にして前屈をしようとするのだが、身体が硬すぎてまったく動く気配がなかった。

「意外と身体が硬いんだな、栞は」

「……しかたないじゃないですか……」

 そう言って栞はうるっとした瞳を祐一に向ける。病院での入院生活が長かったこともあるし、体育の授業はもっぱら見学組であることもあって、完璧に近い運動不足なのだ。

「流石にあれくらいになれとは言わないけどな……」

 祐一が促す先では、名雪が香里を補助にして柔軟運動の最中であった。

 大きく足を90度ぐらいに開き、そのまま両手を伸ばして上半身をぺターンと床につける。そうかと思えば、今度は左右に開いた足の上にぺターンぺターンと身体を曲げていく。はっきり言うと、後ろで補助をしている香里が邪魔なくらいだ。

「……柔らかい……ですね……」

「ああ、凄いだろ」

 まるで我がことのように胸をはる祐一。

「香里や栞はM字開脚が精一杯だろうが、名雪は違うぞ。なんてったってV字開脚が出来るんだからな」

「V字ですか……」

 その姿を想像し、つい赤面してしまう栞。

「それだけじゃないんだ、どんな体位でもOKなんだぞ」

「どんな体位でも……」

「こう後ろからしてても、上半身だけこっちに向けてキスをねだるなんてのも朝飯前なんだ」

 その後もほとんどノロケとも取れる祐一のワイ談が栞の耳元で響くが、その意味の半分も栞には理解できない。

「他にもだな……ふごっ!」

「祐一! あまり変なこと栞ちゃんに教えないでっ!」

「相沢くん、あんたねぇ……」

 ふと気がつくと、顔を真っ赤にした名雪が仁王立ちしていた。その隣には怒りに身体を震わせている香里がいて、ぎゅっと拳を握り締めている。どうやらそれで祐一は殴られたらしい。

「もしかして……聞こえてた……?」

 赤い顔のまま、名雪は静かにうなずく。幸いにしてあたりにはそれほど聞こえていないようだが、祐一の思っていた以上に声が大きくなっていたらしい。二人の発する静かな闘気が、徐々に祐一を包んでいった。

「おっと、そろそろ走る時間だな。じゃ、先にいってるぞ」

「あっ! 祐一」

「こら! 待ちなさいよ」

 脱兎の如く逃げ出す祐一を、名雪と香里が追いかけていく。後には栞が、真っ赤な顔のまま取り残されていた。

 

「まったく、相沢くんにも困ったものよね」

「本当だね」

 そういいながら香里は、手にしたスポーツドリンクをゴクゴクと飲む。

「それよりも名雪さ、どうしてダイエットする気になんかなったの? 見たとこ太ってないみたいだけど……」

「実は……わたしも太っちゃったんだよ……」

 名雪は小さく指で4を出し、香里に見せる。

「4……それは深刻ね……」

「まさか400グラムも太ってたなんて……ちょっとショックだったよ……」

「………………グラム?」

 半ば呆然と呟くような香里の声に、名雪は小さくうなずいた。こう見えても名雪は陸上選手であるため、自分の体重や体形の管理には人一倍神経をつかっているのだ。

「最近ブラがきつくなってきたから変だなって思ってたんだよ。それにジーンズも入らなくなってきてるし……って、なに? 香里。その握りこぶしは……」

「……なんでもないわよ……」

 どうせ太るのであれば、そういうところが太りたい香里であった。

 とはいえ、名雪の悩みもかなり深刻である。今はまだストラップの調整などでなんとかしのいではいるものの、このまま肥大化が続けば下着類をはじめとした装備の更新が必要となるのは自明の理。だが、現実問題として名雪のお小遣いではそれらを行うような金銭的余裕は無く、いずれ深刻な予算不足に陥るのは明白であった。

 また、この街にある洋品店で取り扱っている品物にはあまり大きなサイズがなく、例えあったとしても飾り気のない可愛くないものばかり。それなら手持ちの衣類に身体をあわせたほうが効率的であるし、なにより予算はかからない。

 しかし、だからといって一人でダイエットをはじめるのは恥ずかしい。そんなわけで今回の栞の決意は、名雪にとって渡りに船の出来事だったのだ。

 そんな名雪の女の子ならではの悩みは、同じ女の子として香里もよくわかる。しかし、ここ最近はそういう装備の更新をしたことのない香里にとっては、かなり贅沢な悩みであった。

 香里は軽く息を吐くと、再びスポーツドリンクをゴクゴクと飲んだ。

「香里〜、ダイエット中はそういうのをあまり飲まないほうがいいよ」

「どうして? これってスポーツのときに飲むものでしょ?」

「そうだけど……スポーツドリンクって意外と糖質を豊富に含んでいるんだよ」

 スポーツドリンクとは本来運動中、平たく言うとマラソンなどの最中に水分やエネルギーの補給をするため、エネルギー源となる糖質を効率よく体内に吸収できるよう調整されているものだ。無論運動後に消費したエネルギーの補給も可能ではあるが、そうした場合に使われなかった糖質は脂肪に変換されて蓄積されることとなる。その意味で言えば、スポーツドリンクはダイエット中の飲み物として適切ではないのだ。

「だから、喉が渇いたときには普通にお水を飲むか、緑茶を飲むのがいいんだよ」

「そうですっ! 今までのスポーツドリンクは甘すぎました!」

 突然の声に二人が振り向くと、そこでは栞が小さく拳を握り締めて力説していた。

「そこで私は考えました。効果的な減量を可能とする、究極のダイエットドリンクとはなにかを」

 そう言って栞が取り出したラベルのついていないペットボトルには、毒々しいまでに真っ赤な液体が詰まっていた。

「唐辛子に含まれる脂肪燃焼効果の高いカプサイシンと、緑茶に含まれる健康成分である茶カテキンを高濃度で抽出したのがこれです。さあ、お姉ちゃん」

 なんとなくドロリとしているような真紅の液体を、ずずいと香里に差し出す栞。

「……どうでもいいけど、栞。あんたちゃんと試飲はしたんでしょうね?」

「ひどいです、お姉ちゃん。私に死ねって言うんですか?」

「……あんたねぇ……」

 途端に怒気を全身にまとう香里とは対照的に、栞は可愛らしく舌を出す。

「お姉ちゃんが怒った〜、逃げろ〜」

「こらっ! 待ちなさい、栞っ!」

 突然はじまった二人の追いかけっこを、名雪はただ呆然と見つめていた。

「栞のやつすっかり元気になったみたいだな」

 その隣に祐一はゆっくりと腰を下ろす。

「うん、そうだね。香里も元気になったし」

 二人の見ている前で、鬼ごっこは続いていた。

「鬼さんこ〜ちら」

「こ〜らっ!」

 挑発するように栞は手を叩き、それを香里が真っ赤な顔で追いかけまわす。その姿はまさに鬼。というか、むしろナマハゲ。これで頭に角がつけば、通常の三倍の速度が出せそうだった。

 こうしてみていると香里のほうが加速性能に優れているのだが、栞のほうが機動性能に優れているせいかなかなか捕まらない。その動きはさながら猛牛を相手にするマタドールのようで、祐一はサイド6の宙域での戦闘で12機のドムが3分もしないうちに全滅した理由がわかったような気がした。

 その光景を眺めながら、名雪は小さく息を吐いた。

「どうした? 名雪」

「え?」

「なんかうかない顔をしてたぞ。なにかあったのか?」

「別に、なんでもないよ」

 口ではそういうものの、名雪の視線は栞に注がれている。そんな名雪の様子に、祐一は察しがついた。

「やっぱり、名雪も妹とかほしかったのか?」

「え?」

 まったく予想外の祐一の台詞に、名雪は目を丸くした。

「違うよ。わたしは栞ちゃんがうらやましいなって思っただけで……」

「栞がってことは……。お姉さんがほしかったのか?」

「そうじゃなくって、あのね……」

 名雪はそっと祐一の耳元で囁いた。

「わたしも栞ちゃんくらいの胸の大きさだったら、大会でもうちょっといい記録が出せたのかなって思ったんだよ……」

 深刻な悩みなのかと思えばそんなことだったので、祐一は拍子抜けした。

「そんなことで……?」

「わたしにとっては深刻な問題なんだよ」

 豊かなバストは女性の象徴であるが、スポーツをする女性にとってはたんなるデッドウェイトでしかない。男性諸氏は自分の胸に約一キロの重りがついているところを想像してほしい。女の子はその状態で飛んだり跳ねたり、キラキラしたりするわけだ。

 大きな胸は運動すると激しく揺れるし、そうなると最悪の場合乳腺断裂などの症状を引き起こしてしまう。そのために運動をする女性には、スポーツブラの着用が推奨されているくらいなのだ。

「スポーツブラって胸を締めつけるから結構息苦しくなるんだよ。それでもゆれるし、こすれると痛いし……。それに肩だってこるんだよ」

 おまけに胸が大きいと寝るときも大変だ。仰向けに寝ると胸の重さで肺がつぶれるし、うつ伏せになると寝苦しい。そのため、横向きになって寝るしかないのだ。

 このとき祐一は、時折名雪が栞やあゆをうらやましげに見ている理由がわかったような気がした。小さい人には小さい人なりの、大きい人には大きい人なりの悩みがあるものなのだと。

 

 結局この日のダイエットは、美坂姉妹の追いかけっこで仕舞いとなった。

 

「困ったわね……」

 ダイエットをはじめて二週間。香里は自室でグラフを睨みながら低く呻いた。

 このグラフにはダイエット開始から現在までの体重と体脂肪率の推移が記録されている。はじめてから10日くらいまでの間は順調な下降曲線を描いていたものが、現在はほぼ停滞気味となっており、姉妹そろって水平飛行を続けている。

 名雪によると、はじめたばかりなんだからそんなに変わらないよ〜、とのことだが、彼女が順調に下降曲線を描いているところを見ると、まだまだ改善すべきポイントがあるのでは、と香里は考えてしまう。

 これまでの状況を振り返ってみると、お昼は学食で名雪と同じAランチを食べているし、午後も同じダイエットメニューをこなしている。そのうえで名雪にあって美坂姉妹にないものといえば……。

「やっぱり相沢くんかしら……」

 そう呟いてから香里は、少し頬を赤くした。確かに恋をすれば女は変わるというが、流石にこれはちょっと赤裸々過ぎる。

 それ以外で考えられるのは、朝夕の食事の内容くらいだろう。これも名雪の指示でご飯ものを中心にした和食となっているが、日々の運動量が増加しているせいか食事量も増加の傾向にあるのは頭の痛いところだ。

 とはいえ食の細かった栞がいっぱいご飯を食べてくれるようになり、お代わりまでしてくれるとなると香里まで嬉しくなってしまう。そのせいで香里もついつい食べ過ぎてしまうのはご愛嬌というものだろう。

 こういうのも幸せ太りって言うのかしら、と思う自分がいる一方で、今はダイエット中なのよ、とかたく戒める自分を感じるのも事実。なかなかに難しい二律背反であった。

 しかし、このままの状態が続けばダイエット失敗なんてことにもなりかねない。香里のプライドにかけて、それだけはなんとしても避けたい事だ。さて、どうするかと思いを巡らせた、丁度そのときであった。

「お姉ちゃん、いいですか?」

 控えめなノックと同時に、栞がおずおずと部屋に入ってくる。栞の胸にはいつも読んでいる女の子向けの雑誌が大事そうに抱えられていた。

「どうしたのよ? こんな時間に……」

「実は、勝利の鍵になりそうなのを見つけたんです」

「勝利の鍵?」

 そう呟いて香里は、栞の持っている雑誌に目をやる。またこんな本の中身を鵜呑みにして、とは思うが、その本の表紙に書かれている見出しを見て香里は絶句した。

(……禁断のH体験告白……)

 ティーンズ向けの雑誌なのだから栞が持っていても不自然ではないのだが、その内容は香里の理解の範疇を超えていた。無論香里だって年頃の女の子であるし、そういうことに興味がないといえばウソになる。まさか親友だけでなく、妹にまで先を越されたのではないかと、香里の心に不安が広がっていった。

「この本に書いてあったんですけど、大きな声を出すとダイエットの効果があるそうなんですよ」

 そんな香里の内心の葛藤を知ってかしらずか、いつもの様子で話しはじめる栞。

「だからきっと名雪さんは祐一さんと二人で一緒に……」

 それを聞いた香里の心ではとんでもない妄想になっていた。

(大きな声……名雪が相沢くんと一緒に大きな声……)

 一糸纏わぬ姿で抱き合う二人。祐一の荒い息遣いに呼応するように、可愛く声を出す名雪。もはや香里の妄想は止まるところをしらず、年齢制限どころか制限解除する勢いで広がり続けている。官能小説のワンシーンどころか全編その描写で、しかもそれがエンドレスで繰り広げられていた。

「カラオケにでも行ってるんじゃないかと……って、お姉ちゃんどうしたんですか? 顔、赤いですよ?」

「……なんでもないわよ……」

 意外と健全な栞の答えに、香里はとんでもない妄想をしていた自分を恥じた。そのせいかその後も栞が力説していたカラオケによるダイエット効果についても、ほとんど香里の耳に入ってこなかった。

「……と、言うわけなんですよ。お姉ちゃん」

「そう……」

 内心の動揺を悟られまいと平静を装う香里ではあるが、その動きはどう見ても不審者のそれであった。もっとも、栞からすれば、お姉ちゃんは昔からウソついたりするのが苦手でしたよね、という程度の事だったので、特に気にした様子はなかった。

「そこでですね、私は考えたんです。このダイエットの成否を握る鍵を」

「成否を握る鍵?」

「はい、それはですね……」

 そのときの栞の台詞を、香里はただ呆然と聞いていた。

 

「それでは、お世話になります」

「いらっしゃい、香里ちゃんに栞ちゃん」

 しおらしく頭を下げる二人を、秋子はいつもの穏やかな微笑みで出迎えた。

 栞の提案は、ダイエットの残りの日々を水瀬家で合宿するというものだった。こうすれば全員が同じ条件になるので、効果的なダイエットが可能になると考えたのだ。賑やかなことが大好きな秋子は一秒で了承。明るい笑い声に包まれたリビングでは、しばらくの間5人で他愛ない話に花を咲かせていたが、やがてゆっくりと秋子が席を立つ。

「それじゃ、そろそろ晩御飯の準備をしましょうか。名雪、お手伝いしてくれる?」

「うん」

「あの、私もお手伝いします」

 キッチンに向かう二人に栞は声をかけるのだが、

「栞ちゃんはお客様なんだからいいよ。ゆっくりしててね」

「それならあたしが手伝うわよ」

「香里はいいから座ってて」

 やんわりとした笑顔で断られてしまった。流石に三人も四人もキッチンに入れるものではないので、二人とも少しだけ申し訳なさそうな表情を浮かべていたが、晩御飯が出来るまでのんびりと時間をすごすこととなった。

「わあ」

 テーブルに並べられた料理の数々に、思わず栞は感嘆の声を上げる。

「これ全部秋子さんが作ったんですか?」

「名雪にも手伝ってもらいましたけどね」

 微笑みながら秋子はエプロンをたたんで席に着いた。

「凄いです」

 どうやら栞は純粋に感動している様子だ。

「冷めないうちに、たくさん食べてくださいね」

「それはいいんですが、秋子さん」

 豪華絢爛、という表現がしっくりくるくらいのメニューを前に、香里はげんなりとした様子で口を開いた。

「あたしたち、ダイエット中なんですけど……」

 だが、秋子の微笑みは、そんなことは百も承知というものだった。

「だから、今日は野菜のフルコースにしたんですよ」

 聞きなれない言葉であるが、確かにどれも野菜ばかりだ。しかもドレッシングなどの油脂類は極限まで抑えられており、その意味では理想的なダイエットメニューであるといえる。実のところ秋子も昔はダイエットに苦労したらしく、その過程で生み出されたのがこのメニューなのだそうだ。

 美味しくって豪華絢爛で、カロリー控えめだからお腹いっぱい食べられる。まさに至れり尽くせりだ。

 はじめは遠慮がちだった香里も、食が進むにつれて次々に箸をつけていく。栞も、これ美味しいです、といって満足そうだ。そして、テーブルの上にあった料理は、すべて片づくこととなるのであった。

 

 その夜、香里は不意に夜中に目を覚ました。知らない天井、と思うのも無理はない。ここは名雪の部屋だからだ。

 十時を過ぎるあたりまでは、修学旅行みたいだよね、と三人で他愛のない話に花を咲かせていたが、名雪がおやすみなさいといってから二秒で寝てしまってからは特にすることもなく、祐一の所に行こうとする妹を押しとどめて寝ていたのだが、なぜか目を覚ましてしまったのだ。

 妙に目がさえてしまっているらしく、寝ようとしてもなかなか寝付けない。そこで香里は、名雪と栞の姿がないことに気がついた。

(どこいったのかしら……?)

 すると、階下から物音が聞こえてくる。不審に思って香里が降りていくと、キッチンから明かりが煌々と漏れていた。

「祐一さんのカルピス、濃くって熱いんですね。ちょっと飲みにくいです」

「喉の奥に絡んでくるでしょ?」

「はい」

(な……なにしてんのよ、あんたたち……)

 キッチンから聞こえてくる声に、香里は自分の頬が熱くなるのを感じた。

「祐一って、昔からいれるのが上手だったよね」

「まぁな」

 少し甘えたような名雪の声が、香里の耳に痛い。

「それにしても……」

(秋子さんまで?)

「こんなに濃くて熱いのをたっぷり注いでくれるなんて、もうお腹いっぱいです」

「俺様自慢のビッグマグナムは、まだまだたっぷり出せますよ」

 絶倫。その言葉が香里の脳内をぐるぐる回る。

「祐一さん、お代わりをください」

「祐一、わたしにもね」

 その言葉に香里は、思わずキッチンに飛び込んだ。

「相沢くん、あたしにもちょう……だい……?」

 その中の光景に、唖然とした香里の声が尻すぼみになる。

「おお、香里も飲むか?」

 カルピスの大瓶を持った祐一が、にこやかに話しかけてきたからだ。

「こういう寒い日は、ホットカルピスが一番だよな」

 

 まったくの余談だが、この日に香里が飲んだホットカルピスはとても複雑な味がしたという。

 

 そんなこんなで一ヶ月が過ぎ、ダイエットの成果を試すときが来た。三人は保健室に集まり、それぞれに体重計に乗る。

 この結果名雪は1キロの減量に成功し、香里も2キロの減量に成功した。特に香里はウェストが引き締まり、おまけにバストアップにも成功したため喜びも大きいようだ。

 だが、肝心の栞は、体重計に乗った途端に真っ青となる。

「減ってません……。っていうか、むしろ増えてます……」

「栞ちゃん、ちょっといいかな?」

 消沈した様子の栞をつれ、名雪は身体の寸法を測っていく。

「うん、やっぱりだね」

 そこに表れた数値を見て、名雪はにこやかに微笑んだ。

「栞ちゃんは身長が二センチ伸びてるし、バストも二センチ大きくなってるよ。ウェストは変わってないけど、ヒップも一センチ大きくなってる」

 身体が大きくなった分体重が増えるのは道理である。そこで設定値を入力しなおした体重計に乗ってみると、

「うわぁ……」

 体重と体脂肪率がいずれも平均値以下の身体を手に入れた栞がいた。

「成長したんだよ、栞ちゃん」

「名雪さん……」

 いつもと変わらぬ穏やかな微笑を浮かべる名雪の姿に、思わず栞の瞳から涙があふれ出る。

「あの、私もなれますか? いつかは、名雪さんみたいに綺麗に……」

 その言葉に名雪は優しくうなずいた。

「なれるよ。だって栞ちゃんは香里の妹なんだからね」

 駆け寄り、ひしと抱き合う名雪と栞。その姿は実の姉である香里がやきもちを焼いてしまうくらい仲睦まじいものだったという。

 

 かくして、名雪の考案した方法でダイエットに成功したと言う話は瞬く間に学校中に広まった。

 その結果放課後の学校では、名雪の指導のもとダイエットに励む女生徒の姿が急増したという。

 

 体重計。

 それは言うなれば開けてはいけない禁断のパンドラボックス。

 開けたものにはこの世の絶望が襲いかかってくる魔性の箱。

 だが、あきらめてはいけない。

 なぜなら、最後には希望が残されているものだからだ。

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