(栞……)

 香里はふと、青く晴れ渡った空を見上げた。

 白く屹立する煙突からは、一条の煙が吸い込まれるように天空高く上っていく。

(あなたにも見えているかしら? この青い空が……)

 

青空

〜Artist〜

 

 ここは百花屋。そこに集うはいつもの二人。ここ最近香里の様子がおかしいので、少し強引に名雪が百花屋に誘ったのだ。

 差し向かいに座った名雪の前には定番のイチゴサンデーが、香里の前にはオレンジジュースが置かれている。

 なにか食べないと体に悪いよ、名雪は気遣ってくれるが、香里は力のない微笑で、いいのよ、と返す。

 やがてゆっくりとではあるが、香里の口からポツリポツリと心の内が語られはじめた。

「そんな事があったんだ」

「ごめんね、名雪。今まで内緒にしてて……」

 今にも消えてしまうそうな香里の声に、名雪はいいんだよ、と微笑んだ。今まで心の奥に抱えてきたものを吐き出したのか、香里は幾分すっきりとした表情になっている。

「でも、びっくりだな。香里に妹がいたなんて」

 香里とは結構長い付き合いになるが、名雪は今までそんな話は聞いた事がなかった。もっともこれは香里も話さなかったし、名雪も聞かなかったという事なのだが。

 それにそういう事を話さずとも二人は良い親友同士であるし、これからもそれはずっと変わらない事だろうからだ。

「それで……」

 不意に、真剣な様子で名雪は口を開いた。

「香里はどうしたいの?」

「どうって……」

 特に詰問する口調ではないが、名雪の声音に香里は縮こまってしまう。普段はどちらかといえば、ぽやぽやのほほんとしている彼女なれど、こういうときの洞察力は鋭い。そのせいか香里は、なんとなく心の奥底まで見透かされているような気がした。

「どうすればいいのかしらね……」

 実は、これが香里の悩んでいる原因だった。

 

 美坂栞。

 香里の最愛にして、唯一の妹。

 栞は生まれつき体が弱く、そのせいで入退院を繰り返していたせいか、みんなと同じように学校に通う事が出来なかった。それだけに栞は、香里と同じ制服を着て、香里と同じ学校に通う、そんな些細な事を切望していたのだ。

 そんな栞の願いは、香里にとっては本当に些細な願い事だった。なにしろそれは、栞の病気が治ればすぐにでも叶えられるものだったからだ。

 だから、栞が香里と同じ制服を着て学校に行ったとき、香里は栞の病気が良くなったんだと思っていた。

 しかし、栞は入学式の最中に倒れ、そのまま入院してしまう。そのときに香里は知った。高校に進学したのも、香里と同じ制服も、みんな気休めに過ぎないという事を。

 お医者さんも知っていた。もちろん、両親も知っていた。香里にだけ知らされていなかったのだ。栞は次の誕生日まで生きられないだろうと、医者に言われている事を。

 それから香里は、栞の事を避けるようになった。それは、日に日に弱っていく栞の姿を見ていたくなかったから。いずれ香里の前からいなくなるんだって言う事がわかっているから。

 普通に接するなんて事は出来なかった。だって栞は、自分の運命を香里の口から聞かされても、微笑みかけてくるのだから。

 

あの子一体、なんのために生まれてきたの?

 

 こんなに辛いのなら、こんなに苦しいのなら、最初から妹なんていないほうが良かった。そうすれば、こんなに辛い思いをする事もなかった。栞が微笑みかけてくるたびに、香里はそう思った。

 

あたしに、妹なんていないわ…

 

 だから香里はそう思う事でしか、自分の弱い心を守る手段がなかったのだ。

 

「香里の気持ちは、わたしもわからなくもないかな……」

「どういう事?」

「わたしにも妹がいたから、かな……?」

「そんな話、初耳だけど?」

 その言葉に、名雪は小さくうなずく。

「だって、ほんの一週間くらいだしね」

 

 沢渡真琴。

 買い物に出かけた祐一が連れてきた、素性の知れない女の子。

 突然祐一に因縁をつけて襲いかかってきたのだが、お腹をすかせて倒れてしまったらしい。

 記憶を失っていて、最初は自分の名前すら思い出せなかった。そんな彼女が思い出せたのが、沢渡真琴という名前だけだった。

 そんな彼女の境遇に同情してか、名雪の願いで真琴は水瀬家のお世話になる事となる。

 それからの真琴は、祐一への復讐と称して毎夜の悪戯を行った。

 コンニャクを落とす。殺虫剤をまく。花火を鳴らす。夜中に家族みんなで祐一の作った焼きそばを食べた事もある。

 今にして思えば、それらはみな寂しさの裏返しだったのかもしれない。

 だけど真琴は、ある日突然に姿を消してしまう。名雪にとって真琴は出会いも別れも唐突過ぎた、たった一週間だけの家族だったのだ。

 

「結局、記憶が戻ってあの子のお家に帰ったんだろう、って事になったんだけどね……」

 名雪は軽く息を吐き、少しだけ物憂げな瞳で窓の外の空を見る。普段の彼女にしては珍しく、目の前にあるイチゴサンデーにほとんど手をつけていなかったので、そのしぐさは香里の心に印象深く残った。

「わたし、何度も思ったんだよ。もしも、わたしに妹がいたらこんな感じなのかなって……」

 テーブルの上で、軽く握られた名雪の手が小刻みに震えている。

「だけど、真琴はいずれわたしの前からいなくなる。そう思うと、普通に接する事なんて出来なかったよ……」

「名雪……」

「初めからあんな子はいなかったんだって思えば、こんなに辛い思いをする事もなかったんだろうけど……」

 真琴は水瀬家からいなくなってしまったが、彼女が使っていた部屋はそのまま残してある。もう真琴が使う事はないのかもしれないが、なぜか誰も片付けようとしないのだ。

「真琴はいなくなっちゃったけど。でも、あの子がいたって事は確かに残ってるんだよ」

 不意に名雪は真剣な瞳で香里を見ると、おもむろに自分の胸に手を置いた。そこは心臓の位置。

「あの子を思い出すたびに、ここのところが痛くなるんだよ。それに、そのたびに後悔してる」

 どうしてもっと優しくしてあげられなかったんだろう。どうしてもっと仲良くしておかなかったんだろう。そんな事ばかりが頭の中をぐるぐる回る。今となっては、もうどうする事も出来ないのに。

「名雪……」

 同じなんだ。今まで見た事もないような親友の表情に、香里は直感的にそう感じた。

 このときに感じる、不思議なまでの親近感。そして、今名雪が抱えている苦悩は、いずれ遠くない未来に自分も抱えるであろう事も。

 やっぱり、名雪と親友でよかった。香里は心のそこからそう思う。名雪との友情を再確認する香里であった。

 

「ねえ、名雪。あたしはどうすればいいのかしら……」

「うん、そうだね……」

 二人が百花屋を出たのは、太陽が空から下ってきてはいたものの、日没までには時間がある微妙な時間帯だった。買い物客でにぎわう商店街の喧騒から離れるように、名雪と香里は連れ立って歩きつつ、話を続けていた。

「素直になるしかないと思う。いま自分が栞ちゃんのために出来る事をすればいいと思うよ」

 後悔しないようにね、と名雪は微笑む。

 それは香里にとって逃れられない悲しみを受け入れる事と同じ事だった。でも、このままなにもしないでいるよりかは、はるかにましであるようにも思えた。

「強いわね。名雪は」

「そうでもないよ……」

 少しだけ悲しげな表情で、名雪は口を開いた。

「……ただ、真琴も祐一と一緒なのかな、って思っただけ」

「相沢くんと?」

「うん」

 ふと、名雪は赤く染まりはじめた空を見上げた。

「これが最後のお別れって言うわけでもないだろうし、いつかまた会えると思うんだよ。わたしも真琴も、香里だってみんな同じ空の下、同じ大地の上にいるんだからね」

 冬という季節が好きだった。毎年冬になると訪れる男の子に会うのが好きだった。しばらく会う事はなかったけれど、いつかまた会えると信じていられた。

 それが、名雪という少女の持つ強さ。自分の弱さを知るからこそ、得られる強さなのだろう。

「やっぱり、強いわよ」

 それに引き換え自分は、と香里は軽く自己嫌悪してしまう。結局、栞に向き合えなかったのも、自らの弱さが招いた事なのだ。

「あたしはダメね。弱くて、逃げちゃって……」

「それでも、いいんじゃないかな?」

 名雪は軽くはねるようにして香里の前に出ると、見上げるように顔を覗き込んだ。

「女の子だもん。弱くても、逃げちゃってもいいと思うよ。誰かに頼るのもいいと思う」

 泣きたいときは泣いちゃってもいいんだよ、と微笑む名雪の笑顔に、つられるように香里も微笑む。この笑顔には誰も勝てないでしょうね、と思いつつ、香里はだんだんいつもの自分を取り戻しつつあった。

 赤く染まる空に背中を押されつつ、家路につく二人。やがていつもの角の分かれ道へとやってくる。いつものように名雪と別れたときには、香里の足取りは随分と軽いものになっていた。

 去り行く親友の後姿を見たとき、ふと香里は思う。

 名雪はこうして力になってくれたけど、もしも名雪が深い悲しみに沈んでしまったときに、果たして自分は名雪の力になってあげられるのだろうか。

(多分、無理ね……)

 やや自嘲気味に、香里は心の中で呟いた。

(だからそのときは……。頼んだわよ、相沢くん)

 すっかり茜色に染まりきった空を眺めつつ、香里は密かにそう思うのだった。

 

(あれから、色々あったわね……)

 流れ行く雲を見ていると、不意に香里は栞の描いた絵を思い出す。あの形状は、少なくとも人間の手で作るのは不可能だろう、あの絵が栞以外に描けないように。

「お姉ちゃん」

 そんな事を考えていると、背後から声がかかる。

「なにを見てるんですか?」

「ちょっとね、あれを見てたのよ」

「お風呂屋さんの煙突ですか」

 香里の指差した先にあるものを見て、栞は不思議そうに首を傾けた。青空に向かって屹立し、白い煙を吐き出している。

「今度行ってみるのいいかもしれないわね」

 みんなで、といって微笑む姉の姿に、一瞬嫌味ですかと叫びそうになる栞。なんとか言葉を呑みこむものの、その表情は硬い。

「それはともかくとして、どうだったの?」

「あ、はい。経過は順調なようです」

 去年までは次の誕生日まで持たないだろうといわれた栞ではあるが、現在では治療法もある程度まで確立したためか、それほど生命の危機というわけでもなくなっていた。もっとも、まだまだ臨床実験が数例ある程度なので定期的な検査入院が欠かせないが、少なくとも日常生活に支障が出ない程度にまでは回復していた。

 あの日あゆさん達に出会っていなければ、どうなっていたかわかりませんね。とは栞の談だ。まさかあんな些細な出来事が、こうして今につながっているなんて。

「それじゃ、帰りましょうか。栞」

「はい、お姉ちゃん」

 青い空の下、仲良く手をつないで歩く姉妹。こんな些細な事が、涙が出そうになるくらい嬉しい事だとは、香里は思っても見なかった。

 

 奇跡は、信じない者のところにはやってこない。

 奇跡を信じる者のところにのみ、訪れるものだ。

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