「う……受けとれぇっ!」
突然机に叩きつけられた映画のチケットに、思わず目を見張る祐一。振り向くとそこには、美坂香里が真っ赤な顔で立っていた。
「で、なんだ? この映画のチケットは」
「か……勘違いしないでよ?」
放課後の教室。ほとんどの生徒は下校しているので人影はまばらだが、あたりの注目を集めてしまっているにもかかわらず、香里は大声を張り上げる。
「たまたまよ? たまたまチケットが余ってるからなのよ」
「つまり、香里は俺と一緒に映画に行きたい、というわけだな?」
それを聞いた途端、耳までどころかうなじまで真っ赤になる香里。
「ど……どう聞いたらそうなるのよっ!」
「どう聞いてもそれ以外の解釈は不可能だと思うが?」
デートをしよう
「あのね、祐一」
見かねた名雪がフォローに入る。
「本当は香里、栞ちゃんと一緒に映画に行くはずだったんだけど、栞ちゃんの都合が悪くなって行けなくなっちゃったんだよ」
「ふうん」
「そのチケットの期限が今度の日曜日までなんだよ。無駄にするのももったいないから、祐一と一緒に行ったらどうかな? って思ったんだよ」
「それなら名雪が一緒に行けばいいんじゃないのか?」
「わたしは部活があるから……」
そういう名雪は、ちょっと残念そうだ。
「北川は?」
「北川くんは都合が悪いんだって」
それを聞いて祐一は後ろの席の北川に目をやるが、なぜかおびえた様子で肩を震わせている。
「そうなのか? 北川」
「いや、実は……」
「北川くんは、都合が悪いんだよね?」
名雪の口調は変わらないが、その声音には底冷えのするような殺気が含まれていた。
「あの、その……」
「都合が悪いんだよね?」
相変わらずの笑顔であるが、なぜか北川の顔色は見る見るうちに真っ青になっていく。まるでヘビに睨まれたカエルのように。
「……だお?」
「ひぃぃぃぃぃっ!」
そのままかばんを持って、脱兎の如く逃げ出す北川。出来れば祐一も逃げ出したいくらいの雰囲気があたりに満ちていた。
「そういうわけだから、お願いね、祐一」
「いや、そう言っても俺にも都合ってもんが……」
「ないよね?」
名雪の鋭い切りかえしに、思わず言葉を失う祐一。
「いや。俺は休みの日には、ぼーっ、としてすごす事にしてるんだ」
「祐一、もったいないよ」
呆れた様子でため息をつく名雪。
「一日の半分を寝て過ごしてるような奴に言われたくないな」
「ぼー、っとしてるより、寝てるほうがずっといいよ?」
「いいや、ぼーっ、としてるほうがより建設的だ」
「どっちもどっちよね」
それまで二人のやり取りを黙って聞いていた香里が、呆れたようにため息をつく。
「どうでもいいけど、相沢くんはあたしと一緒に映画に行くの? それとも、行かないの?」
「つまり、香里は俺と一緒に映画に行きたい、というわけだな?」
「なんでそうなるのよっ!」
再び真っ赤になって叫ぶ香里を、可愛いな、と思ってしまう祐一。
「よしっ! じゃあ、行くか」
「じゃあ、とはなによっ! じゃあ、とはっ!」
そんな二人の様子を、微笑みながら見守る名雪であった。
「じゃあ、ちょっと出かけてくる」
「いってらっしゃい。……って、ちょっと待って祐一」
祐一が出かけようとしたところを、名雪はあわてて呼び止めた。
「なんだよ?」
「もしかして、その格好で行くつもり?」
祐一が着ているのは、よれよれのTシャツと着古したジーンズ。それに使い古されたジャケットという組み合わせだ。
「変か?」
「変か? じゃないよっ! これから祐一、香里とデートなんだよ?」
普段通りの格好をしている祐一の姿に、呆れ顔の名雪。
「デートじゃないぞ、香里と一緒に映画を見に行くだけだ」
「一緒だよ」
そう言いつつ、祐一の着替えを準備する名雪。
「はい、これに着替えてね」
名雪が渡したのはこざっぱりとしたワイシャツと、きちんとアイロンがかけられたスラックスだった。
「あ、ネクタイ曲がってるよ、祐一」
玄関で祐一を見送る時に、身だしなみを整えてあげる名雪。
「なんだかこうしてると、俺たち新婚さんみたいだな」
「なに言ってるんだよ〜」
口ではそう言いつつもどこか嬉しそうな名雪の姿に、祐一の心にちょっとした悪戯心が宿った。
「忘れ物、ない?」
「あるぞ、一つだけ」
「なに?」
「その前に目を閉じてくれ」
「え?」
言われるままに目を閉じた名雪の唇に、なにか柔らかいものが触れる。
「お出かけのキッスを忘れてた」
目を開けたときに映る、祐一のニヤニヤとした笑い顔に、名雪は酸欠になった金魚のように口をパクパクとさせた。
「ゆ……祐一のバカァッ!」
耳まで真っ赤にして怒鳴る名雪の声から逃げるように水瀬家を後にする祐一。
(なんだかこうしてると、俺たち新婚さんみたいだな……)
祐一が消えた後の玄関を見ていると、先程の言葉が名雪の脳裏にリフレインしてくる。そっと唇に手を触れたとき、名雪は鏡の中の自分と目があった。
「なに夢見てるんだよ。馬鹿……」
誰に聞かれるわけでもない呟きが、風に乗って消える。
「部活……行こっと……」
小さくため息をついた後、支度をはじめる名雪であった。
「じゃあ、いってくるわね」
「はい、いってらっしゃい。……って、ちょっと待ってください、お姉ちゃん」
香里が出かけようとしたところを、あわてて呼び止める栞。
「なによ?」
「もしかして、その格好で行くつもりですか?」
香里が着ているのは、飾り気のない丸首のTシャツ。それにスリムなジーンズという格好である。彼女の持つプロポーションを際立たせるには最適といえるが、少なくともデートの時の格好ではない。
「おかしいかしら?」
「おかしいもなにもありません。これからお姉ちゃんは、デートするんですよ?」
まったく普段と変らない格好の香里の姿に、呆れ顔の栞。
「デートじゃないわよ。相沢くんと一緒に映画を見るだけじゃないの」
「おんなじです」
呆れた様子で呟きつつ香里の部屋まで戻ると、クローゼットから服を物色する栞。
「はい、お姉ちゃん。これに着替えてくださいね」
栞が手渡したのは、フリルのついた淡いピンクのブラウスと、ギンガムチェックの赤いミニスカートだった。
「まだ今の季節は肌寒いですから、これにこのベストを合わせて……」
ぶつぶつと呟きながらコーディネートとをはじめる栞の姿に呆れつつ、服を脱ぎはじめる香里。やがて下着姿になったところで栞の声がかかった。
「なんですか? その下着は」
「なにって……普通よ?」
まったく飾り気のない、白の上下である。
「真のお洒落は、アンダーからですっ!」
そう言って栞が取り出したのは、色は白いがレースがふんだんにあしらわれたアンダーだった。それは見るからに見られる事を意識したものである。
「もし万が一の事を考えなくちゃダメじゃないですか」
万が一ってなによ、と小さく呟きつつ、栞の用意した服に身を包む香里であった。
「あ……待ったか……?」
「ううん。今来たところよ」
待ち合わせの場所に現れた青年の姿に、はっとなる香里。話しかけられてすぐに祐一だとわかったものの、なぜだか胸の高鳴りが押さえられない。
(やだ……相沢くんって、こんなに格好よかったかしら……?)
(うそだろ……。香里がこんなに可愛いなんて……)
お互いによく知ってるはずなのに、なぜか知らない人のように感じてしまう。そんな不思議な感覚。
「じゃあ、行こうか」
「ええ」
寄り添って歩く二人の手は、いつしか繋がれていた。
そして、はじまる楽しいひと時。
これから二人で、デートをしよう。
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