「ねえ、祐一〜っ!」
それは、真琴の唐突な一言からはじまった。
「家に自転車ってある?」
「自転車?」
自転車に乗ろう
「どうしたんだ? 急に」
「うん、あのね……」
話を聞くと真琴は、商店街に肉まんを買いに行ったときに美汐に出会ったのだそうだ。その時美汐は自転車に乗っていて、真琴の目にはそれがとても格好よく映ったのだ。
「自転車ですか?」
その話を聞いた秋子はいつもの様子で左手を頬に当て、少し考え込むようなしぐさで訊き返した。
「物置にあるわよ」
その言葉に二人は早速庭にある物置へと向かう。
「おお、あったあった。こいつだな」
奥の方にしまわれていた名雪のものと思しきママチャリを、祐一は苦労して引っ張り出した。
「あう〜、でもぉ……」
だが、自転車は前輪がパンクしているようだ。とはいえ、冬場の雪がすごく、短い夏の間以外はほとんど乗れないのだから、これも無理の無い事だ。
「あらあら、困りましたね……」
それを見ていた秋子が、いつもの様子でたおやかな微笑を浮かべていた。相変わらず困っているのかどうかが、良くわからないが。
「自転車、乗れないの?」
「自転車屋さんに持っていって、修理してもらうしかないわね……」
「あう〜……」
途端にがっくりと肩を落としてしまう真琴に、祐一は優しく声をかけた。
「心配いりませんよ、俺が直しますから」
「祐一さん、直せるんですか?」
「パンクの修理くらい簡単ですよ」
「それじゃ、お願いしますね」
「はい、任せてください」
ドン、と軽く胸を叩く祐一の姿は頼もしいものではあったが、その伸びきった鼻の下をついついジト目で見てしまう真琴であった。
早速道具を取り揃え、作業に取り掛かる祐一。こういうときに、市販のパンク修理セットは便利だ。真空パッチに虫ゴム、紙やすりにゴムのり、リムからタイヤをはずすための金属へらが三本入っているのだから、至れり尽くせりである。
無論リムに巻くゴムバンドや、チューブやタイヤの交換には不向きなセットだが、ちょっとしたパンク修理には欠かせないアイテムだ。
「祐一、直る?」
「ああ、大丈夫だ」
そういいつつ祐一は自転車を横に倒すと、慣れた手つきでタイヤとリムの間にへらを差し込み、てこの要領ではずしていく。このときにチューブの空気を入れるところからはずしていくのがポイントだ。そこにへらを二本差し込んでタイヤを持ち上げると、へらについているフックをスポークに引っ掛けて固定。後は車輪を回転させつつ、最後の一本を使って一気にリムからはずしていく。
その鮮やかな手つきには、思わず真琴も目を見張ってしまう。
「真琴、悪いけどバケツに水を汲んできてくれないか?」
「あう、わかった」
もうちょっと近くで見ていたいが、真琴は断腸の思いで水を汲みにいく。その間に祐一はチューブを引っ張り出し、虫ゴムを取り付けて空気を入れる。
「祐一〜……」
よほどバケツが重いのか、ふらふらとしながら真琴が歩いてくる。そして、祐一のそばにバケツを置くと、一仕事終えたかのように手の甲で額の汗をぬぐう。
「これ、どうするの?」
「こうするんだ」
祐一は軽く空気をいれたチューブを水の中につけていく。チューブを回転させつつ順番に水の中につけていくと、やがて勢い良く泡の飛び出す場所が見つかった。
「よし、ここだな」
水から上げて雑巾で、さっとチューブを拭く。このときに、穴のあいている位置から手を離してはいけない。チューブから空気を抜くと、穴のあいている部分を中心にして紙やすりで削っていく。
続いてゴムのりを少量チューブに塗ると、真空パッチの銀がみを剥がして張り付ける。その後に木槌でとんとん叩いて、表面のフィルムを剥がせば出来上がり。
仕上げにもう一度空気を入れて、チューブを水につけていって泡が出なければ完成だ。
「ただいま〜」
「ただいま、祐一くん。なにしてるの?」
「自転車の修理だ」
特に問題も無かったので最後の組付けをしていると、名雪とあゆが帰ってきた。この春に目を覚ましたばかりのあゆはまだ通院してリハビリを受けなくてはならないため、名雪が付き添って病院に行っていたのである。
なんとか車椅子を使わないでいいようにはなったが、まだ上手く歩くことが出来ないでいるのだ。
「祐一、直せるんだ」
「まぁな」
名雪の賛辞を背中で聞きつつ、祐一は作業を終了した。
「まあ、ざっとこんなもんだな」
狭い庭で軽く試運転をしつつ、少しだけ自画自賛する祐一。そんな祐一の姿を、憧憬のまなざしで見るあゆ。
「どうした?」
「うん、実はボク……自転車乗れないから……」
「本当か? あゆ」
「うぐぅ……だって……」
よくよく考えてみれば、あゆは七年寝たきりだったのである。自転車に乗れないというのもうなずけるというものだ。
「よし、それじゃあ俺が教えてやろうじゃないか」
「本当に? 祐一くん」
途端に瞳を輝かせ、祐一を見つめるあゆ。その期待に満ち満ちたきらきらと輝く瞳に見つめられると、祐一も悪い気はしない。
「それにしても意外だな。あゆが乗れないのに、真琴が自転車に乗れるなんて」
「あ……あう〜……」
一同の視線が集まる中でそっぽを向いている真琴の姿に、これは特訓が必要だな、と思う祐一であった。
「よし、みんな。準備はいいか?」
「うん、祐一くん」
「……あう〜」
一夜明けた昼下がり。どこまでも続く青い空の下。祐一たちは近くの河川敷に来ていた。
ここなら広いし、車も来ないし、下が土なので転んでもあまり痛くないだろうということで、自転車の練習にはうってつけの場所だ。赤いひじ当てにひざ当て、ヘルメットで完全装備してなんとも気合充分なあゆと、同じような緑色のプロテクターを着けていながらもどこか憂鬱そうな真琴は見るからに好対照である。
「みんな〜、ふぁいと♪ だよ」
その近くでは、土手の斜面にビニールシートを敷いた名雪が、能天気に応援している。傍らに置かれたバスケットにはお弁当が詰められているので、ほとんどピクニックであった。
「練習をはじめる前に、お前たちに言っておく事がある」
「なに? 祐一くん」
「俺のことは『先生』と呼ぶんだ」
「うん、わかったよ。祐一先生」
かわいらしく両手をきゅっと握り締め、穢れを知らない純真無垢な瞳であゆは祐一をまっすぐ見た。
「……う」
そのあまりにもまっすぐな視線を受けとめきれず、つい目をそらしてしまう祐一。
「……やっぱり普通に呼んでくれ……」
「うぐぅ……」
その言葉に、ちょっぴり不満そうになるあゆであった。
「まあ、とにかく。練習をはじめるぞ、まずは真琴からだ」
「あう〜……」
それから十分。早くも脱落した真琴であった。
「あう〜」
名雪の膝枕に身を委ねながら、なんとも情けない声を上げる。
「ゆ……祐一くん、しっかり支えててぇ〜」
「ほら、あゆ。しっかりハンドル握って、肩の力抜いて、ペダルで漕いで」
「うぐぅぅぅ〜」
その視線の先では、祐一に押されてあゆが必死に練習していた。もっとも、あゆはほとんどペダルを漕いでいないので、動力源は完全に祐一であったが。
しかし、それでも前を向き、真剣に取り組んでいるあゆの姿は、なんとなく輝いているようにも感じる。
「真琴」
そんな真琴の頭を、名雪は優しく撫でてあげた。
「真琴はもう、自転車いやになっちゃった?」
「だって……」
ちょっぴり涙目になりながら、真琴はポツリポツリと口を開く。
「転んでばっかりで痛いし……祐一はすぐ嘘つくし……」
真琴が、放さないで、と言ってるのに、祐一はある程度まで押すとすぐに手を放してしまう。その上真琴が転んで痛い思いをしているというのに、手を差し伸べようともしない。
「うぐぅぅっ!」
「大丈夫か? あゆ」
それでいながら、あゆが転ぶとすばやく駆け寄って助け起こしてあげるだから、真琴の不満は高まる一方だ。
祐一にしてみればあゆはまだリハビリ中なのだから、あまり無理をさせるわけにもいかないだろうという配慮がある。しかし、真琴にしてみれば、自分とあゆとの扱いに差をつけられているように感じるのだ。
一応、真琴もあゆの事情はわかっている。わかっていても、どうにも割り切れないのが女の子というものである。
「確かに、あれはちょっといきすぎだよね」
「あう〜」
この点について、不思議と意見が一致する二人であった。
「でもさ、真琴。転んじゃうのはしかたないんだよ、自転車なんだから」
「あう?」
まるで禅問答のような名雪の言葉に、小首を傾げる真琴。
「自転車って言うのはね、転ぶように出来ているんだよ。それを転ばないように乗るから、楽しいんじゃないかな?」
名雪の笑顔には、言葉以上の説得力がある。
「はじめから上手に乗れる人なんていないよ。みんな何度も転んで、失敗して、そのたびに立ち上がって上手になっていくんだよ」
そんな名雪の笑顔に、真琴ももう少しだけがんばってみようかなと思った、ちょうどその時。
「わっわっ、祐一くん祐一くんっ!」
「あゆ、そのままっ! そのままペダルを漕いでっ!」
「うっうん」
まだかなりぎこちない動きながらも、あゆが一人で自転車に乗っていた。しばらく進んだ先で転んでしまうが、かなりの上達振りである。
「乗れたっ! 乗れたよ、祐一くん」
「よぉ〜し、良くやったなあゆ」
祐一に頭を撫でられて、なんとも嬉しそうに顔を赤くするあゆ。それを見た途端に真琴の負けん気に火がついた。
「あゆ〜っ! 交替よぅっ!」
それからしばらくした後、あゆと真琴はすっかり自転車に乗れるようになっていた。二人の上達の速さに気を良くした祐一は、前輪を浮かせるウイリー走行や、後輪を浮かせて止まる逆ウイリーストップなどの高等テクニックを披露していく。
そして、持参したお弁当が空になる頃。
「ふかー」
名雪のひざ枕で気持ちよさそうに寝息を立てる祐一の姿があった。
「それじゃあ、ボクたちはそろそろ帰ろうか。ね、真琴ちゃん」
「うん」
そう言って二人は空になったバスケットを自転車の前かごに押し込み、そそくさと家路についた。真琴が漕いで、あゆが後ろに乗る。いつの間にか自転車の二人乗りが出来るようになっていることに驚く名雪であったが、それ以上に二人が気を使ってくれた事を嬉しく思う。
普段はあまり気にならない祐一の頭の重みに、少しだけ幸せを感じる名雪。大分日も傾いてもう間もなく世界は赤い光に包まれ、ヒグラシの声が響いてきそうなそんなとき。
(しばらく、このままでもいいよね)
優しくそよぐ風が二人を包み込んでいた。
さて、一方。その頃のあゆと真琴は。
「こらっ! 自転車の二人乗りをしてはいかんっ!」
「うぐぅ……」
「あうぅ……」
怒られていた。
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