注意:この物語の年代は、西暦2000年ごろを想定しています。

なので、ハッピーマンデー法は施行されていません。

 

 青い空、白い雲。彼方にそびえる入道雲。

 よせては返す波頭。どこまでも続く紺碧の海。そして、目の前に広がる遠浅の干潟。

 この日祐一たちが海に来た目的、それは……。

「しおりがりにきたのよぅっ!」

「潮干狩りですっ!」

 青い海原に向かって叫ぶ真琴を、あわてて修正する栞であった。

「……しおりがひ……?」

「そこからはなれてくださいっ!」

 栞の強い剣幕に、途端に、あう〜、とうなだれてしまう真琴。

「天野さん、タッチ」

 流石に罪悪感がこみ上げてきたのか、保護者に後を任せる栞。

「はい、いいですか? 真琴。潮干狩りというのはですね、潮の満ち干きにあわせて……」

「あう〜、美汐の言ってること、むつかしくてよくわかんない」

「名雪さん、タッチ」

「はい、真琴。この熊手で砂を掘って、貝を探すんだよ。ザックザックって」

「あう、ザックザック〜」

 そのまま干潟に出ていく二人の後ろ姿を眺めつつ、流石だな〜、と思う栞と美汐であった。

 

海辺の風景

 

「皆さんで佐祐理の別荘に遊びに来ませんか〜?」

 それは唐突な一言ではじまった。

「別荘ですか?」

「はい」

 夏がはじまる少し前、梅雨も終わろうかというある日。水瀬家のリビングには穏やかな笑顔の佐祐理と仏頂面の舞が仲良く並んでソファーに座っていた。

「どうぞ」

 夏らしい装いのサマードレスに身を包んだ佐祐理と、飾り気の無いTシャツにジーンズという格好の舞。その前に良く冷えたアイスティーを置き、名雪は祐一の隣に腰掛けた。

 佐祐理の話によると、今度の連休に倉田家所有の別荘に行くことにしたのだそうだ。

「……ずいぶん急な話ですね」

「はえ〜、仕方が無いんです……」

 詳しい事情を聞いてみると、倉田家にはいくつかの別荘があるのだが、それらの邸宅は住居として利用しないと、膨大な額の固定資産税を支払わなくてはいけないのだそうだ。困ったもんです〜、といつも笑顔の佐祐理を見つめながら、ブルジョアめ、とつぶやいてしまう祐一であった。

 それはともかくとして、せっかくのお誘いをむげに断るわけにもいかないだろう。

「多少時期外れですけど、浜では潮干狩りも楽しめるんですよ〜」

 と、佐祐理はにっこり笑顔。

「楽しみだね」

 といって微笑む名雪の笑顔が、なぜか祐一の心に痛い。とはいえ、きっとあゆたちも喜んでくれるんじゃないかと思うと、ついつい祐一も了承してしまうのだった。

 

 佐祐理の別荘までは快速電車で二時間、その後バスで三十分という行程。

 日曜日と海の日とで連休になり、さらに終業式も終ったとなれば、はしゃぐなというほうが無理であった。空席の目立つ四人がけのクロスシートをいくつかのグループで占領し、車内は和気藹々とした雰囲気に満たされる。

 厳正なるくじ引きの結果、決まった席は三つ。秋子、佐祐理、舞の年上チーム。祐一、北川、名雪、香里の美坂チーム。あゆ、真琴、栞、美汐の年下チームであった。

「倉田さん、本日はお招きありがとうございますね」

「いえいえ〜、佐祐理のほうこそ普段お世話になっているんですから〜」

 穏やかに微笑みあう二人の隣で、ただ一人冷凍みかんに舌鼓を打つ舞。相変わらずの能面だが、その表情はどこか楽しそうだ。

「倉田さん。どうかしましたか?」

 しかし、佐祐理はどこか浮かない様子。その表情にはちょっぴり陰りが見える。

「はい、実はですね〜……」

 声を潜め、佐祐理はぽつぽつと語りだす。

「今年はまだ誰も別荘に行っていないので……」

「ホコリがすごい、と?」

「はい……」

 着いたら先ずはお掃除ですね〜、という佐祐理の力ない微笑とは対照的に、秋子の瞳は輝きを増していく。

「それは楽しみですね」

「はえ?」

 キョトンとした表情で、佐祐理はかわいらしく小首を傾げる。

「ホコリの積もったフローリングを、雑巾で一拭きした途端に真っ黒になって……」

 うっとりとした表情で唐突に語りはじめる秋子に、舞は口の中のみかんを噴出しそうになる。

「黒かびでべとべとになった水まわりに、さぁっとカビキラーを振り撒いたり……」

「は……はえ……」

 ついつい想像してしまい、笑顔がひきつる佐祐理。

「にごった排水溝の中に使い古した歯ブラシを突っ込んで汚物を引きずり出して、紅い麹菌が繁殖したお風呂をピカピカに磨き上げて……」

 妙に楽しそうな様子の秋子の微笑には、佐祐理も舞も唖然とするばかりだ。

 とにかく秋子は清潔になった生活空間が大好きなのだ。舐めろといわれれば、躊躇無く舐められるくらい。

 道具は使いやすく揃え、掃除も家事もしやすいように整理整頓する。そんな話を聞いてしまうと、秋子の中の主婦の血が騒いで騒いでしかたがないのだ。

 

 そんなわけで、別荘の掃除をする秋子、佐祐理、舞、香里、北川と、潮干狩りに向かった祐一、名雪、あゆ、真琴、美汐、栞に別れたのである。

 

「いいか? あゆ。潮干狩りはな、引いていく潮にあわせて沖に向かい、満ちてくる潮にあわせて浜に引き上げるんだ」

「……詳しいね、祐一くん」

「こう見えても俺は、地元じゃ『潮干狩り荒らしの祐一』って呼ばれてたんだからな」

「……そうなんだ」

 得意げに胸を張る祐一とは対照的に、あゆの表情はどこか胡散臭そうにそれを見上げている。その冷たい視線には、流石の祐一も、乾いた笑いを浮かべるしかなかった。

「……帰るか」

「うぐぅ……」

 すでに足首まで潮が満ち、結局一個も取れないまま引き上げる祐一とあゆであった。

「みなさ〜ん、戦果はどうですか〜?」

 なんとか二人が浜まで戻ると、朗らかな笑顔の佐祐理が迎えてくれた。どうやら掃除もひと段落したらしい。

「い〜っぱい獲れたわよぅ。小さなアサリと、大きなアサリ」

 どうやら真琴にとっては、貝は全部アサリらしい。ちなみに、アサリ以外に取れたのはバカ貝、別名青柳だったりする。

「美汐さんったらすごいんですよ。ここにいますっていうところを掘ると、本当にいるんですから」

 そう言って誇らしげに貝がいっぱい詰まったネットを見せる真琴と栞、その姿に恥ずかしそうに頬を染める美汐と、微笑ましく見守る名雪。そんな風景の中では、一個も獲れなかった祐一とあゆの姿だけが妙に浮いて見える。

「どれどれ?」

 おもむろにバネ量りを取り出した佐祐理は、二人の差し出したネットを交互に量っていく。

「あの、すみません……この浜で一回に獲っていい貝の量は、ネットに2kgまでなんです……」

「え〜?」

 最初にきちんと話しておかなかった佐祐理が悪いのだが、それに抗議の声を上げたのは真琴だった。

「せっかくいっぱい獲ったのに……」

 水産資源の保護を目的とするなら、一度に獲る量を制限しておくのが確実であろう。しかし、真琴にそれを言ったところで、理解してもらえるかどうか。

「ねえ、真琴」

「あう?」

 そんなとき、名雪が真琴を背後から優しく抱きしめた。

「真琴は、明日も潮干狩りがしたい?」

「うん」

「じゃあ、今日全部獲っちゃわないで、明日の分も残しておかないとダメだよ?」

「そうなの?」

「だって、今日全部獲っちゃったら、明日獲る分がなくなっちゃうよ?」

「あう〜」

 その穏やかな名雪の笑顔に、しばらく考え込む真琴。真琴にしては珍しく眉をひそめ、真剣に悩んでいる様子だ。

「わかったわよぅ……」

 ちょっぴり残念そうではあったが、真琴も納得してくれたようだ。

「つまりだな、あゆ。俺が獲らなかったのは水産資源の保護を目的としてだな……」

「……ものは言いようだね……」

 季節は初夏を迎えたばかりだというのに、なぜか祐一の心には木枯らしが吹き抜けていくのだった。

 

「はい、これでいいですね」

 獲ってきた貝を種類別にわけ、真水で洗って綺麗にする佐祐理。こうしてみるとアサリもたくさん獲れているが、それ以上にたくさん獲れたのがバカ貝だった。

 アサリは海水に浸してしばらく置けば砂を吐いてくれるが、バカ貝はそのやり方では砂抜きが出来ない。そのため、普通は赤い足の部分だけを食べるのだが、実のところバカ貝は捨てるところがないくらい美味しい貝なのだ。

「倉田先輩、お手伝いお願いできますか?」

 するとそこに、佐祐理と色違いのエプロンをつけた名雪がにこやかに現れる。秋子基準でピカピカに磨き上げられ、道具も使いやすいように整理整頓された水まわりには御満悦の様子だ。

 ちなみに秋子は舞と一緒に車で近くの町に買出しに出かけており、あゆ、栞、美汐は香里の指揮の下、各部屋のベッドメイクを担当している。そんなわけで作業の邪魔になる祐一と真琴が、こうしてキッチンにいたりするのだ。

「どうするんですか?」

「お母さんに教わったいい方法があるんだよ」

 名雪は大きな鍋にたっぷりと水を入れ、さっと塩を振り撒いて塩水にすると、グラグラっと煮えたあたりでパスタをゆでるようなかごにいれたバカ貝を一気に入れる。そして、貝の口が半分くらい開いたあたり、大体半煮え状態になったくらいで取り出すとそのまま冷水につけた。このときに茹でた汁は後で使うので、捨ててはいけない。

「はい、みんな。ちょっと手伝ってね」

 今度は殻から身を離す作業だ。結構いっぱい取れたので、かなりの量になっている。しかし、指を入れるとわりと簡単に取れるので、祐一でも出来る作業だった。

「ここからが重要なんだよ」

 そう言って名雪はぬるま湯の中に剥き身を入れ、優しく指の腹で押して砂を取り出していく。佐祐理も挑戦してみるのだが、意外と身が柔らかいせいか力加減がわからないので、名雪のように美味く砂を取り出せずに身をつぶしてしまっていたのだが。

「あはは〜、コツつかみました〜」

 と、微笑んだ直後から名雪をもしのぐ勢いで砂を取り出しはじめたのだった。

 そして、後は先程の茹で汁を使って半煮えを全煮えの状態にする。このときに茹ですぎてしまうと身が硬くなってしまうので、いいタイミングで上げなくてはいけない。

 とにかくバカ貝は日持ちがしないので、なるべく獲った当日にこうして処理しないとすぐに腐ってしまうのだ。食中毒の被害が多いのも、こうした処理を怠るのが原因なのである。

「美味しい」

 茹で上がったばかりのバカ貝に早速舌鼓を打つ真琴。軽く火を通した状態なので歯ごたえも軽く、噛めば噛むほど美味しさがにじみ出てくるようだ。

「まったくこれは、後を引くな」

 そのご相伴に預かる祐一の姿に、名雪が目を細めたそんなときだった。

「あ〜い〜ざ〜わ〜……」

 唐突にかかる声に一同が振り向くと、唖然とした表情で言葉をなくす。

「き……北川……?」

 そこにはトレードマークの癖毛が力なく垂れ下がり、真っ赤になった瞳で情けなく鼻をすする北川の姿があった。全身にはホコリの塊があちこちにこびりつき、ちょっとでも体を動かそうものなら、容赦なく飛び散る事だろう。

「そ……そこまで念入りにお掃除しなくても……」

 佐祐理の笑い声も不思議とむなしく響く。聞くと北川は秋子が車で出かける時、ついでにガレージを片付けていたら突然荷物が崩れてきたのだそうだ。それを聞いて北川をお風呂に案内する佐祐理であった。

 

「こっちは、今日は食べられないの?」

「アサリは一晩お砂を吐かせてからだよ。明日になったらお味噌汁の具にするのもいいし、クラムチャウダーにしてみるのも良いかもしれないね」

 次々に名雪が上げていくメニューに、瞳を輝かせる真琴。

「そいつは楽しみだな」

 名雪の料理の腕前は知っているし、これは祐一も楽しみだ。もっとも、今の祐一の目を楽しませているのは、エプロン姿の名雪ではあるが。

 ちなみに、アサリが吐いた砂をもう一度吸い込まないように、すのこなどを使って上げ底にしておくのがポイントだ。真琴の見ている前でアサリは貝の隙間から水管を出し、がふがふと砂を吐いていく。

「あ、そうだ。祐一〜」

「ん〜?」

 アサリの様子を楽しそうに見ていた真琴が、祐一に声をかけてきた。

「ここで名雪といちゃいちゃして」

 突然の言葉に、唖然とした表情で真琴を見つめる二人。

「どうして?」

 それでも努めて冷静な声で、優しく真琴に問いかける名雪。

「だって、そうすると砂を吐くって言うじゃない」

 マンガに載ってたわよ、と真琴は言うが、祐一と名雪は少し困ったように顔を見合わせるばかりだ。だが、こうして改めてみると、夏らしい装いの名雪は意外と新鮮であるように祐一の眼には映る。どこで手にいれたのかは知らないが、イチゴがプリントされた夏用のワンピースは不思議と名雪に良く似合っていた。

 もっとも、それを素直に名雪に言ってあげられない祐一ではあったが。

 良く良く考えてみれば、祐一が子供のころは学校が長期休暇に入るときは決まって名雪の家にお世話になっていた。あのころはまだ男女の性差を意識するような歳ではなく、なにをするにも名雪と一緒だったような気がする。

 あの事件から七年以上の歳月が流れた。あの冬には奇跡のような出来事を体験した。そして今、みんなとこうしてここにいる。

 なんとなく不思議な気分ではあるが、むしろこれがあるべき姿なのかもしれないな、と祐一は思う。

「どうかした? 祐一」

「……いや、なんでも」

 ふと気がつくと、心配そうな表情で名雪が顔を覗き込んでいる。真琴の表情も同じだ。

「良く似合ってるな、と思って……」

「……ありがと」

 祐一と名雪はお互いに顔を真っ赤にしたまま、視線をそらしてしまう。

「そういえば、初めてだね」

「なにがだ?」

「祐一が、わたしをほめてくれるの」

「そうだっけ?」

「そうだよ〜」

 よくよく考えてみれば、確かに祐一が名雪を相手にしている時は、悪態をついてばかりいるような気もする。

 突然キッチンにまったりとした空間が広がる中、アサリと一緒に真琴が砂を吐いていた。

 

 お昼の時間を目いっぱい使っての潮干狩り。その後は獲ってきた貝を処理したり、買い物に出かけたり、お掃除をしたりでふと気がつくと、お昼も食べずに午後三時。

 サンセットビーチになるにはまだ少し時間がかかりそうだが、大分日が穏やかに傾いてきたキッチン。

 窓の外から聞こえてくくるのは風のそよぐ音と寄せては返す潮騒だけ。開け放った窓からは風に乗って運ばれてくる海の香りが心地よい。

 時折混じる海鳥の声に祐一は、本当にここがいいところだと思う。もう少し日が落ちたら、赤くなった海岸を愛する人と一緒に歩くのもいいだろうな、と、無理やり現実から目をそむけている祐一の背中では。

「ぜ〜ったいに、いやですっ!」

 惨事の真っ最中だった。

 事の起こりは今から三十分ほど前にさかのぼる。それは、買出しに出かけた秋子の帰宅からはじまった。

 佐祐理の別荘に滞在するのは、二泊三日の予定。その間に消費してしまうであろう十一人分の食料はかなりの量だった。帰宅したときの舞の表情がかなり蒼ざめていたのは気にかかるところだが、秋子の笑顔の前では誰もなにも言えなくなっていた。

 お昼にはちょっと遅いし、おやつにするには準備が足りない。かなり中途半端な時間なので、ここは一つ豪華な夕食にしようと満場一致で決定したところまでは良かった。

 ただ、そのメニューをカレーにしようとした時点で、メンバーに亀裂を生んでしまったのだ。

「辛いのなんて、人類の敵ですっ!」

 決然と叫び、立ち上がったのは美坂栞。なにしろ彼女は、辛いものがまったくダメ。カレーなんて、言語道断である。

「栞。あんまりわがまま言うんじゃないわよ」

 呆れた様子でそれをたしなめるのは、彼女の姉の美坂香里。とはいえ、そもそもの発端は香里の手に握られている、辛口のカレールウが原因なのだ。

 実は結構辛党な香里。学食のカレーは結構本格的なのよ、とは彼女の談だ。もっとも、そのカレーを食べられなかった栞ではあるが。

「はぇ〜……それでしたら、栞さんの分だけ別のお鍋にするとか……」

「甘やかしはよくありませんよ。倉田先輩」

 香里の鋭い視線に、ぴくっと身を震わせる佐祐理。まったくの余談ながら、実は佐祐理と舞もあまり辛いのは苦手なのだ。

 ちなみに、現在のところ辛口派に属しているのが香里、祐一、北川の三人。甘口派が栞、あゆ、真琴の三人である。残りの秋子、名雪、佐祐理、舞、美汐の五人はは中立というところだ。

 秋子たちにしてみれば、作るのは自分たちなのだからリクエストに応えれば良いだけである。単純に辛いものが苦手な栞が反発しているのであって、あゆと真琴はそれに付き合っているだけなのだ。

「でも、無理強いは良くないよ。香里」

 そんな中、静かに名雪の声が響く。

「名雪……」

 その柔らかな響きには、あたりに立ち込めていた険悪なムードが洗い流されていくようだった。

「要は、栞ちゃんでも食べられるカレーを作ればいいんでしょ?」

「そんなこと、できるんですか?」

 栞の疑問も、もっともである。

「大丈夫だと思うよ」

「あゆさん」

 自信たっぷりに胸を張るあゆの姿に、少しだけ頼もしいような感じがする栞。

「秋子さんの作るカレーは、とっても美味しいから」

「うん。真琴、秋子さんのカレー大好き〜」

 よくよく考えてみれば、秋子のカレーは辛口派の祐一と甘口派のあゆと真琴をひとつの鍋で満足させているのだ。だから、こうした事態にも慣れっこのはずである。

「そう言ってくださるのは嬉しいんですけど……」

 そんななか、秋子は静かに口を開いた。

「生憎とここには普段家で使っているスパイスミックスが無いので、いつものあの味は出せません」

「あう〜……」

 それを聞いた途端に消沈する真琴。実のところ辛さの中にも芳醇な味わいのある秋子のカレーは、真琴のお気に入りでもあるのだ。

「でも……」

 すっと立ち上がった秋子に、一同の視線が集中する。

「挑戦する価値はあると思いますけど?」

 どうですか? みなさん。と一同を見回し、静かに微笑みかける秋子。その優しくたおやかな微笑みは、まさしく慈母を想起させるものであった。

「うん、それならわたしも手伝うよ」

 続いて立ち上がったのは、秋子の娘の名雪。能天気、という形容がよく似合うその笑顔は、見る人全てを和ませるものだ。

「あはは〜、それは作りがいがありそうですね〜」

 そう言って立ち上がった佐祐理の笑顔も、二人に負けず劣らずである。

「あの……」

 そこで栞が、おずおずという様子で立ち上がる。

「……本当に、私でも食べることの出来るカレーが作れるんですか?」

「はい」

 優しい笑顔で栞を見つめ、深くうなずく秋子。

「秋子の魔法を見せてあげます」

 

 トトトトトトトトトトトト!

 

 軽やかな音と見事な包丁捌きで、タマネギが瞬時に細かなみじん切りになっていく。

「はえ……まだきざむんですか〜……?」

「ん〜、後二〜三個はいるみたいだよ」

「はえ〜」

 のんびり会話をしていながらも、名雪と佐祐理の手はほとんど残像が見えるような勢いで動いている。

「それにしても倉田先輩って、本当にお料理上手なんですね〜」

「そんなことないですよ〜」

「その手つきを見ればわかりますよ〜。祐一、倉田先輩のことほめてましたから」

「そういう名雪さんだって、すごいお料理上手じゃないですか〜。あ、ニンジンも切りますね〜」

「じゃあ、わたしはジャガイモを」

 二人の間にはゆっくりと時間が流れているようで、まったりとした雰囲気がキッチンの中に満ちていくようでありながらも、実際にはものすごい勢いで下ごしらえを終了させていた。

 その隣では秋子が、見事なフライパン捌きでタマネギをあめ色になるまでじっくり炒めつつ、出来あがったタマネギを順番にフードプロセッサーでペースト状にする。

 これをベースにして鍋の中にいれ、そこにさらに茶色になるくらい油で炒めたニンニクとショウガをペースト状にしたものを加え、各種スパイスで味を調える。

「秋子さ〜ん、これでいいかな?」

 今夜のメニューはポークカレー。あゆの担当は豚のばら肉に下味をつける作業だ。

 軽く塩コショウしたばら肉に、ショウガとニンニクのペーストを塗りこみ、さらにその上から細かく砕いたカレー粉をすりこんでいく。

「うん、上手よ。あゆちゃん」

 秋子にほめられ、少し頬を赤くしたあゆは下味をつけたばら肉を深皿に取り、そのまま蒸し器に入れる。こうすることで肉が柔らかくなり、充分に味がしみこむのだ。

 

 さて、そのころリビングでは、栞が物憂げな瞳でテレビを見つめていた。

 テレビではニュースキャスターが無表情に今日の出来事を淡々と語っているのだが、栞の表情もそれに負けず劣らずだ。

「やっぱり、不安ですか?」

 そんな栞の様子を心配に思ったのか、美汐は優しく声をかけるのだが、栞はただ力なくうなずくのみだった。

 夕食班の人員は秋子を筆頭に名雪、佐祐理、あゆで構成されており、栞と美汐は翌日の朝食班である。ちなみに、戦力外通告となった祐一と北川、香里と真琴と舞はトランプに興じている。

 もっとも、このときに賭けをしていた祐一ではあるが。

 実のところ今の栞にはテレビの内容も、後ろの方から聞こえてくる歓声もどうでもいいことだった。

 カレーライス。

 栞にとっては、未知の領域にある食べ物だ。

 確かに栞も、今まで一度もカレーを食べたことがないわけではない。子供用に味付けされたレトルトカレーを食べたことがあるくらいだ。

「きっと、大丈夫ですよ」

「美汐さん……」

「秋子さんに佐祐理さんに名雪さん。それにあゆさんも一緒なんですから、そうおかしなものは出来ないと思いますよ?」

 不慣れな笑顔を作ってまで、栞を励まそうとする美汐。そんな美汐の不器用な優しさが、とても嬉しい栞であった。

 そして、祐一の負けが確定した時、今夜の夕食が出来上がった。

 

「なんだか、すごくない?」

 かなり本格的にセッティングされたキッチンのテーブルに、香里は感嘆とも呆れとも取れる言葉を漏らす。テーブルに着いた各人の前にはカレーが盛り付けられており、おいしそうな湯気を立てている。

 じっくりとあめ色になるまで炒めてペースト状にしたタマネギをベースに、バカ貝を茹でただし汁を少しだけ加えてストックを作り、具として茹でたバカ貝を加える。

 カレー粉は小麦粉と一緒に炒め、香ばしく仕上げた上でストックにとろみをつける。

 そこへ別に料理しておいたニンジン、ジャガイモ、豚肉を加えて煮込むこと三十分。火から下ろして毛布でくるんで熟成させ、さらにもう一度煮込む。こうすることで一晩置いたカレーとほぼ同じ味わいになるのだ。

 スパイシーなにおいの広がるキッチンが、静寂に包まれたのはわずかに一秒。

 いただきます。と全員の声がそろって最初の一口を頬張った次の瞬間。

「なんじゃあっ! こりゃあっ!」

 大きな声を上げて祐一が立ち上がった。

「味も香りも、ぜんぜん違いますっ!」

 次に口を開いたのは美汐だった。

「これ、本当にカレーなの?」

 あまりにも強烈で新鮮な香りに、思わず香里も叫んでしまう。今まで学食のカレーが本格的だと思っていた彼女にとっては、あまりにも強すぎる刺激が体を突き抜けていく。

「う〜ま〜い〜ぞ〜っ!」

 某将軍のように叫ぶ北川。

「……美味しい」

 スプーンを口に含んだ直後は驚きに目を見開いていた舞であったが、やがて一言だけそういった。

 しかし、ここまでは普通の反応だ。カレー製作に携わった秋子たちの視線は、栞に集中している。その隣ではスプーンを口にいれたまま固まっている真琴の姿があるが、それはただ単に突如として叫びだした祐一たちにおびえているだけであった。

「……辛いです……」

 祐一たちが二口目のカレーを頬張ろうとしたとき、不意に栞が口を開いた。

「でも、辛くないんですっ!」

 辛さの中にもいろいろと複雑玄妙な味わいがあり、スパイスの一つ一つがそれぞれの味と香りを保ちながらも、お互いに調和して響きあっている。肉にもそれとは別の味と香りがつけられており、味の深さとやわらかさを増している。

「それにこの香りは……」

 辛いのに美味しい。そのせいか二口目を食べる栞。

「やっぱり……バニラの香りですっ!」

 カレーはスパイスのオーケストラともいえ、実に様々なスパイスが使われている。バニラもスパイスの一種であるため、バニラアイス好きの栞にはうってつけだ。

 この種のカレーは仕上げにココナッツミルクかヨーグルトを使うのが一般的なのだが、笑顔でバニラアイスのカップを丸々一個鍋に放り込んだ秋子の姿には、手伝っていた名雪たちの間にも衝撃が走ったものであったが。

「美味しいです〜! でも、辛いです〜!」

 などと叫びながら、栞は顔を真っ赤にしながらも綺麗にお皿を空にしていく。やがて寸胴鍋にいっぱい入っていたカレーは、全部祐一たちの胃袋に消えたのであった。

 

 狂乱の夕食が終った後、それぞれのメンバーに分かれてまったりとした時間を過ごしていた。

「えう〜」

 そんな中栞は香里のひざを枕にして、一人唸っていた。

「大丈夫ですか? 栞さん」

「もう、いくらなんでも食べすぎよ」

 心配そうな美汐と、少し呆れたような香里の表情は、見るからに対照的であった。

「なにかお薬を飲んだ方はいいのではありませんか?」

 そうはいっても、薬の類は頭痛薬ぐらいしか持ち合わせていない美汐。栞の額に手を当ててみるが、どうやら熱はないようだ。

「薬ですか……?」

 ふらりと起き上がった栞がポケットを探ると、なにやら薬瓶を取り出した。

「これは……頭痛薬。これは……ビタミン剤。これは……」

 次々とリビングのテーブルの上に置かれていく薬瓶に、美汐の目が大きく見開かれる。

「こんなに……?」

「常備薬です」

(四次元ですか……?)

「あった、これです」

 美汐の呆れた視線の中、栞はやっと見つけた腹薬の白い粒を三錠飲み込むのだった。

「さてと……」

 ゆったりとした時間が過ぎ去っていく中で秋子は立ち上がり、キッチンへと向かう。

「あ、お母さん。後片付けならわたしがやるから、ゆっくりしててよ」

「でも……」

 元々世話好きな秋子だけに、なにかしていないと落ち着かないのだ。

「普段お世話になってるんだから、たまには。ね?」

「秋子さ〜ん!」

 そんなときリビングにいた真琴が、大きな声で秋子を呼んだ。

「秋子さんも一緒にやろ、トランプ」

 リビングの床に車座になり、祐一、北川、あゆ、真琴、舞が座っている。どうやら祐一はあゆを引き入れることで、先程の負け分を取り返そうとしているようだった。

「ほら、行ってあげて」

「はいはい」

 名雪に背中を押されるまま、その輪に加わる秋子であった。

「佐祐理もお手伝いしますね〜」

「ありがとうございます」

 家事が得意な二人の手により、キッチンは見る間に整頓されていく。

「やっぱり、倉田先輩ってすごいですね」

「そうでもないですよ〜。あ、それと佐祐理って呼んでくださいね」

 にこやかに笑顔を浮かべつつ、さっと洗ったお皿を水切り籠に並べていく。その見事な手際には名雪も驚きだ。

「はい。これで洗い物は終わりですね〜」

 あっという間に最後のお皿を洗い、文句のつけようもないレベルで後片付けが完了した。

「名雪さんもすごいですね〜」

「そんなことないですよ。うちはその……家族が多いですから……」

 リビングの方から聞こえてくるにぎやかな声に、ちょっぴり寂しげな視線を向ける名雪。

「いえいえ〜、その手つきを見れば一目瞭然ですよ〜。祐一さんが、自慢したくなるのもわかります」

「そ……そうですか?」

 少し照れた様子でありながらも、ちょっぴり誇らしげに胸をそらした名雪の笑顔は実に愛らしいものだ。それは本当に素直でまっすぐであり、その純粋さには佐祐理もあこがれてしまう。

 もしも、世界中の人が名雪のようであるなら、戦争もなくなるのではないか。そう思わせるに足る笑顔だった。

「名雪さんに、いいものをあげますね〜」

 微笑んで佐祐理は、冷凍庫から小さな包みを取り出す。それは小さなアイス最中の包みだ。

「皆さんには内緒ですよ?」

 名雪にはイチゴ、自分はバニラを取りながら、佐祐理はいたずらっ子のような笑顔を浮かべて耳元で囁いた。そんな佐祐理を年相応に見せないような笑顔を見ていると、やっぱり素敵な人だな、と名雪は思う。

 直接本人から話を聞いたというわけではないが、佐祐理はかつて大切な人を失った経験があるのだと言う。もしも自分が佐祐理と同じ立場になったとしたら、こうして笑顔を取り戻せるかどうか疑問に思う。

 そうしてお互いに微笑みあうと、不思議とあたりには優しい雰囲気があふれ出してくるようだ。

 リビングで祐一の負けが確定したころ、静かに夜の帳は下りていった。

 

「ふ〜……」

 今日は移動も重なってみんな疲れたせいか、早々に床についてしまっていた。シンと静まり返る深夜の廊下。真琴に漫画を読んであげた帰り道、美汐は寝る前にトイレと思い、みんなを起こさないように足音を沈めて歩いていた。

 さすがに時間が時間だし、あたりには人家もないような場所なので、潮騒だけが遠くに聞こえるだけの世界。用を足した後美汐は、キッチンから明かりが漏れているのに気がついた。

(こんな時間に誰でしょうか?)

 不審に思って近づいてみると、中から声が聞こえる。

「……そろそろこいつの出番だな」

「わっ、祐一」

(この声は……相沢さんと、名雪さん?)

 聞き覚えのある人物の声に、ついつい美汐も耳をそばだててしまう。

「だ……ダメだよ、祐一。そんな大きなの、はいらないよ」

「大丈夫だって」

(大きい……?)

 美汐は、自分の頬が熱くなるのを感じた。

「やぁっ。そんな、無理やり……」

(無理やり?)

 そういえば二人は一つ屋根の下に住んでいるし、付き合ってもいる。だからそうなるのは自然の流れだとは思うのだが、もう少し時と場所をわきまえて欲しいと美汐は思う。

「だめぇっ! 裂けちゃうっ! 壊れちゃうっ!」

「なにをしてるんですかっ! あなたたちはっ!」

 破廉恥な。そう思ってキッチンに飛び込む美汐ではあるが、その中の光景に思わず目を見張る。

「天野じゃないか、どうした?」

「あれ? 美汐ちゃん」

 仲良くエプロンをつけた二人が、なにやら作業をしていた。

「あの……なにをしているんですか?」

「なにって……明日のお弁当の下ごしらえだよ」

 わたし早起きできないから、という名雪の笑顔に、毒気を抜かれてしまう美汐。

「そこで俺も手伝って、チーチクを作ろうとしてるんだが……上手くいかなくてな」

「チーズが太すぎるからだよ。それじゃ、チクワが裂けちゃうよ」

「あ……」

 あっけない真実の露呈に、美汐は言葉を失ってしまう。

「それより、どうしたんだ? 天野。顔が赤いぞ、熱でもあるのか?」

「本当だ。美汐ちゃん大丈夫?」

 誰のせいですか。と叫びたくなる衝動を、すんでのところで押さえ込む美汐。

「なんでもありませんよ。そんなことより、私もお手伝いします」

 見ると明日の準備はもうあと少しというところだろう。二人の邪魔をするつもりは無いのだが、なんとなく美汐はそういう気分だった。

 静かに夜がふけゆく中、少しだけ明るい笑い声が、小さくキッチンから響いていた。

 

 翌日は朝から海水浴。かさばる荷物を持って先に出た男性陣とは裏腹に、女性陣は準備に余念がなかった。みんなこの日のために用意した思い思いの水着に着替え、お互いの健闘を称えあっていた。

 秋子、佐祐理、舞のお姉さんチーム(?)は流石の領域であり、見事なプロポーションで周囲の目を引いており、名雪と香里のコンビがそれに続いていた。そんな五人をうらやましげに見つめているのがあゆと美汐。特にあゆは名雪たちと同い年であることから、うぐぅと言う呻きしかでてこない。

 なんだかよくわかっていない様子で楽しそうな真琴に、不敵な微笑を浮かべる栞。

 ちなみに、秋子、佐祐理、あゆ、栞、美汐がワンピースで、舞、名雪、香里、真琴がビキニスタイルである。実のところワンピースはスタイルが良くないと似合わないもので、意外とお腹まわりとかのぜい肉がはっきり現れてしまうのだ。むしろビキニは露出が多い分他に目がいくため、お腹まわりとかがあまり目立たなくなる。

 その意味で秋子と佐祐理は流石の領域と言える。この二人は出るところはしっかり出て、引っ込むところははっきり引っ込んでいる理想的な体形だ。そんな二人を目の前にして、やや萎縮気味のあゆと美汐であったが、そんな中で栞はただ一人勝ち誇ったかのような微笑を浮かべている。

「栞、胸にパッドを入れてごまかすのはやめなさい」

「えう〜……」

 姉の呆れ顔と同時に、地獄へと突き落とされる栞であった。

 生来の虚弱体質で、病院への入退院を繰り返していた彼女。当然の事ながら病弱でもあるそのボディラインは、貧相の一言がよく似合っていた。特にその胸が顕著であるが、栞とてまったくないというわけではないのだ。

 確かに他人に自慢できるようなものでもないが、少なくとも誇示するくらいのものはある。

 しかし、彼女の体質ゆえかその肉質は柔らかく、一応水着にはカップが装備されてはいるものの、ほぼ完全につぶれた胸の余った部分がしわになってしまっていたのだった。

 デパートの試着室でそれに気がついた栞の驚愕は計り知れない。かろうじて叫び声をあげなかったのが不幸中の幸いと言えた。起伏に乏しいラインであることは、栞自身も自覚していた。しかし、まさかここまでとは思っても見なかったのだ。

 夏の新作がよく似合う、姉の姿が恨めしい。そこで栞が夜なべして作り上げたのが、このパッド入り水着なのだった。

 大きくもなく、さりとて小さすぎもしない。あくまでも自然に形よく盛り上げることをコンセプトにした、栞の最高傑作のはずだ。それなのに、なぜか姉にはお見通しのようだった。

「どうしてわかるんですか?」

「わかるわよ。それくらい」

 このあたりは姉妹として過ごしてきた歳月のなせる業だろう。ちなみにこのやり取りは小声であるため、周囲にはあまり聞こえていないようだ。

「栞ちゃん、準備できた?」

 そこにパーカーを羽織ったあゆが、にこやかに話しかけてきた。七年ほど入院していたせいか、その肌は栞と同様に真っ白である。そして栞の視線は、自然とある一点に集束される。

「あゆさん、ちょっと……」

「わふっ!」

 するすると伸びた栞の手が、あゆの胸をわしづかみにする。

「こ……これは……」

 その手の中にある本物だけが持つ確かな手ごたえに、愕然とする栞。

「なんですか、なんですかっ! この胸はっ!」

「うぐぐぅっ!」

 突然栞に胸をもみしだかれ、成す術もなく苦痛と快楽のはざまに放り込まれてしまうあゆ。

「あゆさんの、裏切り者ーっ!」

 更衣室に、栞の絶叫がこだまするのだった。

 

 どこまでも続く白い砂浜と、響き渡る潮騒。そんな夏真っ盛りの風景のなかで、ぽつんとたたずむ男二人。目を射るかのような強い日差しとむせ返るような熱気に包まれるなか、触れたそばから肌を焼くような灼熱の砂の上にレジャーシートを引き、顔だけでなく全身くまなく汗だくになりながら祐一と北川はパラソルを設置しおえた。

 互いの健闘を称えあうかのように、クーラーボックスから取り出したスポーツドリンクを、腕を交差させてゴクゴクと飲む。

「あいつら、遅いな……」

「ああ……」

 一通りの儀式を終えたにもかかわらず、女性陣は一向に姿を見せる様子が無い。確かに女性の支度には時間がかかるものだが、それにしても遅すぎないだろうか。

 もしかすると、栞あたりが人前に出るのを恥ずかしがって、ちょっぴりごねているのかもしれない。そう思うと、不思議と祐一の顔から笑みがこぼれるのだった。

「祐一〜、お待たせ〜」

「遅いぞ、名雪」

 と、口では言いつつも、振り向いた祐一の視線は名雪の水着に釘付けであった。それだけでなく、その周りに集まった女の子たちの水着姿は、なかなかに壮観な眺めである。普段は見る事の出来ない衣服の下の世界。胸元や内腿、尻下やわきの下の世界が白日の元に晒されるひととき。

 年間を通じてこのときだけは、そうした女の子の姿を合法的に楽しめる。特にこの場に集った名雪をはじめとした女子は学校でも高い人気を誇っているだけに、祐一と北川は随喜の涙を流して感動していた。

「お……大げさだよ、祐一……」

 照れた様子の名雪から順に視線をめぐらせていく。秋子、佐祐理、舞、あゆ、真琴、美汐、香里、そして栞。祐一と北川は栞にピントを合わせた瞬間に、優しさに満ちた瞳で見つめた。

「……どうしたんですか? 一体……」

 途端にあたりに満ちていく雰囲気。言うなれば憐れみにも似た視線に、栞は怪訝そうに聞き返した。

「気持ちはわかるけどな、栞。俺としてはその……自然なままの方がいいと思うぞ」

「わ……わかるんですか……?」

 咄嗟に栞は両手で胸を隠す。

「そりゃわかるさ。美坂には胸のポッチンがあるけど、栞ちゃんには……」

「ふんっ!」

 鈍い音が響くと同時に、焼けた砂浜に叩きつけられる北川。

「くだらないこと言ってんじゃないわよ」

 栞を背後にかばうようにして、仁王立ちする香里。その迫力は流石の領域であるが、下から見上げている北川の視線の先にある、香里の起伏に富んだボディラインはまさしく絶景であった。

「はえ〜北川さん、大丈夫ですか?」

 その視線をさえぎるように、佐祐理が心配そうな表情で北川を覗き込む。

「はい……大丈夫で……」

 突如として視界の中央に現れた、佐祐理の胸元に白く映える谷間が北川の脳を蕩かす。いや、それは谷間なんてかわいらしい代物ではなく、まさにフィヨルドである。さらに北川の具合を見ようと佐祐理が手を動かすたびに、北川の至近距離でなだらかに盛り上がる二つのふくらみが別の生き物であるかのように形を変える。

「う……お……」

「は、はえ?」

 いきなり様子がおかしくなった北川を心配して、佐祐理はひざ立ちになって身を乗り出した。するとただでさえ深い二つのふくらみの中央部分が、ものすごい勢いで北川の目の前に迫る。

「ぬあぁぁぁぁっ!」

「はえぇ〜、しっかりしてください北川さん」

 しっかり自己主張をしているふたつのふくらみの谷間が広くなったり狭くなったりしているうちに、北川はついに限界を迎えてしまったようだ。

「あれ、素でやってるのよね……」

「たぶんな……」

 呆れた様子の祐一が香里と言葉を交わしあうなか、北川の絶叫だけが響きわたっていた。

 

「いっくぞ〜真琴。それ〜」

「あう〜」

 祐一の投げたフライングディスクを追いかけて、白い砂浜を一目散に真琴は走る。潮風を頬に受け、一歩を踏み出すたびに汗が煌めく。

「それっ!」

 結構な距離を走った後で、低い高度を飛ぶようになったフライングディスクをジャンプして捕まえる真琴。そして、それを持って祐一のところへと駆け戻ってくる。

「祐一〜」

 なにかを期待するように、きらきらとした瞳で祐一を見つめる真琴。これが子犬だったら勢い良く尻尾を振っているところだろう。

「よ〜し、いくぞ〜」

「あう〜」

 再び、祐一の投げたフライングディスクを追いかけていく真琴。実のところ二人でずっとこの遊びをしているのだった。

「あれは、フライングディスクの遊び方ではないような気がしますけど……」

「まあ、楽しそうなんだからいいんじゃありませんか?」

 そんな二人の姿をパラソルの下でくつろぎながら、秋子と美汐が微笑ましく見守っている。ちなみに、その隣のデッキチェアでは名雪が安らかな寝息を立てていた。

「それより美汐さんは、皆さんと一緒に行かなくて良かったのですか?」

 祐一、秋子、名雪、真琴、美汐を除いた全員は、佐祐理の保有するクルーザーでクルージングを楽しんでいる。なんでも北川が船舶の免許を持っているのだそうだ。

「はい。実は私、船に弱いんです……」

「そうですか……」

「私のことより、秋子さんは行かなくて良かったんですか?」

 出掛けにあゆが秋子と一緒に行きたがっていたのを思い出す美汐。

「名雪の世話もありますし、それに……」

「それに?」

「私も、船には弱いんです」

 名雪の頭をそっと撫でつつ、かわいらしく舌を出す秋子。そのしぐさは、秋子を歳相応に見せないものだった。

「んみゅう〜」

「それにしても、名雪さんは良く眠りますね」

「寝る子は育つ。とも言いますけどね」

 その時、うにゅうぅ、と寝返りを打った名雪のバストがたゆんと揺れる。その名が示すとおり、雪のように白い素肌にはしみ一つ浮いておらず、健康そのものといったプロポーションには美汐もあこがれてしまう。

「それに、仕方ありませんよ。名雪、昨夜は眠らせてもらえなかったみたいですから」

 妙に生々しい秋子の言葉に、美汐は自分の頬が熱くなるのを感じる。枕が替わると眠れないと言うのは良く聞くことだが、眠らせてもらえないと言うのは。

 昨夜はお弁当の下ごしらえを一緒に手伝ったが、美汐はそれからすぐに寝てしまったので、その後のことはわからない。きっとみんなが寝静まった後、二人で励んでいたのだろう。

「……祐一、鬼畜……だお……」

 名雪の寝言がそれに拍車をかける。一体夢の中で名雪はどんなことを祐一にされているのだろうか。流石にそうした経験のない美汐には未知の領域だ。

 しかし、秋子は慣れた様子で名雪を微笑ましく世話をしている。男女の営みというのは、やはり経験しないとわからないものなのかもしれない。

「それはどうでもいいですけど……」

 波打ち際で真琴と遊ぶ祐一の姿を眺めつつ、美汐は呆れた様子で口を開いた。

「タフですね、相沢さん」

「絶倫なんですよ」

 考えてみれば、秋子の部屋は祐一の部屋の丁度真上に位置する。夜毎に繰り返されるであろう二人の営みを、直接耳にする機会も多いのだろう。実のところ祐一にはオバサンくさいと言われる美汐であるが、こうしたところには恐ろしく初心であり、耳年増にも至らないくらいに純情なのだ。

「あう〜、疲れた〜」

「おかえりなさい」

 そう言って微笑みつつ、クーラーボックスのなかから冷たい飲み物を取り出して真琴に渡す秋子。

「どうしたんだ? 天野。顔が赤いぞ、熱でもあるのか?」

 能天気な祐一の言葉に、なぜか殺意が芽生える美汐。人の気も知らないで、という憤りが全身に満ちる。

「はい、美汐」

 そんなとき、不意に真琴がスポーツドリンクを差し出してきた。怪訝そうな表情でそれを受け取る美汐だが、真琴が差し出した理由がつかめなかった。

「熱中しよう、って奴よね」

 おそらく真琴は熱中症と言いたいのだろう。暑い最中に倒れ、そのまま死に至るというのは良くある話である。水瀬家では名雪が陸上競技で暑いグラウンドで走り回っているので、こうした夏場の水分補給に関して詳しいのだ。

 もっとも、真琴にしてみればテレビで日陰にいた年寄りが熱中症で死亡したというニュースを見ての行動だったのだが、それを知らない美汐は真琴の優しさに素直に感動していた。

「ふにゅう〜……」

 そんな名雪の寝言があたりを和やかにする。まだ強い日差しが照りつける、海辺の昼下がりの出来事だった。

 

 ビーチを渡る風が、いつの間にか涼しくなっている。遠くに波の音を聞きながら、真琴はすっかり冷たくなった砂浜を歩いていた。さっき帰るときは結構熱かったはずなのだが、まだ本格的に夏が訪れたと言うわけでもないので、比較的過ごしやすいのだろう。

「うぐぅ……」

 振り向くとあゆが祐一の腕につかまり、情けない呻き声を上げている。その隣では名雪が怖がるあゆを宥めていた。夕食を終えた後、みんなで花火をしようということになったのだが、星明りだけが頼りの暗がりの中というのは、怖がりのあゆにとっては荷が重すぎたようだ。

「綺麗だね〜」

「うん」

 それでも、名雪と一緒になって花火を楽しむあゆ。色とりどりの花火の色に照らされて、元々色白である二人の色が様々に変わっていく。そんな二人の様子を見ていると、お前の方が綺麗だ、と名雪に言いたくなる祐一であったが、なぜかその言葉は口に出来なかった。

「い……いいですよ、お姉ちゃん」

「そんなに怖がらなくてもいいわよ」

 腕を目いっぱいに伸ばし、栞は香里に火をつけてもらう。たちまちのうちに綺麗な火花を噴き出した花火は盛大に音を立て、あたりに小さな炎の星をつくりだす。なにをするでもなく立ったままそれを見つめる栞ではあるが、その表情は笑顔に包まれていた。

「よぉ〜し、いくぞ〜」

 少しはなれたところから北川が打ち上げた花火に、佐祐理は歓声を上げ、舞は小さく玉や〜、と呟く。

「綺麗ですね」

「そうですね」

 秋子と美汐は線香花火に夢中になり。

「あう〜」

 最初緑色の火花が噴き出していた花火の色がピンク色に変わった途端に真琴が歓声を上げる。

 まるで夢でも見ているかのような楽しいひとときは、こうして過ぎ去っていった。

 

「ほら、真琴」

「あう?」

 目が覚めた時、真琴は一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。なんだか楽しい夢を見ていたような気もする。

「着いたぞ、降りるぞ」

 目の前に祐一がいて、そのそばでは北川が上の網棚からみんなの荷物を下ろしている。自分の荷物を抱えさせると、祐一が優しくその手を引っ張ってたたせてくれる。ホームにはすでに列車から降りた乗客でいっぱいになっており、ここに来て真琴はやっと自分の街に帰ってきたんだと言う事を実感した。

「そんなに引っ張らないでよ、祐一のバカ」

「なんだと? この〜」

 そして、そこにあるのはいつもの風景。

「二人とも、早く降りないと」

 あゆの声に一旦いさかいを中断し、あわててホームに駆け下りる。二人が出た直後に列車の扉が閉まり、やがてゆっくりと走り去っていった。

「はい、いいですかみなさん。家に帰るまでが旅行ですからね〜」

 まるで学校の遠足のような訓示をする佐祐理。ここが駅前なので少々気恥ずかしかったのだが、さらに秋子が話を続ける。

「今回の旅行で事故がおきなかったのがなによりです。それではみなさん、早く家に帰っておうちの人を安心させてあげましょうね。さようなら」

 そう締めくくると、みんなはそれぞれの方向へ歩き出す。

「じゃな、相沢、水瀬」

「またね、名雪」

「祐一さん、またです」

 北川、香里、栞がその場から去っていく。どうやら北川が二人を送っていくらしい。自分の荷物に加えて二人の荷物を担いでいる北川の後ろ姿が哀愁を誘う。

「それでは〜」

「……また」

 佐祐理と舞がそう言って背を向ける。二人の暮らすアパートは、ここから少し離れた場所にあるのだ。

「では、私もこのあたりで」

 律儀に一礼をして、美汐も自分の家へと向かう。夕闇が迫りつつある商店街の風景の中で、真琴は黙ってその背中を見つめていた。

「わたしたちも帰ろう、真琴」

「うん」

 にこやかに差し出された名雪の手を取り、真琴は元気にうなずく。

 

 夏の初めのそんなひとときは、気がつくとものすごい勢いで過ぎ去っていた。

 だけど、夏はまだこれからなのだ。

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