春が来て、ずっと春だったらいいのに……

 

 

YOU HOLD THE FUTURE IN YOUR HAND

 

 

 暖かい温もり。

 優しく、柔らかい感じ。

 体中が優しさで包まれているような充足感。

 そんな春の陽だまりのような暖かさの中で。

「あう?」

 真琴は目を覚ました。

 ここは水瀬家のリビングにあるソファーの上。どうやらテレビを見ている間に、真琴は眠ってしまったらしい。

「あ、起きた? 真琴」

 優しい感じの声に顔を向けると、胸の谷間からお日様のようなやわらかい笑顔が覗く。頭には優しく撫で続けてくれている名雪の手の温もりと、しっかりとした弾力のある膝の感触がある。

 あまりの心地よさに真琴は、祐一が名雪に膝枕をして欲しがる気持ちが良くわかる気がした。名雪にお耳のお掃除をしてもらっているときの祐一は、これ以上無いというくらいに顔が緩みきっているからだ。

 そのまま真琴はコロンと寝返りを打って顔を名雪のおなかに向けると、胸いっぱいに名雪のにおいを吸い込んだ。そして、不思議な安心感に身体が満たされて、再びうとうととまどろみかかったとき。

 

く〜

 

 真琴のおなかが控えめに自己主張をした。

「あう……」

 途端に顔を真っ赤にして飛び起きる真琴。そんな真琴を優しく見守るように微笑む名雪。

「そろそろお昼だね。なにか作ろっか?」

 時刻は十一時半。テレビではお昼前のニュースがやっていて、無表情なキャスターがその日の出来事を淡々と語っている。パタパタとスリッパを鳴らしてお勝手に消える名雪の後ろ姿を、真琴は不安げな瞳で見つめていた。

 

 鼻歌交じりに材料の吟味をしていた名雪は、お勝手の入り口付近でおずおずとこちらの様子を窺っているような真琴の姿を見つけた。

「真琴も一緒に作ろうよ」

「いいの?」

「うん、わたしは真琴と一緒に作りたいな」

 そう言って名雪がにこやかにエプロンを差し出すと、真琴は少し迷った様子を見せたが、すぐににっこりと微笑んでお勝手に入ってきた。

 この日のメニューはチャーハン。ご飯は朝に炊いたものがあるし、後はタマネギを細かく刻んで小さく切ったウインナーを一緒に炒めるだけという簡単メニューだ。

「材料を切るときは、ちゃんと猫さんの手で押さえてね」

「ねこさん?」

 折り曲げた指の甲の部分で、材料を軽く押さえるような感じで固定すると、名雪はトントントンとリズミカルにタマネギを刻んでいく。そのあまりの手際のよさに、思わず真琴は目を見張る。

「あう……」

 代わって包丁を手にする真琴であるが、その持ち方はぎこちなく、妙に危なっかしい。リズミカルというには程遠いテンポで、……トン……トン……トンと真琴はタマネギを刻んでいく。そんな真琴の姿を、名雪は微笑ましく見守っていた。

 こういう表現もなんであるが、実のところ名雪はこういうシチュエーションに憧れに近いものを抱いていた。一人っ子であり、普段は母親と二人きりの生活をしている名雪は、秋子が仕事に出かけてしまうと一人でお留守番をする事がよくあった。

 二人で暮らすには、不自然なくらいに広い家。そんなわけで名雪が子供のころには随分と寂しい思いをしたものだ。本当は大好きな猫でも飼えればいいのだが、当の名雪はネコアレルギー。その意味でずっと名雪のそばにいてくれたのは、ぬいぐるみのけろぴーぐらいだった。

 でも、今は祐一がいるし、真琴もいる。名雪がこうして誰かと一緒になにかをするのが好きな事もあり、今日はちょっとだけお母さんの気分だ。

「できた?」

「うん」

 材料を切り終えた真琴は、満足げにうなずく。その表情にはひとつの仕事をやり終えたかのような達成感がある。ただ、名雪が見せたお手本と比べると、その形はかなりいびつではあったが。

「いい? 真琴。ここからが本番だよ」

「う……うん」

 名雪の真剣な様子に、思わず真琴もうなずき返す。実はこれが知る人ぞ知る陸上部の部長さんモードの名雪なのだが、それを知らない真琴はあまりの豹変振りにたじろいでいた。

「チャーハンはね、スピードが命なんだよ」

 本格的な中華料理屋のチャーハンと違い、家庭料理で作るチャーハンはどこか一味違う。それは業務用のガスバーナーと、家庭用のガスコンロでは火力が違うからだ。中華料理の基本は強大な火力を駆使して一気に仕上げる事だが、家庭用のコンロでその火力は望めない。

 しかし、工夫次第では、家庭用のコンロでも本格的な中華料理に匹敵するくらいのチャーハンを作れるのだ。

 チャーハンの基本は、強火で短時間のうちに仕上げる事にある。そして、そのためには入念な材料の下ごしらえが必要となるのだ。そこで名雪は真琴が料理する事を考慮してタマネギとウインナーだけのシンプルな具材とし、さらにご飯には予め卵を混ぜたものを用意した。

「まずはフライパンに油を引いて。そう、そんな感じで」

 横に立った名雪の指示通りに、真琴は熱したフライパンに油を引く。ここで少し煙が上がるくらいが適温だ。

「次に刻んだタマネギを入れて、油がはねるから気をつけてね」

 ジョワー、という音と共に、タマネギが焼けるいいにおいがあたりに立ち込めた。そのまま真琴はぎこちないしぐさで、タマネギをお玉でかき混ぜる。

「ある程度タマネギがしんなりしてきたらご飯を入れてね」

 タマネギがやや半透明気味になったところで、卵混ぜご飯を入れる。予めご飯に卵を混ぜておくのは、後で卵を混ぜる手間を省くためだ。実のところご飯を炒めている途中で卵を混ぜて炒めるのはかなりの修練が必要となる。秋子や名雪のような経験者ならともかく、真琴のような初心者にそれは難しい作業だ。

「タマネギとご飯が混ざったらウインナーを入れて塩コショウね」

 ころあいを見計らって名雪の指示が飛ぶ。小さく切ったウインナーを放り込むと、真琴は適当にパッパッと塩コショウしていく。

「最後にこうやってお醤油をとってね」

 そこまでを真琴に任せ、最後の仕上げは名雪に代わる。名雪はお玉にお醤油を適量取ると、フライパンのふちにあわせてぐるりとかけまわす。

 すると途端にお醤油が焦げるいいにおいがあたりに立ち込めた。こうする事で最後の味付けと香り付けを同時に行うのだ。

「後はこうやって軽くかき混ぜて、出来上がりだよ」

 ひょいひょいと軽やかに宙を舞うチャーハンに、真琴の目が釘付けとなる。テレビとかではよく見る光景ではあるが、こうして目の当たりにしたのはこれがはじめてだ。

 ご飯の一粒一粒に卵が綺麗にコーティングされ、金色に輝いているように見える。初めて自分で作ったチャーハンの出来映えに、思わず真琴は目を見張った。

 そして、名雪が出来立てのチャーハンをお皿に盛り付けはじめた、ちょうどそのときだった。

「ただいま〜」

「お邪魔します」

 妙に間延びした聞き覚えのある声と、控えめで落ち着いた様子の声が玄関から響く。

「美汐だ」

 そのままパタパタとお勝手を飛び出していく真琴の後ろ姿に、名雪は苦笑しながら人数分のお皿を用意するのだった。

 

「いただきます」

 テーブルに着いた全員の声が唱和する中、美汐は突然の来客にも動じた様子を見せず、こうして人数分の皿を用意する名雪の手腕に心の中で驚嘆した。もっとも、美汐にしてみれば、祐一と偶然外で会ってランチに誘われただけなのであるが。

 とはいえ、エプロン姿の真琴を見る事が出来たのは、ある意味僥倖というべき事だろう。

 それにしても、と美汐はそっと隣の席に座るすべての元凶の顔を覗き見る。おそらくは名雪お手製であろうチャーハンを前にして、祐一はみっともないくらいに顔を緩ませていた。そんな祐一の姿を見ながら美汐はふと思う。

(女の子を食事に誘うのに、自宅に呼びますか?)

 確かにここなら下手なお店よりも美味しいものが食べられるし、なんといってもお金がかからない。こう考えると至れり尽くせりなのであるが、なんとなく美汐はただ祐一がのろけたいだけなのではないかとも思っていた。

 それはともかくとして、美汐はチャーハンを一口食べてみる。熱々のチャーハンの味わいもさることながら、ご飯の一粒一粒にしっかり卵がコーティングされているのは、簡単なように見えて実は難しい作業だ。美汐も自分で作るのでその事がよくわかる。自分でやるとなぜか卵がダマになってしまうため、お店のように上手く出来ないのだ。

 具材がタマネギとウインナーだけなのでやや華やかさに欠けるようにも思えるが、このほうが逆にタマネギのしっかりとした歯ごたえが楽しめるので、咀嚼するときの食感が口の中で心地よい。

 味付けがやや濃いようにも感じるが、これなら充分に合格点だろう。そう思って美汐は祐一の顔を見るのだが、食べ終えたその表情はなにかを真剣に考えているように見える。

「なあ、名雪……」

 やがて祐一は、おもむろに口を開いた。

「お前、腕落ちたか?」

「え?」

「このチャーハンお前が作ったにしては、ちょっと味が……」

 祐一がそこまで言ったところで真琴は、がたん、と椅子を鳴らして立ち上がり、お勝手を飛び出すとそのまま階段を駆け上がっていった。

 

「お〜い、真琴〜?」

 あの後名雪に、祐一が悪い、と責められたため、祐一は真琴に謝ろうと部屋の扉をノックしているのだが。

「真琴の事は放っといてよっ!」

 中から響く真琴の涙交じりの声は、聞く耳持ちません、とでもいうような感じだった。

「どうせ真琴はお料理下手くそよっ! 名雪みたいに綺麗じゃないし、スタイルだってよくないもんっ!」

「あのな、お〜い真琴?」

 

「いいんですか?」

「うん、大丈夫だよ」

 階上から聞こえる祐一の情けない声に、形のよい眉をひそめる美汐とは対照的に名雪は笑顔で太鼓判を押す。

「祐一はね、祐一が自分で思ってるよりずっと頼りになるんだよ。だから、大丈夫」

 相変わらずの祐一に対する深い信頼に、美汐は、こういうところに付き合いの長さが現れるのでしょうか、と思った。

 そのまま食後に出されたお茶を楽しんでいた美汐の前で、洗い物を終えた名雪がさっと手を拭き、お勝手からパタパタと出て行く。

「ごめんね、なんかパタパタしちゃって」

「あ、いえ。おかまいなく」

 見ると名雪はリビングの床に座り、洗濯物を折り畳んでいるところだった。家族が多いせいか、結構な量がある。

「お手伝いしますよ」

「そんな、悪いよ」

「いいですから」

 半ば強引に名雪の隣に座って洗濯物を手に取る美汐。なんの気なしに手にしたその物体は、とても見慣れない形状をしていた。

 丁度中心のところにある、おそらく美汐には一生縁がないであろう扉。そして、脳裏にはそれを着用しているであろう人物の顔が浮かび上がる。

 美汐はそれがなんであるか、理解はしていた。だが、脳みそは全力でそれを認識する事を拒んでいた。

 しばらくの間体が石のように硬直した後で、のどの奥から悲鳴にも似た絶叫がほとばしり出そうになった、その刹那。

「美汐ちゃんっ!」

 すばやく名雪がその物体を奪い取ったため、かろうじて呪縛から解き放たれる美汐。

「大丈夫? 美汐ちゃん」

「はい……なんとか……」

 心臓が狂ったように、ばっくんばっくん、と早鐘を打つ。あまりのインパクトのせいか、呼吸すらおかしくなってしまったようだ。美汐は首筋まで真っ赤に染めながら、なんとか動悸を静めようと胸を押さえていた。

「本当にごめんね。それじゃ美汐ちゃんには、こっちのほうをお願いできるかな?」

「あ……はい」

 名雪から手渡されたのは、色とりどりの下着類だった。これなら美汐にもなれたものである。

 ショーツは手早くくるくると丸めてまとめ、ブラジャーはカップを合わせて二つにまとめる。こうやって下着を折りたたむ作業は、この場に祐一がいないうちにしか出来ない事なのかもしれない。

 それにしても、と美汐はふと思う。やや小さめのカップで、小さなリボンがアクセントについているかわいらしいデザインは真琴のものだろう。やや大きめのスポーツタイプは名雪、黒のレースでカップが大きめのものは秋子。わかってはいるのだが、すこしだけ落ち込んでしまう美汐であった。

 ふと名雪を見ると祐一のものと思しき衣類を、丁寧にしわを伸ばして手際よく綺麗に折りたたんでいる。美汐にとってはカースアイテムにも等しい物体を、名雪はまるで春の陽だまりのような笑顔を浮かべつつ、鼻歌交じりに作業をこなしていた。その姿はあたかも長年連れ添った夫婦のようであるようにも見える。

「……よく出来ますね……」

「え……?」

「その……」

 美汐の言いたい事は名雪にも伝わったのか、さっと顔が赤くなる。

「へ……平気だよ。だって、祐一のだもん」

 このあたりはいとこ同士の気安さが出たところだろう。でも、やはり恥ずかしい事には変わりない。そのまま二人はお互いに顔を真っ赤にしながら、気まずい沈黙の中で淡々と作業をこなしていた。

 

「ありがとうね、おかげで助かったよ」

「いえ、そんな」

 なんていうか、少し足手まといだったような気もする美汐。流石に祐一の下着類は触れない。と、いうか触りたくない。屈託の無い名雪の笑顔を眺めつつ、美汐はそんな事を考えていた。

 暖かい空間。居心地のいい雰囲気。そして、それを演出する穏やかな笑顔。

 それを感じたとき美汐は、なんとなく真琴が帰ってこれた理由がわかったような気がした。

 ここには真琴の居場所がある。そして、真琴を受け入れてくれる人達がいる。なにしろ以前真琴から見せてもらった水瀬家一同の写真を見て、美汐はつい『娘夫婦と孫』というシチュエーションを思い浮かべてしまったくらいだ。

 かつて美汐は、祐一に、強くあってください、と願った事があった。それは自分が味わった苦しみと、同じ運命を辿ろうとしている祐一への同情がそうさせたのかもしれない。

 もう二度と悲しい思いはしたくない。そんな美汐が周囲の人達を拒絶するようになるのにそれほど時間はかからなかった。胸がつぶれてしまうようなくらいの深い悲しみの記憶が、その後の人生すら変えてしまったかのように。

 それでも美汐が祐一に関ったのは、たんなる同情心からではないだろう。詳しい事情までは知らないが、おそらくは祐一もかつて大切な人を失うという、深い悲しみを経験しているだろうからだ。

 そして、真琴が最後となった日、美汐は知る事となる。名雪もまた、悲しみを内に秘めた存在だという事を。

 真琴の事で苦しんでいるのは祐一だけではない、名雪もまた苦しんでいたのだ。だが、名雪はそんな悲しみを表に出さず、いつも笑顔で二人を見守っていた。

 ある意味祐一が強くいられたのも、名雪のおかげなのかもしれない。

(でも……)

 そこまで考えて美汐は、ふとため息を漏らす。

(きっと相沢さんは、その事に気がついていませんよね……)

 そう考えると、少しだけ名雪が不憫に思える美汐であった。

 実際真琴が帰ってきた理由と、美汐のあの子が帰ってこない理由を考えると、やはり名雪の存在というのは大きいのかもしれない。

 祐一には名雪や秋子のようにいつでも温かく見守ってくれる存在があり、だから真琴が帰ってこれると信じていられた。だけど美汐は一人だったので、周囲を拒絶する事でしか自分の弱い心を守る手段が無かった。僅かな違いであっても、その差は大きい。

 一人では耐えられないような悲しみも、二人なら耐える事ができる。言うなれば真琴が帰ってこれたのは、いつでも祐一を見守っていてくれる少女の愛が呼んだ奇跡ともいえるからだ。

(そうなると真琴は、二人の愛の結晶ですか……)

 自分の考えながら少々恥ずかしくなる美汐。とはいえ、先程の昼食の風景は紛れもない家族のそれである。そしてそれは、自分の思い出の中にもある風景だった。

「名雪……さん……?」

 不意に自分の肩に置かれた暖かい手の感触に顔をあげると、そこには優しく慈愛に満ちた名雪の笑顔があった。きっと黙り込んでしまった自分を心配してくれているのだろう。優しく包み込んでくれるような穏やかな雰囲気に、少しだけ甘えてしまう美汐であった。

 

「そろそろ時間だね」

 いわれて時計を見ると、午後二時を少し回ったあたり。二人ともおなかをすかせて下りてくるはずだからおやつの準備をしないと、とは名雪の談だ。

 そこで手伝いを申し出る美汐であったが、お勝手の流しに並べられた具材を見て唖然とした。

「もしかして、肉まんを手作りするんですか?」

「うん」

 あっさりとうなずく名雪。その表情からは、これが普通の事であるようにも見える。

「名雪さんは一体、どのくらいのレパートリーがあるんですか?」

 その問いかけに、名雪は唇に指を当てて考え込む。

「どのくらいかはわからないけど、レシピがあれば大抵のものは作れるよ?」

 よくよく考えてみれば、こうして秋子が不在の時には名雪が水瀬家の家事一切を取り仕切っているといっても過言ではない。美汐も家ではお手伝いをするほうではあるが、本格的に家事をした経験ともなると皆無に等しい。

 それに家に一人でいる時には手の込んだ料理を作るよりも、むしろレトルトとかの簡易なものに偏りがちになってしまう。ところが、名雪は祐一を満足させる必要があるので手を抜くわけにもいかず、自然と料理技術が向上してしまうのだ。やはり食べてくれる人の存在は大きいらしい。

 ほとんど唖然とするような美汐の前で、名雪は次々に材料を準備していく。どうやらまわりの生地はすでに作ってあるらしく、後は中身の肉あんを作るだけのようだ。

「まずは、お野菜を細かく刻んでね」

 名雪の指示に従い、包丁を手にする美汐。その動作は手馴れたもので、リズミカルに材料を切っていく。

「次に切ったお野菜をお肉と混ぜて、あんを作るよ」

 細かく刻まれた、長ネギ、キャベツ、ニラと、ブタの挽き肉を混ぜ合わせ、ショウガの絞り汁に塩、コショウをくわえ、醤油で味を調える。美汐は真琴とよく一緒に肉まんを食べる間柄ではあるが、こうして自分の手を使って作るのはこれが初めての体験だ。

「あんが出来上がったら、今度はこうやって生地につめていくんだよ」

 八等分した生地を麺棒で丸く伸ばした名雪が、手の上にのせた生地の中央に肉あんを置き、そのままくるくるとひねるようにして形をまとめる。美汐もそれを真似て肉まんを作っていくのだが、慣れていないせいかどうしても形がいびつになってしまう。

「後はこれを蒸篭で蒸して出来上がりだよ」

 肉まんが蒸篭にくっつかないようにペーパーを引き、二段になった蒸篭に四つづつ並べていく。蒸しあがるときに肉まんは大きく膨らむので、くっついてしまわないように間隔を開けるのがポイントだ。

 後はこのまま三十分程蒸しあげて出来上がりである。

 

「本当に悪かったって」

「あう〜」

 階段の上からどやどやと声が聞こえてくる。声を聞く限りでは、まだ真琴はへそを曲げているようだ。

「本当だって。初めて作ったにしては上手だったぞ」

「あう〜」

 こんどのあう〜は、先程とは少し声音が違う。

「また機会があったら作ってくれよ、真琴」

「わかったわよ」

 そこで真琴は祐一に向き直り、ふふんと笑う。

「見てなさいよ。いつか真琴の料理で、祐一にぎゃふんって言わせてやるんだからね」

 なんとなくいやな料理だ。そうは思うのだが、真琴がやる気になっているので、それは黙っておく祐一であった。

「あ、二人とも。もうすぐおやつだよ」

 なんとなく嬉しそうな真琴と、どこかくたびれた様子の祐一がお勝手にはいってきたのを見て、名雪がにこやかに声をかける。

「おやつ、なに?」

「肉まんだよ」

「あうっ、肉ま〜ん」

 両手を大きくばんざ〜いと上げて、全身で喜びを表現する真琴。

「もうすぐ出来上がるから、手を洗ってきてね」

「うん。ほらぁ、いくわよ祐一」

「わかったから、引っ張るなって」

 祐一の手をとり、引っ張るようにして洗面所に向かう真琴を、名雪は微笑ましく見つめていた。

 

「いっただっきま〜ふ」

 言い終わらないうちに肉まんにかぶりついたためか、語尾が完全にかぶってしまっている。

「ほいひ〜」

「ちゃんと食ってからしゃべれ」

 祐一にいわれて真琴は、むぐむぐごくんと口の中の肉まんを飲み込む。

「美味し〜」

 出来たて熱々の肉まんからほとばしり出る肉汁が、なんともいえない風味を醸し出している。こればかりは市販の冷凍肉まんでは味わえない美味しさだ。

「真琴ね、秋子さんや名雪の作った肉まんが一番好き」

 にこやかな真琴の笑顔に、名雪も笑顔を返す。そんな中で肉まんを食べ終えた祐一は、渋い顔で口を開いた。

「なあ、名雪。お前やっぱり腕落ちてるだろ」

「え?」

「だって、この肉まん。お前が作ったにしてはちょっと味が……」

 祐一がそこまで言ったところで美汐は、がたん、と椅子を鳴らして立ち上がり、お勝手を飛び出すとそのまま階段を駆け上がっていった。

 

「お〜い、天野〜?」

 名雪と真琴の二人に、祐一が悪い、と責められたため、真琴の部屋に閉じこもってしまった美汐に謝ろうと扉をノックする祐一であったが。

「私の事は放っておいてくださいっ!」

 中から響く美汐の声は、聞く耳持ちません、とでも言うようなものだった。

「どうせ私はお料理が下手くそですっ! 名雪さんみたいに綺麗じゃありませんし、スタイルだってよくありませんっ!」

「お〜い、天野?」

 

「あう〜」

 階上から聞こえてくる祐一の情けない声に、眉をひそめる真琴。

「大丈夫だよ」

 心配そうな真琴を宥めるように、肩に手を置いた名雪はにこやかに太鼓判を押す。

「祐一はね、祐一が自分で思ってるよりもずっと頼りになるんだよ。だから、大丈夫」

「うん」

 肩に置かれた名雪の手の柔らかな温もりには不思議な安心感があり、真琴はそっとその手の上から自分の手を重ねて微笑むのだった。

「さてと、そろそろお夕飯の買い物に行かなくちゃね」

 時計を見ると午後の四時近く。今から買い物に行ったとして、帰って来るころにはもう暗くなっているだろう。

 美汐ちゃんも食べるよね、と名雪は階上でのやり取りを思いながら考える。人数の増減に対応できて、誰もがみんな食べられる。それでなおかつ安く作れるものといえば。

「今晩はカレーでいい?」

「カレー?」

 真琴は、こくん、と小首を傾けて考える。

「……辛いの?」

「大丈夫、甘〜くしてあげるから」

 名雪が微笑むと、真琴もにっこり笑顔になる。とはいえ、甘いのが苦手な祐一と、辛いのが得意でない真琴を同時に満足させるカレーを作るのは、意外と手間がかかる作業だったりする。

 でも、祐一や真琴が喜んでくれるのなら、名雪にとってそれは苦労でもなんでもないのだ。秋子がそうであるように、名雪もまた世話好きの血を引いてしまっているらしい。

 自分の事だけでも手一杯なのに、それでも他人のために手を差し伸べてしまう。結局、自分の事にはとことん不器用で、要領の悪い名雪であった。

 

「それじゃあ、行こっか」

 すっと差し出された名雪の手を、真琴は怪訝そうな顔で見るが、すぐに笑顔になってその手をとった。

 なんだかこうしていると、不思議な気分になってくる。つないでいるのは手だけなのに、体中がぽかぽかと暖かくなってくるような。

 商店街への道を歩きながら、名雪はその手の中にある真琴の小さな手の温もりに、涙が出るほどの嬉しさを感じていた。

 はじめて真琴と出会った時、彼女は自分が誰かもわからない素性の知れない子だった。祐一とはなにか因縁があるらしく、ここにいたいという真琴の願いを叶える形で、この家にいられるよう秋子に頼んだのは名雪だ。

 はじめのうちは嬉しかった。もしも、自分に妹がいたとしたら、こんな感じなのではないかと思うくらいに。

 だけど、真琴には真琴の本当の家族があり、いつか真琴はそこに帰らなければならない。そう考えたとき、名雪は真琴と接するのが怖くなった。

 大切な人と別れるときの悲しみは、その人の事を好きになればなるほど辛くなると知っているから。

 そして、お互いの距離を詰められないまま、時だけが過ぎ去っていった。

 真琴がいなくなってしまったとき、名雪は泣いた。人知れず、こっそりと。

 どうしてもっと優しくしてあげられなかったんだろう。そんな後悔が名雪の心に去来する。でも、祐一の手前、名雪にはそれが言えなかった。

 そして、新たに季節が巡り、いなくなったと思った少女はひょっこり帰ってきて、再び水瀬家の一員となる。

 どんな奇跡が起きたのか、名雪にはわからない。ただ、そのときの祐一の笑顔だけが、深く心に刻まれた。

 そして、少しだけうらやましくなる。あんなにもまっすぐに、自分の気持ちを祐一に向けられる真琴の姿に。

 そんな二人の姿を見ているうちに、名雪は気がついた。自分が好きだったのは、雪が好きで、この街が好きだったあのころの祐一である事に。名雪はただ、あのころの面影を祐一に見ていただけだったのだ。

 だから今は、素直に二人を祝福できる。やっぱり祐一が幸せである事が、名雪にとっても幸せなのだから。

 名雪はもう、再び巡り会えたこの幸せを手放すつもりはなかった。もう二度と後悔をしない、そのために。

 

「すみません、恥ずかしいところを」

「いや、いいさ」

 ようやっと機嫌を直して部屋から出てきた美汐と一緒に下に降りてきた祐一は、まるで人気のないリビングの様子に唖然とした。

「誰もいないのか?」

「そうみたいですね」

 一応お勝手を覗いてみた美汐は、テーブルの上に手紙が置かれているのを見つけた。そこには真琴の字で『ごゆっくり』と書かれている。美汐はそれを手の中で握りつぶすと、ニヤソ、と微笑むのだった。

「相沢さん」

「天野?」

 それは猫なで声というには、あまりにも異質すぎた。いつもとはまったく様子の異なる美汐の姿に、背筋に戦慄が走る祐一。

 美汐は祐一の隣に腰掛けると、すっと身を寄せてきた。見つめる美汐の横顔は、はじめて出会った時よりも幾分和らいでいるようにも見える。どういう心境の変化があったのかわからないが、今の美汐は普段のオバサンくささがなりを潜めており、年相応の少女であるように見えた。

 静かに祐一を見つめるその瞳はどこか潤んでいるようで、たおやかな乙女のような感じがする。

 そんな美汐の姿に祐一は妙な高鳴りを感じてしまったせいか、体を動かして離れようとするのだが、それよりも早く美汐が寄り添ってくるため、ついにはソファーのはじに追い詰められてしまう。

「二人っきり……ですね」

 そっと美汐は、自分の手を祐一の手に重ねる。天野の手って柔らかいな〜、と祐一の鼻の下が伸びかかるが、あわててそれを引き締める。

 こういう表現もなんであるが、ここ最近の美汐の性格の変わりようは意外なほどだ。妙に積極的になってきたというか、とにかくこうして二人きりになっているときにその傾向が強くなっている。

 今日も商店街まで散策に出かけた帰り道で偶然出会い、ここにこうしているわけである。それならそれでいいのだが、本当にそれが偶然なのかを勘ぐってしまいそうになるくらいなのだ。美汐は、偶然ですね、と言ってはいるが、このところのエンカウント率の高さは異様だ。

 実のところ祐一は、感情がどこか壊れてしまったかのような美汐に、かつての自分を見ているようなところがあった。祐一もあゆの一件で心を閉ざし、周囲を拒絶していたからだ。だからこそ余計に美汐の事を放っておけなかったのかもしれない。

 その意味で祐一は美汐に友情のようなものは感じているが、それ以上の感情となると微妙であった。

 真琴が帰ってきて、嬉しかった事は確かだ。真琴があんなにまっすぐ感情をぶつけてくるのも、こうして美汐に慕われるのも悪い気はしていないが、どうにもそれを素直に喜べないでいる自分を感じているのも確かなのだ。

 祐一はどうやら、名雪が好きらしい事に気づいてしまったのがその一因だろう。

 最初は、帰ってくる事すら拒んでいた街。だけど今では、祐一にとってかけがえのない場所になっている。祐一がそう思えるようになったのは、名雪のおかげだとも言える。

 七年ぶりに再会した名雪は、祐一の知らない綺麗な女性へと変貌を遂げていた。でも、言葉を交わすうちに中身はそれほど変わっていないのに気がついて、妙に安心した事を憶えている。

 転校したての祐一をなにかとフォローしてくれたり、トラブルにはさりげなく手を貸してくれたりと、まさに至れり尽くせりだった。

 そんな名雪に祐一が心惹かれてしまうのは無理のない事だろう。

 確かに名雪の事が好きだと言う祐一の気持ちは本物だ。ただ、その気持ちがいとことしてのものなのか、一人の女性としてのものなのかがはっきりしていないだけだ。

 とはいえ、真琴といるときは真琴が一番かわいく見えるし、美汐といるときは美汐が一番かわいく見える。当然、名雪といるときは名雪が一番だ。

 結局、どの子もかわいくて捨てがたいため、みんなと要領よく付き合っていきたいという真心に偽りはなく、そのためには今のままの状態を維持する以外に方法がなかった。その意味で言えば、男とは悲しい生き物である。

「相沢さん……」

 つい思索にふけってしまったが、ふと気がつくと美汐の顔がすぐそばまで近づいていた。

「あ、天野?」

 美汐は危険なくらいに近づいていた顔を、さっと曇らせる。しっとりと濡れた瞳が、なにかを訴えかけていた。

「二人っきりのときは、美汐って呼んでください……」

 そのまま美汐は手のひらを祐一の目にかぶせた。視界が暗くなり、すぐそばにいる美汐の息遣いだけが聞こえる。

 柔らかく、程よく引き締まった体が密着してくる。かすかな震えと同時に、甘くとろけるような吐息が近づく。祐一の体はまるで呪縛をかけられたように動けなくなり、ただ近づいてくる美汐の唇だけを感じていた。

 そして、二人の唇が触れ合おうとした、その刹那。

「ただいま〜」

 扉が開くと同時に、明るい声が響いた。どたどたと足音を響かせてリビングに入ってきた真琴は、その中の光景に目を丸くする。

「あう?」

 祐一と美汐はお互いに真っ赤な顔でソファーの端と端に座り、どちらも胸をなでおろしているからだ。

(危なかった危なかった。もうちょっとで流されるところだった)

(後もう少しだったのに、真琴ってば……。まあいいでしょう、次の手を考えないといけませんが……)

 ほっとしたような祐一の表情と、軽く唇の端をゆがめる美汐の表情は対照的といってもいいくらいだった。

「ただいま、祐一」

「ああ、おかえり名雪」

「お夕飯はすぐに準備するから、待っててね」

 そう言ってお勝手に消える名雪の後ろ姿に、美汐は、やはりこの人が目下最大のライバルですね、と決意を新たにした。

「真琴もお手伝いするね」

「私にもお手伝いさせてください」

 その二人の後を追うようにして、お勝手に向かう祐一。どうせ手伝いなど出来ないのだから、せめて名雪のエプロン姿を堪能する、そのために……。

 

 こうして祐一を巡る女の戦いは、静かに幕を開けるのだった。

 勝利の栄冠をその手に掴むのは、果たして誰なのか?

 未来は君の手の中に。

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